主日礼拝

あなたの罪は赦される

「あなたの罪は赦される」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第103編1―13節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第2章1―12節
・ 讃美歌:16、149、442

 再びカファルナウムへ
 主イエスは再びカファルナウムの町に来られました。カファルナウムはガリラヤ湖畔の町であり、主イエスの最初の弟子となったシモン・ペトロとアンデレ兄弟の家がありました。1章の21節以下に、主イエスが最初にこの町に来られた時のことが語られています。主イエスはある安息日に、この町の会堂で教え、そこにいた、汚れた霊に取りつかれた男から霊を追い出したのです。また会堂を出てシモンとアンデレの家に入った主イエスは、シモンのしゅうとめの病気をも癒されました。それらのことを聞いたカファルナウムの人々は、病気の人、悪霊に取りつかれている人々を大勢連れて来ました。主イエスはそれらの人々を癒しましたが、翌日は朝早くに町を出て、他の町へと向かわれたのです。その主イエスが、しばらくして再びカファルナウムに来られたというのが本日の第2章の最初の所です。おそらく再びシモンの家に入られたのでしょう。主イエスがまた来られたことはすぐに知れ渡り、大勢の人々がこの家に集まって来ました。おそらく、主イエスが最初に来られた時には時間がなくて癒してもらえなかった病人や悪霊に取りつかれた人たちやその家族が、癒しを求めて押し寄せて来たのでしょう。イエスという人と、その行う癒しの奇跡をじかに見たいと思った人たちも来たのでしょう。それらの人々で家は戸口の辺りまで隙間もないほどになった、と2節にあります。

御言葉を語る主イエス
 それらの人々を前にして、主イエスは何をしておられたのでしょうか。2節の後半には「イエスが御言葉を語っておられると」とあります。主イエスは彼らに教えを語っておられたのです。彼らの多くは、癒しの奇跡を求めて、あるいは奇跡を見たいと願って来たのだと思われます。しかしその人々に対して主イエスが先ずなさったのは、御言葉を語ること、教えることだったのです。それは前回この町の会堂でなさったのと同じことです。安息日の集会、礼拝において主イエスは教えを語ったのです。するとそこにいた悪霊に取りつかれた男が叫び始めたので、その人から悪霊を追い出す奇跡が行なわれたのです。主イエスの活動の中心はいつもこの「御言葉を語る」ことでした。それに付随して癒しの奇跡が行なわれたのです。そのことは39節に「ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」とあったことにも示されています。先ず「宣教」がなされ、それに伴って「悪霊を追い出す」奇跡がなされたのです。
 主イエスはどのような御言葉を語っておられたのでしょうか。その内容を簡潔にまとめたのが、1章15節の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です。主イエスがガリラヤ中の会堂で宣教しておられたのはこの教えでした。本日の箇所において、家に集まった人々を前にして語っておられたのもこの教えです。そして実はこの日に起った出来事は、この教えと深く結びついているのです。そのことをこれからご一緒に見ていきたいと思います。この日の出来事は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という教えの光の中でこそ正しく理解することができるのです。

四人の男たちの行動
 さて、戸口まで隙間もないほどに人で溢れている家の中で主イエスが教えておられたところへ、四人の男が中風の人を運んで来ました。自分で歩くことのできない病気の人を、四人の友人たちが、床に寝かせたまま連れて来たのです。勿論、主イエスにこの人を癒してもらおうとしてです。しかし4節にあるように、群衆に阻まれて、主イエスのもとにこの病人を連れて行くことができませんでした。すると彼らは、まことに大胆な、また非常識なことをしたのです。4節後半に「イエスのおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」とあります。当時のこの辺りの家の屋根は平らで、しかも外側に階段があって、簡単に屋上に昇ることができたのです。そして屋根も、木の枝と泥で作られていますから、穴を明けることは比較的簡単です。彼らは、イエスのおられるのはこの辺りだろうと見当をつけて、屋根に穴を明けたのです。このことを、家の中にいた者の立場に立って想像してみたいと思います。主イエスの話を聞いていると、突然天井からパラパラと泥が落ちてきて、そのうちそこにボコッと穴があき、空が見えるようになったのです。その穴が人の手でどんどん広げられていきました。天井の破片がバラバラと落ちてきたでしょう。そしてそのうち、病人を寝かせた床が、四隅を吊るされて降ろされてきたのです。
 これは当時の人々にとっても全く非常識な、まことに大胆な行動です。人の家の屋根を勝手に壊して人を中へ吊り下げるなんて、許されることではないのです。普通なら、戸口の外で、主イエスの話が終って人々が帰るのを待つでしょう。その後で主イエスに癒しをお願いするというのが常識的な行動です。しかしこの四人の人々はそういう常識に従わず、屋根を壊して病人を主イエスの前に吊り下げたのです。つまり、集会が終るのを待ってはいなかった、待っていられなかったのです。それは何故でしょうか。この人の病気が一刻を争うもので、そうしないと命に係わるような状態だったわけではありません。彼らは、病気の緊急性とは別の緊急性を感じていたのです。それはどういう緊急性でしょうか。それは先ほどの主イエスの教えの、「時は満ち、神の国は近づいた」というみ言葉によって示された緊急性ではないでしょうか。

