「見てもらいたい 認めてもらいたい」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:詩編第33編12-22節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第6章1-4節
・ 讃美歌:496、470
はじめに
イエス様は、わたしたちが施しをすることを望まれています。なぜならば、施しをすることで、わたしたちが神様から頂いて恵みを再確認できるからです。わたしたちが隣人に、また施しをできるのは、神様との交わり、関係があるからです。神様の交わりや関係のないところでの施しは、イエス様がわたしたちに望まれている施しではありません。神様との関係の中で、神様から恵みをいただきながら、施しをすることをイエス様はわたしたちに望まれています。その行為を、父なる様は正しい行いとして、受け取ってくださいます。
本日からマタイによる福音書の6章に入りました。このマタイによる福音書の6章は、5章から7章まで続く、わたしたちが今まで聞いてきた山上の説教の中心部分になります。そしてその6章の1節「見てもらおうとして,人の前で善行をしないように注意しなさい」。 これが、この6章1~18節の、山上の説教の中心部分のタイトルのようになっています。その善行、正しい行いの例として、2~4節で施し、5~15節で祈り、16~18節に断食があげられていきます。これらはみな、信仰にもとづく正しい行い、優れた善行として重んじられていました。イエス様に従う弟子たち信仰者たちにとって、これらのことは大切にすべき正しい行いです。けれども、その正しいことも、どのような思いでするかによって、その意味が全く違ってきてしまうのです。
施しをするとは
今日の所で言われている「施し」をするというのは、貧しい人、困っている人にものを与えて助ける行為のことです。その施しを、「見てもらおうとしてしないように注意しなさい」とイエス様は言っておられます。この注意をわたしたちは素直に聞けると思います。確かに、なんだか、「施しをしてやってるぞ」という感じで主張されたら、なんだか善意を自慢されているようで、施されたほうも嫌だろうし、見ている人も嫌な気分になるから、しないほうがいいよなと素直に思います。だから、目立たないように、善行はしたほうがいいよな、そのことをイエス様は言っているんだと、わたしたちはこの箇所をそのように理解しがちになります。しかし、今日のイエス様のおっしゃたりたいことは、そのようなことではありません。 「見てもらおうとして、人の前で」施しをしているということは、まわりの人が嫌な思いになるから止めなさいということではありません。「人に見てもらおうとしている」ことは、本当に見つめなければいけないことを、見ていない状態にあることの表れであるから、それをやめさないとイエス様は言われているのです。何を本当に見なければいけないのかは、それは父なる神様です。そのことはもう一度後で、くわしく共に聞いていきたいと思います。
偽善者という仮面
2節を見ると、イエス様はそのような善行を見せびらかしている人のたとえとして、偽善者をあげます。そしてそのような偽善者であってはならないと言われます。実は偽善者という字には、「俳優」という意味があります。俳優は観客がどう見てくれるか、自分の演技がどう見られているかが大事です。俳優というのは、ある意味自分が他からどのように見られているかを気にします。他の人の目を気にする、評価されるということに生きるというのが偽善者の一つの本質です。俳優ということから、もう一つのことも言えます。当時のギリシャの俳優の多くは、仮面を被って芝居をしていたそうです。つまり、偽善者というのは、「仮面をかぶっていること」と言い換えることが出来ます。仮面は仮面の下にある顔を見せないということです。つまり本当の顔、本性を隠すということです。偽善者にかぎらず、わたしたち人は、本当は「施しに対して報い」がなければ、嫌だと思います。施ししたに見合う対価がなければ納得出来ないという思いがどこかにあります。施しをすることというのは、貧しい人にものをあげ助けることですから、もしその貧しい人に対価を求めていたとしたら、酷いやつです。貧しい人に「今わたしが食べ物を上げたのだから、あなたのその形見のネックレスをくれ」などといったら、もはやそれは施しではありません。そのようなことは、わたしたちもしません。「対価などいりません」と言えると思います。ここでの偽善者と呼ばれている人が貧しい人に施しをします。ある意味その行為は「対価などいりません」ということを人に見せていることになります。つまり「対価などいりません」という仮面をかぶっています。しかし、実際は「見てもらいたい」そのような善行をしている自分を「認めてもらいたい」と思って、人が多い所街角や会堂にいき、ラッパまで吹いて、注目を浴びようとします。その人は実は対価を欲しいという本性を仮面で隠しながら、施しの対価として、「見てもらうこと」つまり「認めてもらうこと」を求めています。良い人であると見られること、認められることが、彼の対価なのです。偽善者は見てもらいたいということと、でも本性はうまく隠しています。
