説 教 「今、何を備えるのか」副牧師 川嶋章弘
旧 約 イザヤ書第53章1-12節
聖餐 新 約 ルカによる福音書第22章35-38節
最後の晩餐の最後の場面
ルカによる福音書は、22章14節以下からいわゆる「最後の晩餐」の席での出来事を語ってきました。本日の箇所35~38節は、その最後の場面になります。この後、主イエスと弟子たちは、食事をしていた二階の広間を出てオリーブ山へ、ほかの福音書ではゲツセマネと呼ばれている場所へ向かいます。
イザヤ書53章
さて、本日共に読まれた旧約聖書はイザヤ書53章です。良く知られた箇所で、主の僕の歌(苦難の僕の歌)と言われます。私たちはイザヤ書53章を読むと、主イエス・キリストのことを語っていると自然に思うのではないでしょうか。随分前に教会学校の分級でイザヤ書53章を読んで、子どもたちに「この箇所は誰のことを言っていると思う?」と尋ねたことがありますが、すぐに「イエス様!」という答えが返ってきました。主イエスのご生涯を知っている者にとっては、この主の僕が主イエスを指し示していると分かるのです。
このイザヤ書53章は、新約聖書においてしばしば引用されています。誕生したばかりの教会は、イザヤ章53章の預言が主イエスにおいて実現したことを信じ、受けとめました。私たちがこの預言を読んで自然と主イエスのことを語っていると受けとめるように、最初の教会の人たちも主イエスのご生涯を目の当たりにして、この預言で語られているのは主イエスにほかならないと確信したのです。ルカ福音書の続きである使徒言行録で、フィリポがエチオピア人の宦官にこの箇所の説き明かしをした出来事が語られています(使徒言行録8章26節以下)。宦官が「預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか」と尋ねると、フィリポはこの「個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせ」ました。フィリポは宦官に、預言者イザヤは主イエスを指し示していると、この預言は主イエスにおいて実現したと伝えたのです。
主イエスご自身の引用
本日の箇所にもイザヤ書53章からの引用があります。37節です。「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである」。「その人は犯罪人の一人に数えられた」が、イザヤ書53章12節後半の「罪人のひとりに数えられたからだ」の引用です。しかもこの引用は、主イエスご自身による引用です。先ほどお話ししたように、イザヤ書53章は新約聖書においてたびたび引用されています。しかし主イエスご自身が引用されたのは、実はこのルカ福音書22章37節だけです。ここで主イエスは、イザヤの主の僕の預言がご自分において実現する、とはっきりおっしゃっています。その意味でも、本日の箇所はとても大切な箇所だと言うことができるのです。
財布も袋も履物も持たずに遣わされた
そうではあるのですが、この箇所は、一言で言えば「謎な箇所」です。読んでも疑問や矛盾を感じる箇所です。主イエスはまず弟子たちにこのように言われました。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか」。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき」というのは、この福音書の9章1節以下と10章1節以下で語られていたことです。特に10章1節以下では、主イエスが七十二人の弟子たちを任命し、二人ずつ組にして町や村に遣わしたことが語られていましたが、そこで主イエスは「財布も袋も履物も持って行くな」と言われました。ですから主イエスは弟子たちに、自分たちが「財布も袋も履物」も持たずに遣わされたときのことを想い起させているのです。「何か不足したものがあったか」という主イエスの問いかけに対して、弟子たちは「いいえ、何もありませんでした」と答えています。10章17節では遣わされた七十二人が「喜んで帰って来」たと語られていました。七十二人は「財布も袋も履物」も持たずに遣わされたことに不安があったに違いありません。しかし神様の導きと守りのもとで、彼らは神の国を宣べ伝え、主の恵みのみ業のために用いられました。だから彼らは喜びに溢れて主イエスのもとに帰って来たのです。主イエスはまず弟子たちに、「財布も袋も履物」も持たずに遣わされたとき、足りないものが何もなかったことを、それどころか喜びに溢れて帰って来たことを想い起させたのです。
「今は、剣を備えよ」?
