2025年8月24日
説教題「私たちの祭りを祝おう」 副牧師 川嶋章弘
出エジプト記 第12章15~20節
コリントの信徒への手紙一 第5章1~8節
現に聞くところによると
私が主日礼拝の説教を担当するときにはコリントの信徒への手紙一を読み進めていて、本日から第5章に入ります。その冒頭1節でこのように言われています。「現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです」。パウロはここでコリント教会に起こっていた極めて具体的な問題について取り上げています。「現に聞くところによると」は、「至る所で聞かれている」と訳すこともできます。つまりこの問題は至る所で話題にされ、誰もが知っている周知の事実でありました。ですからパウロは単なる噂話に基づいて、あるいは特定の人の訴えだけに基づいて、軽々しくこの問題を取り上げたのではなく、周知の事実と分かった上で、この問題を取り上げたのです。
みだらな行い
周知の事実であった問題、それが、コリント教会の人たちの間に「みだらな行い」があったことです。「みだらな行い」と訳された言葉は、原文では「ポルネイア」という言葉で、「ポルノ」の語源となった言葉です。つまり「みだらな行い」とは、男女の関係における性的な不品行、性的な不道徳を意味します。具体的には「ある人が父の妻をわがものとして」いました。わざわざ「父の妻」と言われているので、この「ある人」は「父の後妻(ごさい)」と、つまり義理の母親と性的な関係を持っていた、ということです。それは、当然、旧約聖書において禁じられていたことでした。たとえすでに父親が死んでいたとしてもです。またここでパウロが「異邦人の間にもないほどのみだらな行い」と言っているように、比較的性的な規範が緩かった当時のギリシア・ローマ世界においても、父親の妻と性的な関係を持つことは禁じられていたのです。
私たちはコリント教会でこのようなとんでもない性的な不品行が起こっていたことに驚きを覚えるのではないでしょうか。同時に私たちは、私たちの教会ではこんなことは起きていないだろうし、少なくとも自分はこんな性的な罪を犯しているわけではないから、このことはコリント教会の問題ではあっても、私たちの教会の問題ではない、自分の問題ではないと思うのです。
教会のメンバーから除外する
しかしパウロが、ここで問題としているのは、性的な不品行がコリント教会に起こったことそれ自体ではありません。パウロにとって、何よりも問題であったのは、コリント教会が、教会で起こった性的な罪を見過ごしていたこと、それに対して何もしなかったことです。だからパウロは2節でこのように言っています。「それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか」。つまりコリント教会はこのような性的な罪を犯した者を教会のメンバーから除外すべきであった、と言っているのです。これは、私たちの教会の言葉で言えば、「戒規」を執行することについて語っていると言えるでしょう。性的な罪に限らず、著しい罪を犯した教会のメンバーに対して、しかるべき手続きを踏んでも、その人がなお罪を認めようとしない場合に、教会(長老会)がその人を除名する、という戒規がなされることがあるのです。
悔い改めを求めるために
このように教会が戒規を行い、教会のメンバーを除名することに対して、私たちは二つの思いを抱くのではないでしょうか。一つは、さすがにこれほどとんでもない罪を犯したのだから、処罰を受けるのはしょうがない、除名されてもしょうがない、という思いです。もう一つは、教会はキリストの十字架による罪の赦しに生きる群れなのに、メンバーの罪を指摘して、さらには除名するなんてとんでもない。誰もが日々罪を犯しているのに、たとえ著しい罪を犯したとしても、除名するなんてあってはならない、という思いです。どちらも納得しそうになりますが、実はどちらも間違っています。そもそも戒規は処罰ではありません。悔い改めを求めるためになされるものです。だからパウロは5節でこのように言っています。「このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです」。「サタンに引き渡した」とは、教会の外に置かれることを意味します。教会の外では、なおサタンの力、罪の力が猛威を振るっています。その力のもとに置かれることが見つめられているのです。しかしサタンの力は決定的ではありません。サタンの力ですら、キリストの十字架によって実現した神の恵みのご支配のもとにあるからです。だから教会の外に置かれ、サタンの力のもとに置かれたとしても、そのことを通して悔い改めに至るならば、「主の日」に、つまり終わりの日に救いにあずかるのです。このように戒規は、罪を犯した者を処罰するためではなく、罪を犯した者が主の日に救われるよう悔い改めを求めるために行われます。ここでパウロが、この性的な不品行を働いた者を「除外すべき」と言っているのは、また教会が戒規を行うのは、決して処罰するためではなく悔い改めを求めるためだ、ということを私たちはしっかり受けとめる必要があるのです。
