「サムソンとデリラ」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:士師記 第16章1-31節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙 第4章10-14節
・ 讃美歌:157、357
野人サムソン
私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書士師記からみ言葉に聞いています。その13章から16章にかけては、サムソンという士師の物語が語られています。先月はこのサムソンの物語の前半を読みました。本日は後半、この物語のクライマックスである、サムソンとデリラの話を読みたいと思います。
サムソンとはどのような人だったか。前回の説教の題を「野人サムソン」としました。サムソンは野人だった。そこには二つの意味があります。一つは、彼がとてつもない怪力の持ち主だったということです。若い獅子を素手で引き裂いたとか、ろばのあご骨で千人の敵を打ち殺したとか、また本日の16章の始めのところには、ガザの町の門の扉と門柱を引き抜いて、それを山の上まで運び上げたということが語られています。サムソンは、人間の常識をはるかに超えた力を持った英雄だったのです。「野人」ということのもう一つの意味は、彼が組織に組み込まれてしまうことのない、一匹狼の英雄だったということです。彼は軍勢を率いて戦ったことはありません。彼がペリシテ人と戦ったのは全て単独でです。ろばのあご骨で千人を打ち殺したのも、全く彼一人でしたことなのです。彼は誰の部下にもならず、手下を持つこともなく、一人で、自由奔放に生きていたのです。
このような野人サムソンが、単なる暴れ者ではなくて士師の一人として位置づけられています。士師とは、イスラエルが王国となる前に、国が敵に圧迫され、危機に陥った時に、敵と戦ってイスラエルの人々を守った英雄たちです。サムソンが戦った敵はペリシテ人ですが、彼らがこの時代、イスラエルの民を支配し、苦しめていたのです。そのペリシテ人を相手にさんざん暴れ回ったサムソンは、イスラエルの民をペリシテ人から解放する戦いの先駆者として覚えられ、士師の一人として位置づけられたのです。
惚れた女に弱いサムソン
サムソンのもう一つの特徴は、惚れた女に弱い、ということでした。彼は何人かの女性を愛しました。「英雄色を好む」とはサムソンのためにある言葉です。そして彼は、自分の愛した女性に繰り返し裏切られています。14章で、彼はペリシテ人の娘を愛して、両親の反対を押し切って結婚しました。その披露宴で彼は、ペリシテ人の客と、麻の衣三十着、着替えの衣三十着をかけて謎を出しました。ペリシテ人たちはその謎の答えが分からなかったので、サムソンの妻にそれを聞き出すように頼みました。妻はサムソンに「あなたが私を愛しているなら、答えを教えてちょうだい」と泣きつきました。彼女がしつこく泣いてすがるので、ついにサムソンは謎の答えを教えてしまいます。それでサムソンは賭けに負けてしまったのです。このエピソードが語っているのは、サムソンが、力はめっぽう強いが惚れた女に泣きつかれると嫌と言えず、大事な秘密をも漏らしてしまう、そしてその女に裏切られてしまうという、女性に対する脇の甘さです。それと全く同じことが、本日の16章でも起ったのです。
デリラによる揺さぶり
16章においてサムソンが愛したのはデリラという女性でした。彼女こそ、サムソンが最も愛した女であり、彼を滅びへと陥れた人でした。彼女もやはりペリシテ人でした。そのデリラをサムソンが愛していることを知ったペリシテの領主たちは、彼女を通して彼の怪力の秘密を突き止め、それを抑える方法を知ろうとしたのです。このことは、先ほどの、衣を賭けての謎の答えなどとは次元の違う、サムソンにとって命がかかっている、また彼の士師としての存在そのものに関わる根本的な事柄です。彼からあの怪力が失われたたら、何も残らないのです。そういう、彼の人生における最も大事な、根本的な秘密を、デリラは聞き出そうとするのです。そのような重大な秘密ですから、サムソンとて簡単にそれを明かすことはありません。「乾いていない新しい弓弦七本で縛れば自分の力は失われる」とか、「まだ一度も使ったことのない新しい縄で縛れば弱くなる」などと嘘を言ってごまかしたのです。しかしデリラは、彼が本当のことを言っているのかどうかを慎重に確かめながら事を進めています。そして彼が嘘をついたことが分かると、彼女は決まってこう言って責めたのです。「あなたは私を侮っている」。つまり、あなたは私のことを大切にしていない、つまり本当に愛してくれていない、と拗ねて見せたのです。