ところが主イエスは続けて、「しかし今は」と言われます。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」と言われます。主イエスの言葉をそのまま受けとめるならば、これまでは、つまりエルサレムに来るまでは、十二人を遣わしたときも、七十二人を遣わしたときも、「財布も袋も履物」も持たせずに遣わすことができたけれど、「しかし今は」それは出来ない、と言われているように思えます。主イエスの逮捕という危機が間近に迫っている「今」は、何も持たなくて大丈夫などと楽観的なことは言っていられない。だから財布も袋も持って行く必要がある、それどころか服を売ってでも「剣」を用意する必要がある、と言っているように思えるのです。そのように受けとめるならば、主イエスがイザヤ書53章12節を引用して、「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである」と言われたのも、ご自分が犯罪人として処刑される危機が間近に迫っていることを、その切迫感を弟子たちに伝えるためであった、ということになるでしょう。けれども本当に主イエスは、これまでとはまったく違う状況になったから、「今は、剣を備えよ」、と言われているのでしょうか。そしてそれに答えて、弟子たちが「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言ったので、主イエスは「それでよい」と言われた、ということなのでしょうか。
「今は、剣を備えよ」と言われるはずがない
この箇所だけを読むなら、「今は、剣を備えよ」という主イエスの言葉に応答して、弟子たちが二振りの剣を用意したので、主イエスは納得された、と受けとめることができます。しかしそのように受けとめることに私たちは疑問や矛盾を感じるのではないでしょうか。主イエスはこれまで剣に頼るよう言われたことはありませんでした。むしろ「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」(6章29節)と、力に訴えてはならないと言われてきました。その主イエスが「剣を備えよ」と言うのは考えにくいことです。それでも、「今」の主イエスは「これまで」の主イエスと違う、そう理解すべきなのでしょうか。これまでは武力に頼ることはなかったけれど、これまでとはまったく違う状況にある今は、武力に頼る必要がある、と理解すれば良いのでしょうか。しかしこの後起こる出来事に目を向けるとき、このように理解するのは無理があると分かります。この後、ユダに先導された人々によって主イエスは捕らえられますが、そのとき、主イエスの周りにいた人々が、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言い、その中のある人が主イエスの答えを待たずして、「大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落と」します。すると主イエスは「やめなさい。もうそれでよい」と言われ、大祭司の手下の耳に触れて癒やされるのです(20章49~50節)。主イエスは、剣や棒を持ってご自分を捕らえに来た人たちに、剣で抵抗するようにとは言われません。「やめなさい」と言われます。ご自分が捕らえられるという危機の真っ只中で、剣を使うことを戒められ、ご自分を捕らえに来た人の傷をも癒やされる主イエスが、その直前に、「今は、剣を備えよ」、武力に頼る必要があると言われるはずがないのです。
「剣」は神の言葉の比喩?
それゆえこの箇所は「謎な箇所」であり、色々な解釈がなされてきました。たとえば、「剣」は神の言葉の比喩であると解釈されることがあります。主イエスが「剣を備えよ」と言われたのは、「神の言葉を備えよ」という意味であったのに、弟子たちがそれを理解できず、本物の剣を二振り用意したので、主イエスは弟子たちの無理解に呆れて、がっかりして、「それでよい」と言って、弟子たちとの会話を打ち切ったと解釈するのです。「それでよい」というのは、「それで十分」という表現ですが、肯定的にも否定的にも用いられます。肯定的であれば「それで十分良い」という意味になりますし、否定的であれば「もうたくさんだ」という意味になります。主イエスが「それでよい」と言って、弟子たちとの会話を打ち切ったというのは否定的に読んでいるわけです。そのように読めば、主イエスは「神の言葉を備えよ」と言ったのであって、武力に頼るよう言ったわけではありません。矛盾もなくなります。魅力的な読み方かもしれません。けれども「剣」が神の言葉の比喩なのであれば、この箇所で主イエスがまず弟子たちに、自分たちが財布も袋も履物も持たずに遣わされたことを想い起させている理由がはっきりしません。これまでは財布や袋や履物を持って行く必要がなかったけれど、「今」は持って行く必要があるとは、これまでは「神の言葉」を備える必要がなかったけれど、「今」は「神の言葉」を備える必要があるということなのでしょうか。それはありそうにないことです。十二人の弟子たちも、七十二人も神の国を宣べ伝えるために遣わされました。「神の言葉」を備える必要がなかったはずがありません。ですからこのように理解するのは無理があるように思うのです。
「今」という時
