主日礼拝

これはわたしの子

「これはわたしの子」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第42章1-4節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第9章28-36節
・ 讃美歌:233、132、403

主イエスは救い主
 アドベントの第三週を迎えました。アドベントクランツの蝋燭の三本に火が灯っています。このアドベントクランツの飾り方はここ数年で次第に改良されてきています。以前は玄関の上に大きなクランツを下げていました。でも、頭の上にあるクランツには誰も目を留めないし、蝋燭もよく見えませんでした。それに葉が落ちたり、蝋が垂れたりするという問題もあったので、今はこの講壇の上に小さめのクランツを飾ることになりました。そして今年は、この蝋燭に大いなる改良がなされました。昨年までは、一回の礼拝の間ぐらいしか持たない蝋燭でした。説教の間に蝋燭がどんどん短くなっていって、今にも火が葉に燃え移るのではないかと気が気でなく、説教を聞くどころではなかった、という声がありました。ですから蝋燭は毎週新しいものに替えていました。今年のこの蝋燭はそれに比べてとても持ちがよいので、第一週から灯している蝋燭もまだこれだけ残っています。アドベントクランツの蝋燭は本来このように、第一週から灯したものと、第二週からのもの、第三週からのものの長さが違うのが相応しいのです。火を灯す蝋燭を毎週一本ずつ増やしながらクリスマスを待つ、という思いがそこに現れています。いよいよ来週は四本の蝋燭全てに火が灯り、クリスマスの礼拝が行われるのです。
 そのように私たちは今、クリスマスを待ち望みつつ歩んでいます。それは、このクリスマスに、神様の独り子であられる主イエス・キリストが、私たちの救い主としてこの世にお生まれになったことを覚え、感謝し、共に喜ぶためです。およそ二千年前にユダヤのベツレヘムの馬小屋でお生まれになった主イエスが、私たちの救い主であられることを私たちは知らされており、それを信じているから、クリスマスを喜び祝うのです。つまりクリスマスを祝うことの前提には、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになった主イエスが私たちの救い主であられる、という信仰があるのです。

この方はどなたなのだろう
 このことを前提としたクリスマスが、今では多くの国々で祝われており、この日本でも、この前提を全く意識していない人々によっても祝われているわけですが、主イエスが地上の生涯を送っておられた時には、このことはまだ前提となってはいませんでした。主イエスこそ神様の独り子、救い主であられるということは、前提であるどころか、誰もそのようには思っていなかったのです。主イエスと出会った多くの人々はむしろ、この人はいったい何者だろうかという問い、疑問を抱いたのです。その疑問を一番深く抱いていたのは、主イエスに従ってきた弟子たちでした。弟子たちは、一切を捨てて主イエスに従って来たのですから、この方こそ神様が遣わして下さった救い主であるに違いないと思ったのでしょう。しかしそれでは弟子たちが、主イエスこそ神様の独り子、救い主であられるということを本当に分かっていたのかというと、そうではありません。主イエスに従って歩み、そのみ言葉を間近で聞き、病人の癒しや悪霊の追放という救いのみ業を目撃していく中で、弟子たちの心にはむしろ、「いったいこの方はどなたなのだろう」という驚きと問いが深まっていったのです。主イエスがガリラヤ湖の嵐を叱って静めて下さったのを見た時に弟子たちがこのように互いに語り合ったことが8章25節に語られていました。救い主と信じて従ってきた方が、嵐を静めてまさに救って下さったのですから、ああやっぱりこの方こそ救い主だ、と喜んでもよさそうなものです。ところが彼らは、「いったいこの方はどなたなのだろう」と問わずにおれなかったのです。つまり、主イエスのみ業を体験するにつけ、この方は自分たちがイメージし期待している救い主とはかなり違う、という思いが弟子たちの中に深まっていったのです。そのような中で、先週読んだ9章18節以下では、今度は主イエスの方から弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いが投げかけられたのです。