時は満ち、神の国は近づいた
 「時は満ちた」とは、いよいよ時が迫っているということです。何の時が迫っているのかというと、神の国、つまり神様のご支配が完成する時です。旧約聖書以来の信仰の伝統に生きている彼らユダヤ人たちにとってそれは救いの完成の時でもあります。待ちに待った救いの時がいよいよ満ちた、と主イエスはお語りになったのです。それは同時に、その時を逃してはならない、満ちている時にしっかり対応して、チャンスをつかみ、神の国、神様の恵みのご支配、つまり救いにあずからなければならない、ぐずぐずしていてはならない、迷っている暇はない、という勧めでもあります。「時は満ち、神の国は近づいた」という主イエスの教えは、緊急事態の宣言でもあるのです。喩えは悪いですが、津波警報と似ていると言えるかもしれません。それを聞いたならば、すぐに行動を起こす必要があるのです。「そのうちに」などとのんびり構えている場合ではないのです。この四人の人々の大胆な、非常識な、そしてせっかちな行動は、「時は満ち、神の国は近づいた」という主イエスの緊急事態宣言への応答なのです。

その人たちの信仰を見て
 5節に、「イエスはその人たちの信仰を見て」とあることも、それを裏付けています。主イエスは彼らの大胆な、非常識な、せっかちな行動に、彼らの信仰をご覧になったのです。その「信仰」とは何か。友人の病気を主イエスに癒していただきたいという切なる願いのことか、主イエスならそれがおできになるという確信か、また人の家の屋根を壊してでも友人を主イエスのもとに連れて行こうとする熱心さか、いろいろに考えることができますが、その根本にあるのは、彼らが、「時は満ち、神の国は近づいた」という主イエスの教えに誰よりもはっきりと具体的に、切迫感をもって応答した、ということではないでしょうか。主イエスにおいて、神の時、救いの時が満ちている、それが私たちに近づいている、彼らはそのことを真剣に受け止めたのです。だから今そのチャンスを何としても捉えなければならない、そのためには、世間の常識やお行儀になど構っておれない、そう思って行動したのです。神の国の到来に対して彼らが感じている切迫感をこそ主イエスは、彼らの「信仰」と見ておられるのです。

罪の悔い改め
 彼らの「信仰」を見た主イエスは、床に乗せられて吊り降ろされてきた中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」とおっしゃいました。この主イエスのお言葉は、この病人自身にとっても、四人の友人たちにとっても、またこの家に集まっている多くの人々にとっても、期待外れだったのではないでしょうか。彼らは病気の癒しを求めてやって来たのです。苦しみや悲しみからの解放を主イエスに期待しているのです。そういう思いや期待からすると、「あなたの罪は赦される」というのは、願い求めていることと違う、肩すかしをくらったような言葉に感じたかもしれません。私たちもそういう思いを抱くのではないでしょうか。しかしこのお言葉は、主イエスがあの教えにおいて、「時は満ち、神の国は近づいた」に続いて、「悔い改めて福音を信じなさい」と語られたこととぴったりと一致しています。神のご支配による救いの時が今や満ちた、という宣言に基づいて主イエスが人々に求めたのは「悔い改め」でした。悔い改めは、自分の罪を認めることから始まります。その罪というのは、法律にふれるような、あるいは倫理的道徳的に悪い行いのことではなくて、もっと奥深いところでの、神様との関係における事柄です。私たちが、神様と良い関係を持っていない、神様が自分を愛して下さっていることを見失っており、その結果神様を軽んじ、従おうとせず、自分が主人になって、自分の力で人生をどうにかしようとしている、それが罪なのです。神様との関係における罪は、人間どうしの関係においても現れてきます。私たちが隣人と良い関係を築くことができず、自分中心となり、人を愛し生かすよりもむしろ憎んだり傷つけたりしてしまうことが多いのは、神様との良い関係を失っているからです。神様との関係において喜んで生きていない者は、自分自身を喜ぶこともできず、隣人との関係においても喜んで生きることもできないのです。私たちの様々な苦しみ悲しみの根本にはこの罪があります。それが解決されることなくして、苦しみ悲しみからの本当の解放はないのです。それゆえにこそ主イエスは、病の癒しや、悪霊からの解放を求めて集まって来た人々に悔い改めを求めたのです。自分の根本的な問題が罪であることを見つめ、悔い改めるところにこそ、苦しみや悲しみを本当に克服していく道が開かれるからです。