わたしたちの価値観
わたしたちはこの偽善者は嫌だなと思います。わたしたち逆に、そのようではなくて、もっとひかえめに、目立たないところでさりげなくよい行い、親切をしている人の姿を見ると、わたしたちは、ああこの人こそ本当に立派な人だと思います。そして自分もこの人のようになりたいと思います。そこにはわたしたちのある価値観が働いています。それは見てもらおうと善行をする人よりも、目立たないところでさりげなくする人の方がより立派だ、という価値観です。わたしたちは目立たない所で、ひかえめに善行を行う方がよいと思っていますが、その自分の善行、よい行いが、人に全然見られなかったり、気づかれなかったりするとわたしたちはどう思うでしょうか。例えば誰も見ていないところで、ある人に親切にしたとします。自分はそのことを誇らないし、見せびらかさない。しかしその相手が全然感謝もせず、自分から受けた、親切を人に言うことはなくても、知らん顔をしていたりすると、わたしたちは、ちょっと残念な気持ちになりますし、時には「あいつは恩知らずだ」と腹を立てたりすることもあります。わたしたちは、自分のよい行い見せびらかしたりはしません。しかし本当は、感謝されることや、人々に知られ、「あの人は陰であんな良いことをしていたのか」と思われることを願っている思いがあります。そういうわたしたちの思いというのは、見てもらおうとして人の前で善行をする人や、仮面をかぶり本性を表わさない人、人からほめられようと会堂や街角で施しをし、自分の前でラッパを吹き鳴らす人と、実はあまり変わらないのです。 イエス様が言っておられるのは、見せびらかして善行をするよりも、目立たない所でひかえめにする方が世間的にいいぞ、ということではありません。イエス様は1節で、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」と言われました。
右の手のしていることを左の手に知らせるな
イエス様は3節で「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」と言われました。右手でいいことをしたことが、左手には知られていないということは、自分の頭でも、施しをしたことを知っていないということでしょう。ここからわかるのは、イエス様は人に見られることを対価として望むことだけでなく、自分が自分で施しをしたことに納得するということも、注意しなさいと言っておられるのです。イエス様は、他の人からの誉れはいらないけれども、自己完結して、じぶんで満足してればいいやという、そのような思いで、施しをすることも違うと言われているのです。イエス様は、4節で、「あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」とあります。イエス様がわたしたちに見つめさせようとしておられるのは、天の父からの報いです。
人からの報いで精算完了
しかしそのことを聞くと、わたしたちは信仰において報いなど求めてよいのかという疑問がでてきます。「愛すること、施すことに報いなんて求めたら、無償の愛、無償の施しじゃなくなっちゃうじゃん」と単純にそう思います。しかし、イエス様は、ここで堂々と報いについて語られます。注目すべきはその報いが誰から与えられるかです。イエス様は天の父から与えられる報いをこそ求めなさいと言われています。2節には、会堂や街角で施しをするあの偽善者たちが、「既に報いを受けている」とあります。この報いは、天の父からの報いではありません。これは、人々からの賞賛、誉めてもらうこと、あの人は立派な人だと評価されること、つまり人から与えられる報いです。見てもらおうとして、人の前で善行を行い、自分の善行を見てもらおうとする者たちは、人からの評価、誉れという報いを受けているのです。そしてそれは、先程考えたように、目立たないところでさりげなく良い行いをすることによってわたしたちが期待している報いでもあります。そのようなわたしたちは、「人からの報い」を期待しているという点と偽善者と呼ばれる人と同じであり、人からの報いを求め、それ得てしまったら、「既に報いを受けている」ことになるのです。それは、他の人だけでなく、じぶんからの誉れを求め、それで満足していても「既に報いを受けている」ことになります。2節で「既に報いを受けている」書かれている言葉は、すでに領収書を出してしまっているという意味です。つまり会計が済んでしまっているということです。つまり、施しという業に対する対価を、人からの誉れや称賛という賃金で、支払われてしまっているということです。
