「信仰と愛と希望」 伝道師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:詩編 第136編1-26節
・ 新約聖書:テサロニケの信徒への手紙一 第1章2-4節
・ 讃美歌:
感謝の手紙
テサロニケの信徒への手紙一を読み始めました。パウロの手紙の多くには感謝の言葉が記されている部分があり、この手紙も例外ではありません。2節にこのようにあります。「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。」もとのギリシャ語の文の順序に従って訳すならば、「わたしたちは感謝しています 神に いつも あなたがた一同のことを…」となります。実は、2-5節は、ギリシャ語の文では「わたしたちは感謝しています」で始まる長い一つの文です。ですからこの手紙における感謝の言葉は、最も狭く考えるならば2節から5節までとなります。しかしそれに続く6-10節は、2-5節と自然に結びついているので、少なくとも10節までは感謝の言葉が続いていると言えるでしょう。それどころかある人によれば、感謝の言葉(が記されている部分)は、1章10節ではなく、3章13節に至って最終的に終わるとされます。2章13節や3章9節にも感謝が記されているからです。1章2節から3章13節までが感謝の言葉であるならば、この手紙の半分以上が感謝の言葉ということになります。確かにほかの手紙にも同じように感謝の言葉が記されていますが、しかしこの手紙はほかのどの手紙よりもそれがはるかに長いのです。先月、私は「皆さんとご一緒にテサロニケの信徒への手紙一を読みたいと思ったのは、この手紙が感謝と喜びに溢れているからです」と申しましたが、この手紙が感謝で溢れていることは、感謝の言葉と見なせる部分が、実に手紙全体の半分以上に上ることからも示されています。このことはもちろん単に分量の問題ではありません。この手紙が感謝によって貫かれているということであり、感謝こそがこの手紙の本質的な部分なのです。
前回お話ししたように、パウロたちは、ユダヤ人の扇動によって起こった暴動のために、不本意ながら誕生したばかりのテサロニケの教会から離れなければなりませんでした。自分が去ってからテサロニケの人たちが苦難に遭うことは目に見えていましたから、パウロは彼らのことが気がかりでした。そこでテモテをテサロニケへ派遣したのです。苦難の中にあるテサロニケの人たちの様子を知るために、また彼らを励まし、信仰を強め、彼らが動揺しないようにするためです。パウロは、彼らが苦難に遭う中で自分たちが宣べ伝えた福音から離れてしまうことを心配していました。しかしテモテがパウロのもとに持ち帰ったのは「うれしい知らせ」でした。彼らは苦難の中でも主イエス・キリストにしっかりと結ばれていて、その信仰と愛は揺らいでいなかったのです。テサロニケの人たちが、パウロが宣べ伝えた福音を信じ受け入れたこと。苦難の中にあって、その福音に堅く留まり続けていること。このことへの感謝がこの手紙の通奏低音なのです。
神のみ業を思い起こす
改めて2節を見てみると、「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています」とあります。その感謝は、神に対してであり、テサロニケの人たち皆のことについて「いつも」なのです。「いつも」と言われているところに感謝の深さを見て取ることができます。その一方で、「いつも」は少々オーバーな表現なのではないか、とも思いたくなります。自分自身のことを振り返るならば、いつも感謝することなどできそうにありません。そのときには心から神様に感謝したとしても、あっという間に忘れてしまい、感謝よりも不平や不満を漏らしてしまうのが私たちの姿ではないでしょうか。やはり「いつも神に感謝しています」は誇張した表現なのでしょうか。それともパウロたちは私たちと違っていつも感謝することができた、ということなのでしょうか。どちらでもないと思います。パウロたちの感謝は、祈りの中でテサロニケの人たちを思い起こすことによって起こされたものです。テサロニケの人たちを思い起こすというのは、単に彼らのことを思い浮かべるということではありません。私たちはしばしば大切な人の笑顔を思い浮かべるというようなことを経験しますが、そういうことがここで言われているのではないのです。彼らを思い起こすというのは、パウロが宣べ伝えた福音を彼らが信じ受け入れたことを思い起こすということです。それは、テサロニケの人たちへの伝道における自分たちの働きを誇るためではありません。そうではなく自分たちの働きを通して、神様がみ業を行ってくださり、テサロニケの人たちに信仰を与えてくださり、その信仰を彼らが受け入れたことを思い起こしているのです。彼らを思い起こすことは、神様が彼らに行ってくださった救いのみ業を思い起こすことにほかなりません。そのことによって感謝が起こされるのです。