悔い改めに生きる群れ
このことをしっかり受けとめると、先ほどのもう一つの思いが間違っていることも示されます。確かに教会は、キリストの十字架による罪の赦しに生きる群れであり、その罪の赦しを告げ知らせている群れです。しかしその罪の赦しは、悔い改めなしにあずかれるものではありません。「悔い改め」というのは、自分が神様に背いていたことを認め、つまり自分の罪を認め、神様の方に向き直って、神様と共に、神様に従っていこうとすることです。このことなしに、罪の赦しを語るのはおかしなことです。自分の罪を認めてもいないのに、神様の方を向こうとも、神様に従おうともしていないのに、罪の赦しにあずかっている、と語ることはできません。確かに「悔い改め」も、私たち自身が行うというより神様が与えてくださる、という面があります。私たちが自分の力で神様の方に向き直るというより、神様が私たちをみ言葉によって、聖霊の働きによって神様の方に向き直らせてくださるからです。しかしだからといって私たちは、救われてなお日々自分が罪を犯していることに対して無頓着であって良いはずがない。その罪を認め、悔い改めて、罪の赦しを求めていかなくてはならないのです。だから教会は罪の赦しに生きる群れなのに、メンバーの罪を指摘して、さらには除名するなんてとんでもない、という思いは尤もなようで、実は、この「悔い改め」をしっかり受けとめていない、軽んじているのです。それは、著しい罪を犯した人の悔い改めを求めていないということ以上に、自分たちの悔い改めを真剣に求めていないということです。教会は罪の赦しに生きる群れであると同時に、悔い改めに生きる群れです。教会が、私たち一人ひとりが自分の罪を認め、真剣に悔い改めを求めて歩むときにだけ、著しい罪を犯してもその罪を認めようとしない者に、悔い改めを求めて戒規を行う、ということが起こり得るのです。
罪を悲しむ
このようにこの箇所は、「戒規」について根本的なことを語っている箇所であると言えます。とはいえパウロはここで、コリント教会に起こった固有の問題を扱っていることも確かで、一般的に教会でこのようなことが起こったら同じように対処せよ、と言っているのではありません。むしろ私たちが目を向けるべきなのは2節の前半です。そこには「それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか、むしろ悲しんで」とあります。教会の中でこのような性的な罪が起こったことを悲しむべきであった、と言われているのです。その先に、その罪を犯した人を教会から除外する、ということがあり得るとしても、まず問われているのは、コリント教会の人たちが教会で起こった罪を本当に悲しんでいるか、ということです。そしてこのことは、私たちの教会にも問われていることです。それは性的な罪に関してだけでなく、あるいは著しい罪に関してだけではなく、あらゆる罪に関してです。私たちは教会で起こっている罪を本当に悲しんでいるでしょうか。別の言い方をすれば、私たちは教会で起こっている罪に関心を持っているでしょうか。そんなこともあるよ、と見過ごしている、無関心になっていることはないでしょうか。罪に関心を持つというのは、あの人はこんな罪を犯している、この人はこんな罪を犯していると言って、裁き合うことでは決してありません。そんなことで、その人の罪を本当に悲しむことなどできるはずがありません。罪に関心を持ち、本当に悲しむとは、その人の罪を他人事ではなく自分の事として受けとめ、共に苦しみ、共に悔い改めを求めていく、ということです。パウロは3節で「わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者をすでに裁いてしまっています」と言っています。この3節と続く4節は分かりにくいのですが、しかしポイントは、自分がコリント教会から遠く離れていても、コリント教会で起こった罪を、あたかも自分がそこにいるかのように共に苦しみ、悲しんでいる、ということでしょう。その上で、性的な不品行を働いた者をすでに裁いた、と言っているのです。それはパウロ自身によるというより、4節にあるように「主イエスの名」によることであり、「主イエスの力をもって」なされることです。いずれにしてもここでパウロが語っていることの中心は、教会で起こっている罪を見過ごしてはならない、そのことに無関心であってはならない、ということです。コリント教会の人たちは、周知の事実であるにもかかわらず、教会で起こっている罪に対して何もしようとしませんでした。このことにこそ問題があるのです。私たちは教会で起こる罪を見過ごすことなく、その罪を他人事としてではなく自分の事として真剣に受けとめ、共に苦しみ、共に悲しみ、共に悔い改めを求めていきます。それこそが、悔い改めに生きる教会の姿なのです。
自由に生きていることの象徴?
