「溺れそうです」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:詩編第107編23-32節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第8章23-27節
・ 讃美歌:18、464
「溺れそうです。」「死にそうです。」「主よ。助けてください」この弟子たちの切なる叫びは、わたした ちの無関係であるとは思えません。わたしたちは、何に溺れそうでしょうか。将来への不安でしょうか、忙し さでしょうか、過去に犯してしまった過ちでしょうか、自分を見る人の目でしょうか。溺れそうです。そう叫 びたくなるわたしたちに対して、イエス様は、今日「なぜ怖がるのか」と問うておられます。何を信じている のかと問われます。イエス様は、今わたしたちに伝えようとされています、「わたしを見よ」と。 本日の説教の題を、「溺れそうです」としましたのは、この題をつけるためにざっとこの箇所を読んだ時に、 そのときの自分の状況を言い当てているのが、この言葉だったからです。胸に響いたというか、「わたしも同 じだ」とそう言いたくなりました。この題を付けたのは、弟子たちが、自分の気持ちを代弁していると思った からでした。
「溺れそうです。」この言葉は、「死にそうです。」と訳すこともできる言葉です。「もうダメです」、「 無理です」そう訳してもよいでしょう。なんだかこれらの言葉は、わたしたちの生きる世が想像している、ま ぁ勝手なイメージなのですが、いわゆる「敬虔なクリスチャン」と言われるものとはかけ離れている言葉だな ぁ、「敬虔なクリスチャン」はそんなことつぶやかないのではないかと世はそう思っていると思います。信仰 者は、神様に守られているから、なにも危険なことは起こらず、不安になるようなこともない、そのような勝 手な理解を、今日の物語は、否定しています。イエス様に信じ歩みだした信仰者の歩みが、すべてが順風満帆 かと言えば、まったくそうではないということが、今日の物語通して、示されています。23節、「イエスが舟 に乗り込まれると、弟子たちも従った。」とあるように、弟子たちは、イエス様を信じて、イエス様の後につ いていき、ガリラヤ湖を渡るための小舟に乗りました。ところが、舟に乗るとすぐに、「湖に激しい嵐が起こ って、船が波にのまれそう」なったのです。これは、クリスチャンとなったものの歩みの真実を描き出してい ると言えるでしょう。新約聖書に登場する舟は教会のことを意味していることが多いです。ですから、イエス 様に従って、洗礼を受け、教会に連なるものになった、群れの一人になった。そうしたら、もうなにも、不幸 なことは起こらない、危険は起こらないかと言えば、そうではないということが、ここに示されています。「 嵐が起きた」とありますが、これは「大きく揺れる」という言葉が元の言葉です。信仰者として、歩みだした 矢先に、足元がグラグラと揺れて、不安定になるようなことが起こる。この揺れは、死を覚えるほどの、終末 の艱難のことを暗示しているとも言われます。さらに、この飲まれそうになる湖の水は、創世記の最初の水が 意味していた、混乱と死を思わせるものです。足元が揺り動かされて、死にそうになるほどの混乱に巻き込ま れるということが、この嵐には示されているのです。その死を覚えるほどの混乱、動揺、不安に弟子たちは 、「溺れそう」になったのです。
だから、弟子たちは、「主よ、助けて下さい。溺れそうです。」と言いました。しかし、この言葉イエス様 に語りかける前に、弟子たちは、ある行動をしています。それはイエス様に「近寄って起こし」たということ でした。なぜ、弟子たちがイエス様を「起こし」のかと言えば、それは24節にあるように、イエス様が眠って おられたからです。弟子たちは、そのイエス様を起こし、「主よ、助けて下さい。溺れそうです。」と伝えま した。その後、イエス様は起き上がられて、風と湖を叱り、その嵐を鎮めました。すっかりと凪の状態になり ました。
もし、この物語を単純に理解すると、信仰者が大きな苦難、または死を覚えそうなくらい不安や忙しさプレ ッシャーにあった時、神様に助けを求めたら、その不安になることが取り除かれた。そしてすっかりと、心は平 安になった。だから、信仰者は、危機にあったらどんどん神様に救いを求めようという、そういうメッセージ がここに語られているのではと。そう理解しようと思えばできると思います。しかし、ここで、わたしたちが、 見落としてはならないのは、イエス様が弟子たちに語った言葉です。イエス様は弟子たちに起こされた後にこ のようなことを語っています。「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちよ。」イエス様は、弟子たちを咎められま した。