「イエスは救い主」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: イザヤ書 第33章1-6節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第9章18-27節
・ 讃美歌:239、122、536
主イエスとは何者か
先週の礼拝において私たちは、「主イエスとは何者か」という問いをめぐってルカによる福音書9章7節以下からみ言葉に聞きました。この問いは、9節でガリラヤの領主ヘロデが語ったものです。主イエスと弟子たちが神の国の福音を宣べ伝え、病気を癒しておられた、その噂を聞いたヘロデは、「この噂の主はいったい何者だろう」という問いを抱いたのです。先週申しましたのは、ヘロデの口から語られているこの問いをより深く抱いていたのは、実は主イエスの弟子たちだった、ということです。主イエスに従い、共に歩み、また主イエスによって力を与えられて派遣され、神の国の福音を告げ知らせ、病気を癒すという体験をしてきた弟子たちは、そのことの中で、「主イエスとは何者か」という問いを、他の人々よりも深く抱くようになっていったのです。先週の所に語られていた奇跡物語、主イエスが五千人を超える人々を、弟子たちが持っていた五つのパンと二匹の魚で満腹になさったというみ業は、空腹をかかえている人々への愛の奇跡であると同時に、「主イエスとは何者だろうか」という問いを抱いている弟子たちを、正しい答えへと導くためのみ業でもあったのです。
この弟子たちの問いは私たちの問いでもあります。私たちも、聖書を通して、また教会の礼拝におけるその説き明かしを聞くことを通して主イエスのことをより深く知らされていくと、それにつれて、「主イエスとは何者か」という問いをより深く抱くようになるのです。この問いを大切に抱き続け、答えを求めていくことが信仰を求めていくこと、いわゆる「求道」であり、この問いへの答えを得ることが信仰を得ることです。と言ってもこの問いは一度答えが得られたらそれでもう解決、というものではありません。私たちは、主イエスとは何者であるかを完全に分かってしまうことはできないのです。弟子たちがそうであったように、主イエスと共に歩む体験が深まるにつれて、「主イエスとは何者か」という問いもまた深まっていくのです。信仰者として生きるとは、この問いを常に新たに問われ続けていく歩みです。今この礼拝に集っている私たちは、洗礼を受けた信仰者もそうでない人も等しく、この問いを胸に抱いているのです。
主イエスからの問い
本日の箇所、18節以下には、弟子たちが、この問いを、主イエスご自身から問われたことが語られています。それが20節の「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いです。主イエスが弟子たちにそのように問うたのです。つまり、「主イエスとは何者か」という問いは、弟子たちが、また私たちが抱く疑問であると同時に、主イエスご自身から問われることなのです。主イエスとの関わりの深まりの中で、私たちは主イエスからこの問いかけを受けるようになります。最初は、私たちが主イエスに、あるいは主イエスのことを語り伝えている例えば牧師にいろいろと問うていきます。イエスとはどういう人か、イエスのこの教えはどういう意味か、このみ業は何か…、そのように問うている時、主イエスは私たちにとって観察の対象であり、その遺した教えを学ぶべき昔の偉人の一人です。少し難しい言い方をすれば、そこでは主体はあくまでも私たちにあり、主イエスは客体なのです。しかしその関係がある所で逆転します。主イエスの方から私たちに問いかけて来られることを私たちは体験するのです。主客が逆転して、私たちが主イエスから「あなたはわたしを何者だと言うのか」と問われるのです。主イエスからのこの問いを意識することが、信仰への大きな一歩です。そしてこの問いにどう答えるかが信仰の決断です。弟子たちはここでまさにその信仰の決断を求められたのです。
主イエスはこのように彼らに問うに先立って先ず、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。周囲の人々、世間の人々はどう言っているか、を先ず問われたのです。弟子たちは「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます」と答えました。これは先週の所で、領主ヘロデが聞いた主イエスについての噂と同じです。主イエスと弟子たちの活動を見聞きしたガリラヤの人々はこのように噂していたのです。これらの噂は、人間が主体となって、主イエスのことをああだこうだと考える中で生まれたものです。ヘロデはこれらの噂を聞いて、「この噂の主はいったい何者だろう」という問いを抱きました。ヘロデにおいても、主体は自分であり、主イエスは興味や関心の対象です。自分が主体となって主イエスのことを知ろうとしている所には、このような噂や問いが生まれるのみで、主イエスとは何者かを本当に知ることはできないのです。それに対して主イエスに従って共に歩んでいる弟子たちは、主イエスご自身から、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いかけを受けたのです。主イエスとは何者かが本当に分かるのは、このように主イエスが主体となって問いかけてこられる所においてなのです。
