主日礼拝

彼は栄え、私は衰える

「彼は栄え、私は衰える」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:マラキ書 第3章1-5節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第3章22-30節
・ 讃美歌:50、153、237

ヨハネと主イエスの関係を明確にする
 今私たちが礼拝において読み進めているヨハネによる福音書と、他の三つの福音書との間にはいろいろな点で違いがあります。本日の箇所の冒頭、3章22節に、主イエスが洗礼を授けておられたことが語られています。しかし他の三つの福音書には、主イエスが洗礼を授けたことは語られていません。主イエスご自身が洗礼を授けたと語っているのはヨハネ福音書のみなのです。そしてもう一つ、本日の箇所では、主イエスといわゆる洗礼者ヨハネが同じ時期に洗礼を授ける活動をしていたと語られています。このヨハネのことは既に1章に語られていました。彼は主イエスのことを証しするために神から遣わされた人であり、主イエスがこの世に現れることの備えとして洗礼を授けていました。そして主イエスこそ「世の罪を取り除く神の小羊だ」と証しをしていたのです。そのヨハネと主イエスが同じ時期に活動していたと語られていることも他の三つの福音書とは違っています。例えばマルコ福音書の1章14節には、「ヨハネが捕えられた後(のち)、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて」とあります。マタイ、マルコ、ルカ福音書ではこのように、洗礼者ヨハネが領主ヘロデによって捕えられた後で、主イエスの活動が始まったと語られているのです。ですからヨハネと主イエスの活動は重なっていません。しかしヨハネ福音書は、ヨハネと主イエスが同じ時期に洗礼を授けていたことがある、と語っているのです。歴史的事実はどうだったのかについては、学者の間でも意見が分れています。ヨハネと主イエスの活動が重なっていた時期はあったのかもしれない、だからヨハネ福音書の方が歴史的事実に即しているのかもしれない、という見方もあります。それは今はもう確かめようのないことです。しかしヨハネ福音書がこのようにヨハネの活動と主イエスの活動が重なっていたことを語り、しかも主イエスもヨハネと同じように洗礼を授けていたと語っていることには、一つの意図があります。本日の箇所の全体はその意図に基づいて語られているのです。その意図とは、洗礼者ヨハネと主イエスとを比較して、両者の関係を明確にする、ということです。しかもその関係を、ヨハネ自身の言葉によって示そうとしているのが本日の箇所なのです。

ヨハネの弟子たちの戸惑い
 25節に、ヨハネの弟子たちが出て来ます。洗礼者ヨハネにも弟子たちがいたのです。そのことは既に1章35節に語られていました。ヨハネの弟子だったアンデレともう一人の人が、ヨハネが主イエスのことを「見よ、神の小羊だ」と言ったのを聞いてイエスに従っていった、つまり主イエスの弟子になったのです。このように元々はヨハネの弟子だった人がヨハネ自身の言葉によって主イエスの弟子になったということが既に語られていました。同じようなことが本日の箇所においても起っています。ヨハネの弟子たちは師匠であるヨハネにこう言っています。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています」。「ラビ」というのは「先生」という意味です。ヨルダン川の向こう側でヨハネと主イエスが一緒にいた、それが1章29節以下の場面です。28節に、これはヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であったと語られています。そこにヨハネと主イエスが一緒にいた時、ヨハネは主イエスを指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」と証しをしたのです。そのイエスが今洗礼を授けていることを弟子たちは報告しています。ヨハネと並んでイエスも洗礼を授ける活動をしている、それによって、ヨハネと主イエスとを比較する、という状況が生まれています。人々は、ヨハネとイエスとを比べて、どちらから洗礼を受けようかと選んでいるのです。その中で「みんながあの人の方へ行っています」、つまり多くの人がヨハネではなくイエスから洗礼を受けようとしている、ということが起っているのです。ここにはヨハネの弟子たちの戸惑いが見て取れます。自分たちの師匠であるヨハネの方が先に洗礼を授けていたのに、後からイエスが現れて同じように洗礼を授けており、そしてみんながイエスの方へ行くようになっている、つまりヨハネよりも主イエスの方に人々の思いが向いて行っている、このことをどう捉えたらよいのか、という戸惑いです。

