主日礼拝

朽ちない冠を受けるため

2026年9月27日(川嶋章弘副牧師)
説教題「朽ちない冠を受けるため」

イザヤ書 第40章27~31節
コリントの信徒への手紙一 第9章19~27節

競技の譬え
 私が主日礼拝の説教を担当するときは、コリントの信徒への手紙一を読み進めていて、本日は、前回に引き続き第9章の後半を読みます。前回は15~23節を中心に読みましたが、本日は19~27節を読みます。
 まず、その後半、24節以下に目を向けたいと思います。そこでパウロはコリント教会の人たちに、キリスト者の信仰生活について競技の譬えを用いて語っています。この譬えは、当時のコリント教会の人たちにとって、とても身近な譬えでした。ご存知の方も多いと思いますが、コリントのあるギリシアのペロポネソス半島の西岸オリンピアでは、四年ごとに古代オリンピックが開催されていました。現代オリンピックは、この古代オリンピックを復興する形で19世紀末に始まったものです。当時のギリシアで行われていた競技会は、オリンピアにおける古代オリンピックだけではありません。コリントにおいても、ギリシア本土とペロポネソス半島を結ぶコリント地峡イストモスで、二年ごとに「イストミア競技会」が開催されていました。オリンピックに匹敵するほどの大きな競技会であったようです。ですからコリント教会の人たちは、オリンピックやイストミア競技会を始めとした競技会について、またそこで行われている競技について、よく知っていたのです。

賞を受けられるように走りなさい
 だからパウロは24節でこのように言います。「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る人たちは、皆走っても、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい」。コリント教会の人たちは、陸上競技で一位になり賞を受けるのは一人だけであることをよく知っていました。パウロはそのことに目を向けさせ、それと同じように、キリスト者の信仰生活においても、「賞を受けられるように走りなさい」と語っているのです。現代を生きる私たちも、陸上競技に限らず、多くの競技で一位になり賞を受けるのが基本的に一人であることをよく知っていますから、このパウロの譬えは、私たちにとっても身近な、よく分かるものです。その私たちにも、パウロは、信仰生活において「賞を受けられるように走りなさい」と語っているのです。
 しかしそれは、信仰生活において、賞を受けられるのは一人だけだから、自分だけが賞を受けられるように走りなさい、ということではありません。パウロは本日の箇所の前半で、一人でも多くの人を救いたいと語っています。そのパウロが、信仰生活において、賞を受けられるのは一人だけだと語るはずがありません。そうではなくパウロは、どんな競技でも賞を受けるための厳しい戦いがあるように、信仰生活にも賞を受けるための厳しい戦いがあることを見つめています。アスリートが、厳しい戦いを戦い抜いて賞を受けるように、キリスト者も信仰生活において厳しい戦いを戦い抜かなくてはならないことを見つめているのです。洗礼を受けてキリスト者となったらゴールインなのではありません。そこから信仰生活を走り抜いて、戦い抜いてゴールインします。「あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい」とは、このことを示しているのです。

信仰生活には戦いがある
 ところが私たちは、信仰生活には戦いがある、しかもアスリートが経験するような厳しい戦いがある、という意識をあまり持っていないかもしれません。私たちは、キリスト者の信仰生活が、神の一方的な救いの恵みに対する「感謝の生活」であることを知っています。確かに私たちは、キリストの十字架と復活による救いの恵みに感謝して、喜んで生きていきます。しかし私たちはその「感謝の生活」に、厳しい戦いがあることをあまり意識していない、しっかり受けとめていないのではないでしょうか。それどころか信仰生活の中で、厳しい戦いに直面すると、なぜ救いにあずかっている自分が、こんなしんどい思いをしなくてはならないのかと思ったりします。こんなしんどい目に遭うなら、もう神様なんか信じない、と思うことすらあります。しかしそのような私たちに、パウロは、キリスト者の信仰生活には戦いがあることを告げているのです。
 キリスト者の信仰生活は「感謝の生活」、喜んで生きる生活と言われても、私たちは、本当にその通りだと思えるときばかりではありません。むしろなかなか感謝して、喜んで生きることができない、と思うことのほうが多いかもしれません。「感謝の生活」において、感謝して喜んで生きられない自分に直面する。まさにそこに信仰生活における戦いがあるのです。