イエス様はご自分の休息を妨げられたから、怒られたのか。そうではないでしょう。イエス様が、弟子 たちに「なぜ怖がっているのか」といったこの言葉は、言い換えると「あなたは怖がる必要はないであろう 。」ということです。自分が弟子たちと同じ状況にいたと想像して、この言葉を言われたと考えますと、なかな かこの言葉は「厳しい言葉だな」と受け取ると思います。自分の人生を揺るがすほどの、死を覚えるほどにお びえて、一杯いっぱいになるほどプレッシャーを受けて、パニックになってしまいそうになっている状態で 、「なぜ怖がっているのか」「怖がる必要はない」と言われても、それは理不尽な言葉のように聞こえます。 ここで、イエス様が「信仰の薄い者たち」と言っているから、イエス様が弟子たちに「もっと信じる力を強め なさい」ということを求められたのか。イエス様は、「あなたがたは、なんで怖がっているのか、このような 状況になっても耐えられる信仰を持ちなさい。心強く持ちなさい。嵐に対して歯を食いしばって忍耐しなさい 」と、そのようなストイックな、一昔前の体育会系のような、ことを求められたのかというと、そうではない でしょう。この部分を理解するための一つの鍵となるのは、イエス様がこの舟の中でされていたことです。イ エス様は舟で寝ておられました。イエス様は嵐の中でも、寝ておられたんです。これはおどろくべきことです 。人は、大変な責務を負わされたり、おおきな課題を与えられたりしていると、不安が増え、眠れなくなる。 人間関係において不安をおぼえていたり、ただ明日に対して不安をもっていたりするだけで、眠れなくなる。 重圧でパニックなり、眠れなくなる。この嵐で眠っていたということは、そのような状況で、平安にあったと いうことです。イエス様が眠ることができたのは、父なる神様にすべてを委ねていたからです。だから、混乱 と戸惑いに揺れるさなかでも、眠ることができていたんです。この章の16節あたりを見ますと、この舟に乗り 込まれる日の前の晩にイエス様は、自分を訪ねてくる悪霊に取り付かれた人や、病人を夜通し癒しておられま した。わたしたちの感覚では、夜通し徹夜で頑張られていおられたから、とてもお疲れになっている。だから 、嵐の中でも眠られていたんだ。とても疲れていたから、深く眠られていて、嵐に気付いておられなかったん だと思ってしまうと思います。「めちゃくちゃ疲れていたら、よく眠ることができる」という人が時々います が、わたしは、それは嘘だと思っています。わたしはめちゃくちゃ疲れていても、不安なことがあれば、全然 眠れませんでした。めちゃくちゃ疲れたが、不安になることが解決した時は、よく眠ることができます。ここ でイエス様が眠っておられたのは、この不安や混乱の中でも、もはや解決している、不安はないと確信してお られたからです。父なる神様が、守ってくださるということを確信しておられた、それはイエス様の中では解 決と同じ意味をもっていたからでしょう。では、弟子たちが、イエス様に信仰の薄いものたちよと言われたの は、父なる神様に委ねられなかったからなのでしょうか。確かに、弟子たちは、その不安の中で、父なる神様 のことなど、忘れていたと思います。ですから、イエス様に頼ったのです。しかし、ではイエス様に頼ったの がだめだったということでしょうか。イエス様に頼らず、天におられる父なる神様にだけ頼れということなの かと言えば、そうでもないでしょう。イエス様がここで、弟子たちを咎められたのは、弟子たちが、イエス様 をも、本当の意味で頼りにしていないし、信頼をしていなかったからです。それがわかるのは、危機になって から、イエス様に近寄ったということに示されています。弟子たちは、舟に乗るときに、イエス様の姿をちゃ んと見ていました。それはイエス様が乗り込まれるのに、従って、弟子たちも舟に乗ったと聖書が書いている ことからわかります。その弟子たちが、次にイエス様の方を見た時というのは、死にそうになるような不安に 襲われた時でした。これは読み込みかもしれませんが、それまでは、彼らはイエス様を見ていなかったのでは ないかと思います。この聖書の著者も、嵐になったという記述の後に、イエス様は眠っておられたと書いてい ます。これは想像ですが、おそらく彼らは、色々なことを思い、色々な方向を見ていたのだと思います。船に 乗った弟子たちの中には、家族を置いていったものもいました。この話の直前には、父を葬りに行かせてくだ さいと言ったものいました。おそらく彼らは、船に乗った後、家族のこと、父のこと、そのことで頭がいっぱ いになっていのではないかと思います。そのため不安にもなっていたと思います。他には、舟の行く進路を気 にしていたものいると思います。どっちの方向に進めればいいんだ、うまく舟を動かせるか。それに頭がいっ ぱいになっていたものいたでしょう。