ヨハネ福音書が書かれた当時の状況
 ヨハネの弟子たちのこのような戸惑いの背後には、ヨハネ福音書が書かれた当時の状況があるものと思われます。この福音書が書かれたのは、主イエスの十字架と復活、そして教会の誕生から既に五十年以上が経っていた紀元1世紀の終り頃だ、ということを先週お話ししました。当時のユダヤには、洗礼者ヨハネの教えを受け継ぐ弟子たちがなお存在していたのです。その人たちはユダヤ人たちの共同体の中に留まりつつ、ヨハネが授けていた悔改めの印としての洗礼を受けて、神に従う生活を築こうとしていました。その人々の中から、主イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と信じて主イエスの弟子となる、つまりキリスト教会に加わる人々も現れました。しかしユダヤ人たちの間には、イエスを救い主メシアと信じる者は会堂から追放する、という迫害が始まっていました。ヨハネの弟子たちはそういう状況の中で、ユダヤ人の共同体つまりユダヤ教に留まり続けるのか、主イエスを信じるキリスト教会に連なっていくのか、という問いを突きつけられていたのです。そのようにユダヤ人の共同体の中にいながら、主イエスにも親近感を覚え、どっちつかずの状態でいたのは、この第3章の冒頭に登場したニコデモも同じです。彼はファリサイ派の一員であり、ユダヤ人たちの議員の一人でしたが、夜こっそりと主イエスのもとにその教えを聞くために来たのです。だからニコデモの話に続いてヨハネの弟子たちの話が語られていることには必然性があります。ニコデモも、ヨハネの弟子たちも、ユダヤ人の共同体に留まるのか、そこから追放されても主イエスを救い主と信じるのか、という問いに直面しているのです。それが、紀元1世紀の終り頃のユダヤ人たちの置かれていた状況なのです。

ヨハネは主イエスの道を備える者
 27節以下のヨハネの言葉は、このような状況を背景として読まれなければなりません。ヨハネは「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」と言っています。ヨハネのもとに人々が洗礼を受けにやって来たのも、今イエスのもとにみんなが行っているのも、どちらも天から与えられたこと、つまり神のみ心なのだ、とヨハネは言っているのです。神のみ心によって人々はヨハネのもとに来て洗礼を受けた、そして今、神のみ心によってその人々は主イエスの方へと行っているのです。どうしてそういうことが起るのかが28節に語られています。「わたしは『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが」とあります。1章の19節以下に語られていたように、ヨハネは「わたしはメシアではない」つまり救い主ではない、とはっきり語りました。「ではあなたは何なのか」という問いに対して彼は1章23節で、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」と答えました。メシア、救い主である主が自分の後に来られる。私はその主の道をまっすぐに整えるために先に遣わされた者だ、ということです。ヨハネの役割は、後から来られるメシアである主イエスのための道を備えることなのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、マラキ書第3章に、あなたたちが待望している主、つまり救い主が来られることが告げられており、その前に「わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える」と語られています。マラキが預言した、主の前に使者として遣わされ、主が来られる道を備える者、それが自分なのだとヨハネは言ったのです。だからヨハネの働きによって、人々はメシアである主イエスを知り、主イエスのもとに行ってその救いにあずかっていくのです。神のみ心によってヨハネのもとに来た人々が、主イエスこそ救い主であられるというヨハネの証しを聞いて主イエスのもとに行き、主イエスを信じて救いにあずかっていく、それが神のみ心なのです。28節の後半には「そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる」とあります。ヨハネの弟子たちが、ヨハネの証しを聞いて主イエスのもとへ行き、その救いにあずかることこそが、ヨハネが自分に与えられた使命をしっかりと果たしていることの証しとなるのです。だから、みんなが自分のところにではなく主イエスの方へ行っているという報告は、ヨハネにとってはむしろ当然のこと、喜ぶべきことなのです。しかしここで主イエスが洗礼を授けていたと語られているのは、歴史的な事実ではありません。見つめられているのは、この福音書が書かれた時代に人々が教会において洗礼を受けて主イエスによる救いにあずかっていることです。主イエスは地上のご生涯においては、神の国の福音を宣べ伝え、神のご支配の印としての奇跡を行い、そして十字架の死による救いを成し遂げられたのです。主イエスを信じて受ける洗礼は、復活なさった主イエスのご命令によって、教会の誕生と共に始まったことです。主イエスによる救いにあずかる群れが洗礼によって結集されていったのです。ですから、地上を歩まれた主イエスがヨハネと同じように洗礼を授けていたわけではないのです。