「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と問うた上で、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお問いになったことにはもう一つの意味があります。それは、私たちが主イエスからこのことを問われる時、「他の人はこう言っています」とか「世間ではこう言われています」などという答えで逃げることはできない、ということです。私たち一人一人が、自分自身の答えを、この私は主イエスのことを何者だと言うのか、という答えを求められるのです。つまり主イエスと私たちとの一対一の関係が問われるのです。信仰というのはそのようにあくまでも私と主イエスとの主体的な関係において成り立つものです。主イエスの問いに、私たちも自らの実存をかけて答えていかなければなりません。信仰においては、他人のふんどしで相撲を取ることはできないのです。
教会という群れの中で
しかしもう一方で、主イエスがここで「弟子たち」に対して、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われたことにも目を留めなければなりません。主イエスのこの問いかけは、弟子たち、つまり主イエスに従って共に歩んでいる人々の群れの中で語られているのです。つまり私たちで言えば教会という群れの中で、この問いは問われているのです。「あなたはわたしを何者だと言うのか」という問いは、教会と関係なく生きている人に向けられることはありません。私と主イエスの一対一の関係は、教会という、主イエスに従う者たちの群れの中でこそ成立するのです。弟子たちに対する問いにペトロ一人が答えました。しかしそれはペトロ一人だけが信仰の決断をしたということではないでしょう。ペトロは、弟子たちを代表して、弟子たちの群れ全体の答えとして、主イエスは「神からのメシアです」という信仰の告白をしたのです。ペトロの信仰告白はペトロ個人の思いであると同時に、教会の信仰の告白であると見るべきです。マタイによる福音書はこのことに焦点を当てて、このペトロの答えに続けて「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」という主イエスのお言葉を語っています。ペトロの信仰の告白こそ教会の土台であり、教会とはこの告白を共にする者たちの群れである、ということです。それに対してルカは、先週も申しましたようにこのあたりを、「主イエスとは何者か」ということに焦点を当てて語っているので、「教会」についての話はここには語られていません。マタイとルカのこの違いは興味深いところです。
神のキリスト
さてペトロは、主イエスの問いに弟子たちを代表して、「神からのメシアです」と答えました。ここは口語訳聖書では「神のキリストです」となっていました。原文の言葉は「クリストス」です。それを日本語として表記すれば「キリスト」です。それが「メシア」と訳されたのは、キリストという言葉は「油注がれた者」という意味であり、それは旧約聖書のヘブライ語では「メシア」という言葉だったことによります。「メシア」のギリシャ語訳が「キリスト」なのです。そしてこの言葉の意味は、神様によって油を注がれ、大切な使命へと立てられた人、ということであり、具体的には「救い主」を意味するものとなりました。つまりイエス・キリストと言う時の「キリスト」は名前ではなくて、「救い主」を意味する称号なのです。新共同訳がどうして「キリスト」を「メシア」と訳したのか、その理由はよく分かりません。「キリスト」を名前だと誤解している人が多いので、「私を何者だと言うのか」という問いに「あなたの名前はキリストさんです」と答えたというとんちんかんで滑稽な話に誤解されないように、という配慮なのかもしれません。しかしそれは余計なお世話であって、私たちはキリスト信者、クリスチャンとして生きようとしているのですから、せっかくその言葉が使われているのに別の言葉に置き換えて訳してしまうのは不適切です。ペトロがここで「あなたこそキリストです」と告白したことを私たちはしっかりとわきまえておきたいのです。
もう一つの問題は「神からの」という訳です。原文には「から」という言葉はないのであって、「神の」が直訳です。「から」と言うと、「神から遣わされた」という意味になります。「神の」にはそういう意味も勿論ありますが、その点だけに注目してしまうと、それこそ昔の預言者と同じになってしまいます。「神の」の意味はより根本的には、神ご自身が油を注いで立てた、ということです。キリストご自身もまことの神であられることが意識されているとも言えるでしょう。その意味でもここは口語訳のように「神のキリストです」と訳すべきだと思います。
