2025年1月12日
説教題「神の建物、神の神殿」 副牧師 川嶋章弘
詩編 第15編1~5節
コリントの信徒への手紙一 第3章9~17節
神の建物、神の神殿
私が主日礼拝を担当するときにはコリントの信徒への手紙一を読み進めています。前回は3章1~9節を読みましたが、最後の9節にこのようにありました。「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」。「あなたがた」は、つまりこの手紙の宛先であるコリント教会の人たちは、そして今、この手紙を読んでいる私たちは「神の畑、神の建物」である、と言われているのです。私たちが「神の畑」であることについては前回お話ししましたが、「神の建物」であることについては触れませんでした。このことはむしろ10節以下で詳しく展開されているからです。本日の聖書箇所を少し中途半端ですが9節からとしたのは、9節で言われている私たちが「神の建物」であることを、10節以下を読み進める中で受けとめていきたいと考えたからです。また本日の箇所の16節には、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」とあり、「神の建物」が「神の神殿」と言い換えられています。ですから本日の箇所全体は、私たちが「神の建物、神の神殿」であることを語っています。それは、何を意味しているのでしょうか。
神の建物であるとは
私たちが「神の建物」であると言われるとき、その「私たち」とは、一人ひとりのキリスト者のことではなく教会のことです。コリント教会は神の建物である、横浜指路教会は神の建物である、と言われているのです。それは、目に見える建物、目に見える教会堂のことを言っているのではありません。横浜指路教会の現在の建物は1925(大正14/昭和元)年に建てられ、まもなく築100年を迎える、横浜市の歴史的建造物にも指定されている立派な建物です。しかしこの建物が神の建物なのではありません。横浜指路教会が神の建物であるとは、神が招き集めてくださった私たちの群れが神の建物である、ということです。目に見える建物はもちろん大切です。神はこの教会堂を私たちに与えてくださり、その管理を委ねてくださっていますし、これまでも信仰の先輩方が、その働きと献げものによってこの建物を支え、守ってきてくださいました。しかしそうであったとしても、たとえ目に見えるこの建物が無くなっても、横浜指路教会という神の建物は無くなることがありません。神によって招き集められた私たちの群れがある限り、横浜指路教会は神の建物であり続けるのです。実際、コリント教会には立派な礼拝堂などありませんでした。おそらく信徒の家に集まって礼拝を守っていたはずです。それでもコリント教会が「神の建物」であることに変わりはないのです。
神の恵みによって
10節の冒頭でパウロはまずこのように言っています。「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」。パウロは自分がコリント教会の土台を据えたと言っているわけですが、自分のことを「熟練した建築家」と言うのは、パウロが自分を誇っているように思えるかもしれません。しかしパウロは自分の力で熟練した建築家のように土台を据えた、と言っているのではありません。「神からいただいた恵みによって」と言っています。ここにパウロの強調点があります。パウロはかつてキリスト教会を迫害していました。しかし復活のキリストがそのパウロに出会ってくださり、一方的な恵みによって救いにあずからせてくださり、伝道者として召してくださいました。パウロの伝道者としての働きは自分の力によるものではなく、神からいただいた恵みによるものです。それがパウロの自己理解と言ってよいでしょう。だからパウロは「神からいただいた恵みによって」、教会の土台を据えるために自分が用いられ、熟練した建築家のように働いたと語ります。それは決して自慢しているのではなく、むしろ自分に与えられた神の恵みを証ししているのです。
教会の土台
さて、言うまでもなく、あらゆる建物にとって土台は大切です。しっかりと土台を据えなければ、堅固な建物は建ちません。土台がいい加減であれば、いい加減な建物しか建たないでしょう。たとえ見栄えの良い建物であったとしても、土台がしっかりしていなければ、一度何かあれば、激しく揺さぶられて、場合によっては崩れてしまうこともあります。同じように神の建物である教会の土台に何を据えるかはとても大切なことです。パウロはその教会の土台を据えましたが、具体的には、11節に「イエス・キリストという既に据えられている土台」とあることから分かるように、イエス・キリストという土台を据えたのです。それは、パウロが宣べ伝えた主イエス・キリストを教会の土台としたということです。パウロが宣べ伝えた主イエス・キリストこそが、コリント教会の、そして私たちの教会の土台なのです。