節制と目標
 続く25節で、パウロは、「競技をする人は皆、すべてに節制します」とも語っています。アスリートが高いパフォーマンスを維持し、競技で勝つために、さまざまな節制をしていることは、私たちもよく知っています。そもそも練習を積み重ねるためには、自分のやりたいことを我慢しなければなりません。食事と栄養の管理も不可欠で、食事の量を制限したり、内容を調整したりしています。「節制」と訳された言葉は、自分自身を制御すること、セルフ・コントロールすることです。やりたいことがある、食べたいもの飲みたいものがある。そのような自分の欲求を制御し、コントロールするのが、節制なのです。
 しかしそれは、単に練習の量を増やせばよいわけでもなければ、食事を制限すればよいわけでもありません。26節でパウロは、「ですから、私は、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません」と言っています。ランナーはやみくもに走るのではなく、ゴールを目指して走るし、ボクサーは空を打つように拳を振り回すのではなく、相手を見定めて、つまり目的をもって拳を振るうのです。競技中だけのことではないでしょう。競技に備える練習や節制においても、やみくもに練習したり節制したりするのではありません。目標をしっかり定め、その目標に向かって練習を積み重ね、自分自身をコントロールして、必要な節制をしていきます。アスリートは、的はずれなことをして無駄なエネルギーを消耗しないようにしているのです。

信仰生活は自分自身との戦い
 そうであれば、キリスト者の信仰生活における節制とは何でしょうか。あるいは信仰生活において、やみくもに走らず、空を打つような拳闘をしない、とはどういうことなのでしょうか。そのことを考えるとき、この譬えの限界にも目を向ける必要があります。パウロは競技の譬えを用いて、キリスト者の信仰生活について語ってきました。しかしどんな譬えも、事柄の一面を分かりやすく示す一方で、限界があります。この譬えは、信仰生活には、アスリートが経験するのと同じような厳しい戦いがあり、しかもその戦いをやみくもに戦うのではなく、しっかりと目標を定め、その目標に向かって戦い、また節制する必要があることを示しています。しかし競技と信仰生活では、大きく異なることがあります。その一つは、すでにお話ししたように、競技では一位になり賞を受けるのは基本的に一人であるのに対して、信仰生活では一人だけが一位になり賞を受けるのではないということです。また、およそあらゆる競技は、相手の選手、ほかの選手との戦いです。ボクシングであれば、相手に向かって拳を振り、相手を倒さなくてはなりません。陸上競技にしても、ほかの選手よりも早くゴールしなくてはなりません。しかし信仰生活は、そうではない。信仰生活はほかの人、他者との戦いではなく、むしろ自分自身との戦いです。だから27節でパウロは、「むしろ、自分の体を打ち叩いて従わせます」と言っています。「自分の体」とは、自分自身のことを指しています。信仰生活は、他者に勝つための他者との戦いではなく、むしろ自分自身を打ち叩いて従わせる、自分自身との戦いなのです。

ほかの人とばかり戦っている
 私たちはこのことを、つまり信仰生活が他者との戦いではなく、自分自身との戦いであることを、よく分かっているつもりです。しかし案外私たちは、信仰生活において他者と戦っているのではないでしょうか。自分自身の信仰生活に目を向けるよりも、ほかの人の信仰生活にばかり目を向けてしまっているのです。隣人の振る舞いや発言ばかりを気にして、あの人の振る舞いは、この人の発言は、キリスト者にふさわしくない、などと批判したくなるのです。もちろん隣人の信仰生活における間違いを、見て見ぬ振りをするのではなく、指摘することも時には必要でしょう。しかしその場合でも、その指摘は相手を打ちのめすためにするのではありません。相手の信仰生活を守るため、建て上げるためにするのです。ところが私たちはしばしば他者を批判して、裁いて、打ちのめしてしまうことがあります。自分自身と戦うのではなく、自分自身と戦うことを後回しにして、ほかの人とばかり戦っています。自分とほかの人とを比べて、自分はあの人よりマシな信仰だと誇ってみたり、この人には遠く及ばないと卑下してみたりしているのです。しかしそれは、信仰生活において、まさにやみくもに走っているのであり、空を打つように拳を振り回しているのであり、的はずれなことをして無駄なエネルギーを消耗していることにほかならないのです。
 キリスト者の信仰生活は「感謝の生活」でありました。しかしその「感謝の生活」の中で私たちは、なかなか感謝して、喜んで生きることができない自分に直面する、と先ほどお話ししました。その最大の理由は、私たちが自分と他者とを比べて、他者に勝とうとしているから、そのようにまことに的はずれなことをしているからではないでしょうか。ほかの人と戦い、自分とほかの人とを比べている限り、私たちは「感謝の生活」を本当に生きることはできません。パウロはこの箇所の終わりで、「他の人に宣教しておきながら、自分のほうが失格者とならないためです」と言っています。キリストによる救いを宣べ伝え、その救いの恵みに感謝して生きることを伝えているのに、その自分が自分自身と戦わず、他者と戦い、他者と比べているようでは、「感謝の生活」に生きることはできないし、「感謝の生活」を拒んでしまうことになる。パウロはこのことを見つめているのです。

