2026年8月23日
説教題「高ぶる者とへりくだる者」
詩編 第75編1~11節
マタイによる福音書 第23章1~12節
五つの説教の最後
本日からマタイによる福音書の第23章に入ります。23章から25章にかけてのところには、主イエスの教えがまとめて語られています。マタイによる福音書には、このような主イエスの教え、つまり説教の部分と、物語の部分、つまり主イエスのなさったいろいろな奇跡や、敵対する人々との論争の部分が交互に出てきます。説教の部分は全部で五つです。第一は、5~7章の、「山上の説教」と言われている部分です。第二は10章の、弟子たちを伝道へと派遣するに際して語られた説教、第三は13章で、天の国についてのたとえ話が並べられています。第四の部分は18章で、主イエスを信じる者の群れである教会における、きょうだいどうしの交わりについての教えが語られています。そして最後の第五の部分が、23章から25章です。つまり本日から読んでいく部分は、マタイ福音書に語られている主イエスの五つの説教の内の最後のものなのです。最初の、いわゆる山上の説教と同じように、ここも3章にわたる長い説教です。長さだけでなく、内容においても、この23~25章は、山上の説教と対応している点が多いのです。ここを読んでいく中でこれからしばしば、山上の説教を振り返ることになります。
ファリサイ派の人々に対する宣言
このように23~25章には主イエスの教え、説教がまとめられているわけですが、23章と、24、25章では語られている相手と場所が違います。23章は、1節にあるように、「群衆と弟子たち」に語られた教えです。そして24章1節に「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき」とありますから、これが語られたのはエルサレムの神殿の境内においてです。そしてここに語られているのは、律法学者やファリサイ派の人々に対する主イエスの厳しい批判です。これまで読んできた21章の後半から22章にかけて、律法学者やファリサイ派の人々は、エルサレムに来られた主イエスを受け入れようとせず、陥れようとしました。主イエスと彼らとの間でなされた厳しいやりとりが語られてきたのです。23章は、それらのことを受けて、律法学者やファリサイ派の人々について主イエスが最終的にお語りになった批判の言葉です。主イエスは、彼らの本拠地であるエルサレム神殿の境内で、群衆と弟子たちに対してこれをお語りになったのです。
次の24章の3節には、「イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちが、ひそかに御もとに来て言った」とあります。24、25章は、エルサレムから谷を隔てたオリーブ山において、弟子たちだけを相手に語られた教えです。そこに語られているのは、先取りして言っておくと、この世の終わりについて、です。この世の終わりに、主イエスがもう一度来られ、そして救いが完成する、そのことを待ち望んで生きることへの勧めが、第五の説教の最後のところに語られているのです。
律法に従って生きているファリサイ派
さて、主イエスを受け入れずに陥れようとしているファリサイ派の人々のことを、私たちはともすればとんでもない悪人たちだと思ってしまいがちです。しかし彼らは、旧約聖書に語られている主なる神の律法を熱心に守り、それに基づいて生活していた人々です。だから彼らは「律法学者」つまり律法に詳しい先生、とも呼ばれていて、人々は彼らのところへ行って、生活の上でのいろいろな問題において、どうすれば律法に従って歩むことができるかを教えてもらっていたのです。つまり彼らファリサイ派は、真面目に、熱心に、神の律法に従って生きようとしていた人々です。主イエスの時代にはまだエルサレムに神殿があって、犠牲の動物が神に献げられる礼拝がなされていました。ユダヤ人たちはそのエルサレム神殿を中心として、主なる神の民として生きていました。しかし紀元70年にローマ帝国によってエルサレムが陥落し、神殿も破壊されてしまいました。ユダヤ人たちは、神の民として生きるための心の拠り所を失ってしまったのです。この民族存亡の危機の中で彼らは、神の律法に従って生きることによって、神の民としての誇りと自覚を維持していったのです。その中心となったのがファリサイ派でした。神殿の祭儀ではなく、律法を守ることを中心とする今日のユダヤ教の土台を築いたのは彼らファリサイ派だったのです。彼らのおかげでユダヤ人たちは、二千年にわたって、国を持たず、世界各地に散らされて生きてきた中でも、民族としてのアイデンティティーを保ち続けることができたのです。
言うだけで実行しない