私たち一人ひとりの土台
この土台は教会の土台であるだけでなく、教会に連なる一人ひとりの土台でなければなりません。神によって招き集められた群れが神の建物であり、その群れに連なる一人ひとりは神の建物の部分だからです。教会の土台は主イエス・キリストだけれど、その教会に連なる人たちの土台は別にあります、というのではありません。神の建物である教会の土台として主イエス・キリストを据えることと、その建物の部分である私たち一人ひとりの人生の土台として主イエス・キリストを据えることは一つのことであり切り離せないのです。別の言い方をすれば、私たちは教会に来ているときだけ神の建物の部分なのではありません。教会に来ていないときも神の建物の部分であり続けます。ですから教会にいるときはキリストを土台とするけれど、教会から外に出たら、別の何かを土台にするというのであれば、私たちは神の建物である教会を建て上げていくことはできないのです。「教会生活」という言葉があります。教会における営みを、学校や職場や家庭での日々の生活から区別するために用いる言葉だと思います。しかし根本的には、神の建物の部分である私たちの生活のすべてが「教会生活」と言ってよいのです。私たちは主の日の礼拝を中心としつつ、それぞれがキリストを自分の人生の土台として、自分の人生全体で神の建物である教会を建て上げていくことに関わっていくのです。
教会に連なるすべての人が神の建物を建て上げる
10節の後半にはこのようにあります。「そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです」。パウロは主イエス・キリストをコリント教会の土台に据えました。そしてその土台の上に、「他の人」が家を、神の建物を建てている、と言います。「他の人」とは、前回の箇所で言及されていたアポロのことではないでしょう。すぐ後で、「おのおの」と言われているように、一人の人ではなく複数の人について言われているからです。パウロやアポロのような伝道者のことだけが言われているのでもありません。むしろ「おのおの」とは、コリント教会に連なる一人ひとりのことです。教会を建て上げていくのは牧師だけでもなければ、長老や執事だけでもありません。教会に連なる一人ひとりが神の建物の部分ですから、教会に連なるすべての人が建て上げていきます。一人ひとりが自分の人生の土台にキリストを据える必要があるのもこのためです。教会に連なるすべての人が神の建物を建て上げることに関わっていくからこそ、それぞれの土台にキリストが据えられている必要があるのです。神の建物の部分である私たちは、誰もが神の建物を建て上げていくことに関係があるのです。その上で、私たち一人ひとりがどのように神の建物を建て上げていくかに「注意すべき」だ、とパウロは言います。「注意すべき」だとパウロが言うのは、コリント教会の人たちが、そして私たちがしばしば間違った仕方で神の建物である教会を建て上げようとしてしまうからです。では、私たちはどのように教会を建て上げればよいのでしょうか。
主イエス・キリストという土台
パウロは11節以下で二つのことを言っています。第一のことが、このことが決定的なことですが、11節で言われていることです。「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」。教会を建て上げるとき、既に据えられている主イエス・キリストという土台を無視して建て上げることはできません。主イエス・キリストとは別の土台を据えて建て上げることはできないのです。教会に連なる私たち一人ひとりは様々な違いがあり、その意味で私たちの群れは画一的な人たちの集まりではなく多様な人たちの集まりです。しかし多様であるにもかかわらず私たちには一致していることがあります。それが、自分の人生の土台にキリストを据えている、ということです。そこで一致していなければ、私たちは教会を建て上げることはできません。キリストという土台を無視するなら、キリストとは別の土台を据えるなら、教会を建て上げることはできないのです。
十字架につけられたキリストを土台に据えて
とはいえ私たちの多くは、神の建物である教会の土台としてキリストを据えることは当然のことだと思っているのではないでしょうか。さすがに別の神、コリント教会であればギリシアの神アルテミスを、私たちの教会であればたとえば恵比寿様を教会の土台に据えようとするはずがありません。しかし問題は、キリストを土台に据えることの中身です。先ほどパウロは自分が宣べ伝えた主イエス・キリストを教会の土台として据えた、と申しました。パウロが宣べ伝えたキリストという土台の上に、教会は建て上げられていきます。そうであればパウロが宣べ伝えたキリストとは、どのようなキリストなのかということが重要です。パウロが宣べ伝えたキリスト、それは、この手紙で繰り返し語られてきたように、「十字架につけられたキリスト」(1章23節)にほかなりません。