そういうことが繰り返されていき、三度目にサムソンが言ったのは「わたしの髪の毛七房を機の縦糸と共に織り込めばいいのだ」ということでした。これも本当のことではありません。しかし秘密に少し近づいてきているとは言えます。髪の毛のことに触れているからです。彼の怪力の秘密は髪の毛と関係があったのです。デリラの揺さぶりによってサムソンが次第に動揺してきていることが感じられます。この三度目の答えも嘘だったことが分かった時、デリラはこう言って彼を責めました。15節です。「あなたの心はわたしにはないのに、どうしてお前を愛しているなどと言えるのですか。もう三回もあなたはわたしを侮り、怪力がどこに潜んでいるのか教えてくださらなかった」。「わたしを愛しているなんてよく言えるわね。三度も騙しておいて。わたしのことなんかこれっぽっちも考えてくれていない証拠じゃないの」。サムソンならずとも、このように言われることに男は弱いです。16節に「来る日も来る日も彼女がこう言ってしつこく迫ったので、サムソンはそれに耐えきれず死にそうになり」とあります。それで彼はついに、一番大事な、怪力の秘密を打ち明けてしまったのです。
ところで、彼はこのようなデリラの問い、彼の愛を試すような揺さぶりに対してどうすべきだったのでしょうか。客観的に考えて言えることは、そもそもこのような問いに対しては最初からはっきりと、「このことは自分と神さまとの間の、決して人に言ってはならない秘密なのだ。だから愛するお前にも言うことはできない。お前も、私を愛しているなら二度とそれを聞くな」と言うべきだったということでしょう。それを、適当にごまかして嘘をついてしまったのが間違いの始まりだったのです。とは言え私たちも、現実の具体的な状況の中で、本当に言うべきことをはっきり言うことができず、まさにサムソンがしたように適当にごまかしてしまって、その結果泥沼にはまり込んでいく、ということが多いのではないでしょうか。そこには、人間が共通して持っている弱さがあると言えるでしょう。
デリラは、サムソンが今度こそ本当のことを言ったと見て取りました。デリラのサムソンに対する観察力はしたたかなものです。サムソンはデリラの掌中で踊らされている、という感じです。男と女の関係というのは基本的にそういうものかとも思いますが、それはともかく、彼女はサムソンを膝枕で眠らせ、眠っている間にその髪の毛を剃ってしまいました。髪の毛を失ったサムソンはその怪力を失い、ペリシテ人に捕えられ、目をえぐられ、青銅の足かせをはめられ、ガザの牢獄で石臼を引かされる身となってしまったのです。
サムソンの怪力の秘密
さてここで、サムソンの怪力の秘密を確認しておきたいと思います。17節に語られており、先月の説教でもお話ししたことですが、彼の怪力は、彼が生まれる前からナジル人として神にささげられた者であることによって、神から与えられた賜物でした。子どもがなかったサムソンの両親は、神に祈り、もし子どもを授けて下さるなら、その子を神さまのものとしてささげます、と誓ったのです。つまりサムソンは生まれながらのナジル人でした。ナジル人は本来は、本人の決断によって、一定期間神に身をささげるという誓願を立てることによってなるものですが、サムソンは、両親によって、生まれつきのナジル人とされたのです。彼の怪力はそのことによって与えられていたものでした。神にささげられ、神のものとして生きているサムソンに神が与えて下さった賜物だったのです。先ほど、サムソンから怪力が失われたら何も残らないと申しました。それは、彼には怪力の他には何のとりえもなかった、ということではありません。あの怪力こそ、彼がナジル人、神にささげられ聖別された、神のものとして生きていることの印だったのです。それを失うことは、神との関係を失うことであり、神のものでなくなることを意味します。神との関係を失い、神のものでなくなるなら、サムソンでなくても、そこには何も残らないのです。私たちも、神さまによって命を与えられ、人生を導かれています。その神さまとの関係を失うなら、私たちだって、何も残らないのです。生きる意味も、存在の根拠も失われてしまうのです。
このナジル人であることの印が、髪の毛を切らないということでした。ですから先月も申しましたが、彼の怪力は髪の毛に宿っていたのではありません。髪の毛のあるなしで力が出るか出ないかが決まっていたのではないのです。問題は、彼がナジル人として、つまり神にささげられた者として生きているかどうかです。彼の怪力はそのことにかかっていたのです。ですから彼が怪力を失ったのは、根本的には、髪の毛を剃られてしまったからではなくて、デリラにナジル人であるがゆえの自分の力の秘密を教えてしまったことによってだったのです。サムソンは、デリラの愛を自分に繋ぎ止めておこうとして、主なる神との約束を、神との関係をないがしろにしてしまったのです。その結果、自分の人生の土台である、神にささげられた者としての、神との関係を失い、神の賜物だった力を失い、そして?ぎ止めようとしたデリラをも失い、目を失い、まさに全てを失ってしまったのです。