主イエスの問いかけを受ける
 先週も申しましたように、この主イエスからの問いかけを受けることは、私たちが主イエスを信じる信仰者になっていくことにおいて決定的に重要なことです。私たちが、主イエスとは何者だろう、とあれこれ考え、救い主かもしれない、いやそうではないかもしれない、などと思い巡らしている間は、私たちは信仰者になることはできないのです。そのように主イエスについて私たちが思い巡らすことは全て人間が主体となっている思想です。思想と信仰は違います。信仰は、人間の思想が深まることによって得られるものではありません。信仰は、「あなたはわたしを何者だと言うのか」という主イエスからの問いを受けることによって、そこに与えられるものなのです。私たちが主体となって疑問を抱き、問い、考えていくところにではなく、主イエスが主体となって私たちに問いかけて来られるところに、主イエスとの出会いが起り、そこに信仰が与えられるのです。

ペトロの告白と受難予告
 主イエスの問いかけに、弟子たちを代表してペトロが、「神からのメシアです」と答えました。主イエスこそ、神様が遣わして下さった救い主キリストである、という信仰をペトロは告白したのです。このことの背後には主イエスのとりなしの祈りがあったことを先週読みました。主イエスの導きによってペトロは、また弟子たちは、「いったいこの方はどなたなのだろう」という疑問に対する正しい答えを得ることができたのです。けれども、このように告白した弟子たちが、主イエスこそキリストであることの本当の意味を理解していたかというと、そうではありません。ペトロのこの告白を受けて、主イエスは、ご自分がどのようにして救い主としての働きをするのかについて語っていかれました。それが22節の「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」といういわゆる受難予告です。これは、主イエスこそ救い主キリストですと告白したペトロら弟子たちにとって驚くべきこと、考えられないことでした。それゆえに主イエスはその後の23節で、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とおっしゃったのです。主イエスが救い主キリストであられるなら、その主イエスに従っていく信仰の歩みは、神様の恵みと祝福に満ちた喜ばしい栄光の歩みであるはずだ、それが弟子たちの常識であり、それは信仰を求めていく私たちの思いでもあります。信仰を得ることによって、より喜ばしい、祝福に満ちた栄光ある人生を送りたい、と私たちは思うのです。しかし主イエスは、私に従う信仰者は、自分を捨て、十字架を背負ってついて来なければならない、とおっしゃったのです。

栄光に輝くイエス
 これが、先週の所までの流れです。本日の28節以下は、この続きです。28節の冒頭に「この話をしてから八日ほどたったとき」とあります。それは27節までとのつながりを意識させるための文章です。この日主イエスはペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子を連れて山に登られました。そしてそこで、主イエスのお姿が変わったのです。「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とあります。32節には「栄光に輝くイエス」とあります。栄光に輝く主イエスのお姿がここに示され、三人の弟子たちはそれを見たのです。この出来事は「山上の変貌」と呼ばれています。主イエスの顔とお姿が変わった、変貌したのです。しかしこの変貌は、別の人になったとか、これまでとは似ても似つかない姿になったというようなことではありません。ポイントは要するに、主イエスの栄光のお姿が現されたということです。神様の独り子、救い主キリストとしての、主イエス本来の栄光がここでこの弟子たちに示されたのです。この栄光のお姿は、ベツレヘムの馬小屋で生まれ、十字架につけられて殺されることに至る主イエスの地上の歩みにおいては隠されていたものです。この間主イエスと出会った人は誰も、この栄光のお姿を見てはいないのです。主イエスのことを描いたいわゆる聖画には、主イエスに後光が射しているものがありますが、実際に地上を歩まれた主イエスにはそんなものはありません。栄光のお姿は隠されていたのです。しかしこの栄光に輝くお姿こそ、神様の独り子、まことの神であられる主イエスの本当のお姿です。言ってみれば主イエスの正体です。地上のご生涯の間は隠されていた本当のお姿、栄光に輝く主イエスの正体が、この山上の変貌の出来事において、一時、三人の弟子たちにのみ示されたのです。彼らは八日前に主イエスから、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いかけを受けました。ペトロが彼らを代表して、「神からのメシア、神のキリスト、救い主です」と答えました。山上の変貌の出来事において、この答えが正しかったこと、主イエスこそ、栄光に輝く神様の独り子、救い主であられることがはっきりと示されたのです。