あなたの罪は赦される
 しかしその悔い改めは、自分で自分の罪を悔い、反省して、二度と罪を犯さない者になる、あるいはそのように努力する、ということではありません。悔い改めと反省は違うのです。反省は自分一人ですることです。しかし悔い改めは、神様との関係を回復されることですから、相手があります。関係の回復は神様によってこそ与えられるのです。それが「罪の赦し」です。神様が私たちの罪を赦して下さり、私たちともう一度良い関係を結んで下さるのです。主イエスがお語りになった「子よ、あなたの罪は赦される」というお言葉はそのことを告げています。そしてそれはあの主イエスの教えの言葉の後半、「悔い改めて福音を信じなさい」が告げているのと同じことです。福音とは、神様が私たちの罪を赦して下さり、良い関係を新たに結んで下さるという喜ばしい知らせです。この喜ばしい知らせを信じて、その恵みに身を委ねることこそが悔い改めることなのです。そのことによってこそ、いよいよ近づいている神の国、神が与えて下さる救いにあずかることができるのです。救いの時が満ちた、という主イエスのお言葉に敏感に反応し、切迫感をもって、なりふり構わず病気の友人を主イエスのもとに連れて来た四人の人々の信仰を見て、主イエスはこの病人に、罪の赦しによる救いを告げて下さったのです。

罪の赦しと病の癒し
 ところが、これを聞いた律法学者たちが、「この人は神を冒涜している」という思いを抱きました。7節にあるように「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」というのが彼らの思いです。彼らにすればただの人間であるイエスが、「あなたの罪は赦される」などと言うのは、人間が自分を神と等しい者とする冒涜だと思ったのです。ここに問われている問題の根本は、主イエスはまことの神であられるのか、それともただの人間なのか、ということです。彼らは主イエスがただの人間だと思っているから、「あなたの罪は赦される」と言うのは冒涜だと思うのです。主イエスは彼らのそういう思いをご自分の霊の力で知り、一つの問いを彼らに投げかけました。9節です。「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」。この主イエスの問いは、彼ら律法学者たちの心の中に隠されている思いをえぐり出しています。そしてそれは私たちの心の中にもある思いだと言えると思います。つまり彼らは、「あなたの罪は赦される」と言うことは易しい、と思っているのです。しかし、「起きて、床を担いで歩け」と言うことは難しい、もしもそのような癒しを告げてそれが実現しなければ、それは偽りの言葉だということが明らかになるからです。それに対して「罪の赦し」は目に見える仕方で起ることではないから、「あなたの罪は赦される」と言って、外見的に何も変化がなくても、それを偽りとすることはできない、だから「あなたの罪は赦される」と言うことは簡単だ、イエスはそのように口だけで人々を惑わし、自分を神と信じさせようとしている、彼らはそう思っているのです。つまり彼らは、表面的には「罪の赦し」は神お一人しかできないことだ、と言ってそれを大切にしているようでありながら、実はそれを重んじてはいないのです。そんな抽象的な口だけのことよりも、起きて、床を担いで歩くこと、つまり具体的な病気や障碍が直ることの方が価値があり、大事だと思っているのです。
 これは私たちの中にもある思いだと言ったのはこの点です。私たちも、神様が独り子主イエスによって、その十字架の死によって罪を赦して下さる、という福音を告げられる時に、それを抽象的な、現実の様々な苦しみや悲しみと触れ合わない、言葉のみのこととして受け止めてしまうことがあります。そして、自分が本当に求めているのはそんなことではなくて、具体的な苦しみ悲しみからの解放なのだ、と思ってしまうのです。寝たきりの病人に主イエスが「あなたの罪は赦される」と語られたことを聞いた時に感じる、肩すかしをくらったような感じの正体がここにあります。そんなことを口で言うだけなら簡単だ、だが私が求めているのはそんなことではない、という思いです。