さらには、岸辺にいる人々の目を気にしていたものいたかもしれません 。「どう見られているんだろう。変人だと思われているかもしれない。いやだなぁ」そう思っていた人もいれ ば、「俺はあの者たちとは、違う、イエス様に付いていった、勇気あるものだ。あの人たちとは違う。」と岸 辺を見てそう思っていたものいるかもしれません。後は、風が起こり、水面ばかり気にしていたものいたでし ょう。そのように、様々方向を見ていたので、だれも舟の中におられるイエス様のことを見ていなかったので はないかとおもうのです。彼らがイエス様を見て近寄ったのは、危機の時だけでした。そのような、信仰を、 イエス様は弟子たちに咎められたのでしょう。これらのことは、信仰者のわたしたちに重なることが多く在る と思います。弟子たちが舟に乗る時というのは、わたしたちが洗礼を受け教会の一員になる時です。その時は しっかりイエス様を見ていた。しかし、一度舟に乗ると、舟に乗っていない、家族のこと。つまりまだ教会に 来ていない家族のことばかりを気にしてしまう。または、教会の行く末ばかりを気にしてしまう。教会の外に いる人の目ばかりを気にしてしまう。また、自分はあいつらとは違うんだと、外の人との違いにばかり心がい く。また教会が、安定しているかどうか、自分が安定しているかどうかばかり気にしてしまう。その時、わた したちはイエス様を、忘れてしまっている。わたしたちの間に、真ん中に、内側にイエス様がいてくださって いることを、忘れてしまっているのです。そして、危機が起きた時だけ、イエス様、神様、助けて下さいと振 り向く。それが、信仰が薄いと言われていることの根本にあるのではないかと思います。それは、ある意味、 都合の良い時だけ、神様を使っているということです。自分では、どうしようもないことに直面した時だけ、 神様の方を向く。自分の出来る範囲のことは、全部、独断で判断する。できなくなった時だけ、神様に頼る。 そのような信仰をイエス様は咎められています。イエス様は、逆境の時だけに見ればいいということではあり ません。順境の時も、逆境の時も、にイエス様の方に心を向けていることが、大事なのです。
危機にあって振り向いた時、イエス様が眠っておられた。その時、弟子たちは、なんでこんな時に寝ている んだろう。イエス様は寝ているからこの状況をわかっておられない。だから起こして、気づかせなければいけ ない。そうじゃないと自分は救われないと、そう思ったのです。それは、「わたしたちが、神様はなんでこん なわたしが苦しいのに、何もしてくれないんだ」という気持ちに似ていると思います。そう思って、「神様はわ たしを見ておられないんじゃないのかな、祈ってきずいてもらおう」という気持ちとこれは一緒です。神様は、 呼びかけなきゃ何もしてくれない。神様は、わたしたちを見捨てられる、何もしてくれない。これも、信仰が 薄いと言われた。理由なのではないかと思います。
もし弟子たちがずっとイエス様を見ていたとしたならば。嵐がまだ強い風であるような時に、横になり眠ろ うとされているイエス様に、「なぜ眠られのですか」と問えたかもしれない。もし、問うことができたら、イ エス様は「父を信頼しているからだ」と言われたのではないかと思います。弟子たちは、ちゃんとイエス様を 見ていれば、イエス様が父なる神様に信頼しているということ知ることができたでしょう。「イエス様は父な る神様が必ず守ってくださると信じている。神様は、風や水を創造した方が、止められないはずないと、そう 思われているのだ、だから安心して眠っておられるのだ」と、イエス様を見ることで、父なる神様を思い出す 。それは、わたしたちが父なる神様の方にも向きかえるということです。そして父なる神様がどういう方を思 い出して、そして委ねるということが生まれるのです。しかし、危機に際して、その時に、その時だけ、振り 向いていたのならば、わたしたちは、イエス様のその信仰や父への信頼に気づけないのです。わたしたちを助 けないで無視して寝ているという、神様は何もされないと、そういう思い違いをしてしまうのです。本当は安 息しているイエス様の姿こそが、わたしたちの希望のはずなのです。
わたしたちの群れには、イエス様がおられる。わたしたち中心にイエス様がおられる。なのに、外側ばかり わたしたちは見てしまう。イエス様がおられるのです。イエス様が父なる神様を信頼しておられ、安心しきっ ておられた。嵐がおきても、嵐で船が、教会が、自分の人生が、転覆してしまうかもしれないようなときでも でも、忙しさで、不安で、溺れそうになっても、このイエス様が共におられるのです。本当にだめなときなら ば、イエス様は弟子たちに起こされないでも、嵐を叱られたに違いありません。