しかし実は、コリント教会の状況は、ここまでお話ししてきた以上に深刻であったと言わなければなりません。このことは、2節の「それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか」から示されますし、また6節の「あなたがたが誇っているのは、よくない」からも示されます。コリント教会の人たちは、異邦人の間でもないほどの性的な不品行が教会で起こったことを見過ごし、問題としなかっただけではないのです。あるいは教会は罪の赦しに生きる群れだから、この人を教会から除外することを躊躇った、ということでもないのです。むしろ彼ら彼女たちは、この性的な不品行が教会で起こったことに対して高ぶり、誇っていました。何故でしょうか。それは、自分たちは自由なのだから何をしても良い、と思っていたからです。もう少し丁寧に言えば、コリント教会の(一部の)人たちは、人間を霊と肉に分け、霊のみに価値があり肉体にはなんら価値がない、肉体は霊を閉じ込めている牢獄のようなものだという考えの影響を受けていました。その人たちは、キリストによって人間の霊が救われ、肉体という牢獄から解放されたと考え、だから救われた者は、肉体に関する掟からも自由に生きることができる、つまり自分の体を自分の好きなように用いて良い、と考えたのです。そうなると旧約聖書に記されている性的な事柄に関する戒めに背き、性的な規範から逸脱することは否定的な意味を持つどころか、自分たちが肉体に関する掟から自由に生きていることの象徴という積極的な意味を持ちます。異邦人が守っている「父親の妻と性的な関係を持ってはならない」という規範から逸脱することも、自分たちが異邦人よりも自由に生きていることの象徴となったのです。だからコリント教会の人たちは、教会でこのような性的な不品行が起こったことに対して悲しむのではなく高ぶり、誇っていました。キリストによって救われた自分たちは自由であり、何をしても良い、何でもできる、と誇っていたのです。
キリストによって与えられた自由をどのように用いるのか
コリント教会の人たちが、救われた者は自由なのだから、何をしても良いと考えていたことについては、この手紙でこの後も取り上げられています。その時に改めて、私たちはこのことについて考えていきたいと思います。しかし少しだけ先取りするなら、自由なのだから何をしても良い、何でもできるというこの感覚は、現代を生きる私たちと決して無関係ではありません。いやむしろ私たちが今まさに体験している感覚だと言うべきでしょう。私たちの社会は人間の自由を重んじます。それは、言うまでもなく極めて重要なことです。しかもこの自由は、時代が進む中で何となく手に入った、というようなものでは決してありません。この自由を勝ち取るために激しい戦いがありました。ですから私たちは人間の自由を重んじる社会を守っていかなくてはなりません。しかしそのことをしっかり弁えた上で、なお私たちには問うべきことがあります。それは、人間の自由を限りなく最大にしていくことが、本当に私たちのあるべき姿なのか、ということです。確かにキリストの十字架による救いによって、私たちに自由が与えられています。しかし私たちはその自由をどのように用いるのでしょうか。別の言い方をすれば、神様が独り子の命を犠牲にしてまで私たちに与えてくださった自由に生きるとは、私たちが何をしても良い、ということなのでしょうか。そうではないはずです。私たちはその自由を、自分の欲望のために用いるのではなく、神様に従って、神の言葉である聖書を重んじて生きるために用いるのです。コリント教会の人たちは、与えられている自由を濫用して、神様に従うよりも、むしろ自分を神とし、聖書の言葉を軽んじて、自分たちは何をしても良いのだと誇っていました。このコリント教会の人たちの姿を通して、私たちは自分自身の姿を問われているのです。
パン種の入っていない者
パウロは6節冒頭で、教会で性的な罪が起こったことに対して悲しむどころか、誇っているコリント教会の人たちに対して、「あなたがたが誇っているのは、よくない」と語った後、今度は「パン種」の譬えを用いて語っています。「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい」。聖書において「パン種」の譬えは、しばしば僅かなものが全体を変質させてしまうことを見つめています。ここでも直前に語られていた性的な罪という「パン種」が、さらに言えば、悔い改めようとしない神様に対する高ぶりの罪という「パン種」が、「練り粉全体」を、教会全体を変質させてしまうことを見つめているのです。だからパウロは「古いパン種をきれいに取り除きなさい」と言います。「古いパン種」を、つまり罪を取り除きなさいと言うのです。ところがパウロは続けて不思議なことを言っています。