罪を赦す権威のしるしとして
 そのように、律法学者たちの、そして私たちの心の中の思いをえぐり出した上で、主イエスはこうおっしゃるのです。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」。そして中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」とおっしゃると、その人は主イエスのお言葉通りに起き上がり、自分が寝かされていた床を担いで家に帰って行きました。主イエスによってまた一つ、大きな癒しの奇跡が行われたのです。しかしこの奇跡は、一つの明確な目的をもってなされています。それは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせる」という目的です。「人の子」とは主イエスのことです。主イエスが罪の赦しを与える権威を持っておられることを知らせるためにこの奇跡はなされたのです。このことによって主イエスは、病の癒しの奇跡が、主イエスが罪を赦す権威を持っておられることを知らせるためにこそなされていることを教えておられます。主イエスが人々に告げ知らせ、与えようとしておられることの中心は、罪の赦し、つまり神がその恵みによって私たちの罪を赦し、私たちと新たな良い関係を結んで下さることなのです。主イエスによってなされているいろいろな奇跡は、主イエスこそが罪の赦しを与えて下さる権威を持っているまことの神であられることを示すためになされているみ業なのです。

十字架の死によって
 主イエスが持っておられる罪の赦しの権威はどのように発揮されたのでしょうか。もっと簡単に言えば、主イエスはどのようにして私たちの罪を赦して下さったのでしょうか。それは、私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さることによってでした。「あなたの罪は赦される」というみ言葉は、決して言葉だけの抽象的なものではなくて、主イエスの十字架の死によって裏付けられたものなのです。ですから、先ほどの問いかけについて言えば、「あなたの罪は赦される」と言うことの方が、「起きて、床を担いで歩け」と言うことよりもはるかに難しい、困難なことなのです。罪の赦しは、神様の独り子であられる主イエスが十字架にかかって死んで下さることによってこそ実現することだからです。「子よ、あなたの罪は赦される」という主イエスの宣言は、内容を正確に言うならば、「子よ、あなたの罪を私が全て引き受け、十字架にかかって死ぬ。それゆえに、あなたの罪は赦される」となるのです。ですから、「あなたの罪は赦される」という主イエスのお言葉は、現実を変える力のない抽象的な、口だけの言葉ではありません。それは私たちを新しく生かす福音なのです。自分が罪人であることを認め、悔い改めてこの福音を信じるなら、私たちは、神様との新しい、良い関係に生きるものとされ、神様との関係を喜びつつ、自分が自分であることを喜びつつ、そして隣人との関係をも喜びつつ生きることができるようになるのです。

周囲の人々を巻き込んで
 四人の友人たちは、「時は満ち、神の国は近づいた」という主イエスのお言葉を真剣に受け止め、切迫感を持ってそれに応答しました。「そのうちに」ではなくて、神が与えて下さっている今のこの時をとらえるために、具体的に、大胆に行動したのです。そしてもう一つ大事なことは、彼らが、自分のためではなくて、病気で苦しんでいる一人の友人のためにそれをしたということです。その友人が主イエスの救いにあずかるために、彼らは四人がかりで彼を床に乗せて連れて来て、屋上に昇り、屋根を壊して彼を吊り下げるという非常識なことまでしたのです。苦しんでいる友を主イエスのもとに連れて行ってその救いにあずからせたい、と彼らは真剣に願っていたのです。彼らが求め、期待していたのは病気が癒されることでした。そういう意味では、主イエスが告げ知らせ、与えようとしておられる救いを、彼らも正しく理解してはいなかったのです。けれども主イエスは、理解も不十分であり、的外れな所もある彼らの思いと行動を受け入れ、そこに彼らの信仰を見て下さったのです。そして、彼らが主イエスによる救いにあずからせたいと願っている人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と、主イエスによるまことの救いを告げて下さったのです。そしてその救いが言葉だけのものではなくて、その人と神様との間に新しい、良い関係をもたらし、その人の人生を全く新しくするものであることを、癒しのみ業によって示して下さったのです。この出来事によって主イエスの救いにあずかったのは、中風を癒された人だけではなかったでしょう。彼を連れて来たあの四人の友人たちも彼と同じように、「あなたの罪は赦される」という福音を、自分に対するみ言葉として聞くことができたのです。またこの家に集まっていた多くの人々も、主イエスが「あなたの罪は赦される」と告げ、その赦しのしるしとしてなされた癒しの業を見て驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って神を賛美したのです。「時は満ち、神の国は近づいた」という主イエスのみ言葉を真剣に受け止め、その時を捕えようとして私たちが動き出す時、神様の救いのみ業が、私たちの周囲の人々を巻き込んでこのように前進していきます。そしてそこには、悔い改めて福音を信じる者たちの群れが興されていくのです。

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