私たちが感謝する材料をあれこれ集めることによって「いつも」感謝できるようになるのではありません。そのような材料はどこかで枯渇してしまうし、私たちの感謝の思いは確かなものではなく、移ろいやすいものです。感謝は、私たちが持っているものではなく与えられるものなのです。祈る度に、神様のみ業を思い起こすことによって、神様への感謝が起こされていきます。さらにそれは、単に過去の神様のみ業を思い起こしているのではありません。過去のみ業を現在のこととして、「かつて」そのみ業を行ってくださった神様が、「今」もみ業を行い続けてくださっていることを思い起こしているのです。そのことによって「今」を生きる私たちに本当の感謝が与えられるのです。
驚くべきみ業
共に旧約聖書詩編136編をお読みしました。大変印象深い詩編の一つではないでしょうか。おそらく神殿の礼拝において、この詩編の節の前半と後半を祭司(レビ人)と会衆が交互に唱えました。冒頭であれば、祭司が「恵み深い主に感謝せよ」と呼びかけ、会衆は「慈しみはとこしえに」と応え、また祭司が「神の中の神に感謝せよ」と呼びかけ、会衆は「慈しみはとこしえに」と応え、3節も同様に続きます。今は行えていませんが私たちの礼拝における詩編交読とほぼ同じです。ただ136編の場合は、交互に読むというより、交互に歌うと言ったほうが良いと思います。繰り返される「慈しみはとこしえに」は、曲のリフレインに近いものではないでしょうか。
この136編は、神様が行ってくださったみ業を物語ることで、そのみ業に感謝し神様を賛美する歌です。4節に「ただひとり 驚くべき大きな御業を行う方に感謝せよ」とあるように、神様は「驚くべき大きな御業」を行ってくださいました。その驚くべきみ業が5節以下で物語られています。天を造り(5節)、大地を水の上に広げ(6節)、大きな光を造り(7-9節)、エジプトからイスラエルの民を導き出し(10-12節)、葦の海の奇跡を起こし(13-15節)、荒れ野でイスラエルの民を導き(16節)、土地を征服し、それを嗣業としてイスラエルに与えた(17-22節)。これらすべての驚くべきみ業を神様は成し遂げてくださったのです。それは、繰り返し「慈しみはとこしえに」と歌われているように、神様の「慈しみ」が「とこしえ」であるからです。神様の「慈しみ」が、これらすべての驚くべきみ業において実現したのです。この詩編においても、単に過去の神様の救いのみ業が思い起こされているのではありません。この世界を創造された神様が、今もこの世界を支配し保っていてくださり、かつてイスラエルの民をエジプトから救い出してくださった方が、今も神の民を救い出してくださっていることを思い起こしているのです。そのことによって感謝と賛美が起こります。5節から22節のイスラエルの救いの物語に続いて、23-24節では、この詩編を賛美している人たちの「今」が語られています。23-24節になって初めて「わたしたち」という言葉が出てきて、このように語られています。「低くされたわたしたちを 御心に留めた方に感謝せよ。」「敵からわたしたちを奪い返した方に感謝せよ」。自分たちが「低くされた」ときに、主はみ心に留めてくださり、その敵から自分たちを奪い返してくださったことを証言しているのです。「かつて」救いのみ業を行ってくださった神様が、「今」も救いのみ業を行い続けてくださっている。パウロたちも、日々の祈りにおいて、テサロニケの人たちを救い信仰を与えてくださった神様が、今も彼らを救いの恵みの下に留まらせ、その信仰を守ってくださっていること、その神様の驚くべきみ業を思い起こすことによって、神様への感謝を与えられ、その感謝に溢れているのです。
信仰と愛と希望
テサロニケの人たちは福音を信じ受け入れ、救いに与り、そしてその救いにお応えして生きていました。パウロたちは、祈りにおいてそのこともまた思い起こしています。3節にこのようにあります。「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。」「絶えず父である神の御前で心に留めている」とは、父なる神への祈りにおいて絶えず思い起こしているということです。ですから2、3節を通して言われているのは、パウロたちが祈りの中で、神様がテサロニケの人たちにみ業を行ってくださり、今も行い続けてくださり、そして彼らが救いの恵みにお応えし、信仰と愛と希望に生きていることに感謝しているということです。3節で信仰と愛と希望が出てきます。新約聖書のほかの箇所でもこの三点セットに出会いますが、一番よく知られているのは、コリントの信徒への手紙一13章13節の「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」だと思います。信仰と希望と愛は、キリスト者の最も基本的なあり方を表していますが、テサロニケの信徒への手紙一1章3節においては、ただ信仰、愛、希望とあるだけでなく、それぞれに言葉が加えられていて、信仰「によって働き」、愛「のために労苦し」、希望「を持って忍耐していること」とあります。
