主日礼拝

隠された言葉

「隠された言葉」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 119編129-136節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第9章37-45節
・ 讃美歌:266、482、529

翌日
 先週の日曜日はクリスマスの礼拝ということで、特別の箇所から説教をしましたが、その前までのアドベントの期間にもずっと、ルカによる福音書を読み進めてきました。本日はまたその続きです。9章37節以下を読むわけですが、冒頭の37節に「翌日」とあります。何の翌日かというと、上の段に語られていること、つまりある山の上で、主イエスの姿が変わり、栄光に輝くお姿になり、そこにモーセとエリヤが現れて主イエスと語り合ったといういわゆる「山上の変貌」の出来事です。この「山上の変貌」の話も、その冒頭の28節に「この話をしてから八日ほどたったとき」とあるように、はっきりした日付けによってその前の所と結びつけられています。その八日前に何があったかというと、弟子のペトロが主イエスの問いに答えて「あなたこそ神からのメシア、つまり救い主です」と信仰の告白をしたこと、それに続いて主イエスが、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」といういわゆる「受難予告」をなさったことです。この話が始まる9章の18節から本日の箇所の終わりの45節までは、一週間と数日という短い期間の間の出来事であったとされているのです。そして本日の箇所の44節には、「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている」という二回目の受難予告がなされています。つまり別の見方をすれば、主イエスが9日ほどの間に二度、受難の予告をなさり、それに挟まれて「山上の変貌」と本日の箇所の悪霊に取りつかれた子供の癒しの話が置かれているとも言えるのです。いずれにせよ、本日の箇所の子供の癒しの話とその前の山上の変貌の話とは密接に結びつけられていると言うことができます。そのことは、マタイ、マルコ福音書における並行箇所と比べて見るとよりはっきりします。マタイもマルコも、山上の変貌と悪霊に取りつかれた子供の癒しの話の間に、救い主がこの世に来る前に旧約聖書の預言者エリヤが現れるはずだ、ということについての主イエスと弟子たちの間のやりとりを挟んでいます。山上の変貌においてエリヤが現れたことからそういう問いが生じたわけですが、ルカはそれを全部カットして、山上の変貌の話を直接子供の癒しの話につなげ、その結びつきを強調するために「翌日」という言葉を用いているのです。

二つの話のコントラスト
 山上の変貌と子供の癒しの話はいろいろな点で対照的です。変貌の話は「山の上」でのことです。それに対して子供の癒しはその山を下りてきた麓での出来事です。また山上の変貌の場にいたのはペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子たちのみです。しかしその山を下りてきてみると、37節にあるように「大勢の群衆がイエスを出迎えた」のです。その群衆たちの中で、子供の癒しは行なわれたのです。そして、これが最も対照的なことですが、山上の変貌においては、主イエスの栄光のお姿が示され、ペトロはそれに感動して、主イエスとモーセとエリヤのために小屋を三つ建てましょうと口走りました。それは、このすばらしい栄光のお姿をいつまでもそこに留めておきたい、そして多くの人々にこの栄光のお姿を見せたい、という思いからの言葉でした。つまり山上の変貌においては、主イエスの栄光とそれを示された弟子たちの喜び、感動が語られていたのです。それに対して、その山を下りてきたところで彼らが直面した事態は何だったか。一人の男が群衆の中から主イエスに声をかけ、自分の一人息子を癒して下さいと願ったのです。この子の病は悪霊に取りつかれることによって起るものでした。悪霊が取りつくと、その子は突然叫び出し、けいれんを起し、その場に倒れて引きつけを起こすのです。マタイ福音書はこの子の病名をはっきり記しています。しかしそれは大した問題ではありません。肝心なことは、この子の父親が、主イエスの弟子たちに、この子から悪霊を追い出して下さるように頼んだけれども、弟子たちは誰も悪霊を追い出すことができなかった、ということです。つまり山の麓で起っていたことは、主イエスの弟子たちの無力さが露呈されるという出来事であり、彼らの先生である主イエスご自身の評判をも貶め、その権威を失墜させるような事態だったのです。山の上の栄光と、山の麓でのこの醜態、無力さこそ、この二つの話の最も際立ったコントラストなのです。

