説 教 「体は主のため」副牧師 川嶋章弘
旧 約 イザヤ書第52章1-6節
新 約 コリントの信徒への手紙一第6章12-20節
わたしには、すべてのことが許されている
私が主日礼拝を担当するときはコリントの信徒への手紙一を読み進めていて、本日は6章の後半を読みます。その冒頭12節でこのように言われています。「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、わたしは何事にも支配されはしない」。二度、繰り返して「わたしには、すべてのことが許されている」と言われています。新共同訳ではこの言葉にカギ括弧がついていますが、それは、この言葉がコリント教会の人たちの言葉だと理解されているからです。この理解はおそらく正しく、コリント教会の人たちは事あるごとに、主イエスによって救われた者は自由なのだから、「わたしには、すべてのことが許されている」と言っていたのだと思います。
パウロは彼らの言葉を引用した後で、「しかし」と言っています。ということは、パウロはこの言葉を否定しているのでしょうか。「わたしには、すべてのことが許されている」と考えるのは間違っている、と言いたいのでしょうか。そうではありません。なぜなら「わたしには、すべてのことが許されている」というこの言葉は、実はパウロの言葉でもあったはずだからです。実際、次年度から礼拝で用いる聖書協会共同訳ではカギ括弧がついていません。パウロ自身の言葉として理解されているのです。おそらくこの言葉はパウロがコリント教会の人たちに伝えた言葉であったと思います。パウロは主イエスによって救われた者が自由であることを語りました。別の手紙でも「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださった」(ガラテヤの信徒への手紙5:1)と語っています。主イエスによって私たちは自由とされた。だからキリスト者は自由であり、キリスト者にはすべてのことが許されていると語ったのです。コリント教会の人たちはパウロが伝えたこの言葉を自分たちも用いて、「わたしには、すべてのことが許されている」と言っていたのです。
みだらな行いを正当化するために
問題は、コリント教会の人たちがこの言葉を、自分たちを正当化するために用いていたことにあります。具体的には自分たちの「みだらな行い」を正当化していたのです。「みだらな行い」とは男女の関係における性的な不品行を意味します。すでに5章1節で、コリント教会で「異邦人の間にもないほどのみだらな行い」があったと言われていて、具体的には「ある人が父の妻」と性的な関係を持っていました。これはかなり極端なケースですが、コリント教会のほかの人たちは「みだらな行い」をしていなかったかというと、そうではありませんでした。15、16節から分かるように、性的な欲望を満たすために「娼婦と交わる者」がいた、娼婦と性的な関係を持つ者がいたのです。以前もお話ししましたが、コリントという町は東西南北の交通の要所にあり、経済的に繁栄する一方で、性的な乱れをはじめ、人心の荒廃が進んでいました。町の背後にそびえる丘の上に建つ神殿には、約千人もの神殿娼婦がいたと言われています。当時のギリシア・ローマ世界では、性的欲望を満たすために神殿娼婦と交わることは、特別なことではなかったようです。その習慣がコリント教会にも入り込んできました。コリント教会の中には、自分たちにはすべてのことが許されているのだから、この社会の習慣も受け入れてよい、と考える人たちがいたのです。この人たちは、「自分たちは自由なのだから何をしてもよい」と豪語して、みだらな行いを正当化していたのです。
自由の履き違え
私たちはコリント教会で起こったようなみだらな行いをしているわけではないかもしれません。しかしだからといって、コリント教会の性的な乱れのひどさに呆れているだけでよいわけではありません。なぜならこの乱れの根本には「自由の履き違え」があるからです。私たちもまた、しばしば自由を履き違え、誤解しているからです。自由とは、自分の好きなように生きることであり、欲望のままに生きることだと思われがちです。この社会でも、自分の好きなように生きることに最大の価値があるように言われることがあります。しかし本当にそうなのでしょうか。確かに私たちキリスト者は自由です。私たちにはすべてのことが許されています。たとえ「みだらな行い」をしたとしても、それによって滅ぼされるわけではありません。私たちは自分の善い行いによって救われるのでも、悪い行いによって滅ぼされるのでもなく、ただ主イエス・キリストの十字架と復活によって救われているからです。その意味では、私たちは何をしてもよい。あれをしてはいけない、これをしてはいけないという戒めの支配から解放され、自由とされているのです。しかし主イエスによって与えられたこの自由を、自分の好きなように用いることが、本当に自由に生きることなのでしょうか。