信仰の行い
「信仰によって働き」は、直訳すれば「信仰の働き」です。また「働き」は、パウロがしばしば使う「行い」という言葉ですから、「信仰によって働き」は「信仰の行い」と訳せます。一月に読み終えたガラテヤの信徒への手紙では、私たちは行いによって救われるのではなく、信仰によってのみ救われる、と語られていました。いわゆる「信仰のみ」による救いです。しかしそれは、信仰と行いが関係ないということではありません。確かに救いは私たちの行いとは関係ありません。私たちが善い行いを積み重ねることによって救いを得るのではありません。そうではなく、ただ神様の一方的な恵みによって、まったく救いに与るのにふさわしくない罪人である私たちが、キリストの十字架と復活による救いに与ったのです。けれども救いに与った者が、その恵みにお応えしていく歩みにおいて、「信仰の行い」、つまり「信仰から出た行い」が伴います。ですから信仰と行いは切り離せないのであり、信仰に行いが伴うことは、私たちキリスト者の基本的な生き方なのです。
その上で、そのように言われると、私たちは自分自身の信仰生活において、この行いが出来ているとか、あの行いが出来ていないとかが気になってしまうかもしれません。しかし「信仰の行い」とはそのような個々の行いが見つめられているのでしょうか。そうであるならば、私たちはなにも出来なくなることに怯えなくてはなりません。信仰を与えられて生きていても、私たちは人生においてなにも出来なくなることがあります。それは年齢を重ねることによってもたらされることもありますが、年齢に関わらず、人生の様々な場面においてなにもできなくなることがあるのです。そのようなとき、「私はなにも出来ない」、「私の信仰生活には行いが伴っていない」と思わなくてはならないのでしょうか。そうではありません。パウロはガラテヤの信徒への手紙で「律法の行い」について語っていました。そこでは「行い」という言葉は複数形で用いられていて、「律法の諸々の行い」を意味しました。それに対してここで言われている「信仰の行い」の「行い」は単数形です。ですから「信仰の行い」は、信仰から出た諸々の行いではなく、信仰から出た行い全体のことを意味しています。そして行い全体というのは、その人の存在そのものを示しているのではないでしょうか。「信仰の行い」とは、信仰を与えられそれを受け入れ、その信仰に生きている人の存在そのものなのです。なにか出来るときはもちろん、なにも出来ないときも、信仰に留まり続けて生きる一人ひとりの存在そのものが見つめられているのです。
愛の労苦
次に「愛のために労苦し」とあり、「愛の労苦」が見つめられています。私たちの社会では「愛」という言葉が大量消費されています。教会だけが「愛」を語っているのではありません。小説や漫画、歌、ドラマや映画などにおいても「愛」が語られています。うっかりすると私たちは、聖書が語る愛を社会で大量消費されているような愛に引きずられて、あるいはそのような愛と同じように捉えてしまいます。「労苦」という言葉は、「骨折り」とも訳せる言葉ですが、世で語られている愛のイメージは、労苦や骨折りと結びつきにくいのではないでしょうか。世における愛という言葉には甘いイメージが付き纏いますが、聖書が語る愛はそのような抽象的な美しい観念ではありません。愛するというのはもっと具体的なことであり、愛することには労苦や骨折りが伴うのです。ガラテヤの信徒への手紙6章2節では「互いに重荷を担いなさい」と言われていました。愛するというのは、相手のために、相手と共に、惜しみなく進んで労苦を引き受けていくことなのです。主イエスの「善きサマリア人」の譬えにおいて、サマリア人は追い剥ぎに襲われた人のために惜しみなく進んで労苦を引き受けました。祭司やレビ人がその人を避けたのに対して、サマリア人は「そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」(ルカによる福音書10章33-34節)のです。愛するとは、そういうことです。
世で言われている愛と聖書が告げる愛の決定的な違いがもう一つあります。世で語られる愛は、人間の中から湧き上がる思いや気持ちであるのに対して、聖書は、私たちは自分自身で愛を持っていないし、人を愛することなどできないと告げています。ですから私たちはどうしたら人を愛せるか、どうしたら人のために労苦を引き受けられるかとあれこれ悩むのではなく、神様の愛にこそ目を向けなくてはなりません。主イエス・キリストの十字架の死において示された神様の愛を見つめることによって、神様が私たち一人ひとりを愛してくださっていることを知らされます。その計り知れない愛を知るのです。神様に背き続けていた私たちのために、惜しみなく進んで労苦と骨折りを引き受けたのは、ほかならぬ主イエス・キリストです。その神様の愛が聖霊の働きによって救いに与った私たちの心に注がれています。私たち自身の中には探しても見つからない愛を、神様が私たちの心に注ぎ込んでくださっているのです。そのことによって、私たちは惜しみなく進んで愛の労苦を担っていく者とされるのです。今、私たちは受難節を歩んでいます。来週には受難週を迎えようとしています。キリストの十字架の死と苦しみを覚え、そこに示されている神の愛の広さ深さを知らされるのです。その愛を注がれて、その愛にお応えして、私たちも愛の労苦を引き受けていくのです。