このようにファリサイ派は神の律法を熱心に守り、それを人々に教えてもいました。主イエスはそのことを否定したり、批判してはおられません。この23章の2、3節で、「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい」と言っておられる通りです。モーセは、神から律法を神から授けられて人々に伝えました。「モーセの座についている」というのは、ファリサイ派の人々が、このモーセの権威を受け継いで神の律法を人々に教えている、ということです。主イエスは、モーセを通して神から与えられた律法を重んじておられるのです。そのことは、あの山上の説教の中の5章17節で、「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」とおっしゃったことと重なります。主イエスは、律法を否定するのではなく、むしろ大切にしておられるのであって、それを教えているファリサイ派のことをも決して頭から否定しているわけではないのです。
しかし主イエスは3節後半で、「しかし、彼らの行いは、見習ってはならない。言うだけで実行しないからである」と言っておられます。これはどういうことでしょうか。ファリサイ派の人々は、人々に律法を教え、こうしなさいと命じているが、自分ではその教えを実行していないのでしょうか。そうではないはずです。先ほど申しましたように、彼らファリサイ派は、先ず自分たちが律法をしっかりと守ってその通りに生きようと熱心に励んでいたのです。だからこそ人々は彼らを尊敬して、律法に従う生き方を教えてもらっていたのです。言うだけで実行していなかったら、彼らの教えを聞こうとする人はいなかったでしょう。では、「言うだけで実行しない」とはどういうことなのでしょうか。それはむしろ次の4節の、「彼らは、背負いきれない重荷をくくって、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」ということを言っているのでしょう。つまり、律法に従って生きるためにはこうしなさい、と命じることによって、人々の肩に大きな重荷を載せるけれども、その人が実際にそれを背負って歩いていく、つまりその律法に従って生きていくことを助けてはくれないのです。彼ら自身は律法を守って生きているけれども、人々が本当にそのように生きることができる道を示してはいない。「言うだけで実行しない」というのはそういうことです。
人に見せるため
彼らの教えがそのようになっているのは何故なのか。主イエスはその理由を鋭くえぐり出しておられます。それが5節の「そのすることは、すべて人に見せるためである」ということです。「人の肩に重荷を載せるが、それを動かすために指一本貸そうともしない」というのと、「そのすることは、すべて人に見せるためである」ということは直接には結びつかないように感じられるかもしれません。しかし実は大いに関係があるのです。「人に見せるため」とは、何を人に見せようとしているのでしょうか。そのことがその後7節までのところに語られています。先ず、「聖句の入った小箱のひもを幅広くする」、とあります。これは、申命記6章8節の、「その言葉をしるしとして手に結び、記章として額に付け」というみ言葉から来ています。この言葉を文字通りに受け止めて、聖句の書かれた小さな紙切れを入れた小箱を腕や額に付ける、ということがなされていました。ファリサイ派はその小箱のひもを幅広くして目立つようにすることによって、自分は神のみ言葉を腕や額につけていつも覚えている、ということを人々に見せようとしていたのです。「衣の房を長くする」というのも、民数記15章38節に、衣服の四隅に房を付けることによって主の戒めを思い起こすようにと語られていることから来ています。つまり彼らが人に見せようとしているのは、自分がいかに神の律法を大事にし、それを常に覚え、守り行なっているか、ということ、つまり自分の信仰深さです。それを見せることによって彼らは、人から尊敬され、重んじられることを願っているのです。6、7節に「宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む」とあるのはそういうことです。彼らが律法を守り、またそれを人々に教えているのは、すべてこのように人に見せるため、自分の信仰深さを人に示して自分が尊敬されるためなのだ、と主イエスは見抜いておられるのです。それはもっと言えば、彼らのしていることはすべて自分のためだ、ということです。彼らが、神の律法を熱心に守り、人々にも、律法に従って生きることを教えているのは、自分が尊敬され、重んじられるためなのであって、神の民として、神の律法に従って生きるにはどうしたらよいのだろうか、つまり信仰者としてどのように生きるべきかと悩んでいる人のためではないのです。だから彼らの教えは、人を生かすものにならないのです。人に重荷を負わせるだけで、それを動かすために指一本貸そうともしない、というのはそういうことなのです。
高ぶりへの戒め
