夕礼拝

あけぼのの光の到来

説教「あけぼのの光の到来」 副牧師 川島章弘
旧約聖書 イザヤ書第9章1-6節
新約聖書 ルカによる福音書第1章57-80節

クリスマスを間近に控えて
 アドヴェント第三主日を迎えました。来週の主日礼拝はクリスマス礼拝です。クリスマスを間近に控えて、本日の夕礼拝では普段の使徒言行録の連続講解から離れて、ルカによる福音書のクリスマス物語に目を向けたいと思います。ちなみに来週の夕礼拝では、主イエスの誕生を語っている2章1節以下を読みます。本日の箇所はその直前、1章57~80節です。ここでは洗礼者ヨハネの誕生と、いわゆる「ザカリアの預言」が語られています。この「ザカリアの預言」は、クリスマスにお生まれになった方が、私たちに何を成し遂げてくださったかを告げています。そのことを示されて、私たちはクリスマス礼拝に向かう一週間を歩んでいきたいのです。

ザカリアの物語
 67節に「父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した」とあり、「ほめたたえよ」と語り始めますが、それまでザカリアの身にはどのようなことが起こったのでしょうか。
 ルカ福音書のクリスマス物語は、ザカリアに主の天使が現れるところから始まります。ザカリアと妻エリサベトの間には子どもがなく、しかも二人はすでに高齢になっていました。この夫妻に子どもが与えられることは、人間の可能性の中にはなかったのです。ところが主の天使はザカリアにこのように告げました。「あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」(1:13)。後の洗礼者ヨハネの誕生が告げられています。しかも天使はその子どもが、つまり洗礼者ヨハネが、神様から特別な務めを与えられることをも告げました。その務めとは、救い主に先立って行き、救い主を指し示し、人々を悔い改めに導き、救い主のための備えをするという務めです。このように天使はザカリアに、洗礼者ヨハネの誕生と、生まれてくるヨハネが救い主に先立つ者となることを告げたのです。ところがザカリアはこの天使の言葉を信じることができませんでした。高齢の自分たちに子どもが与えられるはずがないと思い込んでいたからです。天使の言葉を信じられず疑ったザカリアに、天使はこう告げました。1章20節です。「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」。それでザカリアは話すことができなくなったのです。
 本日の箇所の57~66節は、「ザカリアの預言」に先立って、洗礼者ヨハネの誕生を語っています。男の子が生まれてから八日目に、律法の掟に従ってその子に割礼を施すために人々がやって来ました。彼らは割礼を施すだけでなく、生まれた子に、父の名を取ってザカリアと名付けようとします。母エリサベトが、「名はヨハネとしなければなりません」(1:60)と言うと、人々は「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」(1:61)と言いました。そこで人々は父ザカリアに、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねました。このことからザカリアは口が利けなかっただけでなく、耳も聞こえなかったことが分かります。彼が板に「この子の名はヨハネ」と書くと、「たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」(1:64)のです。