そこで主イエスが「しかし今は」と言われる「今」という時が、どのような時なのかを改めて考えたいと思います。主イエスにとって「今」という時は、ご自分の逮捕と処刑が間近に迫った時ということになります。しかし31節からの文脈では、むしろ弟子たちにとって「今」という時が、どのような時なのかが語られていました。31節で主イエスは、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」と言われました。主イエスはシモン、つまりペトロだけに語りかけておられますが、そこで言われているのは、ペトロだけでなく、弟子たち皆が小麦のようにふるいにかけられるということです。「しかし今は」と言われる「今」という時は、弟子たち皆がふるいにかけられる時です。主イエスが捕らえられ十字架で処刑されることによって、弟子たちがふるいにかけられようとしている、それが「今」という時なのです。
自分の力を頼みとする
33節でペトロは主イエスに、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言っていました。ペトロは自分の決意や覚悟によって主イエスに従って行こうとしたのです。そのように思っていたのはペトロだけではないでしょう。ほかの弟子たちも自分の力に頼って主イエスに従って行こうとしていました。従って行けると思っていました。たとえ主イエスが捕らえられ十字架で処刑されるとしても、自分の力を頼みとして主イエスに従って行けると思っていたのです。そうであれば、主イエスの「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」というお言葉は、「今」という時に、弟子たちが財布や袋に、そして剣に頼ろうとしていることを見つめているのではないでしょうか。弟子たちが自分の持ち物や力を頼みとして歩もうとしていることを見つめているのです。「今、備えるべきは自分の持ち物だ、自分の力だ」と考えている弟子たちに、主イエスはそれならば「財布と袋を持って行きなさい、剣を買いなさい」と言われたのです。「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」という弟子たちの言葉は、ペトロの「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と重なります。ペトロが自分の決意や覚悟に頼ることを言い表したように、弟子たちも剣に頼ることを、自分の持ち物や力に頼ることを言い表しているのです。主イエスは弟子たちに「それでよい」と言われました。「強盗にでも向かうように、剣や棒を持って」(52節)主イエスを捕らえに来る人たちに対して、たった二振りの剣で抵抗できるはずがありません。「それでよい」、「それで十分」という主イエスの言葉には、二振りの剣で十分足りるという思いが込められているのではなくて、自分の力を頼みとするのはもう十分だ、という思いが込められているのではないでしょうか。それでも主イエスは弟子たちに呆れて「それでよい」と言われたのではないと思います。主イエスの眼差しは、自分の決意と覚悟に頼ろうとしているペトロに向けられたものと同じです。深い愛と憐れみの眼差しを弟子たちに向けて、主イエスは「それでよい」と言われました。自分の力を頼みとする弟子たちのことを、悲しみを持って受けとめられて、「それでよい」と言われたのです。
不安に駆られ剣を振り回す私たち
この主イエスの眼差しは、自分の持ち物や力に頼って生きようとする私たちにも注がれています。自分の力に頼って生きるとき、私たちは絶えず不安に駆られます。財布、つまりお金を頼りとするなら、どれだけお金を持っていても、足りなくなるのではないかという不安に駆られます。自分の持っている物、たとえば自分の能力を頼りとするなら、自分とほかの人を比べて、自分がほかの人より劣っているのではないかと不安に駆られます。不安に駆られることによって、私たちはより多いお金を、より高い能力を、より大きな力を手に入れようとするのです。間違ってはならないのは、お金を稼ぐことやスキルアップを目指すことが良くないということではありません。そうではなく、その根底になにがあるのかが問題です。その根底に不安があるなら、たとえお金や能力や力を手に入れても、私たちはそれを、人を傷つけるために使いかねません。この箇所の後で語られるように、大祭司の手下の右の耳を切り落とす人は、持っている剣で人を傷つけるだけです。剣で主イエスの逮捕を防げたのではありません。不安に駆られて剣を振り回すだけなのです。愚かなことだと思います。しかしこの愚かさが世界を、私たちを覆っています。不安に駆られることによって人間がどれほど破壊的になるかは、この世界に、この世界を何度も破壊することができる核兵器があることにはっきり示されています。それでもなお私たちが核兵器を手放すことができないのは、不安に支配されているからです。私たち一人ひとりも不安に支配されるとき、攻撃的になり、批判的になります。自分の持っている物や力を頼りとして生きるとき、私たちは絶えず不安に駆られ、剣を振り回し、人を攻撃し、批判し、傷つけてしまうのです。主イエスの深い愛と憐れみ、そして悲しみの眼差しは、そのような私たちにも向けられているのです。
罪人のひとりに数えられた