なぜ悪霊を追い出せなかったのか
 しかしそれは仕方がないではないか、と私たちは思うかもしれません。この父親が子供を癒してもらおうとして主イエスのもとに来た時、主イエスはちょうど三人の弟子のみを連れて山に上っておられたのです。この父親はちょうど間の悪いことに、主イエスが不在であり、9人の弟子たちしかいないところに来たのです。主イエスがおられないところでは、子供が癒されなくても仕方がない、弟子たちにはそんな力がないのは当然だ、と私たちは思いがちです。しかしそれは違うのです。この9章の初めのところで弟子たちは、主イエスから、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能を授けられて派遣されました。6節にあるように、十二人の弟子たちは「村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」のです。つまり彼らは悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出してその人を癒すということをしてきたのです。自分たちが命じると悪霊が言うことを聞き、その人から出ていく、ということを体験してきたのです。ですから、今回この父親が訪ねて来た時にも、彼らは自分たちで悪霊を追い出そうとしたのです。しかしうまくいかなかったのです。どうして今回は悪霊を追い出せなかったのだろう、という疑問が当然生じます。それで、マタイ、マルコ福音書はこの話に続いて、弟子たちが主イエスに、「どうして私たちはあの悪霊を追い出すことができなかったのでしょうか」と問うたことを語っています。それに対する主イエスの答えは、マタイでは「信仰が薄いからだ」でした。マルコにおいては、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」という答えでした。この二つの答えは基本的に同じことを言っています。主イエスが言っておられるのは、あなたがたがもっと篤い信仰を持っていれば追い出せた、ということではないし、祈りという手段を用いなかったから追い出せなかった、ということでもありません。必要だったのは、悪霊を追い出してこの人を救って下さるのは神様ご自身の力であるという信仰であり、その神様のみ業を求める祈りだったのです。つまり働いて下さるのは神様であり、自分は神様によって用いられるに過ぎない、という自覚です。主イエスによって派遣された時、彼らはそういう自覚と祈りによって歩みました。悪霊を追い出したり病気を癒す権威や力が自分にあるなどとは全く思っていなかったのです。だから主イエスのお命じになった通り、ひたすら神様に祈り求めつつ歩んだのです。その時には、彼らは悪霊を追い出し、病気を癒すことができたのです。ところが、そのすばらしい体験によって彼らは、自分自身に特別な力が備わったかのように勘違いしてしまったのです。それで、この父親が訪ねて来た時にも、「どれどれ、私たちが悪霊を追い出してやろう」という思いでこの子供を癒そうとしたのです。すると今度は何事も起らず、彼らは恥をかき、主イエスの面目をも潰してしまったのです。実は主イエスは、彼らが戻って来て、自分たちが命じると悪霊が言うことを聞いて退散したという体験を報告した時、彼らを連れて人里離れた所に退こうとなさったことが10節に語られていました。しかし群衆が後を追ってきたのでそれは叶いませんでした。この時主イエスが弟子たちと共にしようとしておられたのは、すばらしい体験に興奮している弟子たちの心を静め、神様に祈ることによって、これらのすばらしい救いのみ業が自分の力によってなされたことではなくて、神様の力が彼らを通して発揮されたのだということを確認することでした。しかしそのような静かな時を持つ暇もない中でここまで来てしまったのです。その結果、弟子たちは案の定このような失敗に陥ったのです。
 弟子たちが悪霊を追い出せなかった理由については、以上のようなことを想像することができます。しかしルカは、このことを巡る弟子たちと主イエスの会話を全部カットしています。つまりルカは、弟子たちが悪霊を追い出すことができずに恥をかき、主イエスの顔にも泥を塗った、という事実のみを見つめており、なぜそれができなかったか、については語っていないのです。このような語り方によってルカは、先ほど申しましたように、山の上での主イエスの栄光のお姿と、麓での弟子たちの情けない、無力な姿とのコントラストをはっきりと示そうとしているのです。

山の上と麓
 このようなコントラストを、私たちも信仰の生活の中で体験するのではないでしょうか。例えば私たちは、主の日の礼拝においてみ言葉を聞き、福音の喜びに心踊らせ、神様の恵みに満たされる、という体験を、なかなか毎週というわけにはいかなくても、時にすることがあります。そんな時には、変貌の山におけるペトロと同じように、この恵みの時がいつまでも続けばいいのに、と思います。しかしひとたびその礼拝からそれぞれの家に帰って日常の生活を始めると、そこで直面するのは、信仰者としての自分の無力さであり、主イエスの栄光を表すどころかその顔に泥を塗ってしまうような自分の現実である、ということがあるのではないでしょうか。私たちの信仰の生活は、変貌の山の上の礼拝と、そこから下りて来た下界の罪の現実の間を行ったり来たりしつつ営まれていると言うことができるのです。

