「偽証してはならない」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 出エジプト記 第20章16節
・ 新約聖書: ローマの信徒への手紙 第8章31-34節
・ 讃美歌 : 166、157
身近でない戒め?
本日は、十戒の第九の戒め「隣人に関して偽証してはならない」をご一緒に読み、み言葉に聞きたいと思います。「偽証」ということが問題とされているこの戒めは、一見私たちの日々の生活とあまり関係のないもののように感じられます。偽証というのは裁判での証言において偽りを語ることですが、裁判で証言をするなどということは、多くの場合一生の内に一度あるかないかのことです。ですからそもそも偽証をする可能性のある場に立つことがほとんどないわけで、そういう私たちにはこの戒めはなかなかピンと来ない、というのが正直なところではないでしょうか。しかし思い起こしてみて下さい。私たちはこれまで、「殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない」という戒めを読んできました。これらの戒めも、一見、私たちの日常生活とはかけ離れた事柄のように感じられるものでした。殺人の罪を犯すとか、姦淫するとか、盗みを働くとかいうことは、勿論あり得ないことではないとしても、自分自身の生活においてあまり日常的にあることではない、という感じを私たちは持っていると思います。しかし、それぞれの戒めの意味を深く知らされることによって、これらのことは実は私たちが毎日でも陥ることがあり得る身近な事柄なのだ、ということを示されてきたのです。ですからこの「偽証してはならない」という戒めも、正しく理解するならば、私たちの日々の生活に深く関わるものであることが分かってくるはずです。そのことをご一緒に考えていきたいのです。
偽証と嘘
さてこの戒めを私たちの日々の生活にあてはめて考えるためにしばしばなされるのは、「偽証すること」を「嘘をつくこと」に置き換えて考える、ということです。確かに偽証は嘘をつくことの一種です。そして嘘をつくことは、私たちが子供の頃から体験している人間の基本的な罪の一つです。そのように読み替えれば、この戒めは直ちに、まことに日常的な事柄になるのです。けれども、「偽証」を簡単に「嘘をつくこと」に置き換えてしまうのはちょっと問題です。そうすると確かに身近なことにはなりますが、そのことによって、この戒めが語っていることを正しく把握することができなくなるのです。「嘘をついてはならない」ではなくて「偽証してはならない」と言われていることには意味があります。それを先ず捉えておく必要があるのです。
「偽証」と「嘘」との違いは、「嘘」というのは個人的、私的な人間関係の中で語られることであるのに対して、「偽証」は、何らかの公の場で、「証人」としての立場にある者がすることだ、ということにあります。この「公の場で」ということが大事なポイントです。先ほど、偽証とは裁判の証言において嘘をつくことだと申しましたが、そういう意味では必ずしも裁判における証言に限定する必要はありません。現在の日本の社会において考えてみた時、例えば国会における証人喚問であるとか、国や地方自治体が行う何らかの「説明会」において専門家の立場で語ることも「証言」です。あるいはさらにテレビなどのメディアにおいて、ある事柄についての専門家が招かれて説明をすることも、「公の場における証言」であると言うことができるでしょう。今私たちは毎日のようにそういう証言を聞いています。つまり原発の事故とそれによる放射性物質の影響について、専門家が出てきていろいろな解説をしているわけです。一般の我々はその報道を見たり聞いたりすることによって現在の状況を判断しているわけで、これらの発言はまさに「公の場における証言」という重みを持っていると言えるのです。問題は、そこにおいて「偽証」がなされていないか、です。福島第一原発において今現実に起っていることが客観的に示しているのは、これまで、日本の原発は安全であり、例えばチェルノブイリ原発などとは根本的に構造が違うのだからあのようなことは日本の原発では起り得ない、と語ってきた専門家たちの証言が間違っていた、ということです。確かにチェルノブイリにおいて起った爆発と、福島原発における水素爆発とは違いますが、いわゆるメルトダウンという現象が起り、原子炉格納容器が破損して大量の放射性物質が周囲に撒き散らされたことにおいては、同じような現象が生じたのです。勿論だからといって彼ら専門家たちの言葉が偽証だった、ということに直ちになるわけではありません。偽証というのは、それが嘘であることを意識しつつなされることですから、その人々にしてみれば、今回は想定外の事態が起った、津波の高さが想定をはるかに超えていたために起ったことであって、あの時の想定からすれば決して間違ったことを言ったわけではない、ということになるのでしょう。けれどもそこで問わなければならないのは、それではその時の「想定」は何を根拠になされていたのか、ということです。教会の壮年会だよりにも書きましたが、あの地域でおよそ一千年周期で今回のような地震と津波が繰り返されてきたことが既に10年前には分かっていました。そういう研究成果が指摘されていたのに「想定」の変更がなされなかったのです。つまり想定の根拠は既に崩れていたのです。そこでなお「想定外だった」と言って責任逃れをするのは限りなく「偽証」に近い事柄だと思います。これは原発事故関連で今私が注目しているある学者のインターネットサイトに載っていることですが、ある東大教授が、原発事故の初期に、福島市で一時間に20マイクロシーベルトの放射線が観測されたというニュースに登場して、「一回のレントゲン検査が600マイクロシーベルトだから、その30分の1の量で全く問題ない」と発言しました。