モーセとエリヤ
 さてこの出来事において示されたのは、主イエスの栄光に輝くお姿だけではありませんでした。主イエスのお姿が変わると共に、二人の人が同じく栄光に包まれて現れ、主イエスと語り合っているのを三人の弟子たちは見たのです。その二人とは、モーセとエリヤでした。モーセは言うまでもなくあの出エジプトの指導者モーセです。そして彼は、旧約聖書の最初の五つの書物、創世記から申命記までの部分を書いた人であると言い伝えられていました。この五つを「モーセ五書」と言うことがあります。そしてこの五つが旧約聖書の第一部、「律法」の部分です。つまりモーセは主なる神様の律法を代表する人なのです。エリヤは列王記に出てくる預言者ですが、旧約に登場する多くの預言者を代表する人です。旧約聖書の第二の部分のことを「預言者」と言います。エリヤはその部分を代表する人なのです。従って、モーセとエリヤが現れたというのは、旧約聖書の二つの部分、「律法」と「預言者」をそれぞれ代表する人が現れたということです。今日旧約聖書は三つの部分に分けて考えられており、第三は「その他の書」ですが、この第三部分はこの当時まだ確定されてはいませんでした。従って律法と預言者というのが当時の旧約聖書の全体を意味しているのです。モーセとエリヤが現れたというのは、旧約聖書全体の代表者が現れたということです。それに対して主イエスは、この時はまだ書かれていない新約聖書を代表する方です。代表すると言うよりも、この主イエスについて語り、主イエスを信じる信仰を伝えているのが新約聖書です。従って、モーセとエリヤと主イエスがここで語り合っているというのは、旧約聖書と新約聖書、つまり聖書全体の内容がここに凝縮されていることを意味します。ここで語り合われていることこそ、旧新約聖書全体の中心主題、聖書全体を貫いているテーマであると言うことができるのです。ルカは、この三人が語り合っていたことの内容を31節で語っています。これはマタイとマルコにはない、ルカのみに出てくる特徴的なところです。「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」。モーセとエリヤと主イエスは、三人ともが栄光に輝く姿で、「イエスがエルサレムで遂げようとしている最期について」話していたのです。

聖書の中心主題
 このことは私たちに二つのことを教えています。第一は、主イエスがエルサレムで遂げた最期こそが、旧新約聖書全体の中心主題、聖書全体を貫いているテーマである、ということです。「遂げた最期」と言うと、どのようにして死んだか、つまり主イエスの十字架の死のみを指しているように思われますが、「最期」と訳されているのは「エクソドス」という言葉です。これは「外への道、外へ出ること」という意味です。「出エジプト記」のことを英語で「エクソダス」と言うことをご存知の方もおられるでしょう。同じ言葉です。その場合には「脱出」という意味で使われています。主イエスはエルサレムで、この「エクソドス」を成し遂げたのです。主イエスご自身のこととして言えばそれは、十字架の死と三日目の復活、そして天に昇られたことまでを含みます。これらのことによって主イエスは、この地上を出て、父なる神様のもとへと帰られたのです。そしてそのことによって、私たちのための「出エジプト」、罪の奴隷状態からの解放、罪の赦しによる救いのみ業を成し遂げて下さったのです。この主イエスの十字架と復活と昇天によって成し遂げられた救いこそが、旧新約聖書全体の中心主題、聖書全体を貫いているテーマなのです。モーセの律法も、エリヤに代表される預言者も、この主イエスによる救いを指し示し、預言しているのです。つまりここには、何を中心として聖書を読むべきであるかが教えられています。私たちがここから聞くべき第一のことはこれです。

主イエスの栄光とエルサレムでの最期
 第二のことは、ここで示された主イエスの栄光、つまり地上の生涯においては隠されていたけれども、本当は栄光に輝く神の独り子であられるという主イエスの正体が示される時に、そこでは同時に主イエスがエルサレムで遂げた最期のことが見つめられなければならない、ということです。主イエスの神の子としての栄光は、その十字架の死と復活と昇天と深く結びついているのです。そのことを抜きにして主イエスの栄光を見つめることはできないのです。三人の弟子たちはここで、栄光に輝く主イエスの本当のお姿を示されました。しかしその栄光が、エルサレムにおいて主イエスが遂げる最期においてこそ実現し、現されることをも同時に示されたのです。このことは、先週の所で、ペトロが「あなたこそ神のキリストです」という信仰の告白をしたその直後に、主イエスが、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」とお語りになったことと対応しています。主イエスが神のキリスト、救い主としての栄光に輝くお方であることは、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さることにおいてこそ現されているのです。