ペトロはこの信仰の告白によって、主イエスとは何者か、という問いの正しい答えを語ったのです。主イエスは神のキリストである。み言葉を語るために派遣された預言者や救い主のための備えをする者ではなくて、神が私たちのために立てて下さった救い主ご自身である。これこそ、キリスト教会の信仰の根本です。後の教会の土台となる信仰告白が、ペトロによってなされたのです。私たちは、このペトロの信仰告白を受け継ぎ、「あなたこそキリスト、救い主なる神です」と告白しつつ歩んでいるのです。
主イエスの祈りによって
このペトロの信仰告白の記事を読む上で見落としてはならない大切なことが、最初の18節にあります。18節をもう一度読んでみます。「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、『群衆は、わたしのことを何者だと言っているか』とお尋ねになった」。ここには、主イエスが一人で祈っておられ、その傍に弟子たちが共にいた、という場面が描かれています。主イエスがしばしば祈りの時を持っておられたことはいくつかの箇所が語っています。しかしここには「一人で」祈っておられたとわざわざ語られており、しかもその周りに弟子たちが共にいたとあります。主イエスはここで弟子たちのことを覚えて、弟子たちのために一人で祈っておられたのでしょう。この祈りの後で、この祈りに導かれて、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」という問いが発せられ、それに続いて「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という決定的な問いかけがなされたのです。主イエスのこの問いかけは、思い付きのように突然なされたのではありません。主イエスは弟子たちにこのことを問うために、父なる神様に真剣に祈り、準備をなさったのです。ペトロがこの問いにあの信仰告白をもって答えることができたのは、彼自身の知恵や知識や感性によると言うよりも、主イエスのこのとりなしの祈りによってだと言うべきでしょう。ペトロの信仰告白は、主イエスご自身のとりなしの祈りによって与えられたのです。私たちにおいてもそれは同じです。「あなたはわたしを何者だと言うのか」という主イエスの問いかけの背後には、主イエスご自身の私たちのための祈りが、とりなしが、愛があるのです。主イエスご自身が私たちを、あなたこそキリスト、救い主です、という信仰告白へと導いて下さるのです。主イエスとは何者か、という問いの答えは、このようにして主イエスご自身が示し与えて下さるのです。
受難予告
21節以下には、主イエスが弟子たちに、「このことをだれにも話さないように」とお命じになったことが語られています。「このこと」とは、「主イエスとは何者か」という問いの答え、主イエスは神のキリスト、救い主であられることです。そして次の22節には、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」という、いわゆる受難の予告が語られています。マタイ、マルコ福音書においては、「誰にも話さないように」という命令と受難予告とは切り離されていて、新しい文章として受難予告が語られています。ところがルカは、この訳からも分かるようにこれを一つの文章の中で結びつけて語っています。このように語ることによってルカは、主イエスとは何者であるかという問いと、受難の予告とが切り離すことのできない関係にあることを示そうとしているのです。「人の子」とは主イエスがご自分のことを語られるお言葉です。神のキリスト、救い主であられる主イエスが、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される、そして三日目に復活すると言っておられるのです。「必ずこうなることになっている」という言い方は、「神様のご意志がそうだ」という意味です。つまり主イエスに油を注ぎ、救い主キリストとして立てた父なる神様のご意志として、主イエスが多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することが既に決定しているのです。主イエスが神のキリスト、救い主であることは、神様のご意志によるこの受難と復活によって実現するのです。つまり受難予告は、「主イエスとは何者であるか」という問いへの答えの一部なのです。ペトロは弟子たちを代表して、「主イエスこそ神のキリスト、救い主です」という信仰告白をしました。それは主イエスとは何者かという問いの正しい答えです。しかし、十分な答えではないのです。神のキリスト、救い主としてのみ業がどのようにしてなされるのか、そこまでを知らなければ、主イエスとは何者かを正しく知ったことにはなりません。主イエスは、私たちのために多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することによって、救いを実現して下さる方なのです。主イエスが神のキリストであることが分かるとは、このことが分かることなのです。主イエスがご自分こそ神のキリストであることを誰にも話すなとお命じになったのは、そのキリストが苦しみを受け、排斥されて殺されるということを伴わずに「神のキリスト」ということだけが伝わっていくと、人々が主イエスのことをかえって全く誤解してしまうことになるからです。