一時間に20マイクロということは、そこに30時間いれば1回分のレントゲンの量になるわけで、ずっとそこに暮らしている人にとっては大問題のはずです。これなどは完全に偽証です。これは以前から指摘されてきたことですが、日本の原子力産業には、トラブルを隠し、公表しないで済ませようとする体質があります。今回はさすがに、外国からの強い圧力もあって、事態をかなり正確に公表しているようですが、これまで、何かあってもできるだけ隠密裏に事を処理しようとしてきた事実が沢山あります。このような隠蔽こそまさに偽証です。やはり先ほどの学者が言っていることですが、以前は、日本の企業には、周辺の住民に対する責任意識が強くあった。その人が昔勤めていた化学関係の工場には、自前の消防隊があり、消防車も配備されていたそうですが、しかし上司からは、もし火災が発生したら、社内の消防隊に通報する前に公の消防署に連絡しろ、と指導されていたというのです。それは、我々はこの企業の社員である前に日本国民として周辺の住民に対する責任があるからだ、ということです。以前にはあったそういう責任感が今はこの社会から失われてきており、特に原発関連の会社は正反対の隠蔽体質で動いている、そういう中では、技術的にどんなに進歩しても、日本の原発は決して安全とは言えない、とその人は言っています。偽証とそれを生む体質こそが、この社会の、また人々の命の危機をもたらしているのです。その人は、これは要するに人間の「誠実さ」の問題なのだと言っています。科学技術も、経済活動も、裁判の制度も、それを用いる人間が誠実さを失う時に、危険なものとなり、社会を破壊し、人の命すらも脅かすものとなるのです。偽証とはそのように、社会における人間の誠実さを失わせるものなのです。
隣人に関して
「偽証」ということの持つこのような社会的意味を私たちはしっかりと意識しなければなりません。それを「嘘をつくこと」に置き換えてしまうと、この戒めの持っている広がりを見失うことになるのです。そのことを踏まえつつ、しかし同時に注目すべきなのは、「隣人に関して」という言葉です。この戒めは「隣人に関する偽証」を問題にしているのです。つまり、私たちが「隣人に関して」どのような証言をしているか、が問われているのです。隣人に関する証言、それは裁判の場でのみなされることではありません。私たちは日々、隣人について証言をしている、つまり隣人のことを評価、判断する言葉を語っているのではないでしょうか。私たちが隣人についてどのような言葉を語っているか、ひいては隣人のことをどのような目で見つめているか、ということが問われているのです。 「ハイデルベルク信仰問答」はこの戒めについてこのように解説しています。問112の答えの前半の部分をお読みします。「わたしが誰に対しても偽りの証言をせず、誰の言葉をも曲げず、陰口や中傷をする者にならず、誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことに手を貸さないこと」。ここに、隣人に関する偽証とはどのようなものかが示されています。それは、人の言葉を自分の思いや悪意によってねじ曲げて伝えること、陰口や中傷、つまり陰で人の悪口を言うこと、確かめもせずに軽率に人を責めることなどです。私たちはそういう「偽証」を日々行っているのではないでしょうか。また自分自身も日々そういう偽証にさらされ、それによって傷付けられているのではないでしょうか。自分が偽証によって傷付けられることには私たちは敏感です。人に裁かれ、批判され、少しでも悪く言われると気に病みます。それなのに私たちはいとも簡単に、何の気なしに、人のことを裁き、批判し、悪口を言って、平気で人を傷付けます。そしてそれはとても楽しいことです。陰口、噂話、ゴシップのたぐいには飽きることがありません。旧約聖書箴言18章8節にこういう言葉があります。「陰口は食べ物のように呑み込まれ、腹の隅々に下って行く」。これは以前の口語訳聖書では「人のよしあしを言う者の言葉は、おいしい食物のようで、腹の奥にしみこむ」となっていました。私たちは毎日、陰口をおいしい食物のように呑み込み、それによって腹を満たしているようなところがあるのではないでしょうか。そういうことこそが「隣人に関して偽証すること」なのです。
良い人間関係を
つまり、「偽証」における「偽り、嘘」というのは、単に事実と違うことを言う、ということではありません。この「偽り」は、良い人間関係を失わせていくものなのです。陰口をたたいている所には、良い人間関係は築かれません。それをあくまでも「陰」に留めておいて、決して表には出さないとしても、です。というのはそもそも陰口というのは、人に語って初めて成り立つのですから、それは決して陰に留まってはおらず、必ず表に出てくるのです。要するに表だろうと陰だろうと、私たちが人の悪口を言って隣人との良い人間関係を破壊してしまう、そういう全ての言葉が「偽証」なのです。つまり「隣人に関して偽証してはならない」というこの戒めが目指しているのは、隣人との間に良い人間関係を築くことです。そのために、私たちが隣人に関して語る言葉が、陰口や中傷、軽率な断罪ではなくなり、隣人を愛し、尊び、生かすものとなっていくことをこの戒めは求めているのです。「ハイデルベルク信仰問答」問112の答えの最後の文章はこうなっています。「さらにまた、わたしの隣人の栄誉と威信とを、わたしの力の限り守り促進する、ということです」。隣人の栄誉と威信とを力の限り守り促進する、これこそが、隣人と良い人間関係を築いていくための道であり、隣人に関してそういう言葉を語りつつ生きることこそが、偽証をしないで生きることなのです。
信仰は偽善か?