主イエスはこのように、自分の信仰深さを人に見せることによって人からの尊敬を得ようとしているファリサイ派の人々のことを意識しつつ、8節以下で、「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆きょうだいなのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである」とおっしゃいました。人間を、「先生」「父」「教師」と呼んではならない。これは、この世に「先生」とか「教師」と呼ばれる人がいてはいけない、ということではないでしょう。教会において牧師はみ言葉の教師として立てられています。牧師を「先生」と呼ばなければならん、ということは全くありませんが、そう呼んでも間違いではないのです。また、子どもたちのための教会である教会学校にも教師が立てられています。それらのことがこの主イエスのみ言葉に反していると考える必要はありません。またこれは、家庭において、子どもが父親を「お父さん」と呼んではならないということでもありません。主イエスが語っておられるのは、共に主イエス・キリストに従って歩んでいる兄弟姉妹の間で、人よりも立派な者となり、人から尊敬され、重んじられるために、先生とか父とか教師と呼ばれることを求めることへの警告です。それゆえにこの教えは次の11、12節の「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」へと繋がるのです。先生、父、教師と呼ばれてはならないというのは、「高ぶる」ことへの戒めです。自分が高い者、偉い者、立派な者として人から尊敬され、賞賛されることを求めることが「高ぶる」ことです。そうではなくて、むしろ、へりくだる者となること、つまり人よりも低いところに身を置いて人に仕える者となることをこそ、主イエスは私たちに勧め、求めておられるのです。主なる神の前では、そのようにへりくだる者こそが、本当の意味で「偉い人」なのであり、神はそのような者をこそ高めて下さるのだ、と主イエスは教えておられるのです。
ではどうすればよいのか
このようにここで主イエスは、自分の信仰深さを人に見せることによって、偉い者、立派な者として尊敬されようとする「高ぶり」を戒めておられます。ファリサイ派の人々は、神から与えられた律法という正しい教えを語っていたけれども、その高ぶりのゆえに、人を本当に助け、力を与え、救うことができなくなっているのです。そういうことは私たちにおいても起ります。自分の中に、自分の立派さを人に見せて尊敬されたい、という「高ぶり」の思いが少しでもあると、私たちが人に何かを教えたりアドバイスする言葉は、たとえその人のためを思って語っていても、「自分のため」の言葉になってしまうのです。「自分のため」の言葉は、相手に重荷を負わせるだけで、その人を支え、助けることはできないのです。
それでは私たちはどうすればよいのでしょうか。どうすれば、高ぶりに陥らずに、へりくだる者、仕える者となって、本当に人を生かす言葉を語ることができるようになるのでしょうか。それが示されなければ、この主イエスの教えも結局、「仕える者になれ」「へりくだる者になれ」という背負いきれない重荷を人の肩に載せて、自分ではそれを動かすために指一本貸そうとしないものになってしまうでしょう。その時私たちの中で起るのは、自分の謙遜さやへりくだりを人に見せることによって、自分が信仰深い立派な者として尊敬されることを求める、という新たな高ぶりでしかないでしょう。それでは結局、聖句の小箱のひもが自分の謙遜さに置き換わっただけのことです。
偽善
「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という教えにおいて主イエスは何を考えておられるのか。そのことを捉えるために、あの「山上の説教」を振り返りたいと思います。そこにも「彼らのすることはすべて人に見せるためである」と同じようなことが語られていたのです。それは6章の始めのところです。6章1、2節に「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いが受けられない。だから、施しをするときには、偽善者たちが人から褒められようと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている」とあります。その後の5節にも、「また、祈るときには、偽善者のようであってはならない。彼らは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈ることを好む。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている」とあります。さらに16節にも「断食するときには、偽善者のように暗い顔つきをしてはならない。彼らは、断食しているのが人に見えるようにと、顔を隠すしぐさをする。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている」とあります。