パウロは、そうではないことを語るために、「わたしには、すべてのことが許されている」と言った後で、「しかし」と言い、自由を履き違えないために二つのことを語っています。第一に、「すべてのことが益になるわけではない」と言います。自由だからといって、何をしてもそれが自分や他人の益になるとは限らない、ということです。だから与えられた自由を好き勝手に用いて、自分や他人の益にならないことをするのは自由の履き違えだ、と言っているのです。
第二に「わたしは何事にも支配されはしない」と言います。これは少し分かりにくいかもしれません。私たちは自由を自分の好きなように用いるとき、実は、全然自由でなくなってしまうことが、自分が何かに支配されてしまうことがあります。何をしても良いからといって、何かに度を超えてのめり込むのであれば、それは自由に生きているのではなく、むしろその何かに支配されて、何かの奴隷のように生きていることになるのです。いえ、何かの奴隷というより、むしろ自分自身の奴隷、と言ったほうがよいかもしれません。対象が何であれ、自分の欲望のままに生きるとき、私たちは自分自身の奴隷となっている、自分の欲望に支配されているのです。ですから私たちが自由を履き違えるとき、私たちは本当の自由を失い、かえって生きることがつらくなります。自分の好きなように生きるのは良いことのように思えて、実は自分自身の奴隷となり、自分の欲望に支配されることなのです。そのとき私たちの人生は不自由で、しんどいものとなるのです。
心の問題?
パウロはこの箇所で、コリント教会の人たちが自由を履き違えていることについて、特に自分の体をどのように用いるのかという点に集中して語っています。それは、ここで問題となっているのが「みだらな行い」、肉体を伴う性的な不品行であったからです。ただコリント教会で、自由が「みだらな行い」に結びついたのには、つまり自由が欲望のままに自分の肉体を用いることに結びついたのには、コリント教会の一部の人たちが、ある考えに影響を受けていたからでもありました。それは、人間を霊と肉体に分けて、霊のみに価値があり肉体にはなんの価値もない、肉体は霊を閉じ込めている牢獄のようなものだ、という考えです。その人たちは、キリストによって人間の霊が救われ、肉体という牢獄から解放されたと考え、だから救われた者は肉体に関する掟からも自由に生きることができる、つまり自分の肉体を自分の好きなように用いてよい、と考えたのです。
私たちは霊と肉体を分けて考えようなどとはあまり思わないでしょう。しかし似たような感覚は持っているのではないでしょうか。少し脱線しますが、NHKで日曜の朝に「こころの時代」という番組が放映されています。日曜の朝なので私はあまり見ることができませんが、キリスト教が取り上げられることもあり、とても興味深い番組だと思います。ただそのタイトルに「こころの時代」とある。そこには宗教というのは心の問題なんだ、人間の内面の問題なんだ、という意識があるように思います。私たちもともすれば、信仰や救いを心の問題として、自分の内面の問題として考えがちなのです。そうなると自分の体は、信仰や救いとは関係ないものとなり、自分の体を好きなように用いてよい、ということになるのです。
肉体と区別される体
パウロはここでそのように考えるのが間違っていることを論じています。13節の前半に「食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます」とあります。分かりにくい文章ですが、腹が食物をとることは、つまり人間の食生活は救いには関係ないことを見つめています。食物をとって生きる営みは、人間の死と共に終わるもの、滅ぶものだからです。「神はそのいずれをも滅ぼされます」とはそういう意味です。だからパウロはこの手紙の8章8節でも、「わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません」と言っているのです。しかしそうであるなら食欲をどんな食物によって満たしてもよいように、性欲もどんな方法で満たしてもよいようにも思えます。あるいは腹は肉体の一部なのだから、腹が滅びるのなら肉体も滅びるのであり、それなら好きなように肉体を用いてもよいようにも思えます。しかしパウロは腹を含む肉体とは区別して、私たちの体というものを語ります。それは肉体と切り離された体があるということではありません。肉体と切り離すことはできないけれど、肉体から区別される体を語るのです。
体は主のため