そこには一つの疑問が生じるかもしれません。隣人の栄誉や威信を促進するような言葉を語っていくことが大切なのは分かるし、できるだけそうしたいと思う。しかしそれは、隣人の中にある罪や弱さや欠けなどを見て見ぬふりをして、心にもないお世辞を言うようなことになるのではないか、それこそかえって偽証をすることではないのか、という疑問です。これは非常に根の深い疑問であると言えます。そこで問われているのは、聖書の教える信仰は、私たちの心の中に必ずある、人を批判し罪を断罪し、陰口や中傷を語ろうとする思いを押し殺して、あたかも隣人を愛してだけいるかのような偽りの言葉つまり偽証を語り、心にもない偽りに生きる偽善者を生むのではないか、ということです。端的に言えば、信仰が偽証を生む、信仰者は偽善者だ、という批判です。
このような批判が生じるのは、あるいはこのような批判によって信仰が動揺するのは、私たちがどこかで、理想と現実、建前と本音、という図式で信仰のことを考えているからです。つまり、この戒めが語っている意味での偽証をしないこと、隣人の陰口や中傷を語らないことというのは信仰における理想だ、建前だ、しかし私たちの現実はそう理想通りにはいかない、建前はそうでも、本音のところでは、人を批判し、陰口や中傷を語ろうとする思いがある。人間とはそういうもので、それが自然なのだと思っているのです。そう思っている所では、信仰に生きること、隣人を愛し、良い関係を築いていくような言葉を語るなどということは青臭い理想論であり、本音を隠して建前に生きること、つまり自分を偽る偽善者としての生き方だということになります。そして、何とかしてその偽善から抜け出そうとする人は、自分の現実を理想に近づけようとして、建前を本音にしようとして必死になるのです。しかしそのような努力によって現実を理想に近づけることはできません。人間の努力で建前と本音を一致させることなど出来ないのです。なぜならそこでは、もともと理想と現実、建前と本音という区別の図式が前提となっているのですから、それが一つになってしまうわけはないのです。このような図式でものを考えている限り、私たちは、信仰は偽証を生むのではないか、信仰者となることは偽善者として生きることではないのか、という疑問から抜け出すことはできないのです。
聖書は宣言する
聖書が私たちに語っているのは、信仰という理想にあなたの現実を近づけなさい、という教えではありません。信仰という建前をあなたの本音として生きなさいという勧めでもありません。出エジプト記の文脈で言うならば、これまでにも繰り返しお話ししてきましたが、あなたは、エジプトで奴隷とされていたが、今や主なる神様によってそこから解放され、自由を与えられたのだ。だからあなたは、その救いを受けた者として、十戒を守って生きることができるのだ、ということです。聖書はこのように、神様の恵みによる奴隷状態からの解放を宣言しているのです。十戒は、エジプトの奴隷状態から解放された者の新しい歩みの指針であり、その一つに、隣人に関して偽証しないこと、隣人と良い関係を築いていくような言葉をこそ語っていくべきことが位置づけられているのです。
このことを、私たちの、つまり主イエス・キリストによる救いにあずかる新約聖書の信仰を生きる者の文脈に従って語り直すならばこうなります。神様の独り子である主イエスが、私たちの全ての罪を背負って、身代わりとなって十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちは罪を赦され、その支配から解放された。この主イエスの十字架による救いの恵みによって私たちは、自分自身を、罪を赦され新しくされた者として受け止めることができるし、また隣人をも、主イエスによる罪を赦された者として見つめ、そのことに基づく新しい関係を築いていくことができる。私たちが新約聖書から聞くのはこのような宣言なのです。その宣言をはっきりと語っているのが、先ほど共に朗読した新約聖書の箇所、ローマの信徒への手紙第8章31節以下です。そこには、神がその御子をさえ惜しまず私たちのために死に渡して下さった、そのようにして私たちの味方であって下さる、つまり私たちに救いを与えて下さっているのだ、ということが語られています。それを受けて33、34節には、「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」とあります。