ペトロの願い
 ペトロらは、栄光に輝く主イエスのお姿を見、モーセとエリヤが主イエスと語り合っているのを見ました。モーセとエリヤが話を終えて離れ去っていこうとするのを見たペトロは、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と言いました。それは「自分でも何を言っているのか、分からなかったのである」とありますが、しかし彼の思いは明らかです。ペトロは、栄光に輝く主イエスのお姿と、モーセとエリヤが主イエスと共にいる、というこの素晴らしい出来事を、いつまでもここに留めておきたいと思ったのです。主イエスとモーセとエリヤのために小屋を三つ建てて、そこに入ってもらおう。そうすれば、これからもここに来ることによってこの素晴らしい栄光の姿を見ることができる。他の弟子たちも連れて来て見せることができる。さらに多くの人々に栄光に輝く主イエスのお姿を見せることができる。小屋があればそれができるという所がかなり寝惚けた話ですけれども、ペトロの思いはそういうことです。

雲に覆われて
 34節には、「ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」とあります。栄光に輝く三人の姿を、雲が覆い隠していったのです。雲は旧約聖書において、神様が人間にご自身を現し、出会おうとなさる時に現れるものです。それは神様が出会って下さることの印であると同時に、その神様のお姿を人間の目からは隠す働きもしています。人間は、神様と出会う時に、神様のお姿を直接見るのではなくて、雲を見るのです。ここでも、雲が現れ、その雲の中から神様のみ声が聞えたのです。その雲によって、栄光に輝く三人の姿は隠されていきました。このことは、ペトロの言葉に対する神様の答えであると言うことができます。ペトロは、小屋を三つ建てることによって、主イエスの栄光のお姿を、そしてモーセとエリヤの姿をその場に留め、それを人々が見ることができるようにしたいと願ったのです。しかしその栄光のお姿は雲に隠されて見えなくなった。神様は、主イエスの栄光のお姿を人々が直接見ることを拒否なさったのです。栄光のお姿を見るのは、この時、この三人の弟子のみに与えられた特別の体験です。それをいつでも誰でも見ることができるようなものにすることは出来ないのです。

これはわたしの子
 しかし、栄光のお姿が雲に包まれていく中で、神様の声が響きました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と神様はおっしゃったのです。「その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた」と36節にあります。つまり「これ」というのは主イエスのことです。「主イエスこそわたしの子、選ばれた者だ。このイエスにこそ聞け」と神様はおっしゃったのです。
 ここに、「いったいこの方はどなたなのだろう」という問いへの決定的な答えが、神様ご自身によって与えられました。主イエスこそ、栄光に輝く神様の独り子、神様が選び、遣わして下さった救い主であられるのです。主イエスの問いに答えてペトロが告白したあの信仰を、神様ご自身がその通りだと肯定し、裏付けて下さったのです。ルカはこのあたりを、「主イエスとは何者か」という問いを軸にして語っている、ということを繰り返し申してきましたが、そのクライマックスがこの神様のみ言葉にあると言うことができます。

これに聞け
 そして同時にここには、その主イエスの栄光は、どこかに行けば見ることができるようなものではない、それを人間の営みの中に位置づけ、人間の手の中に確保するようなことはできない、ということが示されています。この栄光に触れるために神様が私たちに求めておられるのは、「これに聞け」ということです。神様の独り子であられ、神様が選びお遣わしになった救い主であられる主イエス・キリストに聞くこと、そのみ言葉に耳を傾け、従っていくこと、そのことの中でこそ、私たちは、栄光に輝く主イエスの本当のお姿と出会うことができるのです。主イエスは多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活なさった方です。その主イエスに聞き従う時に私たちの歩みも、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って従っていくことになります。主イエスに従って歩む信仰の人生は、決して祝福と喜びのみに満ちた栄光ある人生ではありません。しかしこの主イエスに聞き従っていくことの中でこそ私たちは、叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせないけれども、傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、弱く罪深い私たちをご自身の十字架の死によって赦し、神様の民として新しく生かして下さるまことの救い主と出会い、その方のもとに生きることができるのです。そしてこの信仰の歩みの彼方には、私たちにも栄光に輝く復活と永遠の命が約束されています。山上の変貌において三人の弟子たちが垣間見た主イエスの栄光に輝くお姿は、その約束が確かであることを証しているのです。

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