神様からの報いとは
では求めても良い、いや求めるべき神様の報いとはなんなのかがわたしたちの気になる所です。神様からの与えられる報いとは、天の父なる神様との交わり、そして復活と永遠の生命です。父なる神様との交わりを持ち、父なる神様を信じ生きるものには、永遠の生命が約束されています。復活と永遠の生命、それも大きなわたしたちの報いであります。しかし、それらも、すべて父なる神様との本当の交わりがなければ、与えられないものです。その父なる神様との交わりを持つことのできなくなった、人間のために、イエス様は十字架に掛かって死なれました。わたしたちは、神様なんて関係ない、自分が誉れを受ければそれでいいという生き方をしていました。そのようなことが自然になってしまっているのは、おのれの罪故にです。神様など知ったことかとして、神様との関係を切ってしまう。それが罪です。その罪を無くすためには、罪を精算するための対価が必要でした。それは、罪に縛られている、言い換えると、罪という親分の奴隷になってしまっているわたしたちを解放するための対価が必要だったのです。その罪からの解放のため、その神様との関係を拒否させてしまう罪から解き放つために、イエス様が御自分の生命をそのわたしたちの罪の対価として、十字架上で支払われたのです。そのようにイエス様を、十字架に送ったのは父なる神さまです。つまり、わたしたち人は、勝手に神様から離れ、好き勝手に生き、罪の奴隷になってしまい、自分や自分の利益ばかりを見つめるものになり、神様を神様とせず、また他者を傷つけるようなものにまでなっていた、そのような人を救うために、神様が御自分で人の救いのために、愛する一人の息子の生命を、手放されたのです。そのような独り子をおささげになるほどの人に対する愛と、実際に死んで成し遂げて下さったイエス様の業により、わたしたちは今、父なる神様と交わりを持つことがゆるされているのです。そのゆるしを信じて、神様との関係を再び持って交わりを持ったものには、復活と永遠の生命が与えられます。死を恐れることなく、その死を超えて、神様とこの世を共に歩んだわたしたちの愛するあの人たちと交わりを持ち続けることできるという報いにあずかることができるのです。これが、神様からの報いです。 その報いは、隠れた所で良いことをすれば、神様がそれに応じて与えて下さる、ということではありません。その報いは、ただイエス様の犠牲によってであり、わたしたちの行いに関係なく、すべてのものに無償で差し出されています。それを受け取るか、受け取らないかは、わたしたちの決断によります。それは、イエス様を信じるか信じないかということです。
今日のイエス様は、イエス様と共に歩みイエス様を信じているものに向かって語られています。イエス様は「あなたたちは、わたしを信じ、既に父なる神様からの憐れみと愛を受け取っている」「それなのに、善行や施しは、自分自身の元手から支払っていると勘違いし、対価を求めようと、人からの誉れを欲している」「あなたが、本当に、隣人に愛と憐れみをもって施しができるのは、父なる神様からもらった、愛と憐れみが資本になっているのだよ」「それなのに、その父を見ないで、人からの誉ればかり望み、また父との関係を失いそうになっているよ」とわたしたちに言われています。これはイエス様は、信仰の歩みにおいて、わたしたちが父なる神様を見失うことのないように、このように、指摘してくださっているということです。そのイエス様のご指摘は、羊飼いのように群れの中の羊が、群れから迷い出そうになっている時に、「そっちの道ではないよ」と注意し、迷いでないようにしてくれるのと同じです。 天の父である神様からの報いは、見てもらおうとして、人の前で行う善行に対しては与えられないと言いました。それはなぜかと言えば、人に見てもらおうとしているとき、わたしたちは神様を忘れてしまっているからです。見てもらおうとして施しをするという行為をするからダメなのではなく、人から見てもらおうと望んでいる時その人は、神様からの愛も憐れみをも忘れてしまって、神様との関係を無視してしまっているから、報いを受けられなくなってしまっているということです。父なる神様との交わりという報いも、人や自分ばかりを見て、交わり拒絶し、そこでじぶんでおじゃんにしてしまっているのです。
わたしたちは施しを間違えている