人間の言葉が沈黙したところで
 ザカリアはおそらくエリサベトが身ごもってから出産するまでの10か月以上に亘って、話すことも聞くこともできませんでした。それは、「時が来れば実現する」という天使の言葉を、つまり神様の言葉を信じることができなかったことに対する罰なのでしょうか。そうではないと思います。自分の言葉を話すことができなくなり、ほかの人の言葉も聞くことができなくなる。それは、ザカリアからあらゆる人間の言葉が奪われた、ということです。しかしあらゆる人間の言葉が沈黙したところで、ザカリアは神様と本当に向き合うことができました。沈黙の中で、天使が告げた神様の言葉を思い巡らし、受けとめ直すことを通して、ザカリアは神様の言葉を信じ、救い主の誕生と、それに先立つヨハネの誕生を信じるよう導かれました。神様が与えてくださった沈黙の中で、ザカリアは神様の言葉を疑い、拒む者から、神様の言葉を信じ、神様を賛美する者へと変えられたのです。1章19節で、天使はザカリアに、「わたしは……あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされた」と告げました。しかしザカリアが天使の告げた言葉を本当に「喜ばしい知らせ」として受けとめられたのは、長い沈黙を経てのことであったのです。
 今、私たちはアドヴェントを過ごしています。神様の独り子イエス・キリストが私たちのためにお生まれくださったことを告げるみ言葉に聞き、御子イエスのご降誕に感謝し、お祝いするクリスマスに備えていきたいと願っています。しかしそのように願いつつも、私たちに聞こえてくるのは人間の言葉ばかりではないでしょうか。私たちの周りには人間の言葉が溢れています。家族や友人や同僚の言葉。マスメディアが流す言葉やSNSで発信される言葉。その中には匿名の言葉も多くあります。それらの言葉が私たちを励ますこともあるでしょう。しかし私たちの心を乱し、傷つけ、不安を煽ることも少なくありません。私たちはそのような人間の言葉に振り回されて、一喜一憂し、神様の言葉を聞くことができないでいるのではないでしょうか。何よりも、クリスマスの準備の忙しさの中にあって、あるいは年末の慌ただしさの中にあって、私たちの心は自分自身の言葉で埋め尽くされています。「忙しい、忙しい」と言い、「あれもやらなくては、これもやらなくては」と言って、神様の言葉に聞き、それを思い巡らすことができないでいるのです。ほかならぬ私自身が、そうなっていないか、と問わずにはいられません。しかしそれでは、私たちはクリスマスを迎えても、神様を本当に賛美できるはずがない。私たちのために御子がお生まれくださった、その喜びの知らせを、自分のこととして喜べるはずがないのです。だから私たちも沈黙する必要があります。ザカリアのように10か月も沈黙することはできないとしても、しかし忙しさと慌ただしさの中にあっても、ひと時、あらゆる人間の言葉をシャットダウンして、神様の言葉に聞き、それを思い巡らしたいのです。その中でこそ、クリスマスにお生まれになった御子が、私たちのために何を成し遂げてくださったのかを示され、私たちはその御子を遣わしてくださった神様を賛美する者へと変えられます。世に溢れている人間の言葉や自分自身の言葉に心を奪われ、乱されるのではなく、神様の言葉を信じる者へと変えられるのです。そしてその「ひと時」は、あらゆる人間の言葉をシャットダウンして神様の言葉に聞く「ひと時」は、すでに私たちに与えられています。主の日の礼拝でこそ私たちは、自分自身やほかの人の言葉に聞くのではなく、神様の言葉に聞き、神様と向き合うのです。

ザカリアの預言
 長い沈黙の中で神様の言葉を信じ、神様を賛美する者へと変えられたザカリアが、聖霊に満たされて語ったのが68~79節です。67節の終わりに「こう預言した」と言われているので、小見出しも「ザカリアの預言」となっているのだと思います。「預言」とは、「預かる」「言葉」と書きます。未来を言い当てるのではなく、神様から預かった言葉を語るのが「預言」です。ザカリアは聖霊に満たされ、聖霊のお働きによって神様から預かった言葉を語りました。洗礼者ヨハネの誕生が語られた直後なので、ザカリアがヨハネについて語ったとしても不思議ではありません。確かに76節では、ヨハネに「幼子よ」と呼びかけ、ヨハネの特別な務めについて語っています。しかし「ザカリアの預言」のほとんどは、クリスマスにお生まれになる御子イエスについて語っているのです。

救いの角
 ザカリアは、その冒頭で「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」と、神様を賛美しています。その賛美の根拠が、68節の後半から69節でこのように言われています。「主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」。この「ザカリアの預言」では、クリスマスにお生まれになる救い主、メシアを、いつくかの象徴的な言葉で言い表しています。その一つが、「救いの角」です。それが「僕ダビデの家から起こされた」と言われているのは、イエスがダビデ家のヨセフの子として生まれたことを示しています。もちろんマリアは聖霊によって身ごもったのであって、その意味でイエスはヨセフの子ではありません。しかしヨセフが、聖霊によって身ごもったマリアを妻として迎え入れることによって、イエスはこの夫妻のもとで、ダビデ家のヨセフの子として生まれました。「僕ダビデの家から起こされた」とは、このことを見つめているのです。「救いの角」が起こされたことは、70節で、「昔から聖なる預言者たちの口を通して 語られたとおりに」と言われているように、神様のご計画でした。旧約の預言者たちはメシア、救い主の誕生を預言してきましたが、その預言の成就として、神様は「救いの角」を私たちの救いのために起こしてくだったのです。

私たちの敵からの救い
 その「救いの角」によって成し遂げられる私たちの救いについて、71節で、「それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い」と言われています。「救いの角」である御子イエスは、私たちを私たちの敵から救うためにお生まれくださった、と言われているのです。「私たちの敵」とは、何でしょうか。私たちの多くは、幸いにも私たちに銃を向けてくるような意味での敵はいないかもしれません。もちろんそれは、この世界の現実を見れば、決して当たり前のことではありません。しかしだからといって、私たちに敵がいないのか、というとそうではないでしょう。私たちの人生には確かに敵としか思えない存在があります。それは競争している相手とか、気が合わない人というよりも、むしろ理不尽なことを言う人であったり、あるいは不条理な苦しみの現実であったりします。私たちは日々そのような敵の攻撃にさらされて傷つき、疲弊しているのではないでしょうか。