花婿の介添え人
 29節においてヨハネは、主イエスと自分との関係を花婿と花婿の介添え人という譬えで語っています。「花嫁を迎えるのは花婿だ」というのは、婚礼の主役は花婿だということです。その花婿とは主イエスです。自分は花婿の介添え人だとヨハネは言っています。介添え人は「そばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ」のです。当時の婚礼において、花婿には男性の、花嫁には女性の介添え人がついたようです。今の教会の結婚式でも、花嫁には介添え人がついて、いろいろとお世話をします。しかし花婿には介添え人はいません。特に必要がないからです。当時のユダヤの結婚式だって、おそらく花婿の介添え人には大してすることはなかったのでしょう。「そばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ」ぐらいしかすることはないのです。介添え人はあくまでも脇役です。花婿、主役である主イエスに対して、自分は介添え人、脇役なのだ、とヨハネは言っているのです。30節の「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」という言葉もそういうことを意味しています。栄えるべきなのは主役、花婿である主イエスなのであって、介添え人である自分が栄えてはならない、介添え人が花婿より目立ってどうする、介添え人である自分は、むしろ衰えていく、見えなくなっていく、消え去っていくことによって、花婿である主イエスの栄光がよりはっきりと表されていくのだ、「みんながあの人の方へ行っています」ということによってまさにそういうことが起っているのだ、とヨハネは言っているのです。

信仰の決断への促し
 洗礼者ヨハネ自身が、自分と主イエスとの関係をこのように言い表した、そのことを語ることによってヨハネ福音書は、当時のユダヤ人たちの中にいたヨハネの弟子たちに、またニコデモのようにユダヤ人の共同体とキリスト教会の狭間でどちらに行けばよいのか迷っている人々に、あるいは迫害を恐れて信仰の告白をためらっている人々に、主イエスを信じて洗礼を受ける決断を促しています。先週読んだ3章16節には、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と語られていました。ヨハネが主イエスのことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証ししたことの意味がここに語られています。神は独り子主イエスを、私たちの罪を取り除くために犠牲となって死んで下さる小羊として与えて下さったのです。この主イエスによる救いをヨハネは証ししていたのであって、この救い主のもとへと人々を導こうとしていたのです。ヨハネは、あなたがたが主イエスを信じて洗礼を受け、滅びから救われて永遠の命を得ることをこそ願っていたのだ、ヨハネ福音書は当時の人々にそのように語りかけ、信仰の決断を促しているのです。