十字架を背負って従う
マタイ、マルコ福音書では、この受難予告の後には、ペトロが「そんなことを言ってはいけません」と主イエスを諌め、主イエスから「サタン、引き下がれ」と叱られたことが語られています。ルカはそれを語りません。それは、繰り返し申していますように、ルカの関心は「主イエスとは何者か」ということにあるからです。本日の所のペトロの信仰告白も、主イエスの受難予告も、「主イエスとは何者か」という問いを軸にして語られていることを見てきました。23節以下もそうです。23節には「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とあります。主イエスに従う者、弟子、信仰者として生きるための心構えを教えているお言葉です。それを18節以下の文脈の中で読むならば、主イエスご自身から「あなたはわたしを何者だと言うのか」と問われ、「あなたこそ神のキリスト、救い主です」と告白した者は、その救い主イエスに従い、その後について行く者となる、ということです。別の言い方をすれば、主イエスとは何者かを知るならば、私たちは、主イエスに従って生きる者となる、ということです。主イエスは、多くの苦しみを受け、排斥され、殺されることによって救い主として歩まれた、その主イエスを知った私たちは、主イエスの後について、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従っていくのです。
自分の命を救うために
それは大変なことだ、そんなこととても出来そうにない、と私たちは思います。けれども主イエスは24節で「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と言っておられます。つまり自分を捨て、十字架を背負って主イエスに従うことは、本当の意味で自分の命を救うことなのです。なぜならば、この主イエスに従って共に歩むところでこそ、私たちの全ての罪を引き受けて多くの苦しみを受け、排斥されて殺され、そして三日目に復活して下さった救い主と出会い、その救い主が私たちを愛していて下さり、私たちのためにとりなし祈っていて下さることを知ることができるからです。先週も申しましたが、主イエスに従っていくことの中でこそ私たちは、主イエスとは何者かを知ることができます。そして主イエスとは何者かを知ることによって、本当の自分として新しく生き始めることができるのです。本日の箇所に即して言えば、自分を捨て、自分の十字架を背負って主イエスに従っていくことの中でこそ、私たちのために多くの苦しみを受け、排斥されて殺され、そして三日目に復活して下さった救い主を知ることができるのです。この救い主を知ることによって私たちは、本当の自分を見出して新しく生き始めることができるのです。本当の自分を見出すとは、主イエスの十字架の死によって自分の罪が赦されていることを知り、主イエスの復活によって自分にも死に勝利する新しい命の約束が与えられていることを知ることです。この、神様の恵みによって生かされる新しい命を得ることは、自分で自分の命を救おうとしている間はできません。私たちのために十字架を背負い、苦しみを受けて死んで下さり、そして父なる神様によって復活の命を与えられた主イエス・キリストに従っていくことの中でこそそれは与えられるのです。この新しい命を得ることは、全世界を手に入れるよりも価値があることなのです。
神の国を見る
27節には「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる」とあります。あなたがたの中には、生きている間に神の国を見ることができる者がいる、という主イエスの約束、祝福の言葉です。これは通常、弟子たちが生きている間にも主イエスの再臨による世の終わりが来て、神の国が完成すると考えられていたことの現れとして読まれます。しかし必ずしもそう読まなくてもよいのです。私たちだって、生きて神の国を見ることができます。自分の思いを実現することによって命を得ようとする思いを捨て、日々自分の十字架を背負って、私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さった主イエスに従って生きる中で、私たちは、主イエスの十字架と復活によって実現している神様の恵みのご支配、神の国を確かに見るのです。本日共にあずかる聖餐も、私たちがこの世の歩みの中で神の国を垣間見、その恵みを味わう一時です。「あなたは私を何者だと言うのか」と問いかけることによって「あなたこそ神のキリスト、救い主です」という信仰告白へと私たちを導き、自分の十字架を背負って従う者として下さる主イエスは、み言葉と聖餐の恵みによって常に私たちを養い、神の国を望み見つつ生きる者として下さるのです。