2025年12月奨励「一人のみどりごが私たちのために生まれた。」
(12月3日昼の聖書研究祈祷会) 牧師 藤掛順一
(イザヤ書第9章5節、聖書協会共同訳)
アドベント(到来)
12月に入り、アドベント(待降節)を迎えました。主イエス・キリストのご降誕を喜び祝うクリスマスに備えていく日々です。それは同時に、復活して天に昇り、全能の父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストが、世の終わりにもう一度来て下さることを待ち望む信仰を新たにする日々でもあります。主イエスの再臨による終末において、私たちも復活し、永遠の命を生きる新しい体が与えられ、「こうして、私たちはいつまでも主と共にいることになります」(一テサロニケ4・17)という救いが完成します。アドベント(「到来」という意味)は、救い主イエスの第一の到来(クリスマスの出来事)を覚えてそれに備えていくだけでなく、主イエスの第二の到来(再臨)による救いの完成に備えていく時でもあるのです。
イザヤの預言
このアドベントを覚えて、12月の聖句をイザヤ書第9章5節としました。ここはアドベントによく読まれる箇所です。「一人のみどりごが私たちのために生まれた」で始まる5、6節は、ヘンデルの「メサイア」の合唱曲の歌詞にもなっています。キリスト教会は、イザヤのこの預言を、まさに主イエス・キリストご降誕の預言として読んできたのです。またイザヤ書第9章1節には、「闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝いた」とあります。「メサイア」においては、先ほどの「一人のみどりごが…」の合唱曲の前にこの1節が歌われています。闇の中を歩み、死の陰の地に住んでいる民が、大いなる光を見た、そのことが「一人のみどりご」の誕生によって実現したのです。このことも、主イエス・キリストにおいて成就しました。主イエスこそ、罪の闇の中を歩んでいる者に赦しを与える大いなる救いの光であり、死の陰の地、つまり死に支配された絶望の中にいる者の上に輝いた希望の光なのです。これらの預言はいずれも、「見た、輝いた、生まれた」というように既に起ったこととして語られています。そのように語ることによって、そのことが将来確かに起ることを預言者イザヤは告げたのです。主イエスによって、これらのことは確かに既に起ったこととなったのです。
神である王の支配の確立
イザヤは「一人のみどりご」がどのような者であると語ったのでしょうか。5節後半には「主権がその肩にあり、その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」とあります。生まれたばかりの「みどりご」は、か弱く小さな赤ん坊に過ぎませんが、成長して「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる者になるのです。それらを一言で言えば「主権がその肩にあり」ということです。新共同訳では「権威が彼の肩にある」でした。「主権、権威」それは「支配」ということです。この「一人のみどりご」は、支配する者となるのです。イザヤが見つめているのは、神の民イスラエルを支配する者、ということです。6節に「その主権は増し、平和には終わりがない。ダビデの王座とその王国は/公正と正義によって立てられ、支えられる/今より、とこしえに」とあります。このみどりごは「ダビデの王座」につき、ダビデの王国、つまり主なる神の民であるイスラエルを支配するのです。しかしそれはただイスラエルという一つの国を支配する、ということではありません。そのことによって、終わりのない平和が実現する、と言われています。それは一つの国だけを支配しても実現しません。「平和」は周囲の諸国との関係において成り立つのです。つまり彼が確立する「主権、支配」は、イスラエルのみに及ぶのではなく、周囲の国々にも、つまりは全世界に及ぶのです。だからそこには「終わりのない平和」が確立するのです。「その主権は増し、平和には終わりがない」というのは「一人のみどりご」の支配が全世界に行き渡り、それによって、終わることのない平和が実現することを語っているのです。そういう「主権」は人間の王が確立できるものではありません。「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父」という言葉は、従来、神についてのみ語られているものだそうです(大島力『イザヤ書を読もう』上)。単なる人間の王ではなく、神である王のご支配が確立し、それによって「終わることのない平和」が実現することをイザヤは見つめているのです。それはまさに、まことの神でありつつまことの人となって下さったイエス・キリストのご支配(神の国)の確立によって救いが実現することの預言であると言えるのです。
