「神がお与えになった力」 伝道師 宍戸ハンナ
・ 旧約聖書: イザヤ書 第33章1-6節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第4章7-11節
・ 讃美歌 : 2、475
はじめに
本日は、ペトロの手紙一第4章7節から11節までの御言葉に共に聞きたいと思います。このペトロの手紙一は、教会の歴史において、始めの頃の教会に対する迫害や弾圧が強くなりかけていたときに、ペトロが教会に連なる信仰者たちを慰め、励ますために書きました。教会に対する迫害や弾圧が強くなっておりましたので、信仰者たちも様々な形で迫害や弾圧を受けておりました。迫害や弾圧を受けると言う苦難の中に信仰者たちは置かれてありました。
終わりが迫っている
苦難の中にある信仰者たちに対して、ペトロは「万物の終わりが迫っています」と語ります。「万物」とはこの天と地にあるすべてのことを指しており、この世の中にあるすべてのものに終わりが迫っていると語ります。すべてのものの終わりの時が迫っている、それはとても恐ろしいことを語っているように思われます。けれどもこの終わりの時とは、主イエス・キリストがもう一度来てくださる時ということです。キリスト教会は主イエスが再び来られる日を待つ信仰によって歩んでおりました。ヨハネの黙示録22章20節において主イエスはこのように言われました。「然り、わたしはすぐに来る。」。そしてその直後に、「アーメン、主イエスよ、来てください」とあります。これは、主イエスの約束に対する、世々の教会の答えであると言えます。主イエスが再び来られること、再臨されることを待ち望むのが教会の信仰であります。教会は始めから主イエス・キリストが再び来られるという信仰に生きておりました。ペトロが手紙を書いた教会も主イエスが再び来られるのを待ち望んでおりました。けれどもそれからすでに約2000年が経ちました。私たちは2000年経った今なお、主イエス・キリストを待ち望む信仰に生きているのです。けれども、神様の御子である主イエス・キリスが再び来られるその日は、神様によって定められており、近づいていることは確かです。私たちにはその日がいつであるかは示されていませんが、主の御言葉を信じて、その日に備えることが求められているのです。
その日に備える
主イエス・キリストが再び来られる日に備えるとはどのようなことでしょうか。7節の後半から9節において記してあります。「だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。」と勧められております。万物の終わり、主イエス・キリストが再び来られる時が迫っているから、その時に備えなさい、とペトロは勧めます。2つのことを勧めています。「祈ること」と「愛し合うこと」です。これらの事柄が主イエス・キリストが再び来られるその時までに求められている備えであると言えます。
祈り、愛し合う
祈ることについては、どのように教えているでしょうか。祈りは信仰者にとって神様との対話であります。神様とどう向き合うか、どう祈るか示しております。「思慮深く振る舞い、身を慎んで、よく祈りなさい。」と勧めます。思慮深くとは、「正しい感覚を保って・自己制御して」と言った意味を含む言葉です。つまり神様に祈り求める時に、ただ熱心に信じて祈れば良いのではなく、自分の置かれた場所、立場、状況を冷静に判断し、何が求められているのか、何を行うべきなのかを客観的に判断しつつ、神様に祈り求めるのです。感情的にただ祈る、自分の一方的な願いを祈ることを神様は求めておられるのではありません。身を慎むことにおいては、自分の願いではなく、神様が今求めておられることを冷静に聞く、謙遜さが求められています。私たちの信じる神様は私たちを救いに導くお方であり、その方に全面的に信頼し委ねて祈ることを勧めているのです。
ペトロは主イエス・キリストが再び来られるその時までの備えとして「祈ること」と「心を込めて愛し合う」ことを勧めています。祈りは神様との対話であります。そして「愛し合うこと」を勧めています。これは他者との関係において愛し合うことを勧めています。主イエスはある律法の専門家が「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」という問いに対してこのようにお答えになりました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」とまず神様を愛することが最も重要な掟であると言います。私たちはまず、神様との関係を大事にすること、神様を愛すること、祈りをささげることを求められます。そして、主イエスは「隣人を自分のように愛しなさい。」と言います。まず神様のとの関係があり、隣人との関係があることを示しています。神様に対して祈ること、そして「心を込めて愛し合う」ことが勧められます。神様のとの関係があるところに、私たちの隣人との関係が成り立つのです。神様との関係があり、そして隣人を愛して助け合うことが勧められています。
けれども、主イエスはそうお教えになっているけれどもそう簡単に愛することなどできないのが私たちの姿ではないでしょうか。自分の調子が良いとき、自分へ良いことをしてくれるときなどはその相手を愛するのは簡単です。けれども、自分に対して良くないことをする相手をそう簡単に愛するなどと言えるでしょうか。ペトロが手紙を書き送った教会は迫害や弾圧を受けておりました。苦しみの中にある時、余裕がなくなり、自分のことで精一杯になってしまいます。自分のことしか考えられなとき、自分のことしか見えない時に隣人を忘れ、神様を忘れてしまいます。小さなことでも隣人に対して不平や不満を語り、仲違いしたりしてしまいます。そのような中で祈ることは、まさに余裕のない、焦りの中を生活する私たちに心のゆとりを与えます。神様の御前に心を静め、祈り求める時、神様との対話に入れられます。神様との対話、神様との関係において、隣人との愛の関係に生きるようになります。
愛は罪を覆う