信仰のない、よこしまな時代
 山を下りて来た主イエスは、そのような弟子たちの、ひいては私たちの、情けない有様をご覧になります。そして、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」とおっしゃるのです。このお言葉を私たちは間違って受け止めないようにしなければなりません。主イエスはこのお言葉によって、「今は不信仰やよこしまがはびこっている悪い時代だ」と時代の風潮を嘆いておられるのではありません。そのように読んでしまうと、それは私たちの言い訳の口実になります。今は時代の風潮が悪いので、信仰を持って生きることがしにくい、もうちょっとよい時代に生きていたら、主イエスを信じて従っていくこともしやすかったろうに、などと考えてしまうのです。しかし、この山の麓、下界の罪の現実を、そのように時代のせいにしてしまうことはできません。主イエスは、せっかくあらゆる悪霊に打ち勝つ力と権能を授けて遣わしたのに、その力を正しく用いることができず、この子どもを癒すことができなかった弟子たちのことを「あなたがたはなんと信仰のない、よこしまな思いに捉えられてしまっているのか」と嘆いておられるのです。
 ちなみに、ルカが参考にしているマルコ福音書のこの記事においては、この話に律法学者たちが登場して、弟子たちと論争をしていたことが語られています。マルコの話では、「信仰のない、よこしまな時代」と呼ばれているのは、この律法学者たちをも含んだ人々です。しかしそれを省いたルカのこの書き方においては、主イエスの嘆きはもっぱら弟子たちに向けられていると言えるでしょう。主イエスを信じて従って来たはずの弟子たちが、信仰のないよこしまな思いに、つまり神様の力を祈り求めることをせず、自分の力で何かをすることができるような錯覚に陥り、結局悪霊に打ち勝つことができずに敗北してしまうことを主イエスは深く嘆いておられるのです。それは私たちの信仰の現実に対する主イエスの嘆きです。日々の生活の中で、神様に信頼して祈り求めることをせず、弱いくせに自分の力に頼って右往左往してしまい、結局うまくいかずに主イエスの顔に泥を塗ってしまうような私たちの信仰の有様を、主イエスは深く嘆いておられるのです。

いつまで
 この嘆きの言葉に続いて主イエスは、「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」とおっしゃいました。この翻訳をそのまま読めば、主イエスは弟子たちに、そして私たちに、ほとほと愛想が尽きたと言っておられることになります。いつまでこんな連中と付き合わなければならないのか、もう共にいるのは嫌だ、こんな奴らにはもう我慢ができない、というのがこの日本語の文章のニュアンスでしょう。しかし、ここを原文で読むと、それとは違うニュアンスが感じられます。原文の文章はとても単純な疑問文です。それを直訳するとこうなります。「いつまで私はあなたがたと共におり、あなたがたを我慢するのだろうか」。つまり、この日本語訳における「しなければならないのか」という言葉は原文にはないのです。これがあると、今申しましたように、「もうこれ以上は共におれない、我慢できない」という意味になります。しかしそれなしに訳すと、「いつまでなのか」という単純な疑問の文章になるのです。そしてこの疑問に、主イエスはご自分で答えておられるのです。それが、「あなたの子供をここに連れて来なさい」というみ言葉です。主イエスは、弟子たちが癒すことのできなかったその子供をご自分のもとへと招かれるのです。父親がその子を連れて来る途中で、悪霊はまた彼を投げ倒し、引きつけさせました。弟子たちの言葉にはビクともしなかった悪霊が、主イエスのみ前では最後のあがきを見せて暴れたのです。しかし主イエスは汚れた霊を叱り、追い出して、子供を癒して父親にお返しになりました。弟子たちには出来なかった癒しを主イエスはして下さったのです。つまり弟子たちの醜態、失敗の後始末を主イエスがして下さり、苦しみ、絶望の中にいるこの父親に救いのみ手を差し伸べて、子供を返して下さったのです。この癒しのみ業は、「いつまであなたがたと共にいて我慢しなければならないのか」という訳と合わせて見つめると、「もうお前たちには頼まない、私が自分でする」と主イエスがお怒りになり、苛立ちまぎれになさったみ業のように感じられます。しかし先ほどのような単純な疑問文と合わせて見つめるならば、主イエスがいつまで弟子たちと、そして私たちと共にいて下さり、どこまで私たちのことを我慢して下さろうとしているのか、その答えがそこに見えてくるのです。つまり主イエスは、このような醜態をさらしている弟子たちを、失敗ばかりして主イエスに恥をかかせている私たちを、どこまでも我慢して下さり、共にいて下さり、私たちの失敗を、罪を覆って、救いのみ業を行なって下さるのです。