戦いの勝利による平和の実現
この王の主権、支配は、戦いに勝利することによって確立します。2〜4節にはそのことが語られています。2節の終わりに、「戦利品を分けて喜び踊るように」とあります。戦利品を分けるのは戦いに勝利した時です。その勝利によって、3節の「彼らの負う軛、その肩の杖、虐げる者の鞭を/あなたがミデヤンの日のように打ち砕いてくださった」という救いが実現するのです。「ミデヤンの日」とは、主なる神によって立てられた士師ギデオンによって、イスラエルを支配していた異邦人であるミデヤン人が打ち破られた日(士師記第7章)のことです。その日と同じように、成長した「一人のみどりご」が主権をもって支配する王となり、敵との戦いに勝利して、「彼らの負う軛、その肩の杖、虐げる者の鞭」を「打ち砕いて」、イスラエルの民を虐げている者たちから解放してくれる、そういう救いの実現をイザヤは望み見ているのです。この王の勝利、主権の確立によって、「終わりがない平和」が実現します。その様子を描いているのが4節です。「地を踏み鳴らした兵士の靴と血にまみれた服はすべて焼かれ、火の餌食となった」。兵士の靴や血にまみれた軍服が全て焼かれる、それは戦いのための道具、武器が全て廃棄される、ということを意味しており、もはや戦いは行われない、ということです。戦いのない世界が実現するのです。6節の「その主権は増し、平和には終わりがない。ダビデの王座とその王国は/公正と正義によって立てられ、支えられる/今より、とこしえに」はそういう救いの預言です。そのような平和を実現するがゆえに、この王は「平和の君」と呼ばれるのです。
今私たちは、ウクライナにおいて、中東において、また内戦が行われているその他の国々において、このような「戦いの終わり」が実現し、終わりのない平和が訪れることを切に願っています。しかし私たちは、それと共に、イザヤが語ったこの預言の限界と言うか、不十分さをも見つめなければならないでしょう。それは、この平和が、戦いにおける圧倒的な勝利によってもたらされるものだ、ということです。もはや戦いは行われず、「地を踏み鳴らした兵士の靴と血にまみれた服はすべて焼かれ」るのは、ダビデの王座に着く王が、圧倒的な力によって他の国々を打ち負かし、全世界の主権、支配を確立するからです。つまりこの王に逆らう全ての力が「ミデヤンの日」のように打ち破られ、世界全体がこの王によって征服されることによって「終わりがない平和」が確立するのです。イザヤはそういう救いを望み見てこの預言を語っています。イザヤが生きていた当時のイスラエルは、北にはアッシリア、南にはエジプトという大国の脅威にさらされており、北王国イスラエルも南王国ユダも右往左往していました。そして結局北王国はアッシリアに、南王国はアッシリアを滅ぼした新バビロニアに滅ぼされていくのです。そのような深刻な「安全保障状況」であり、あちらもこちらも「存立危機事態」だらけの中で、イザヤは、「一人のみどりご」が生まれ、「主権がその肩にある」王となり、諸国との戦いに勝利して戦いを終わらせ、平和を確立する、という救いが主なる神によって将来与えられることを示され、預言したのです。
世界の歴史が示していること
そのような仕方で平和が実現することがある、ということを世界の歴史は示しています。古くは、ローマ帝国の覇権が確立したことによって「ローマの平和」(Pax Romana)が実現し、その下での繁栄が数百年続きました。主イエスの誕生は、その「ローマの平和」を確立した初代皇帝アウグストゥスの時でした。生まれたばかりのキリスト教は、「ローマの平和」の恩恵を受けて、ローマ帝国内に急速に広がって行ったのです。第二次世界大戦後には、アメリカとソ連との東西両勢力の「冷戦」の中で、熱い戦争の危機が常に感じられていましたが、実際には戦いは部分的にしか起らず、今にして思えば平和が維持されていました。特に日本は、連合国、具体的にはアメリカの圧倒的な力によって徹底的に打ち負かされ、アメリカの支配下に置かれたことで、「アメリカの平和」(Pax Americana)の下で復興し、経済的繁栄への道を歩みました。ある力の勝利によって戦いが終わり、平和がもたらされるということは確かにあるのです。しかしそのようにして実現した平和は、「終わりのない平和」ではない、ということも世界の歴史が証明しています。ある国や人間が勝利して圧倒的な支配を確立することによって、ある期間平和が訪れることはあっても、押さえつけられた怒りや憎しみは必ず残っており、いつかそれが噴出して再び戦いが始まるのです。ウクライナにおける戦争も、プーチンの要求通りに領土を割譲し、軍備を縮小し、NATOにも加盟しないことを受け入れれば戦いは終わるのでしょう。しかし侵略した側を一方的に利するような条件は受け入れない、となれば、戦いがいつまでも続き、人々の命や財産が失われていきます。平和を具体的に実現することの難しさに今世界は直面しているわけです。