より多くの人を救うため
 私たちは信仰生活において自分自身と戦い、自分自身をコントロールして、節制していかなくてはなりません。それは、他者にばかり目を向けて、他者と比べるのをやめて、自分自身に目を向ける、ということです。しかしそうなると私たちの信仰生活は、他者とは関係ない生活ということになるのでしょうか。自分自身と戦うというのは、他者とは関係ない自分の内面における欲求や欲望と戦うだけ、それらを節制するだけなのでしょうか。そうではないことが、本日の箇所の前半から示されます。19節でパウロはこのように言っています。「私は誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷となりました。より多くの人を得るためです」。「誰に対しても」と訳されていますが、必ずしも人に限定する必要はなく、「すべてのことに対して自由である」、と言われています。パウロは、そして私たちキリスト者は、主イエス・キリストの十字架と復活による救いにあずかり、これをしなくては救われないとか、あれをしたら滅びる、ということから解放され、本当の自由を与えられました。私たちキリスト者は何にも縛られず、何でもできる自由な者なのです。しかしパウロは、自由であり何でもできる自分が、すべての人の奴隷となった、すべての人に仕える者となった、と言います。具体的には19節以下で語られているように、ユダヤ人、つまり律法の下にある人には、律法の下にある人のようになり、「律法を持たない人」、つまり異邦人には、異邦人のようになり、「弱い人には、弱い人に」なったのです。何のためでしょうか。それは、ユダヤ人を、異邦人を、弱い人を得るためであり、救うためです。つまりパウロは、19節の言葉で言えば「より多くの人を得るため」に、22節の言葉で言えば、「ともかく、何人かでも救うため」に、何でもできる自由な者であるにもかかわらず、すべての人の奴隷となり、すべての人に仕える者となりました。より多くの人を救うために、与えられている自由を敢えて用いないで、つまり節制して、すべての人に仕えたのです。私たちの信仰生活は、他者と戦うのではなく、自分自身と戦います。しかしその自分自身との戦いは、他者とは関係ない戦いなのではありません。より多くの人を救うための戦いなのです。もちろん私たちが、人を救うことができるのではありません。神だけが人を救うことがおできになります。しかし私たちは、自分自身を打ち叩いて、自分自身をコントロールして、与えられている自由を敢えて用いず、節制することによって、相手と同じ目線になって、相手に届く言葉や振る舞いで福音を届け、キリストによる救いを証ししていくことができるのです。その私たちを用いて、神は救いのみ業を前進させてくださるのです。
 そこには確かに自分自身との激しい戦いがあります。なぜなら私たちは基本的に自分勝手に生きたい、自己中心的に生きたい、と思っているからです。ほかの人に仕えて生きるよりも、自分にほかの人を仕えさせて生きたい、と思っているからです。そしてそのように生きることもできるのです。私たちが自由であるとはそういうことです。しかし私たちは、そのような思いに支配されがちな自分自身と戦い、与えられている自由を敢えて用いないで、節制して、ほかの人に仕えて生きていくのです。

朽ちない冠を受けるため
 パウロは、そのような信仰生活の歩みの先で、私たちが「朽ちない冠」を受けることができる、と言います。25節でこのように言われています。「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるために節制するのです」。当時の古代オリンピックでは、優勝者に「月桂冠」が、イストミア競技会では、「松の冠」が与えられたそうです。しかしそれらの冠は、時を経れば当然朽ち果ててしまいます。もちろん、競技する方々が多大な努力をして、ほかの人たちに勝利し、冠を受けることに意味がないと言いたいわけではありません。どんな競技であれ、その頂点に立つことは意義あることに違いありません。しかしそれでも、その冠は、やがて朽ちていきます。何よりもその冠は、死を超えて受けられるものではないし、死を超えて私たちを支えることはできません。だから「朽ちる冠」なのです。しかし私たちキリスト者が、信仰生活において、自分自身と戦い、与えられている自由を敢えて用いず、ほかの人に仕えて生きていく歩みの先に与えられるのは、「朽ちない冠」です。私たちは誰もが地上の生涯で死を迎えます。しかしそれで終わりではありません。私たちは、死を超えて、終わりの日の救いの完成のときに、復活と永遠の命に、「朽ちない冠」にあずかるのです。
 このように「朽ちない冠」とは、救いの完成のときに与えられる復活と永遠の命を指している、と言えます。しかし、本日の箇所の前半からの文脈の中で考えると、それだけではなく、別のことをも指していることに気づかされます。23節でこのように言われています。「福音のために、私はすべてのことをしています。福音に共にあずかる者となるためです」。つまり「朽ちない冠を受ける」とは、「福音に共にあずかる」ことでもあります。私たちは「福音に共にあずかる」信仰生活の先に、その結果として、復活と永遠の命にあずかるのです。私たちが自分自身と戦い、自分の自由を制限して、ほかの人に仕えて生きるのは、ほかの人の救いのためだけではありません。そのように生きることによってだけ、私たちは福音に共にあずかって生きることができるのです。別の言い方をすれば、救いの恵みに対する「感謝の生活」を本当に生きることができるのです。福音を独り占めすることによって、福音にあずかって生きることができるのではありません。その福音をほかの人に届け、証ししていくことを通して、私たちは福音に共にあずかり、「朽ちない冠」を受け、救いの恵みに感謝し、喜んで生きることができるのです。そのために私たちは信仰生活において自分自身と戦っていくのです。