自分の力を頼みとする弟子たちに向かって、主イエスは「それでよい」と言われただけではありません。その前に、イザヤ書53章のみ言葉を引用して、「『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである」と言われています。これを聞いた弟子たちが「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言って、自分の力に頼ることを宣言するわけですが、まさにそのように自分の力を頼みとし、不安に駆られ、人を傷つけてしまう弟子たちのために、そして私たちのために、主イエスはイザヤ書53章の預言がご自分の身に実現すると言っているのです。その8節に「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた」とあるように、主イエスは、この後、食事をしていた二階の広間を出てオリーブ山へ向かい、そこで捕らえられ、裁きを受けて、十字架に架けられて死なれます。続けて「彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを」と言われているように、主イエスが十字架で死なれ、神様に裁かれたのは、主イエスに罪があったからではありません。主イエスは何一つ罪を犯されなかったのに、私たちの背きのために、私たちの罪のために、「神の手にかかって」死んでくださったのです。罪人でない主イエスが、「自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられた」、それが主イエスの十字架の出来事です。そのことによって主イエスは「多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをした」のです。主イエスは、自分の力を頼みとし不安に駆られ、神様に背き、自分自身と隣人を傷つける弟子たちの罪を、そして私たちの罪を担って十字架で死んでくださり、そのことによって私たちを罪から救ってくださったのです。
教会の時代に生きる弟子たちが想い起こす
自分の力に頼って主イエスを見捨てることになる弟子たちを見つめつつ、主イエスは、「『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する」と告げることによって、自分の力に頼ることにではなく、罪のない神の独り子イエスが「罪人のひとりに数えられ」十字架で死なれることにこそ救いがあると示されました。このとき弟子たちは主イエスが本当に告げようとしたことが分かりませんでした。しかし主イエスが十字架で死なれ復活された後に分かったはずです。あのとき、自分たちが二振りの剣を見つけて喜んでいたとき、主イエスは剣によって救われるのではない、ご自分が十字架で死なれることによって救われる、と告げておられたと分かったはずです。主イエスの復活と昇天より後の時代、つまり教会の時代を歩むペトロを支えたのは、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」という主イエスの言葉であったでしょう。同じように教会の時代を歩む弟子たちは、繰り返し、「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する」という主イエスの言葉を想い起こしたに違いありません。そして主イエスこそ、イザヤが預言した苦難の僕であると、イザヤの預言が主イエスにおいて実現したと、罪のない主イエスが私たちの罪をすべて担って、私たちの代わりに十字架で死んで、私たちの救いを実現してくださった、と証言したのです。
神の導きと守りにより頼んで生きる
七十二人を遣わすとき、主イエスは「財布も袋も履物も持って行くな」と言われました。それは、遣わされた先で自分の持ち物や力に頼るのではなく、神様の導きと守りにより頼んで歩みなさいということです。別の言い方をすれば、どこに遣わされようとも神様の導きと守りのもとにあるということです。そしてこの主イエスの約束は、教会の時代に生きる弟子たちに、そして私たちに与えられています。かつては財布も袋も履物も持っていなくても、神様の導きと守りのもとにあったから大丈夫であったけれど、「しかし今は」そうではない、というのでは決してありません。「しかし今も」、主イエスが復活し天に昇られた今も、私たちは自分の力により頼むのではなく神様の導きと守りにより頼んで歩むのです。自分の力に頼って神様に背き、自分自身と隣人を傷つけ、世界を破壊している私たちを救うために、独り子を十字架に架けてくださった神様に信頼して生きるのです。
今、何を備えるのか
アドヴェントを迎えました。このアドヴェントに、私たちは主イエスの誕生を祝う備えをします。しかしその備えとは、私たちが自分の力に頼って備えをすることではありません。むしろ自分の力に頼ることをやめて、私たちの罪をすべて担って十字架で死ぬためにこの世に来てくださった主イエスに、その主イエスを遣わしてくださった神様に頼ることこそ、私たちがアドヴェントになすべき備えです。今、アドヴェントに何を備えるのか。自分の力を、自分の剣を手放して、神様に信頼し、委ねることによって私たちは備えるのです。そのように備えて生きる私たちに、財布にも袋にも履物にも、そして剣にも頼らない歩みが、平安と喜びに溢れた歩みが与えられていくのです。