希望の忍耐
最後に語られているのが「希望を持って忍耐していること」、直訳すれば「希望の忍耐」です。「希望」という言葉も「愛」と同じく世の中に溢れています。今、新型コロナウイルスによって先行きが見えない中で、多くの場面で希望が語られています。「トンネルを抜けた先には光がある」と、この状況を乗り越えた先にある希望が語られているのです。もちろん教会も、希望が失われているように見える世の中にあって希望を語り続けます。それは教会の使命に違いありません。しかしその希望とは、どのような希望なのでしょうか。教会が語る希望、聖書が告げる希望は、状況はいずれ良くなるというような漠然としたものではなく、はっきりとしたものです。「希望を持って忍耐していること」の前に「わたしたちの主イエス・キリストに対する」とあります。私たちの希望は、「わたしたちの主イエス・キリストに対する」希望であり、それは終わりの日に主イエス・キリストが再び来てくださり救いを完成させてくださるという希望にほかなりません。いわゆる「主の再臨」です。主の再臨は、この手紙の4章13節以下で詳しく取り上げられていますが、その主の再臨において実現することが4章17節の後半でこのように語られています。「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」私たちの希望はここにあります。どんな希望にもまさる希望がここにあります。キリストが再び来てくださり、復活と永遠の命の約束を実現してくださり、私たちがいつまでも主イエスと共にいることになるのです。この希望によって、私たちは地上の歩みにおいて様々な苦難に遭うときも忍耐して歩んでいくのです。
聖霊を信じて互いに祈り合う
パウロはテサロニケの人たちのことを執り成し祈っています。テサロニケの人たちを思い起こし、神様が彼らに救いのみ業を行い、今も彼らの信仰を支え守り続けてくださっていることを思い起こしています。今、私たちがなにより必要としているのもこの執り成しの祈りではないでしょうか。教会に来たくても来られない方、長く会えていない方がいます。年齢を重ねることによって弱りを覚えている方、病の中にある方がいます。試練の中にある方、重荷を負っている方がいます。そのことを覚えて私たちは「聖霊を信じて互いに祈り合う」のです。その執り成しの祈りにおいて思い起こす一人ひとりに神様が救いのみ業を行ってくださり、たとえ苦難の中にあっても一人ひとりを救いの恵みの下に留まらせてくださっていることを信じ、神様に感謝します。この手紙の5章16節に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」とあります。私たちは自分のことだけを祈るのではありません。絶えず執り成し祈り合うことによって、私たちに、そして教会に喜びと感謝が与えられていくのです。
神の愛と選び
4節に「神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています」とあります。パウロたちは、テサロニケの人たちが福音を信じ受け入れ、救いに与った者として信仰と愛と希望に生きていることに感謝するだけでなく、このすべてに先立って神様が彼らを選んでくださったことに感謝しています。「神に愛されている兄弟たち」と呼びかけられ、その兄弟たちが神様から選ばれている、と言われています。つまり神様に愛されるとは、神様から選ばれることにほかならないのです。神様がテサロニケの人たちを、そして私たちを愛し、選んでくださったのは、それに見合うものを持っていたからではありません。私たちは神様の愛と選びにまったくふさわしくない者です。ただ神様の一方的な恵みによって、まさに「驚くべき大きなみ業に」よって、神様は私たちを愛し選んでくださったのです。ですから私たちはその愛と選びを誇ることはできません。ただ感謝を持って受けとめるのです。「恵み深い主に感謝せよ」という呼びかけに、「慈しみはとこしえに」と応えて私たちは歩んでいきます。罪の力に捕らわれ、呻き苦しんでいた私たちを御心に留めてくださり、そこから私たちを慈しみによって救い出してくださった神様に感謝して生きていきます。その感謝の生活において、「信仰の行い」と「愛の労苦」と「希望の忍耐」が実を結んでいくのです。