わたしたちは施しをするとき、自分で手に入れたもの中から、自分の財産の中から、何かを他者にあげると考えています。だから、自分が施せば施すほど損をするから、その損した分に見合う対価を求めます。しかし、わたしたちはそもそもの所で間違えています。わたしたちが、施しをするのは、自分の善意に基いてするのではありません。わたしたちが施しをするのは、わたしたちが神様にすでに施されているからです。神様から、代えがたい恵みを無償でいただいているから、施すこと出来るのです。ですから、わたしたちが、貧しい人に施しをしたとしても、その施しのために失ったものは、そもそもわたしたちのものではないのです。神様から、施しを受けて、生かされた生命、人生の中で得た益は、それはすべて神様のおかげであり、神様のものいっても過言ではありません。そこから、施すのですから、本来はわたしたちがマイナスになってはいないのです。神様がマイナスになるのです。そうであるならば、わたしたちは自分自身が損をするというわけではないので、わたしたちは対価を求めなくて良いのです。従って、わたしたちはもはや対価を欲しているという本性を仮面で隠したりして、施すことをしなくて良いのです。わたしたちが施しをする時に、「見てもらったり 認めてもらたりしなければわりにあわない」などとは思わなくて良くなるのです。
なぜならば、その一つの報いを、わたしたちは既に頂いており、もう一つの報いはこれから与えられることが約束されているからです。最初の報いは、父なる神様との交わりを 持つことができるようになったという報いです。そして、もう一つの約束されている報いは、死を超えての復活と永遠の生命です。それは信じて神様と交わりをもつようになったものに約束されています。この大きな報いと、自分生涯かけて善行を積んでも与えられるような報いではありません。この報いは、言葉をかえれば、神様からのプレゼントです。見合った対価を払ってもないし、働いてもないのに、わたしたちに与えられたのです。
今日イエス様がわたしたちに施しをしなさいと言われています。しかし、これまでの話を踏まえると、イエス様は施しなさいと言われるけれども、決して神様の報い、プレゼントに見合う働きのために施しをしなさいとは言われてはおられません。ではなんのために、イエス様は施しをしなさいと言われているのか。その目的はなんなのか。それは、施しをすることで、わたしたちは、神様から与えられているものや、神様がわたしたちにしてくださったことを、再確認できるからです。すなわち神様からの恵みを再確認できるからです。さらに重ねて言えば、神様との関係を再確認できるからです。わたしたちが、他の人や自分を満足させるためでない施しができるとするならば、その時自分が神様から恵みや報いを与えられているものであることを知っているはずです。そうでなければ、本当の施しはできないからです。自分の労力や時間を他の人に献げることできるのは、イエス様が自分のためにすべてをささげて下さったことを知っていなければできません。食べ物やお金をわけ与えることでも、自分に与えられている食べ物やお金が神様からのものであることを知らなければ、そのような恵みに与っていることを知らなければ、対価を求める心捨てることはできません。本当に施しをしているときは、わたしたちは、そのような神様から頂いているものを意識することができるのです。
イエス様はそれらを踏まえて、わたしたちに施しをしなさいと言われています。わたしたちは既に大きな報いと恵みを与えられた者として、その神様の業に感謝しながら、約束されている復活と永遠の生命を与えられる報いを楽しみにして、施しをしてまいりましょう。
施しをするとは、つまり、貧しい人に苦しむ人に、持っているものあげることですと言いましたが、あげるものは、それはお金や食べ物だけではありません。時間をさくことも、自分の労力を用いてなにかの手伝いをすることも施しです。しかし、一番大切なことがあります。それは、使徒言行録で弟子ペトロが物乞いをしている人に言ったことです。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」ペトロは財産やお金もっていませんでした。しかし、彼はイエス様だけを持っている。父なる神様からイエス様を与えられていることを知っていました。だから、彼が唯一持っているもの、それはイエス様です。そのイエス様を伝えることで、貧しい人にイエス様を分け与えました。その時、物乞いをしていた人は、立ち上がって喜び、踊り、神様を賛美するようになったのです。もともとあしを、動かすことができなかった人です。彼は、足が治ったという奇跡ではなくて、イエス様を知ったことで、喜んだのです。
わたしたちの一番の施しは、イエス様を分けあたえることです。つまり、イエス様との出会いのために、施すということです。わたしたちは、お金も、才能も、信仰もすごいわけではありません。しかし、間違いなくイエス様を持っています。そのイエス様を隣人に伝えていくことが、イエス様が一番に求められている施しであります。ですから、大いに施してまいりましょう。