誰が私たちを訴えることができるか、誰が私たちを罪に定めることができるか、誰もできはしない、とパウロは言っているのです。それは、私たちがもともと罪のない、訴えられるような落ち度のない者だということではありません。むしろ私たちは罪に満ちた者であり、私たちを訴えて罪に定めるための材料はいくらでもあるのです。ですから私たちを訴え、罪に定めようとする人々の証言は正しいのです。けれども、もはや私たちは罪に定められることはないのです。義とされるのです。それは、私たちのために十字架にかかって死んで下さった御子イエス・キリストの執り成しによることです。十字架にかかり、そして復活して天に昇り、今や父なる神の右の座についておられるキリスト・イエスが、そこで父なる神様に、私たちのことを執り成して下さっている、つまり私たちの無罪を証言して下さっているのです。この主イエスの証言のゆえに、私たちはもはや罪に定められることはないのです。
主イエスの証言
私たちの罪を指摘し、有罪だと訴える証言はその通り正しいものです。私たちはそれに反論し、その証言を覆すことなどできません。その証言の通り私たちは滅びるべき罪人なのです。それでは、私たちの無罪を証言して下さっている主イエスの証言は真実と違う偽証なのでしょうか。そうではありません。主イエスは、私たちが何も罪を犯していないという偽りの主張をしておられるのではなくて、私がこの人の罪を全て背負って十字架にかかって死ぬことによってそれを償った、この人が受けるべき死と滅びを私が引き受けた、だからこの人はもう罪を赦され、そこから解放されているのだ、と証言して下さっているのです。この主イエスの証言のゆえに、私たちはもはや罪に定められることはなく、義とされ、救われるのです。この主イエスの証言を信じて生きることが私たちの信仰です。この主イエスの証言によって私たちは、様々な罪や弱さや欠けに満ちている自分が、神様によって赦され、義とされた者であることを信じて生きることができるのです。それは決して「理想論」でもなければ「建前」でもありません。神様の独り子イエス・キリストによって、その十字架の死と復活によって実現した事実を事実として受け止めて生きることです。つまり信仰というのは、私たちが自分自身について知っており、感じていることよりも、主イエス・キリストが私たちのために成し遂げて下さったことの方がまことの真実であると信じること、主ご自身がそのことを証言して下さっている、その証言こそが本当であると信じることなのです。
この主イエスの証言を信じることによって私たちは、私たちの隣人が、同じように罪を赦され、神様によって義とされ救われる者であることをも真実として受け止めることができるようになります。様々な罪や弱さや欠けを持っている隣人が、主イエスによる罪の赦しの恵みの中に置かれていることを信じて生きる者となるのです。その時、隣人に関する私たちの言葉も変わっていきます。主イエスがその人について証言しておられることを信じ、その人が主イエスによる罪の赦しの恵みにあずかっていることを証しする言葉になっていくのです。それも決して、青臭い理想を追うことではないし、本音を隠して建前に生きることでもありません。私たちは、主イエス・キリストによって、その十字架の死と復活によって実現した事実をこそ、本当の事実として受け止めて生きるのです。つまりここで問われているのは、私たちが、自分についても隣人についても、自分が知っており思っている姿こそが事実であり、主イエスが告げておられる救いの出来事は本当ではないと考え、主イエスのお言葉を偽証とみなすのか、それともその私たちの知っていること感じていることよりも、主イエスが証言して下さっている罪の赦しの恵みこそが真実であると認めるのか、ということなのです。
偽証からの解放
神様の私たちへの限りなく深い愛を告げ、主イエスの十字架と復活による罪の赦しを告げる言葉こそが真実であると認め、信じることによって、私たちの言葉は、特に隣人に関する証言の言葉は、人を愛し尊重し、慈しむ言葉となります。つまり、良い人間関係を破壊するような偽証に陥ることから解放され、キリストによって実現している救いの真実に基づく言葉となるのです。「隣人に関して偽証してはならない」という戒めは、主イエス・キリストによる救いの恵みの中で、このように実現していくのです。社会における誠実さを失わせるような偽証からの解放も、そこにこそ実現していくのです。