このことが13節の後半で、「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです」と言われていることから分かります。ここでパウロは私たちの体が「主のために」ある、と言います。つまり私たちの体を、主イエス・キリストとの関係において見つめているのです。パウロが言う体とは、主イエスと関係ある体、要するに私たちキリスト者の体です。私たちの体は、主イエスとどのような関係があるのでしょうか。それが14、15節から示されます。「神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか」。後半で言われているのは、私たちが洗礼を受けて救いにあずかることによって、キリストの体の一部とされたということです。私たちの救いは私たちの体がキリストの体の一部とされ、キリストと一つとされたことにあります。そうであるならば私たちの体は救いと無関係ではあり得ないのです。また前半では主イエスの復活と、それによって約束されている将来の私たちの復活について語られています。神様は十字架で死なれた主イエスを復活させてくださいました。それは、体を持たない復活ではなく体を持った復活でした。同じように神様は主イエスを復活させた力によって、将来、救いの完成のときに、私たちをも体を持って復活させてくださいます。主イエスが体を持って復活されたように私たちも体を持って復活するのです。その復活の体は、この手紙の15章で語られているように、今の私たちの体と同じではありません。しかし復活の体は今の私たちの体と異なると同時に、つながってもいるのです。このことは私たちの体が私たちの人格と切り離せないことを考えると分かります。私の人格というのは、私を私たらしめているものです。そして私たちは復活において、私が私でなくなってしまうわけではありません。だから弟子たちは、復活の主イエスが地上を歩まれた主イエスと同じ主イエスだと分かったのです。復活の体が今の私たちの体と異なると同時に、つながっているのであれば、私たちの体は私たちの救いとその救いの完成に関わります。主イエスが体を持って地上を歩まれ、体を持って十字架で死なれ、体を持って復活されたのは、体を持った私たちを救うためであり、将来、体を持って復活させるためであったのです。13節の「主は体のためにおられる」は、このことを見つめているのです。
私たちが主イエスを信じ、神様を信じて生きるというのは心の問題でもなければ、頭の中だけで考えることでもありません。そうではなく私たちが主イエスと、そして神様と人格的な交わりを持って生きることです。それは心だけでなく体を持って主イエスとの交わりに、神様との交わりに生きることにほかならないのです。
何と結びついて生きるのか
15節の後半から17節では、娼婦と交わり娼婦と結びつくのか、それとも主イエスと結びつくのかについて語られています。「娼婦と交わる者」について語られているのは、すでにお話ししたようにコリント教会にそのような人たちがいたからです。そうであるなら私たちには関係ないことが語られているのでしょうか。そうではありません。ここで本質的に見つめられていることは、私たちが主イエスと結びついて生きるのか、それとも主イエス以外のほかの何かと結びついて生きるのか、ということです。言い換えるならば、私たちが自分の体を「主イエスのため」に用いて生きるのか、それともほかの何かのために用いて生きるのか、ということなのです。旧約聖書ではまことの神様ではなく、ほかの神様に、つまり偶像に心を寄せることを「姦淫」と呼びました。ここでも娼婦と交わることに、主イエスではなく、ほかの誰かや何かに心を寄せることが見つめられています。主イエスに心を寄せ、主イエスと結びつき、主イエスと「一つの霊」とされて、主イエスのために生きるのか、それともほかの誰かや何かに、自分の欲望を満たす偶像に心を寄せて、そのために生きるのか。そのことが私たち一人ひとりに問われているのです。
自分で選ぶのか
しかし私たちはここで立ち止まる必要があります。私たちは主イエスによって与えられた自由の中で、自分が主イエスと結びつき、自分の体を主イエスのために用いて生きるのか、それともほかの何かと結びつき、自分の体をそのために用いて生きるのか、そのいずれかを選ぶということなのでしょうか。つまり私たちは、自分の体を誰のために、何のために用いるべきかと自分自身に問い、どちらかを選ぶということなのでしょうか。もしそうであれば、それは結局、自分の好きなほうを選ぶということになり、自分の好きなように生きるということになってしまいます。それでは自分の願いや欲望の支配から本当に解放されることはなく、本当に自由に生きることにはならないのです。
聖霊が宿ってくださる神殿