わたしたちが本当に、危ないという状況は、信仰すら失ってしまうことです。本当のわたしたちの危険は、 この地上で命が危機にさらされる時ではない。神様を信じることを止め、神様を捨て、他のものを信じたり、 自分を信じたりすることです。なぜならば、もし地上で、生き延びたとしても、イエス様を信じていなければ 、父なる神様を信じていなければ、聖霊なる神様を信じていなければ、最後にわたしたちは永遠の滅びに遭う からです。父なる神様は、信仰者を、愛する子たちを、わたしたちを絶対に、その危険にはあわせることはあ りません。そうなる前に、必ず、立ち上がってくださります。引き戻してくださいます。父なる神様もイエス 様も聖霊なる神様も、愛する子を、絶対に、滅びさせることはないからです。この地上での死は、滅びではあ りません。死んだからといって、見捨てられたということではありません。そうであるならば、先に亡くなっ ているキリスト者は、みんな神様に見捨てられているということになります。そうではないのです。
イエス様は、人が死を覚えるほどの恐怖、不安の中でも、眠っておられた。それほどまでに、父なる神様は 、わたしたちを守ってくださっているということ、信じておられた。いやなにか、熱心に「そうなんだそうな んだ、そうにちがいない」と、思い込んでいたということではなく、父なる神様はわたしたちを見捨てられな いということを、当たり前にされていたんです。死を恐れる必要がない。なぜならば、死にも勝たれているか ら。死んでもそこで終わりとはせず、最後の時に、必ず甦らせてくださることをイエス様は知っておられたか らです。その希望は、この物語の次点の弟子たちよりも、先に知っています。死の先に復活が在ること知って います。そのために、イエス様が十字架にお掛かりになられたことも知らされています。このイエス様を通し て知ることのできる、父への信頼、復活の希望、そして、わたしたちを決して見捨てられないという神様の愛 を、わたしたちは既に頂いているのです。今もこの群れの中心にイエス様がおられるのは間違いないのです。
最後に27節を見たいと思います。『人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さ えも従うではないか」と言った。』これは、岸辺にいた人が、イエス様の奇跡を見られた時の感想の言葉です 。人々は驚きました。しかし、ここには、神様を賛美した人や、イエス様に従おうと思った人がいたとは書か れていません。むしろ対岸の町の人々は、最終的にどうしたかと言うと、8章の34節にあるように、イエス様に 向かって「この地方から出て行ってもらいたい」といったのです。わたしは、この弟子たちに起きた、嵐を鎮 められるという奇跡は、信仰者、弟子たちにとっては、驚くべき、良いことでしょう。しかし、他の方からみ ると、これは、良き伝道にならなかったのではないかと思います。弟子たちは、舟の外にいる人々にイエス様 を勘違いして理解させたのではないかと思うのです。「嵐が起きていて、その苦難の時、弟子たちがイエス様 を起こしお願いしたら、嵐が鎮まった。」そう見えたに違いないのです。岸辺にいる人は、イエス様のことを 「弟子たちに頼まれるまではなにもしない人だ」と思ったでしょう。父なる神様を信頼している人の姿を、舟 の外の人は見ることができなかったのです。わたしは、嵐が凪になる奇跡をみるよりも、嵐の中で、弟子たち が落ち着いて、イエス様を見ている方がより、人々に対しての証しになるのではないかと思うのです。「なぜ この嵐の中で平安を保っていられるのだろうか」その人々は「弟子たちはなぜ、寝ているイエス様を見ていて 安心しているのだろう」と人々はそう思うと思います。わたしは、この教会で度々葬儀の際に、驚くことがあ ります。愛する人を亡くした教会員が、その愛する人の復活の希望を信じていた。そして自分が慰められても いいはずなのに、親族を慰めている。愛する人を失った張本人なのに、嘆きに暮れるのではなく、イエス様の示 してくださった復活を見つめている。悲しみもあるはずなのですが、どこかただ単に悲しんでいるのと違うの です。また頼っていた愛する人がいなくなるので、先の不安もあるはずなのに、押しつぶされていない。溺れ ていない。このような姿は、死の先にある復活を信じている者にしか見ることができないと思うのです。その姿 こそが、わたしたちを惹きつけるのです。
今わたしたちの真ん中には、イエス様がおられます。あの嵐の中でも眠っておられた、嵐をも鎮めてくださ るイエス様がおられます。わたしたちは、眠っておられたイエス様の姿を思い出す時、父への信頼を思い出せ ます。そして嵐をも鎮めてくださったイエス様を思い出すとき、神様がわたしたちを滅びにあわせるのでなく 、必ず救いだしてくださることを思い出すことができます。ですから、今日、イエス様は、なにを怖がってい るのか。わたしを見よといわれているのです。