主なる神の主権、支配はどのようにして確立するのか
イザヤは、「一人のみどりご」が生まれ、成長して「主権がその肩にあり、その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」王となり、その王の支配が全世界に及ぶことによって、「終わりがない平和」が実現することを預言しました。しかし今見たように、「終わりがない平和」は、人間の王の支配によってはもたらされません。だからイザヤが語ったことには限界ないし不十分さがありました。しかしイザヤは、「一人のみどりご」が「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」となると預言しました。それは既に見たように、単なる人間の王ではなくて、神である方のご支配が確立する、ということでした。つまりイザヤは、将来超人的な王が現れて世界を征服し、諸国を統一することを望み見ていたのではなくて、主なる神の主権、支配がこの世界に確立し、それによって終わりがない平和が実現することを見つめていたのです。主なる神の主権、支配がどのように確立するのかは、イザヤにも分かりませんでした。それは主なる神ご自身のご決意、み心によるのであって、預言者であってもそれをはっきりと知ることはできなかったのです。なのでイザヤは、自分の経験から得た知識に基づいて、神の主権の確立を描きました。それが「戦利品を分けて喜び踊るように」とか、「地を踏み鳴らした兵士の靴と血にまみれた服はすべて焼かれ、火の餌食となった」という「戦いに勝利することによる平和の確立」でした。しかし主なる神は、それとは全く違う仕方で、ご自分の主権、支配を確立することを決意しておられたのです。
主イエスのご生涯によって
主なる神のこのご決意のゆえに、神の独り子主イエス・キリストがこの世に遣わされました。主イエスは、人間の部屋に迎えてもらうことができない中で、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになりました。そして、人間の国の王や支配者となることとは無縁なご生涯を歩み、最後は捕えられ、十字架につけられて殺されました。人間が考える「主権、支配の確立」とは正反対の、勝利よりもむしろ敗北としか思えない歩みでした。しかしこの主イエスこそが、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」となったのです。ベツレヘムの馬小屋で生まれ、十字架の死へと歩んだ主イエスのご生涯によって、この世界に対する主権、ご支配を確立することを、主なる神は決意しておられたのです。それは、戦いに勝利して敵を屈服させることによる勝利ではありません。そのようにして築かれた平和は決して「終わりがない平和」ではないことを主はご存知だったのです。むしろご自分の独り子である主イエスが人間の罪を全て背負って十字架にかかって死ぬことによって、人間を支配している罪の力に勝利し、そこから人間を救い出すことが主のみ心でした。そしてさらにその主イエスを死者の中から復活させることによって、罪と共に人間を支配している死の力にも勝利して、罪と死の支配から人間を解放して下さったのです。主なる神はそのようにしてこの世界に、私たちの上に、ご自分の主権、支配を確立して下さいました。この神のご決意、み心によって、私たちは救われたのです。「終わりがない平和」への道もそこにこそ開かれているのです。
万軍の主の熱情
「一人のみどりごが私たちのために生まれた」というイザヤ書9章5節は、このまことの救いをもたらして下さった主イエス・キリストの誕生の預言です。イザヤ自身は、その「みどりご」がどのようにして神の主権、ご支配を確立なさるのかを正しく捉えることはできませんでした。しかし神の主権、ご支配が「一人のみどりご」の誕生によってもたらされる、と彼に語らせた主なる神のみ心には、ベツレヘムの馬小屋での主イエスの誕生がはっきりと見えていたのです。さらにイザヤは6節の最後で「万軍の主の熱情がこれを成し遂げる」とも語りました。イザヤの目には、「万軍の主の熱情」が見えていたのです。独り子イエス・キリストのご生涯と、十字架の死、そして復活による救いは、「万軍の主の熱情」によってこそ成し遂げられたものです。万軍の主の熱情は、人間の常識をはるかに超えた救いのみ業を現実のものとするのです。「一人のみどりごが私たちのために生まれた」という出来事において示された万軍の主の熱情を知らされ、その熱情が自分にも向けられていることを味わう時がクリスマスなのです。
