「苦しみに勝利するとは」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編第42編1-43編5節
・ 新約聖書:マルコによる福音書第14章32-42節
・ 讃美歌:151、469、530、75
主イエスの苦しみ
主イエス・キリストが捕えられる直前に、オリーブ山の麓のゲツセマネという所で祈った、その場面を本日はご一緒に読みます。主イエスと弟子たちが最後の晩餐を終え、エルサレム市街を出てオリーブ山へと向かったのはもう夜更けでした。本日の箇所の最後の42節に、「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」とあり、主イエスを裏切ったユダに手引きされた人々がこの後やって来て主イエスは逮捕されます。夜が明けてから裁判が行われ、その日の内に主イエスは十字架につけられて殺されるのです。この苦しみと死を目前にして主イエスはゲツセマネという所で祈られました。それはどのような祈りだったのでしょうか。33、34節にこうあります。「そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい』」。主イエスはひどく恐れてもだえ苦しみ、「わたしは死ぬばかりに悲しい」とおっしゃったのです。そして三人の弟子たちに「ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言って、35節にあるように、少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈ったのです。「この苦しみの時」というのは、これから捕えられ、裁かれ、虐待を受け、十字架につけられて殺される、その苦しみの時です。主イエスはご自分がどのようにして殺されようとしているのかをはっきり知っておられました。父なる神様がそのために自分をこの世にお遣わしになったこと、ご自分の使命は十字架にかけられて死ぬことなのだということをはっきりと意識しておられたのです。そのことは主イエスが既に三度に亘って弟子たちにご自分の受難を予告なさったことからも分かるし、最後の晩餐においても主イエスは、これが弟子たちとの地上における最後の食事であることを意識しておられました。ユダが裏切ろうとしていること、ペトロを始めとする弟子たちが皆逃げ去ってしまうことも予告しておられたのです。そのように主イエスは全てを知りつつご自分から十字架の死への道を決然として歩んでおられます。そのような主イエスのお姿を見ると私たちはともすれば、神の子である主イエスにとっては、捕えられ、十字架につけられて殺されることも平気だったのではないか、三日目に復活することを知っておられ予告しておられたくらいだから、十字架の死をそんなに恐れたり悲しんだりすることはなかったのではないか、などと考えてしまうかもしれません。しかしこのゲツセマネでの祈りは、そうではないことを示しています。主イエスにとっても十字架の死はやはり大きな苦しみであり、できることなら過ぎ去って欲しい、つまり起って欲しくないことだったのです。
わたしは死ぬばかりに悲しい
「わたしは死ぬばかりに悲しい」と主はおっしゃいました。これは直訳すると「わたしの魂は死ぬほどに悲しんでいる」となります。そこには、先程共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編42、43編の言葉の影響があります。詩編の42編と43編はもともと一つの詩だったと考えられています。それは42編の6、7節と12節、そして43編の5節に同じ言葉の繰り返しがあるからです。ですからこれは三つの繰り返し部分を持つ一つの詩だったと考えられるのです。その繰り返し部分の最初の言葉「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ」、これが本日の箇所の主イエスのお言葉に影響を与えています。主イエスの言われた「悲しい」という言葉は、当時のギリシャ語訳旧約聖書における詩編のこの箇所で「うなだれる」という言葉に当てられた訳語と同じなのです。主イエスはこの詩編の言葉を意識しながら、「わたしの魂は死ぬほどにうなだれる」とおっしゃったのです。詩編42、43編には、魂がうなだれ、呻くような苦しみが歌われています。それがどのような苦しみだったのかは42編2節にこう言い表されています。「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める」。鹿が水を求めて谷に降りて来たけれども、川は涸れてしまっていて水がないのです。その鹿のように、神を求めるけれども神は答えて下さらない、という魂の渇きにこの詩人は苦しんでいるのです。3、4節にはこうあります。「神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て神の顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人を絶え間なく言う『お前の神はどこにいる』と」。また10、11節にも「わたしの岩、わたしの神に言おう。『なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ、嘆きつつ歩くのか。』わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き、絶え間なく嘲って言う『お前の神はどこにいる』と」とあり、43編2節にも「あなたはわたしの神、わたしの砦。なぜ、わたしを見放されたのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ、嘆きつつ行き来するのか。」とあります。詩人は神様に忘れ去られ、見捨てられてしまったという苦しみを覚えているのです。そういう状況の中で、人々から「お前の神はどこにいる。どこにもいないではないか。助けてくれないではないか」と嘲られているのです。これはただつらいこと、苦しいことがある、という以上に大きな、深刻な苦しみであると言えるでしょう。主イエスはこの詩人のそういう苦しみにご自分の苦しみを重ね合わせて、「わたしは死ぬばかりに悲しい」とおっしゃったのです。
私たちの苦しみと主イエスの苦しみ
この詩編の詩人の苦しみ悲しみは私たちにも身近なものです。神様の救いや助けを求め、願っているのだけれども、それが与えられないという飢え渇きを私たちも覚えることがあります。その飢え渇きの中で私たちは、神様は自分の罪をお赦しにならず、もう自分のことなど見捨ててしまわれたのではないか、という疑いに苦しめられます。そして「お前の信じている神はどこにいる。助けてくれないではないか。神を信じていても何の役にも立たないではないか」という声が、周囲の人々からというよりも、より深刻には自分自身の心の中から起って来て私たちを苦しめるのです。信仰をもって生きようとする時に私たちはしばしばそのような苦しみ悲しみに直面します。主イエスはここで、十字架の死へと向かうご自身の苦しみを、詩編の詩人の苦しみに重ね合わせて下さいました。それによって、私たちの苦しみをも、ご自分の苦しみと重ね合わせて下さったのです。神様は罪人である自分を見捨ててしまったのではないか、自分が神を信じても無意味なのではないか、そういう私たちの苦しみと、十字架の死へと向かうご自分の苦しみを重ね合わせ、それを共に背負って下さったのです。 そのように主イエスはここで私たちの苦しみ悲しみをご自分の苦しみ悲しみとして引き受け、それを私たちと共に背負って下さったのですが、しかしそのように考える時にかえって見えてくるのは、主イエスがここで味わっておられる苦しみと私たちの受けている苦しみとは意味が違う、ということです。私たちの苦しみ悲しみは大抵の場合自分自身に原因の多くが、あるいは一部があります。特に人間関係における苦しみ悲しみは、たとえ自分にいろいろ言い分があるとしても、やはりお互いに原因があるのであって、相手だけが一方的に悪いということはめったにないでしょう。私たちの苦しみ悲しみは、多かれ少なかれ、私たち自身から生じているのであって、私たちは自分の罪によって生じた苦しみを苦しんでいるのです。神様ではなく自分を主人として生きており、神様をも隣人をも自分の思いにかなう限りにおいてしか愛することができず、自分の意に添わなければ神様からそっぽを向き、また自分を守るためには人を攻撃し傷つけてしまうことも平気でする、そういう罪の中にいる私たちは確かに、神様に見捨てられてしまっても仕方がない罪人です。しかし主イエスの苦しみは、ご自身の罪によることではありません。主イエスは私たちの全ての罪を背負って、私たちに代って苦しみを受けて下さったのです。十字架につけられ、神に見捨てられて滅ぼされなければならない私たちのために、罪に対する神様の怒りによる裁きを引き受けて下さって、神様に見捨てられる苦しみを受けて下さったのです。つまり主イエスは、私たちの罪のゆえの苦しみを、当の私たち以上に深く苦しんで下さったのです。「わたしは死ぬばかりに悲しい」とおっしゃった主イエスが悲しんでおられたのは、私たちの罪だったのです。
選ばれた三人の弟子
実は私たちのためである深い苦しみの中で主イエスは祈られました。そしてその祈りに、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子を伴われました。この三人は、主イエスが常にご自分の側に置き、大事な場面にいつも伴われた人々でした。第5章には、会堂長ヤイロの死んでしまった娘を主イエスが生き返らせた奇跡が語られていますが、そこで、その奇跡を直接目撃することを許されたのは、両親とこの三人の弟子たちだけでした。また第9章にある、山の上で主イエスのお姿が栄光に輝く姿に変わり、そこにモーセとエリヤが現れて主イエスと語り合ったという話においても、その栄光のお姿を目撃したのはこの三人のみです。本日のこのゲツセマネの祈りにおいても、この三人が共にいることを主イエスは望まれたのです。そのことの意味はこの説教の最後に考えたいと思います。 主は彼らに「ここを離れず、目を覚ましていなさい」とおっしゃいました。つまり主イエスの苦しみの中での祈りの傍らで見守り、支えてほしい、ということです。三人の弟子は、主イエスの苦しみの時にその傍らに共にいて、主イエスを支えるために選び出されたのです。その主イエスの苦しみは、今申しましたように、彼らをも含めた私たち全ての者たちの罪のゆえの苦しみです。自分の罪のゆえに苦しんでおられる主イエスの傍らで、主をお支えするために目を覚ましていることを彼らは求められたのです。