パウロは「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めて」(2章2節)、「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えたのです。教会の土台に据えるのは、私たちの人生の土台に据えるのは、この「十字架につけられたキリスト」です。主イエス・キリストは、何一つ罪を犯されなかったにもかかわらず、私たちの罪をすべて背負って、私たちの代わりに十字架に架かって死んでくださり、そして復活されて、私たちを罪と死の支配から救ってくださいました。このことこそが教会の土台であり、私たちの人生の土台です。この「十字架につけられたキリスト」という土台の上にこそ、教会は、私たちの人生はしっかりと、堅固に建て上げられていくのです。しかし私たちは、「十字架につけられたキリスト」とは違うキリストを土台に据えてしまう誘惑にさらされていることにも気づかなくてはなりません。主イエスを神の独り子、救い主と信じるのではなく、英雄や偉人の一人のように見なし、私たちの模範、手本としてしまう誘惑があります。模範としてのイエスを土台として据えることは、私たちが自分の力で模範である主イエスに近づくことによって救いを得ようとする、ということです。自分の行いによって、自分が上昇していくことによって救いを得ようとするのです。コリント教会の中には自分の知恵を誇っている人たちがいました。より多くの知恵を得ることによって救われると思っていたのです。しかし自分の知恵や行いによって救いを得ようとするなら、コリント教会に分派争いが起こっていたように、私たちは自分とほかの人を比べて裁き合うことになります。模範としてのイエスを土台とするとき、教会は、また私たちの人生は、お互いにどちらが模範であるイエスに近づいているかを比べ合い、裁き合うことによって不安と恐れに満ちたものとなるのです。神の建物である教会は、そしてその部分である私たちは、「十字架につけられたキリスト」を土台とすることによってこそ、しっかりと、堅固に建て上げられていきます。神が一方的な恵みによって、独り子を十字架に架けて私たちの罪を赦してくださったことを、そこに示されている神の愛を土台にすることによってこそ、堅固に建て上げられていくのです。それが、「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視し」て、ほかの土台を据えないということなのです。
どんな素材を用いて建て上げるのか
第二のことが12節以下で語られています。「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます」。少し分かりにくいですが、要するに、「十字架につけられたキリスト」という土台の上に、どんな素材(建材)を用いて神の建物を建て上げていくべきなのか、ということが語られています。その素材が「金、銀、宝石、木、草、わら」と言われていますが、一つひとつを取り上げるより、「金、銀、宝石」と「木、草、わら」の二つに分けて考えるのが良いと思います。「金、銀、宝石」は、火によって燃え尽きてしまわない素材であり、それに対して「木、草、わら」は燃え尽きてしまう素材です。このことが指し示しているのは、「かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味する」と言われているように、「かの日」、つまり終わりの日に、神の吟味に耐えられる素材を用いて神の建物を建て上げたか、それとも耐えられない燃え尽きてしまう素材を用いたか、ということです。私たちが「十字架につけられたキリスト」という土台の上に、終わりの日の神の吟味に耐えられる素材を用いて教会を建て上げるならば、私たちの仕事は残り、報いを受けることができます。しかし耐えられない素材を用いるならば、私たちの仕事は燃え尽きてしまい、報いを受けることができない、つまり損害を受けるのです。
神の御心に従って
では、終わりの日の神の吟味に耐えられる素材を用いるとは、どういうことでしょうか。「金、銀、宝石」と「木、草、わら」という素材の違いは、火によって燃えるかどうかだけではありません。当時、「金、銀、宝石」は神殿や宮殿を建てる素材で、「木、草、わら」は民家を建てる素材でした。つまり教会は、民家を建てる素材ではなく、神殿を建てる素材を用いて建て上げなくてはならないのです。それは、神殿を建てるような立派な素材を使って教会堂を建てるということではありません。繰り返し申しているように、ここで教会というのは目に見える建物のことではないからです。私たちは自分の家を建てるときには、できるだけ自分の好みに合った家、あるいは世の中で流行りの家を建てるのではないでしょうか。ですから民家を建てる素材である「木、草、わら」を用いるとは、人間の好みとか世の中の流行に従うことを見つめている、と言えるでしょう。