しかしパウロは19節の前半で、「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり」と言っています。この「知らないのですか」という言葉は、パウロが信仰の大切なことがら、信仰の急所を語るときに使う言葉です。その急所は、私たちの体は、「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」である、ということです。間違えてはならないのは、私たちが主イエスと結びつこう、自分の体を主イエスのために用いようと決断し、清く、正しく生きることによって、聖霊が宿ってくださる神殿になる、と言われているのではない、ということです。そうではなく私たちの体はすでに「聖霊が宿ってくださる神殿」である、とパウロは宣言しているのです。洗礼を受け救いにあずかることによって、私たちの体はキリストの体の一部とされ、神様から聖霊をいただくことによって、すでに「聖霊が宿ってくださる神殿」なのです。これは驚くべきことです。なぜならこのパウロの言葉は、コリント教会の中で「みだらな行い」をしていた者にも向けられているからです。「みだらな行い」をしていた人の体が、「聖霊が宿ってくださる神殿」と言われていることに、私たちはふさわしくない、と思うかもしれません。しかし私たちだって、自分自身を振り返れば、自分の体が、自分の人格が、自分という存在が、「聖霊が宿ってくださる神殿」にふさわしいとは言えないのではないでしょうか。私たちは欲望にまみれ、汚れにまみれ、何よりも罪にまみれているのです。しかしそれにもかかわらず、救いにあずかり、キリストの体の一部とされることによって、私たちの体は「聖霊が宿ってくださる神殿」となっているのです。私たちはこのことをしっかり受けとめなくてはなりません。自分の体を主イエスのために用いようか、それともほかの何かのために用いようか、と悩むのではありません。欲望と汚れと罪にまみれ、「聖霊が宿ってくださる神殿」にまったくふさわしくない私たちの体が、主イエスによってすでに「聖霊が宿ってくださる神殿」とされていることをしっかりと受けとめることによって、私たちはそのことに感謝して自分の体を「主のために」用いるよう変えられていくのです。少しずつであるかもしれません。それでも私たちの体に神様が注いでくさった聖霊のお働きによって、私たちは自分の体を「主のために」用いるよう確かに変えられていくのです。
私たちは神のもの
パウロは19節の後半からこのように言っています。「あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」。私たちは自分の体を誰のために、何のために用いるべきかと問うのではなく、むしろ私たちの体が、私たちの全存在が「もはや自分自身のものではない」ことに、神様によって買い取られ、神様のものとされていることにこそ目を向けていくのです。私たちが自由を履き違えるのは、自分自身は自分のもの、自分の体も自分の人生も自分のもの、と考えているからです。だから自分の好きなように生きるのが自由だと勘違いし、それでいて自分の欲望に支配されて、生きるのがつらくなっているのです。しかし私たちは神様のものです。私たちの体も、私たちの人生も、私たちの全存在が神様のものです。生きるにも死ぬにも、私たちが神様のもの、キリストのものとされていることにこそ、私たちの本当の慰めと平安があります。そして神様のものとされているからこそ、私たちは本当に自由に生きることができます。自由に生きるとは、すでに神様のものとされている私たちが、与えられた自由を自分の好きなように用いるのではなく、「主のために」用いて生きることなのです。
独り子の命という代価を支払って
そのために神様が払ってくださった代価が、独り子イエス・キリストの命です。神様は独り子の命を代価として、私たちを買い取ってくださり、神様のものとしてくださったのです。私たちに代価を支払うに値するものがあったからではありません。そのようなものは何もなかったのに神様は独り子の命という途方もない代価を支払ってくださったのです。共に読まれた旧約聖書イザヤ書52章3節で、主なる神は捕囚の民に「ただ同然で売られたあなたたちは 銀によらずに買い戻される」と約束しています。「銀によらずに買い戻される」とは、ただ神様の恵みによって買い戻されるということです。私たち自身は欲望と汚れと罪にまみれ、神様によって滅ぼされるしかない者であり、その意味では何の価値もない者です。しかしその私たちを神様は一方的な恵みによって愛してくださり、あなたには価値がある、と言ってくださり、独り子の命を代価として私たちを買い取って神様のものとしてくださったのです。主イエス・キリストの十字架と復活によって、神様は私たちの心だけをご自分のものとされたのではありません。心も体も、私たちの全存在を、私たちを丸ごとご自分のものとされたのです。その計り知れない神様の愛を受けとめ、すでに自分が神様のものとされ、聖霊が宿ってくださる神殿とされていることを受けとめることによって、私たちは自分の体を、自分の全存在を「主のために」用いて、「自分の体で神の栄光を現し」て生きる者へと変えられていきます。変えられないわけがないのです。神様のものとされている絶対的な安心感の中で、私たちは与えられた自由を、自分の体を「主のために」用い、自分の体で神様のご栄光を現して生きていくのです。