主イエスの友
 さて、ヨハネがこのように自分を花婿の介添え人つまり脇役と位置づけており、「その方は栄え、自分は衰えねばならない」と言っているのを読むと、何だか自分の人生には大した意味がないと言っているようでヨハネが可哀想だと感じてしまうかもしれません。しかしそうではないのです。「介添え人」と訳されている言葉は、直訳すると「友」です。以前の口語訳聖書では「花婿の友人」と訳されていました。新しい聖書協会共同訳は「介添え人」を踏襲していますが、欄外に、これは直訳すると「友」という言葉だ、ということを示しています。ヨハネは花婿主イエスの友である、とヨハネ福音書は語っているのです。このことには深い意味があります。この福音書の15章14、15節には、主イエスのこういうお言葉があるのです。「わたしの命じることを行なうならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」。主イエスが弟子たちを友と呼んで下さる、そこに大きな恵みがあることがここに示されています。主イエスの「友」となるとは、独り子なる神主イエスが父なる神から聞いたことをすべて知らせて下さることによって、主イエスの命じること、つまり父なる神のみ心を行なうことができるようになる、ということです。僕と友の違いもここに示されています。僕はただ命じられたことをその通りにするのであって、主人が何を思い、何のためにこれを命じているのかなどと考えることはありません。しかし友は、主イエスのみ言葉を聞くことによって、父なる神が独り子主イエスによって実現しようとしておられる救いの御心を知らされるのです。そしてその御心を自発的に行なっていくのです。主イエスの友とはそのように、主イエスの言葉を聞いて父なる神のみ心を知り、主イエスと共にそれを行なっていく者です。ヨハネもそういう意味で主イエスの友なのだ、ということを、ヨハネ福音書は「花婿の介添え人、友」という言葉に込めているのです。そこにおいて、花婿の介添え人が「そばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」と語られていることは大切な意味を持ってきます。この喜びは、主イエスの友とされた者の喜びです。ヨハネは、主イエスの語る言葉に耳を傾け、主イエスが父なる神から聞いたこと、つまり父なる神が独り子主イエスによって実現しようとしておられる救いの御心をしっかり聞いたのです。それによって、主イエスこそ来るべき救い主であられることを確信し、喜びに満たされて、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証ししたのです。このヨハネの姿に、主イエスの友とされた者はどのように生きるのかが示されています。主イエスの言葉に耳を傾けることによって、主イエスが父から聞いたこと、つまり父なる神が主イエスによって実現して下さる救いの御心をすべて知らされた者は、大いなる喜びに満たされて、主イエスこそ救い主であると人々に証ししていくのです。主イエスの友とは主イエスを証しする人です。弟子たちも主イエスの友とされ、証しをする者として立てられていきました。しかしヨハネ福音書において、主イエスの証しをする人として、つまり主イエスの友として最初に登場しているのは、このヨハネです。1章の6-8節にこのように語られていました。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」。このようにヨハネ福音書は、ヨハネを、主イエスの友とされたことの大きな喜びの中で、主イエスの証しをするというとても大切な働きをした人として、同じように主イエスの友とされ、主イエスを証ししていった信仰者たちの先駆けとして描いているのです。ですからここに語られているのは、ヨハネは介添え人、脇役に過ぎない、大して意味のない人だ、ということでは全くありません。むしろヨハネは、主イエスの最初の友とされ、主イエスの言葉を聞いて父なる神の救いの御心を最初に知らされた人であり、その喜びを最初に味わった人であり、その喜びに押し出されて主イエスこそ救い主であることを最初に証しした人だったのです。

彼は栄え、私は衰える
 ですからこのヨハネこそ、主イエスを信じて生きる私たち信仰者の先頭に立っている人であり、私たちの模範です。模範と言うと、私たちが努力してこのような人になっていくことを目指す、という感じがしますが、そうではなくて、私たちも、主イエス・キリストのもとに来るならば、このヨハネのようになることができるのです。主イエス・キリストのもとに来ることによって私たちは、自分が神に背いている罪人であり、本来は裁かれ滅ぼされるしかない者であることを示されます。しかしそのような罪人である私たちを、神が愛して下さって、独り子イエス・キリストを与えて下さり、その十字架と復活によって罪を赦し、私たちが滅びることなく永遠の命を得るようにして下さったことをも示されます。その神の独り子であり救い主であられる主イエスが、自分を友として下さり、父なる神の愛の御心をみ言葉によって知らせて下さり、私たちも主イエスと共にその神の愛の御心に従っていくことができるようにして下さるのです。私たちは洗礼を受けて教会に連なり、礼拝を守り、み言葉を聞きつつ歩むことによって、このことを体験していきます。主イエスの友として、主イエスのみ言葉に耳を傾け、そのみ声を聞く喜びの中で、主イエスこそが救い主であり、主イエスのもとでこそ、罪人である私たちが喜びに満たされて生きることができることを証ししていくのです。主イエスの友である喜びに生きる私たちにとっては、自分が主役になること、自分が栄光を受け、賞賛されることは必要ありません。主イエスこそが主役であり、主イエスが栄光を受け、主イエスのもとに来ることにこそ救いがあることを私たちは知っているのです。だから私たちはヨハネと共に、「彼は栄え、私は衰える」と喜びをもって語ることができるのです。

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