それに対して神殿を建てるときには、神の御心に沿って建てようとするはずです。つまり神殿を建てる素材である「金、銀、宝石」を用いるとは、神の御心に従うことを見つめているのです。教会は神の建物であり、16節にあるようにまさに神の神殿です。ですから私たちは自分の好みとか、誰かの要望や批判とか、あるいは世の中の流れとかに従って、教会を建て上げていくのではありません。そのようにして建て上げるなら、終わりの日の神の吟味に絶えることはできません。そうではなく私たちは神の御心に従って、神のご計画に従って教会を建て上げていくのです。そのようにして建て上げるとき、私たちの仕事は、私たちの働きは、終わりの日の神の吟味に耐えて残るのです。私たちはしばしば自分たちの好みに合った、自分たちに居心地の良い教会を求めてしまいます。しかし自分たちに居心地の良い教会というのはしばしば閉鎖的になり、新しく教会に来る方にとっては居心地の悪い教会になってしまいます。それでは、一人でも多くの人を教会に招こうとされる神の御心に従っているとは言えないでしょう。また私たちは自分たちの生きている間のことだけを考えがちで、自分たちの死を超えた視野を持つことがなかなかできません。しかし神の救いのご計画は、私たちの死を超えて終わりの日に至るご計画ですから、私たちは自分たちが生きている間だけのことではなく、次の世代、さらに次の世代のことも考えて教会を建て上げていくのです。
失敗を恐れることなく
しかしそうなると、私たちは誤った素材を用いて教会を建て上げていないか、絶えず気にしなくてはならないのでしょうか。失敗を恐れてびくびくしながら教会を建て上げていくのでしょうか。そうではありません。15節にこのようにあります。「燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」。確かに誤った素材を用いるならば、その仕事は終わりの日の神の吟味に耐えられず燃え尽きてしまいます。しかしそうであったとしても誤った素材を用いた人が滅びるわけではありません。誤った素材を用いたとしても、その人は、「火の中をくぐり抜けて来た者のよう」であっても、救われるのです。なぜでしょうか。私たちの救いは、私たちが正しい素材を用いて神の建物を建て上げたかどうかにかかっているのではなく、「十字架につけられたキリスト」にかかっているからです。私たちはすでにキリストの十字架によって救われています。そのキリストの十字架による救いの土台の上に教会を建て上げるなら、たとえ私たちが誤った素材を用いても、失敗しても、私たちの救いは決して揺らがないのです。だからこそ私たちは、失敗を恐れてびくびくするのではなく、決して揺るがないキリストの十字架による救いに信頼して、安心して、感謝と喜びを持って、神の御心に従って教会を建て上げていくのです。
教会で神は私たちに出会ってくださる
16節に「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」とあります。「神の霊」とは聖霊のことですが、ここでは聖霊が私たち一人ひとりの内に臨んでくださっていることを語っているのではなく、教会に臨んでくださっていることを語っています。教会が「神の神殿」であるとは、教会に神が住んでおられるということではありません。神は天におられるからです。教会が「神の神殿」であるとは、教会で神が私たちに出会ってくださる、ということです。そしてそれは聖霊が教会に臨んでくださることによって起こります。教会で、とりわけ礼拝で聖霊が臨んでくださることによって、神は私たちに出会ってくださり、語りかけてくださり、御心を示してくださるのです。私たちは神の御心に従って教会を建て上げていくために、礼拝において聖霊のお働きによって神の御心を示され続けていきます。私たちには弱さと欠けがあり、自分たちの好みや居心地の良さを求めてしまいがちです。しかしそのような私たちが礼拝で神の言葉を聞き、聖霊のお働きによって神の御心を示されることによって、その御心に従って教会を建て上げていくよう導かれるのです。
私たちは神と出会う場を探し求める必要はありません。神の神殿である教会で、神はいつでも私たちに出会ってくださるからです。その教会を私たちに与えるために、神は独り子を十字架に架けてくださいました。そのことを知らされている私たちは、その神の愛を知らされている私たちは、教会を壊すのではなく建て上げていくのです。弱さや欠けを抱えつつも、ときには失敗することがあっても、私たちはそれぞれが神の建物の部分として、「十字架につけられたキリスト」を土台として、共に力を合わせ、それぞれの賜物を活かして、神の御心に従って神の建物である教会を建て上げていくのです。聖霊のお働きによって神の御心を求める私たちが用いられて、教会はしっかりと、堅固に建て上げられていくのです。