ガザの牢獄で
こうしてサムソンは捕えられ、目をえぐられて盲目となり、最も惨めな奴隷となりました。ガザの牢獄の中で、目を失った暗黒の世界の中で、足かせをはめられ、鞭打たれながら石臼を引かされつつ、彼は何を思っていたのでしょうか。22節には「しかし、彼の髪の毛はそられた後、また伸び始めていた」とあります。これは、彼の怪力が次第に回復していったことを暗示している文章だと言うことができます。しかし先ほども申しましたように、彼の怪力は髪の毛に宿っていたのではありません。髪の毛がまた伸びれば怪力が回復する、というような単純なことではないのです。大切なのはサムソンと神との関係の回復です。サムソンは、全てを失い、光さえも失った牢獄の中で、自分がかつて主なる神のもの、神にささげられた者だったこと、それによってあの怪力を神の賜物として与えられていたのだということを、初めて本当に知り、自覚したのではないでしょうか。そして自分がその神との関係を、神にささげられた者としての人生を、デリラへの愛のゆえに、いや正しくは愛と言うよりも執着、彼女を自分のもとに?ぎ止めておきたいという欲望のゆえに売り渡してしまったこと、神との関係よりも人間との関係を、女性への欲望を第一としたために、人生の土台だったかけがえのないものを、それに伴って神が与えて下さっていた恵みの賜物を失ってしまったことを、深い後悔と共に知ったのです。ナジル人として神との関係に生きており、賜物である怪力を与えられていた時には分からなかったこと、見えなかったことが、神との関係を失い、怪力を失い、全てを失った今、分かるようになった、見えるようになったのです。彼はそのことによって深い絶望の淵に沈みました。その絶望の中で彼は、失った主なる神との関係をもう一度得たい、もう一度神のものとされて生きたい、いや、そうなって死を迎えたい、と切に願ったことでしょう。そこに、彼の悔い改めがあります。主なる神のもとに立ち帰ろうとする思いがあります。「彼の髪の毛はまた伸び始めた」という言葉は、サムソンの心の中の悔い改めの思いを言い表していると言うことができると思うのです。
サムソンの祈り
ペリシテ人たちは、サムソンの力を奪い、捕えたことを祝い、彼らの神ダゴンの神殿において盛大な祭を催しました。そこに、捕えられ、目をえぐられて奴隷となったサムソンを引き出し、見せ物としようとしたのです。サムソンはその辱めの中で、神殿を支えている柱を探り当てます。そして主なる神に祈ったのです。28節。「わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。神よ、今一度だけわたしに力を与え、ペリシテ人に対してわたしの二つの目の復讐を一気にさせてください」。「わたしを思い起こしてください」、これがサムソンの祈りです。神に見捨てられてしまった絶望の中に今彼はいます。それは自分の罪のゆえです。彼自身が神との関係をないがしろにし、欲望のゆえに神を裏切ったのです。その罪の結果である絶望の底から、「わたしを思い起こしてください」と彼は叫んだ。神がもう一度自分を覚え、関係を結んで下さることを、そして「今一度だけわたしに力を与え」て下さることを心から願ったのです。彼に与えられていた力は、神が彼を思い起こし、関係を結んで下さることによってこそ戻って来ます。髪の毛が伸びたからまた力が出る、ということではないのです。神が彼のことを思い起こして下さること、罪によって失われた関係を神が再び結んで下さること、それがサムソンの救いであり、その救いにおいてあの怪力の賜物が戻って来るのです。
サムソンがこのように祈り、建物を支えている真ん中の二本の柱を渾身の力を込めて押したところ、ダゴンの神殿は崩れ落ち、そこに集っていた数千人のペリシテ人たちと共に、サムソンもその生涯を閉じました。しかしその生涯の最後に、主なる神が彼を再び顧みて下さり、ご自分のものとして下さったのです。
サムソンと私たち