「人に見てもらおうとして」施しや祈りや断食をする偽善者たちのことが批判されているのです。それは、律法学者やファリサイ派の人々が、人に見せるために聖句の小箱のひもを幅広くしたり、衣の房を長くし、宴会では上座、会堂では上席を好み、「先生」と呼ばれるのを好んでいるのと全く同じことです。「山上の説教」の6章と本日の箇所は、同じことを語っているのです。6章において、「見てもらおうとして人の前で」善行を行う人々のことが「偽善者」と呼ばれていました。「人に見せるため」に律法を守り行っているファリサイ派の人々こそまさにこの「偽善者」です。それゆえにこの後の13節以下のところには、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ」と何度も繰り返されていくのです。主イエスは、彼らの「高ぶり」の根本に「偽善」があることを見ておられるのです。
偽善とは何か
「偽善」とはどういうことなのでしょうか。今読んだ第6章には、施しと祈りと断食において偽善に陥っている者たちの姿が描かれていましたが、そこに共通して出てくる言葉があります。それは、「彼らはその報いをすでに受けている」という言葉です。この言葉が、「偽善」とはどういうことなのかを語っているのです。この言葉を、偽善者たちには神から既に何らかの罰が下されている、と読んでしまってはなりません。ここでの「報い」は「罰」という意味ではなくて、むしろご褒美、良い報いのことです。偽善者は、人に見せようとして善行をすることによって、人から褒められ、尊敬される、というご褒美、良い報いをすでに受けているのです。そしてこの「受けている」は、もう十分に受けていて、それで満足している、ということを意味しています。つまり彼らは、人に褒められ、尊敬される、という人からの報いだけでもう十分に満足していて、神からの報いを求めてはいないのです。それは言い換えれば、神を見つめていない、神と共に生きておらず、神が自分をどのように見つめておられるのか、その神の目を意識していない、ということです。人の目、人からの評価が全てとなっていて、神の目を意識していない。これこそが偽善の本質です。偽善というのは、自分を実際よりも立派に、偉く見せようとすることではありません。それはむしろ偽善の結果として現れることであって、根っこにあるのは、人の目、人の評価で心が満たされていて、神の目を意識せず、神からの報いを求めていない、ということなのです。そのような偽善に陥る時、私たちのすることは、たとえ善いこと、正しいこと、人助けであっても、人に見せるための、高ぶりの業となるのです。またそこで私たちが語ることは、人に重荷を負わせるだけで、それを動かすために指一本貸そうとしない、人を本当に生かすことのできない教えになるのです。
偽善から解放されるには
このような偽善から高ぶりが生まれるのであれば、そこから抜け出す道もそこに示されています。それは、私たちが、自分を低くして、謙遜にへりくだって人に仕える者となるように努力する、ということではありません。そういう私たちの努力によって偽善から抜け出すことはできないのです。なぜならそのような努力は先ほど見たように、自分の謙遜を誇るという別の高ぶりを生むからです。私たちが偽善から抜け出すために本当に必要なことは、人の目、人の評価を気にすることをやめることです。そしてそれは、神の目をこそ意識し、神からの報いをこそ求めていくことによってこそ実現するのです。神が自分を見つめておられる、その神のまなざしの前で生きる者となることによってこそ私たちは、偽善、高ぶりから解放されるのです。
神の愛のまなざしの前で生きる
神は私たちをどのようなまなざしで見つめておられるのでしょうか。聖書は、神が独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、その主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことを告げています。神はそのようにして罪人である私たちを赦し、新しく生かして下さっているのです。つまり私たちを見つめておられる神のまなざしは、独り子の命を与えて下さるほどに私たちを愛して下さっている愛のまなざしなのです。神は私たちを、独り子の十字架の死によって罪の支配から救い出し、ご自分の子として生かそうとしておられます。この神の愛のまなざしの前で生きていく時に、私たちは、人の目、人の評価を気にすることから解放されるのです。そこでは、人に自分を立派な者、信仰深い者と見せる必要はもうありません。弱く罪深い私たちが、そのままで神に愛され、救っていただいているからです。そのことを見つめていく時にこそ私たちは、高ぶる者ではなくてへりくだる者となることができます。人に重荷を負わせるのではなく、むしろ人の重荷を共に背負っていく者、人に仕え、人を生かし、支える者となることができるのです。