罪と死の支配
 しかしそうであったとしても、私たちの本当の敵は別にあります。いや、不条理な苦しみの現実を生み出している根本的な敵がいる、と言ったほうが良いかもしれません。私たちの本当の敵。それは、罪と死です。「救いの角」である御子イエスが、私たちを私たちの敵から救ってくださるとは、何よりも私たちを罪と死から救ってくださる、ということなのです。このことが68節後半の「主はその民を訪れて解放し」の「解放する」という言葉に注目することによって示されます。聖書協会共同訳が「主はその民を訪れて、これを贖い」と訳しているように、「解放する」と訳された言葉は「贖う」という意味で、それは、もともと奴隷や捕虜を、身代金を払って買い戻すことを意味します。身代金を払って奴隷や捕虜を解放し、自由にすることを意味するのです。私たちは罪と死の奴隷でありました。罪とは、あれこれの悪いことというより、神様に背き、神様なしに、自分の力だけで、自己中心に生きることです。私たちはそのような生き方に支配されていたのです。また私たちは「死んだら終わり」だと思っていました。死の奴隷とは、私たちがどのような人生を送ったとしても、結局、死の力にのみ込まれてしまう、ということです。このように私たちは罪と死の奴隷であり、罪と死に支配されていたのです。だからといって私たちは、自分で自分の身代金を払うことはできません。自分自身の力で、この罪と死の支配から自分を解放することは決してできないのです。

暗闇と死の陰に座している者
 罪と死に支配されている私たちの姿が、79節では、「暗闇と死の陰に座している者」と言われています。この「暗闇と死の陰に座している者」という表現は、旧約聖書イザヤ書の二つの箇所の言葉が組み合わされた表現です。その一つが、共に読まれたイザヤ書9章1節のみ言葉で、そこでは「闇の中を歩む民」、「死の陰の地に住む者」と言われていました。この預言の背景には、当時の戦争によってもたらされた苦悩の現実があります。どこを見ても闇しか見えないような、自分が死んでいるように思えるほどの絶望の現実があったのです。しかしここで注目したいのは、イザヤ書では「闇の中を歩む民」、「死の陰の地に住む者」と言われているのに対して、本日の箇所の79節では、「暗闇と死の陰に座している者」と言われていることです。「暗闇に座している」、「死の陰に座している」というのは、罪と死に支配されて、暗闇と死の陰の中で身動きできなくなっているということです。それが私たちの姿だと言われるのは心外だと思われるかもしれません。自分は暗闇と死の陰の中で身動きできなくなっているなんてことはないと思うのです。しかし罪に支配され、神様なしに自分の力だけで生きるとき、私たちの力や頑張りにすべてがかかっている、ということになります。それは、頑張れなくなったら終わり、ということにほかなりません。そうなると私たちは自分が頑張れているかどうか絶えず不安になります。あの人に比べれば頑張れていると安心したり、あの人と比べると頑張れていないと不安になったりします。頑張れなくなることに対して、絶えずおびえ、恐れている私たちの姿こそ、不安と恐れの暗闇の中で身動きできなくなっている者の姿なのです。また私たちは、歳を重ねるにつれてできることが少なくなり、ついには死を迎えて何もできなくなります。その死の力に絶えず脅かされて生きている私たちの姿は、死の陰の中で身動きできなくなっている者の姿にほかなりません。罪と死に支配されていた私たちは、不安と恐れの暗闇の中を、死の力に脅かされた死の陰の中を生きている者であったのです。

あけぼのの光の到来
 しかしその私たちを罪と死の支配から解放するために、御子イエスがクリスマスにお生まれくださいました。そのことが78節の後半から、このように言われています。「この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」。69節では「救いの角」が救い主、メシアの象徴でしたが、ここでは「あけぼのの光」がその象徴です。御子イエスの誕生とは、あけぼのの光の到来であったのです。あけぼのの光が、暗闇と死の陰に座している私たちを照らすことによって、77節の「罪の赦しによる救い」が実現しました。「あけぼのの光」によって、私たちの罪が赦され、私たちは罪と死の支配から救われ、解放されたのです。もちろんこのことは御子イエスの誕生だけによって実現したのではありません。クリスマスにお生まれになった御子イエスが、ご自身の命を十字架で差し出し、その死から復活されることによって実現しました。ルカ福音書のクリスマス物語は、御子イエスの誕生があけぼのの光の到来であったことを告げています。しかしそれだけでなく、あけぼのの光である御子イエスが、その十字架と復活によって、暗闇と死の陰に座している私たち照らし、罪と死の支配から解放してくださったことをも見つめているのです。