私たちはこのサムソンの物語を、私たちの信仰においてどのように読んだらよいのでしょうか。サムソンの生涯は、暴力と復讐の連続です。この最後の場面にしても、サムソンが、自らの死によってペリシテ人たちに復讐をする、という話です。このようなサムソンの姿を、私たちの信仰の歩みと単純に重ね合わせることはできません。あるいはまた、サムソンとデリラの話は、女性の魅力に惑わされて破滅へと陥った男の話とも言えます。そこから、女性の色香に惑わされるな、などという教訓を引き出してみても意味はありません。サムソンの生涯と私たちの信仰の歩みとを重ね合わせることができるとしたらそれは、彼がガザの獄中で、一切を失った絶望の中から、主なる神のもとに立ち返ることを願ったあの悔い改め、もう一度自分を思い起こしてくださいと願ったあの祈りでしょう。自分の欲望を満たすために、あるいは人との関係をつなぎ止めておくために、人生の本当の土台だった神との関係を疎かにし、失ってしまうということが私たちの歩みにもあります。そのことによって、守ろうとしていたものまで失ってしまうようなことを私たちも体験するのです。そういう苦しみ、絶望の中から、私たちが主なる神を呼び求め、神がもう一度自分を思い起こして下さることを叫び求めるなら、つまり悔い改めて主なる神へと立ち帰るなら、その時私たちの歩みとサムソンの物語はつながるのです。
わたしを強めてくださる方のお陰で
本日共に読む新約聖書の箇所として、フィリピの信徒への手紙第4章10節以下を選びました。ここを選んだのは、13節の「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」という言葉のゆえです。サムソンは、主なる神にささげられた者として、神から大きな力を与えられていました。しかし神によって強くされ、大きな力を与えられて生きたのはサムソンだけではありません。この手紙を書いたパウロも、神が自分を強くして下さるので、自分にはすべてが可能だと言っています。その「全てが可能だ」というのは、11節にあるように、「自分の置かれた境遇に満足すること」ができるということです。自分は「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っている。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっている」と言っています。どのような境遇にあっても、そこで喜びと感謝をもって生きることができる、それがパウロに与えられている神からの力です。これはある意味で、サムソンの怪力よりももっと大きな力だと言えるでしょう。パウロはそういう力を発揮しつつ生きているのです。それはパウロがそのように力ある人だったからではなくて、「私を強めてくださる方のお陰で」とあるように、与えられた力です。その力を与えて下さったのは主イエス・キリストです。主イエス・キリストはどのようにしてこの力を与えて下さったのでしょうか。フィリピの信徒への手紙の第2章にそれが語られています。主イエスは、神の独り子、まことの神であられたのに、人間となって下さり、しかも罪人と同じ所にまで降りて来て下さり、十字架の死を体験して下さったのです。罪のゆえに人間が陥る絶望のどん底にまで、主イエスは降りて来て下さったのです。その主イエスを神が復活させ、ご自分のもとに高く上げ、全ての者を支配する権威と力とを与えて下さったのです。パウロはこの主イエス・キリストと出会い、主イエスを信じる者となったことによってあのような力を与えられたのです。主イエスと出会い、信じる前の彼は、自分の力、自分の正しさ、自分の信念に従って生きていました。そのように生きていた時、彼は、どんな境遇にあっても満足して喜びと感謝に生きることはできませんでした。自分が認められ、自分の思い通りになることによってしか、満足や喜びは得られなかったのです。しかし主イエス・キリストと出会い、悔い改めて主イエスを信じた時に初めて彼は、どんな境遇にあっても満足し、感謝し、前向きに生きる力を与えられたのです。私たちも、主イエス・キリストを信じることによって、まことの神のもとに立ち返ることができます。主イエスは私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。そして復活して今も生きておられます。その主イエスのもとに立ち返る時に、私たちも、与えられている境遇の中で、感謝と喜びの内に前向きに生きる力を与えられるのです。
復活による命の力
サムソンは、悔い改めて神のもとに立ち返り、力を回復されました。その力は、多くの敵を道連れにして彼自身が死ぬことをもたらす力でした。しかし私たちが主イエス・キリストのもとへと立ち返ることによって与えられる力は、主イエスの復活による力です。それは私たち自身を前向きに生かすと共に、私たちが出会い、交わりを持つ周囲の人々をも生かし、隣人との間に良い関係をもたらしていく、命の力なのです。