受難の予告
 この子供の癒しのみ業にすぐ続いて、ルカは主イエスの二回目の受難予告を語っています。先ほど申しましたように、弟子たちが「自分たちには何故悪霊を追い出すことができなかったのですか」と問う場面をルカはカットしたのです。そのことによって、この二回目の受難予告は、「いつまで私はあなたがたと共におり、あなたがたを我慢するのだろうか」という主イエスご自身による問いに対する主イエスご自身の答えとして位置づけられていると言えます。主イエスは、「人々の手に引き渡されようとしている」その時まで、私たちと共にいて下さり、私たちのことを我慢して下さるのです。「引き渡される」という言葉は、主イエスの受難、十字架の死を言い表す代表的な言葉です。つまり、人々の手に引き渡されるまでとは、十字架にかかって死んで下さるまで、ということです。主イエス・キリストは、十字架の死に至るまで、いつも私たちと共にいて下さり、弱い罪人である私たちのことを忍耐して背負い、私たちの罪の言わば尻拭いをして下さるのです。ですから、ここに語られている主イエスのお姿は、弟子たちの、また私たちの弱さや罪に苛立ち、もうこんなやつらには我慢できない、こんな連中と付き合うのはご免だ、と愛想を尽かしておられるお姿ではないのです。主イエス・キリストは、どこまでも、十字架の死に至るまでも、私たちと共にいて下さり、私たちのことを忍耐して下さり、罪を赦し、導いて下さる方なのです。

隠された言葉
 最後の45節には「弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである」とあります。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」という主イエスの受難予告の言葉が、弟子たちには理解できなかったのです。それは、彼らには理解できないように隠されていたからだと言われています。主イエス・キリストが、人々の手に引き渡され、十字架につけられて殺される、そこに、私たちの罪をどこまでも背負って下さり、私たちの身代わりとなって死んで下さることによって罪を赦して下さり、私たちに新しい命を、神様の恵みによって生きる永遠の命を与えて下さる神様の救いのみ業がある、そのことを告げる救いの言葉は、隠された言葉です。隠された真理と言ってもよい。隠されているから、それはすぐには分からないのです。私たちの感覚や常識によって理解することはできないのです。私たちがそれを理解し、分かることができるのは、神様が示して下さることによってです。神様がどこまでも私たちと共にいて下さり、私たちの罪を忍耐して背負って下さり、それを主イエスの十字架の死によって赦して下さるという救いの恵みは、神様ご自身がそれを示して下さることによってのみ分かるのです。神様は、その隠された言葉を、この礼拝において私たちに示し与えて下さいます。主の日の礼拝は、神様が、いつもは隠されている主イエスの栄光を示して下さる時です。それはちょうど三人の弟子たちがあの山の上で主イエスの栄光のお姿を見たような体験です。しかし、礼拝からそれぞれの日常の生活に戻った時、そこにあるのは私たちの弱さと罪の現実です。礼拝と日常の生活のコントラストあるいはギャップに私たちは悩むことがあります。けれども、本日のこのみ言葉が教えているのは、その私たちの日常の、弱さと罪の現実のただ中においても、神様は主イエスによる救いの恵みを示して下さっている、ということです。主イエスが人々の手に引き渡され、十字架につけられて殺される、そのことを告げる言葉は、神様が私たちの弱さと罪を背負い、引き受け、それを赦し、忍耐をもってどこまでも私たちと共にいて下さるという恵みを示しています。私たちの信仰の生活は、変貌の山の上の礼拝と、そこから下りて来た下界の罪の現実の間を行ったり来たりしつつ営まれている、と先ほど申しました。私たちはそのどちらにおいても、つまり主の日の礼拝においても、罪の現実の中で営まれているそれぞれの日常の生活の中においても、主イエス・キリストによる救いを告げる隠された言葉をいつも新しく聞きながら歩むことができるのです。神様のみ言葉にはそのような力があります。私たちに求められているのは、そのみ言葉を真剣に求め、聞いていくことです。45節の終わりのところに、弟子たちは「怖くてその言葉について尋ねられなかった」とあります。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」という主イエスのお言葉が、間もなく起る恐ろしい出来事を予告していることを彼らは感じ取り、恐れたのです。み言葉を聞くことは、確かに恐ろしいことでもあります。神様のみ言葉を本当に聞く時、私たちは新しくされます。み言葉を聞いてもそれまでと何も変わらない、ということはあり得ないのです。しかし、み言葉によって示されるのは、神様の独り子イエス・キリストが、私たちの罪をどこまでも背負って下さり、赦しの恵みによって私たちを背負い、いつまでも共にいて下さることです。その恵みによって私たちは新しくされていくのです。勇気をもってみ言葉を求めていくならば、神様は隠されたみ言葉を私たちに示し与えて下さいます。そして詩編が語るように、「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます」。隠されたみ言葉を示される時、私たちはその光に照らされ、人間の思いや力によってはとうてい得られない神様の確かな恵みを知り、その恵みの中を歩む者へと新しくされるのです。

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