そしてペトロは「愛は多くの罪を覆うからです」と語ります。愛は多くの罪を覆うとはどういうことでしょうか。「覆う」ことは「ゆるす」ことと同じ意味に用いられる言葉であります。コリントの信徒への手紙一の第13章は「愛」について語っております。愛とはどのようなものかと語っております。13章7節にこうあります。「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」愛とはそのように、罪をゆるすものであります。愛は忍び、信じ、望み、耐えることであります。愛する者は、他者の罪を認めても、それを責めたり咎めたりせず、包んで赦すということです。相手の罪や過失を認めても、それをことさらに暴いたり吹聴せず、出来るだけ包み、赦すということです。それが「愛は多くの罪を覆う」と言う意味であります。そして「不平を言わずにもてなし合いなさい。」と勧めます。愛によって仕えあう、愛し合うこと、もてなしあうことをペトロは繰り返し勧めるのです。
仕えあう
ペトロが手紙を送った頃の教会、歴史の始めにおける教会も信仰生活に入ると同時にその共同体の一員となりました。それは、精神的にも物質的な面においても助け合う交わりの中にあったということです。その際、人々が交わりの具体的な方法としたのは「互いにもてなし合う」ということでした。互いに訪ね合い、もてなし合うことによって、主にある交わりを深めていたのです。ここで勧められているのもそのような「もてなし合い」であります。そして「もてなし合う」ことを同様に大切なことは「互いに仕え合う」ことであります。互いにもてなし合うこと、互いに仕え合うことが勧められています。
10節において、「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」とあります。まず、それぞれが賜物を頂いている、ということです。それぞれが、神様から賜物を授かっている、与えられているのです。この賜物とは英語ではGift、プレゼントと現すことができます。また、この賜物は「恵み」という言葉から出た言葉であります。神様から賜るギフト、神様から与えられる恵みです。そのような賜物、様々な恵みの良い管理者として賜物を生かし互いに仕え合いなさいとあります。賜物は神様からの恵みである。自分の体も、自分の人生も自分のものではなく、神様から与えられている恵みであるのです。神様から与えられている賜物が私たちには簡単には分からないということがあります。でもそれは神様の御計画に従って与えられております。ですから、自分に与えられている賜物を神様の御業のために用いなければならないのです。
ここではその賜物として、「語る者」と「奉仕をする人」とが挙げられております。「語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。」と勧めております。私たちには様々な賜物を与えられております。それぞれの賜物に応じて、神様がお与え下さった力に応じて奉仕をしなさい、と勧められております。信仰をもって与えられているもの、与えられている生活の場、それぞれの事情、それらすべてのことが神様からの賜物であります。そしてそのように信じるときにそれらを神様の御業のために用いることができるのです。高慢にならず謙遜に、与えられた場所で与えられた奉仕に励むことができるのです。与えられた場所で、与えられた奉仕に励む人が良き管理人です。神様の賜物の管理人であります。賜物を神様からの恵みであると知っている、信じることが大切であります。賜物を頂く値打ちもない自分にそれが与えられていると感謝して生きるのです。神様の宝物を預かっている管理人のような思いで賜物を用いて、神様と隣人のために奉仕をする、のです。自分の利益のみを考えたら不平も不満も出ます。けれども神様から恵みとして賜物が与えられていることを信じ、それを隣人のために用いるとき、私たちは賜物を正しく管理することとなるのです。与えられたものを用いて神様の御業のために奉仕をする。神様の恵みの賜物を神様の御業のために用いていただくのです。そのときに、私たちの小さな手の業が、罪人である人間の奉仕が神様によって整えられていくのです。人間の業を通して、神様の御業、神様の恵みが現わされていくのであります。
人に仕えるということは簡単なことではありません。自分は愛を持って人に仕えたつもりでも、相手が必ずしも自分の予想通りの反応を示してくれるとは限りません。必ずしも喜んでくれるとは限りません。思いもかけない反応が返ってくることもあります。本当に仕えることと言うのは難しいものです。人に親切にして良かったと思うよりは、いやな思いが残ってもう二度親切にするものかと思う経験とは誰にでもあるのではないでしょうか。仕えるとはそのようなことなのではないでしょうか。だからこそ、神様からの力を与えられなければできないのです。神様から与えられた賜物、恵みを管理することの目的は自分の利益のためではなく、ただ神様のためであります。
主の到来
神様はこの地上に最大の賜物、最良のギフト、恵みを与えられました。それはもちろん、神様の独り子である主イエス・キリストです。私たちはそのお方を待ち望むアドヴェントを過ごしております。主イエス・キリストはこの地上に来られました。人々に神の国を福音を宣べ伝えました。様々な奇跡を行いました。この世に救い主が与えられたのであります。けれども、私たちはそのお方を感謝して受け取ることができず、十字架へとつけてしまったのです。けれども主イエス・キリストはそのような人間の罪に屈服することなく、復活されました。主イエス・キリストは死の力より復活され、死の力より勝利をされ、人間の罪の覆う愛を示して下さりました。弟子たちの前に現れ、そして天へと昇られました。その主イエス・キリストが「然り、わたしはすぐに来る。」と約束して下さったのです。私たちは地上においてそのお方を待ち望む歩みをしております。天におられる主イエス・キリストは賜物として、聖霊を注ぎ、地上に教会を建て、そこに集う人々に様々な賜物を与え、それを用いて行う奉仕の業を与えて下さいました。
神様の恵みの賜物の良い管理者として、それぞれの務めに励むときに私たち人間の小さな業を神様が用いて下さるのです。神様がお与え下さっているそれぞれ異なった賜物を互いに持ち寄り、助け合うことにより、教会が建て上げられていくのです。それぞれが異なった賜物を持ち寄ることによってこそ、キリストの体なる教会に仕えることが出来るのではないでしょうか。私たち信仰者は、主イエス・キリストがこの世に来られたこと、そしてこの世の終わりに再び来られることを希望を持って待ち望むのです。私たちはその時まで、神様によく祈り、隣人と心を込めて愛し合いつつ歩むのです。