神の子としての祈り
主イエスの祈りの言葉は36節にあります。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。主イエスは神様に「アッバ、父よ」と呼びかけておられます。アッバというのは、小さい子供が父親を呼ぶ、ごく親しい言葉です。主イエスはいつもその言葉で父なる神様に語りかけ、祈っておられました。神に見捨てられた苦しみの中でのこのゲツセマネの祈りにおいても、この呼びかけがなされていることが重要です。主イエスは、罪によって神様に見捨てられ滅びるしかない私たちの苦しみ悲しみを引き受け、私たち以上にその苦しみを味わいつつ、なおそこで神の独り子として父なる神に親しく呼びかける関係を保っておられるのです。その呼びかけに続く主イエスの祈りの言葉にも、父なる神様と主イエスとの関係がはっきりと表されています。「あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。この杯、つまり主イエスが直面している十字架の死の苦しみを、父なる神様は何でもできる力によって取りのけることができるのです。主イエスを十字架の死から助け出すことができるのです。そのことを主イエスは知っておられ、信じておられます。そしてご自分の願いとしては、この苦しみの杯を取りのけてもらいたいのです。主イエスにとってもそれを飲むことはこの上なくつらく苦しいことなのです。しかし主イエスは同時に、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られました。自分の願うことではなく父なる神様の御心に適うことこそが最も良いことなのであって、たとえ自分にとってそれが苦しみの極みであっても、その御心を受け入れ、それに従うという、父なる神様への深い信頼の祈りです。主イエスと父なる神様との間には、この苦しみの極まりの中でも、このような信頼関係、絆があったのです。主イエスはこの祈りによって、死ぬほどの苦しみ悲しみの中で、父なる神様への信頼を言い表されました。そこにこの祈りの大きな意味があります。このゲツセマネの祈りは、神様に見捨てられて滅びていくしかない私たち罪人のところに、神の独り子である主イエスが降りて来て下さり、私たちの苦しみ悲しみを私たち以上に深く味わい、それを背負って下さり、その苦しみ悲しみ絶望の中に、神の子としての父なる神様への信頼の祈りをもたらして下さった、そういう祈りなのです。
苦しみに打ち勝つ道
この祈りには、苦しみに打ち勝つとはどういうことなのかが示されています。苦しみに真実に打ち勝つことは、苦しみの原因になっていることを取り除くことによってではなくて、深い苦しみの現実の中でこのような祈りを祈るところにこそ実現するのです。つまり、苦しみの中で、神様を父と呼ぶ関係、交わりが確立することこそが苦しみに打ち勝つことなのです。苦しんでいる私たちが、その苦しみの中で「アッバ、父よ」と呼んで神様に祈るならば、また「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈るならば、つまり「天にまします我らの父よ」と呼びかけ、「み心の天に成るごとく地にもなさせたまえ」と祈る「主の祈り」を祈るならば、そこに、苦しみへの勝利の道が開けていくのです。主イエスが教えて下さった「主の祈り」を心から祈りつつ歩む者は、苦しみに押しつぶされ、滅ぼされてしまうことはないのです。主イエスが私たちの苦しみにご自分の苦しみを重ね合わせて下さったように、私たちも主イエスの祈りに自分の祈りを重ね合わせて、苦しみの中でも神様を父と呼び、その御心が成ることをこそ求める者となることによって、私たちは苦しみに打ち勝つ者とされていくのです。主イエスはそういう祈りを私たちに与えるために、このゲツセマネの祈りを祈られたのだと言うこともできるでしょう。 この主イエスの苦しみの中での祈りを目を覚まして見守りお支えすることを、ペトロら三人の弟子たちは求められていました。目を覚ましているとは、38節で主イエスが言っておられるように、祈っていることです。共に祈っていることによって主イエスをお支えすることを弟子たちは期待されていたのです。ところが彼らは眠り込んでしまいました。主イエスが、自分たちの罪のゆえの苦しみを背負い、その苦しみの中で祈っておられるのに、その祈りに心を合わせて祈っていることができずに眠り込んでしまい、祈りを失ってしまう、それが私たちの姿です。そこに、私たちのどうしようもない弱さがあります。そのように祈りを失い眠り込んでしまう時に、私たちは苦しみに打ち勝つことができなくなり、それに負けて絶望に陥ってしまうのです。
心は燃えても、肉体は弱い