福音に共にあずかることそのもの
 そこには節制が求められ、自分の自由を制限することが求められます。それゆえにそこには自分自身との厳しい戦いがあるのです。しかし勘違いしてはいけないのは、節制することが、朽ちない冠を受けることの条件でも、福音に共にあずかることの条件でもない、ということです。また私たち自身の内に、自分自身との厳しい戦いを戦う力があるわけでもありません。では、どういうことなのでしょうか。それは、主イエス・キリストを見つめるときに示されます。私たちが信仰生活の中で節制し、自由を制限することは、福音に共にあずかるための条件ではなく、福音に共にあずかること、そのものです。なぜなら福音とは、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現した救いだからです。主イエス・キリストは、この救いのために十字架で死んでくださいました。そのとき主イエスは、ご自分を十字架につけた者たちを、つまり私たちを責め、断罪するのではなく、私たちの罪をすべて背負って、私たちの代わりに十字架で死んでくださり、私たちの罪の赦しを実現してくださいました。まことの神であるお方が、あらゆる自由を捨てて、徹底的にへりくだり、みすぼらしい姿で、十字架で死んでくださったのです。そのようにして主イエスは私たちを徹底的に愛し、私たちに徹底的に仕えてくださいました。これが福音です。この主イエス・キリストを見つめるとき、私たちは、キリストの十字架と復活による救いの恵みの中で、その救いの恵みに感謝して、キリストがそうであったように、自分の自由を敢えて用いず、他者に仕えていきます。少しずつであっても、僅かであっても、そのように生きていくのです。

神が力を与えてくださる
 そして信仰生活において、自分自身と戦い、節制して歩む力も、キリストの十字架を見つめ、そこに示された神の愛を受けることを通して与えられるものです。共に読まれた旧約聖書イザヤ書40章31節にこのようにあります。「しかし、主を待ち望む者は新たな力を得、鷲のように翼を広げて舞い上がる。走っても弱ることがなく 歩いても疲れることはない」。私たちは自分の力で信仰生活を走り抜こうと思っても、自分自身と戦おうと思っても、節制しようと思っても、そんなことはできません。あっという間に弱り、疲れ果ててしまうに違いありません。しかし私たちは、自分の力に頼るのではなく、主を待ち望みます。すでに十字架と復活によって救いを実現してくださった主イエス・キリストが、将来再び来てくださり、その救いを完成してくださることを待ち望み、そのことに希望を置いて生きるのです。キリストの十字架を見つめるとき、独り子を十字架につけてまで、私たちの救いを実現してくださり、将来、その救いを完成してくださる、神の計り知れない愛と力とを受け取ることができます。神が自分をこれほどまでに愛し、大切にし、生かしてくださっていることに気づかされます。この計り知れない神の愛が、神の力が、私たちに信仰生活を走り抜く力を、自分自身と戦い、節制して生きる力を与えるのです。この神の愛と力を与えられて、私たちは福音に共にあずかる歩みを、朽ちない冠を受ける歩みを歩んでいくのです。
 しかも信仰生活における自分自身との戦いは、神の愛と力を受けた私たちが孤独に、独りぼっちで戦うものではありません。私たちは信仰生活において自分自身と戦うときも、教会に連なる者たちに助けられ、支えられながら戦うのです。その意味では「信仰生活」より「教会生活」と言ったほうがよいかもしれません。「教会生活」において私たちは、キリストの十字架に示されている神の愛と力を受け、また共に助け合い、支え合いながら、自分自身と戦い、与えられている自由を敢えて用いず、節制して、ほかの人に仕えていくのです。その歩みこそ、私たちにとって、福音に共にあずかる歩みであり、朽ちない冠を受ける歩みなのです。

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