平和の道へ
 暗闇と死の陰の中で身動きできなくなっていた私たちは、あけぼのの光に照らされることによって、そこから解放されて、動き出すことができるようになりました。しかし単に動き出せばよいということではありません。動き出した私たちの歩みがどこに向かうかが大切です。79節で「我らの歩みを平和の道に導く」と言われていました。あけぼのの光に照らされることによって、私たちの歩みは「平和の道」へと導かれたのです。その「平和」とは、神様と私たちの関係が平和であることを意味します。神様に背き、自分の力だけで、自分中心に生きていた私たちの罪が、キリストの十字架によって赦され、私たちと神様との関係が回復し、私たちは神様と共に生きられるようになりました。それが、神様と私たちの関係が平和である、ということにほかなりません。私たちが平和の道を歩むとは、神様と共に生き、神様と交わりを持って生きるということです。そしてそのように歩む中でこそ、隣人と共に生きる者とされていきます。あけぼのの光に照らされた私たちは、神様と隣人と共に、神様と隣人を愛して、平和の道を歩むのです。勘違いしてはならないのは、「平和の道」というのは、この道を歩んだ先に「平和」があるということではない、ということです。「平和」は、つまり神様と私たちとの関係の回復は、すでにキリストの十字架と復活によって実現しているからです。この平和の中にすでに入れられているからこそ、私たちは神様と隣人と共に、神様と隣人を愛して生きていくのです。

神の憐れみによって
 あけぼのの光の到来は、神様の憐れみによって実現しました。78節では、「この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ」と言われていました。「この憐れみ」とは、78節冒頭の「我らの神の憐れみの心」にほかなりません。神様の憐れみの心によって、「救いの角」が起こされ、「あけぼのの光」が到来し、私たちは罪を赦され、罪と死の支配から解放されたのです。本来私たちは神様の憐れみを受けるに値する者ではまったくありません。それどころか私たちは神様に背き、自分勝手に生き、それでいて実は、不安と恐れの暗闇の中で、死の力に脅かされた死の陰の中で身動きできずにいたのです。そのような私たちを、神様は深く憐れんでくださり、私たちのために独り子の命という途方もない身代金を払ってくださり、私たちを罪と死の支配から解放してくださったのです。だから私たちは、もう自分の力や頑張りにすべてがかかっている、と考えなくてよい。私たちの救いは、ただ神様の憐れみによって与えられているからです。私たちの人生には頑張れないときが必ずあります。自分の力や頑張りではどうにもならないことがあります。心身の病に直面することがあり、突然の怪我に直面することがあり、それこそ不条理な現実が襲ってくることもあります。でも私たちは、もう頑張れなくなることに怯え、恐れる必要はありません。たとえ頑張れなくても、神様の憐れみによる救いは揺らぐことがないからです。そして頑張れなくなることへの不安と恐れから解放されることによってこそ、私たちは本当に頑張れるようになります。ほかの人と比べて安心したり不安になったりするのではなく、神様の憐れみによる救いの恵みの中で、それぞれが自分に与えられている務めのために、使命のために精一杯頑張ることができるようになるのです。
 神様の憐れみによって実現した御子イエスの十字架と復活による救いは、私たちに世の終わりの復活と永遠の命をも約束しています。それは、「死んだら終わり」ではない、ということにほかなりません。私たちは地上の生涯の先で、世の終わりに復活と永遠の命にあずかるのです。神様は御子の十字架と復活によって、死の支配に勝利してくださいました。そうであれば私たちは、もう死の力に脅かされてはいないのです。確かに誰もが地上の生涯を終えて死を迎えます。しかしそれで終わりではない。だから私たちは歳を重ねるにつれてできることが少なくなっても、死を迎えるときも、希望を失うことなく平安の内に歩むことができるのです。

御子を送ってくださった神への賛美が起こされていく
 クリスマスにお生まれになった御子イエス・キリストは、私たちに対する神様の憐れみによって起こされた「救いの角」であり、到来した「あけぼのの光」です。この「救いの角」によって、この「あけぼのの光」によって、私たちは「暗闇と死の陰」からすでに救い出され、神様と隣人と共に生きる「平和の道」を歩んでいます。なお自分が暗闇と死の陰の中にいるように思えるときも、すでに私たちがあけぼのの光に照らされていることに心を向けていくのです。そのために、忙しさと慌ただしさの中にあっても、私たちはひと時、あらゆる人間の言葉から離れ、御子の誕生を告げるみ言葉に聞いていきます。そのことを通してこそ、クリスマスに御子イエス・キリストを遣わしてくださった神様への本当の賛美が、私たちに起こされていくのです。

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