眠っている弟子たちを御覧になった主イエスは「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」とおっしゃいました。心では、目を覚まして主イエスと共に自分も祈り続けようと思う、しかし肉体の弱さが心を裏切り、祈りを失ってしまうのです。そして肉体の弱さに捕えられると、肉体だけでなく心も共に弱くなってしまいます。祈り続けようという信仰自体が失われていってしまうのです。私たちの心と肉体はそのように分ち難く結び合っています。だから信仰も、心だけで維持できるものではありません。私たちは、心だけでなく肉体においても、神様と共に歩むことが大事なのです。そのために毎週の礼拝があると言うことができます。また本日共にあずかる聖餐の意味もそこにあります。肉体をもって礼拝に集い、心と体の全体で神様を礼拝し、主イエスの十字架の死による救いを肉体において味わう聖餐にあずかることによって信仰を養われていくことの中でこそ、私たちは目を覚まして祈っている者となることができるのです。
祈りを失う私たち
しかし三人の弟子たちは再び眠り込んでしまいました。祈りから再び戻って来られた主イエスは彼らがまた眠ってしまっているのを御覧になりました。40節には、「ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった」とあります。福音書を書いたマルコが「ひどく眠かったのである」と彼らのために言い訳を語っています。しかし主イエスが自分のために苦しんでおられるのに眠り込んでしまったことにどんな言い訳も通用しません。「彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった」、まさに何も言い訳ができなかったのです。これは彼らの信仰における挫折です。主イエスは黙って三度目の祈りに向かわれます。そして三度目に戻ってみると、弟子たちはやはり眠っていたのです。このように、主イエスが苦しみの中で祈っておられる間、弟子たちは三度眠り込んでしまいました。この三度は、この後ペトロが三度主イエスを知らないと言うことをも思い起こさせます。三度とは「徹底的に」ということです。主イエスの苦しみの中での祈りを、共に祈ることでお支えするという信仰の課題に、弟子たちは徹底的に失敗したのです。それはこの三人の弟子たちだけのことではありません。彼らの姿はそのまま私たち自身の姿です。
主イエスの祈りに支えられて
三度目に戻って来られた主イエスはこうおっしゃいました。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される」。このお言葉は何を語っているのでしょうか。以前の口語訳聖書ではここは「まだ眠っているのか、休んでいるのか。もうそれでよかろう」となっていました。この訳は明らかに、眠っている弟子たちに対する叱責の言葉、あるいは「あきれた、こいつらはもうどうしようもない」と諦めたような響きになっています。しかし原文は「眠っているのか、休んでいるのか」という疑問文ではなくて、この新共同訳のように普通の文なのです。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい」。それは弟子たちへの叱責ではないだろうと思います。その後には「時が来た」とあります。それは主イエスが捕えられ、十字架につけられる時が来た、ということです。そうなれば弟子たちはもう眠っていることはできません。彼らはあわてふためき、そして結局みんな主イエスを置いて逃げてしまうのです。あるいは主イエスを知らないと言ってしまうのです。その時が来るまでの今しばらくの間、弟子たちは眠り込んでいる、主イエスはそのことを咎めておられると言うよりも、ある同情をもって彼らを見つめて下さっているのではないでしょうか。「休んでいる」という言葉にそれが感じられます。心は燃えても肉体が弱いあなたがたは、疲れ果てて眠っている、休んでいる、それは彼らの信仰における弱さと挫折を、責めるのではなく同情をもって見つめて下さっている言葉です。弟子たちの、そして私たちの、弱さと挫折の現実のただ中で、主イエスはお一人で、彼らのために、そして私たちのために、死ぬほどの苦しみ悲しみを背負い、その中で祈り続けて下さったのです。信仰において眠り込み、祈りを失い、挫折していく私たちを、主イエスの祈りが、死ぬほどの悲しみの中でなお父なる神に深く信頼し、その御心こそが成るようにと祈って下さったその祈りが、支えて下さっているのです。この主イエスのゲツセマネの祈りに支えられているがゆえに私たちは、すぐに眠り込んでしまい、祈りを失い、それゆえに苦しみに打ち負かされてしまう者ですけれども、なお神様の下に留まり、主イエスの祈りに導かれて、「アッバ、父よ」、「天にまします我らの父よ」と新たに祈っていくことができるのです。だから眠り込んでしまっていい、ということではありません。しかし眠り込んでしまう私たちを、主イエスのゲツセマネの祈りが、しっかりと支えて下さっている。苦しみに勝利することへの道は、そこにこそ開かれているのです。 三人の弟子たちはこのことを体験するために選ばれたのでしょう。彼らは主イエスが死者を復活させた奇跡に立ち会い、主イエスの栄光のお姿を見る体験を与えられました。その彼らは、このゲツセマネにおいて、主を支えるために目を覚ましていることができない自分たちの弱さと挫折をも体験し、しかしそのような罪人である自分たちのために主イエスが祈り、支えて下さっていることを体験したのです。そのようにして彼らは、苦しみに勝利する道を歩む者とされ、主イエスによる救いを宣べ伝えていく者とされていったのです。