「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです」。「古いパン種をきれいに取り除きなさい」と言っていたのに、「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです」と言うのは、論理的にうまく繋がらないように思えます。古いパン種を取り除けば、パン種の入っていない者となれる、というのであればよく分かります。しかしそうではありません。コリント教会の人たちが、そして私たちが古いパン種を取り除くよりも前に、すでに、現に、私たちはパン種の入っていない者とされている、つまり罪を取り除かれた者とされていると言われているのです。パウロはその理由を、「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたから」と語ります。その上で、8節で「だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」と勧めているのです。
出エジプトの出来事
このようにすでに私たちがパン種の入っていない者とされていることと、キリストが私たちの小羊として屠られたことが結びつけられ、さらには「過越祭を祝おう」と言われていることの背景には、イスラエルの民の出エジプトの出来事があります。本日共に読まれた旧約聖書出エジプト記12章15節以下では、七日の間、酵母を入れないパン、つまりパン種の入っていないパンを食べる除酵祭のことが記されていました。この除酵祭は、イスラエルの民がエジプトを脱出する際に急いでいたので、酵母を入れないパンを焼いたことを想い起こして、出エジプトの出来事を祝う祭りです。またこの除酵祭は、過越祭の翌日から七日の間、行われました。過越祭は、イスラエルの民が羊を屠り、その血を家の入り口に塗ったことによって、主なる神がその家を過ぎ越し、そのためにイスラエルの民がエジプトから脱出できたことを想い起こし、やはり出エジプトの出来事を祝う祭りです。ですからパン種の入っていないパンも、過越の小羊も、過越祭も、すべてイスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から救われた出エジプトの出来事と結びついているのです。
私たちにとっての救いの出来事
このことを背景としてパウロは、私たちキリスト者にとっての救いの出来事について語っています。主イエス・キリストが私たちの過越の小羊として屠られ、十字架で死んでくださったことによって、私たちは罪の奴隷状態から救われました。このキリストの十字架によって、私たちはすでに罪を赦され、パン種の入っていない者とされています。だからこそ私たちはすでに罪を赦された者として、パン種の入っていない者として、「古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭」を祝うよう導かれているのです。キリストの十字架によってすでにパン種の入っていない者とされているからこそ、罪を赦されているからこそ、私たちはなお日々罪を犯すとしても、自分の罪を認め、真剣に悔い改めを求めて歩んでいきます。教会で起こる罪をも真剣に受けとめ、共に悲しみ、共に悔い改めを求めていきます。そのことを通して、私たちの教会は、「パン種の入っていない、純粋で真実なパンで過越祭」を祝う群れへと変えられていくのです。すでにキリストの十字架によって罪を取り除かれているからこそ、私たちは、私たちの教会から罪を取り除いていきます。それはなによりも、私たちが教会で起こる罪に無関心になることなく、その罪を真剣に受けとめ、共に悲しみ、共に悔い改めを求めることによって実現していくのです。
私たちの祭りを祝おう
それにしても、教会でこれほど深刻な罪が起こっているにもかかわらず、パウロはなぜ「祭りを祝おう」と言うことができるのでしょうか。それは、キリストが過越の小羊として十字架で死んでくださったことによって、私たちの罪が赦され、私たちがすでに「パン種の入っていない者」とされているからにほかなりません。私たちはそのことに喜び、感謝し、私たちの祭りを祝うことができるし、祝っているのです。確かに私たちはなお日々罪を犯しています。その意味でなお自分の内に古いパン種を抱えています。しかしキリストの十字架によってすでに罪を赦され、「パン種の入っていない者」とされているからこそ、私たちはその自分の罪に、また教会で起こる罪に無関心になることなく、まして、それを自由の象徴として誇るのではなく、繰り返し悔い改め、罪を赦されて歩んでいきます。悔い改めに生きる教会こそが、罪の赦しに生きる教会であり、キリストの十字架の出来事を本当に喜び、祝う教会なのです。悔い改めに生きるときにこそ、私たちはキリストの十字架による救いを本当に喜び、感謝し、祝って生きていくことができるのです。
