説教 「わたしたちを救う名」 牧師 藤掛順一
新約聖書 使徒言行録第4章10-12節
総員礼拝
今日は、総員礼拝と言って、教会学校のみんなと、大人の人たちとが一緒に礼拝をしています。教会学校の皆さん、ちょっと周りを見回してみてください。こんなに大勢の大人の人たちが、皆さんが分級を終わって帰った後こうして礼拝をしているのです。また教会の皆さん、これだけの子どもたちと保護者の方々が、いつも教会学校で礼拝をしているのです。ここにいる全ての人たちを、神さまが礼拝へと呼び集めて下さっているのです。
今教会学校に来ている皆さんのほとんどは体験したことがないと思いますが、コロナになる前の2019年まで、毎年こういう総員礼拝をしていました。いつもは6月の「花の日」にこれをしていたのです。五年ぶりにこうして、大人と子どもがみんな揃って神さまを礼拝することができて本当にうれしいです。
イエス・キリストの名による救い
さて今日の聖書のお話しですが、ここはイエスさまの弟子だったペトロの言葉です。使徒言行録3章の始めのところから話は続いているのですが、ペトロともう一人の弟子ヨハネが、お祈りのためにエルサレムの神殿に来た時、その門のところに、生まれつき足が不自由で歩けなかった人がいて、施しを求めたのです。つまり「お金を恵んでください」と願ったのです。歩けないこの人は神殿に礼拝に来た人たちからそうやってお金をもらって生活するしかありませんでした。ペトロはその人に「わたしにはお金はありません。でも、わたしが持っているものをあげましょう。それはイエス・キリストのお名前です。そのお名前によって立ち上がり、歩きなさい」と言いました。すると、その人は歩けるようになったのです。つまり、イエス・キリストのお名前によって素晴らしい救いの奇跡が起こったのです。ところがそのことに驚いた大勢の人たちがペトロたちのところに集まって来てその教えを熱心に聞いていたので、神殿の祭司たちやユダヤ人の長老たちは、ペトロたちを捕まえて牢屋に入れてしまいました。翌日、ペトロたちは大祭司とユダヤ人の議員たちの前に引き出されて取り調べを受けました。大祭司たちは、「誰がこんなことをしてよいと言ったのか。私たちの許しなしにこんなことをするのはけしからん」と言ったのです。それに対してペトロが答えたのが今日のところです。ペトロは、「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」と言いました。生まれつき足が不自由だった人が歩けるようになった、その救いの奇跡は、イエス・キリストのお名前によって行われたのです。ペトロたちにそういう奇跡を行う力を与えたのはイエス・キリストのお名前でした。だからペトロは、「わたしが持っているものをあげましょう。イエス・キリストのお名前によって歩きなさい」と言ってこの人を癒すことができたのです。そしてさらにペトロはこう言いました。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。「この名」つまりイエス・キリストのお名前のほかには、わたしたちが救われるべき名前はない、イエス・キリストのお名前こそが私たちを救うのだ、とペトロははっきりと語ったのです。
イエス・キリストの名を信じることが救い
これが、教会に集まっている人たちの信じていることです。教会は、イエス・キリストのお名前にこそ救いがあると信じている人たちの集まりです。何となく神さまがおられる、と思っている人たちが集まっているのではありません。そして教会に集まっている人たちが信じている「救い」というのは、何かいいことがあるとか、願いが叶う、例えば希望の学校に入れるとか、いい会社に入れるとか、お金持ちになれるというようなことではありません。イエス・キリストのお名前を信じることが信仰なのだし、イエス・キリストと結び合わされることが救いなのです。だから、この後みんなで一緒に唱える「使徒信条」にも、「わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます」とあります。イエス・キリストというお名前が、私たちにとってとても大事な、救いを与えてくれる大切なお名前なのです。
「イエス・キリスト」の意味
どうして、イエス・キリストというお名前がそんなに大事なんでしょうか。教会学校では、「新明解カテキズム」に基づく「カテキズム教案」に従って礼拝をしています。今は「使徒信条」がとりあげられていて、今日は「イエス・キリストを信じます」というところなのですが、それについての新明解カテキズムの問いと答えが週報に書かれていますので見てください。問い22に、「『イエス・キリスト』という言葉の意味を教えてください」とあります。それに対する答えに先ずこうあります。「『イエス』とは、『主は救い』という意味のお名前です。『キリスト』とは、『油注がれた者』という意味です。」。イエス・キリストというのは、名前と苗字ではありません。イエスは「主は救い」という意味のお名前です。イエスさまの頃、この名前の人は沢山いました。「主なる神さまの救いにあずかれるように」と願って多くの親たちが子どもに「イエス」という名前をつけたのです。だからイエスというのは、主なる神さまこそが自分を救ってくださる方だ、という信仰を語っている大事な言葉ではありますが、でもありふれた、普通の名前でした。一方キリストの方は、「油注がれた者」という意味で、それは神さまから特別な務めを与えられた人ということです。イエスさまは、神さまから特別な務めを与えられてこの世に来られたのです。その務めというのは、私たちが神さまに背き逆らってばかりいる、その罪をすべて背負って、私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んで下さることによって、私たちの罪を赦して下さって、神さまと私たちの間に良い関係を築いて下さる、という務めです。その務めを果たして下さったことによって、イエスさまは私たちの救い主となって下さったのです。だから「キリスト」というのは、救い主、という意味です。「イエス・キリスト」というお名前は、イエスさまは私たちの救い主だ、主なる神さまによる救いは、イエスさまによってこそ実現した、という意味なのです。だから、問22の答えの後半には「わたしたちは、イエス・キリストという名前を呼ぶことで、このお方が唯一の救い主だと告白しているのです。」と言われているのです。
私たちと一緒にいて下さるイエスさま
私たちは、イエス・キリストというお名前を大切にして、そのお名前にこそ救いがあると信じて歩みます。さっき、イエスというのはありふれた名前だったと言いました。神さまの独り子が、イエスというありふれたお名前をもってこの世を生きてくださったのです。それは、神さまの独り子が私たちみんなと同じ、普通の人になって下さったということです。イエスさまは、神の子であられるのに、神さまに逆らってばかりいる罪人であり、そのためにいろいろな苦しみや悲しみをかかえている私たちのところに来て下さったのです。そして私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。そして父なる神さまはそのイエスさまを復活させて下さいました。それによって、私たちにも、復活の希望を与えて下さいました。復活の希望などと言ってもわかりにくいですが、つまり、私たちは死んでしまったらそれで終わりではない、イエスさまによって罪を赦されて、神さまの子どもとされた私たちは、イエスさまと同じように、復活して永遠の命を生きる者とされる、という希望を与えられているのです。それはイエスさまが私たちのために死んで復活してくださったことによって実現したことです。私たちのために死んで下さって、復活して下さった、そんな方は、このイエスさまの他に、この世には誰もいません。だから、このイエスさまこそが、私たちのただ一人の救い主なのです。このイエス・キリストが、いつも私たちと一緒にいてくださることこそが、私たちの救いなのです。私たちは、大人も子どもも、毎週日曜日に教会の礼拝に集まって、そこでイエス・キリストのお名前を呼んで、イエスさまのみ言葉を聞いて、イエスさまと一つにされます。そして日曜日だけでなく、毎日の生活の中でも、イエス・キリストのお名前を呼んでお祈りをすることによって、イエスさまと一緒に生きていきます。そこには、ほかの誰によっても得ることができない慰めと支えと救いがあるのです。