夕礼拝

主の言葉に従って

2024年10月13日 夕礼拝 
説教題「主の言葉に従って」 牧師 藤掛順一

列王記上 第13章1~34節
ヘブライ人への手紙 第4章12~13節

王国の分裂
私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書列王記上を読み進めています。先月は第12章を読みました。そこには、ダビデのもとで確立し、その息子ソロモンの時代に最盛期を迎えたイスラエル王国が、ソロモンの息子、レハブアムの時に北と南に分裂したことが語られていました。その根本的な原因は、ソロモンが、外国から迎えた妻たちの影響によって、他の神々を拝むようになってしまったことに対する主なる神がお怒りになったことです。ソロモンは、モーセを通して与えられた十戒の第一と第二の戒め、つまり「あなたには私をおいてほかに神があってはならない」「あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない」に反する状態をイスラエル王国にもたらしてしまったのです。そのことに対する裁きとして主なる神は、ヤロブアムという人を立てて、イスラエルの十二の部族の内の北の十部族をレハブアムから取り上げました。そこにはレハブアム自身の愚かさもからんでいたのですが、ヤロブアムを王とする北王国イスラエルが生まれ、ダビデ王家のレハブアムは、ユダとベニヤミンの二つの部族からなる南王国ユダの王となったのです。このように、イスラエル王国は、人間の罪に対する神の怒りによって分裂したのです。

ヤロブアムの罪
このように、北王国イスラエルは、ソロモンの罪に対する主なる神の怒りのみ心によって生まれた国でした。しかし彼らも主なる神の民イスラエルの一部であることに変わりはなく、分裂はしたけれどもこの二つの国は神の下にある兄弟だったのです。しかし北王国イスラエルの初代の王となったヤロブアムは、この国の土台を据えることにおいて大きな間違いを犯しました。北王国も、南王国も、共に主なる神を信じる者たちの国です。ソロモンが、その主なる神を礼拝するための神殿をエルサレムに建てました。そのエルサレムは南王国ユダの領域にあったのです。ヤロブアムはそのことを不安に思いました。北王国の人々が、主なる神を礼拝するためにエルサレムに上らなければならないとなると、国民の心は結局エルサレムを治めるダビデ王家の方に傾いて行ってしまうのではないか。そうなったら、自分は殺されて皆がユダの王レハブアムに従うようになってしまうのではないか、という不安です。そのために彼は、北王国イスラエルにも、エルサレムに代わる礼拝の場を作ろうと思いました。そして彼は、金の子牛の像を造って、人々に「あなたたちはもはやエルサレムに上る必要はない。見よ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である」と告げたのです。つまり彼は、まさに「自分のために刻んだ像を造る」という大きな罪を犯したのです。そして彼がその金の子牛の像を安置して、祭壇を築き、イスラエルの人々のための礼拝の場所とした所が「ベテル」でした。聖書の後ろの付録の地図の中の「南北王国時代」を見ると、北王国イスラエルの一番南に「ベテル」があります。ヤロブアムはここを、エルサレムに対抗する北王国の礼拝の場とすることによって、北王国の結束を確かにしようとしたのです。そして彼はベテルで、エルサレムで行われている主なる神への祭儀に似たことを行い、それを司る祭司を自分で任命しました。つまり新しい宗教を作ったのです。それは明治政府が、日本という国をまとめるために、欧米のキリスト教に対抗して、天皇を唯一絶対の神とする国家神道を造ったのと似ています。国の結束のために宗教が作られる、ということはよくあるのです。しかしそれはもちろん、主なる神のみ心に反することであり、神の怒りを招くことでした。12章においては、そのことはまだはっきりとは語られていませんでしたが、本日の13章に、主なる神がそのことをお怒りになっていることが示されているのです。

ベテルの祭壇への預言
以上のことを前提として知ることによって、13章を理解することができます。13章の冒頭に「神の人」がユダからベテルに来た、とあります。「神の人」とは、神の言葉を伝える預言者です。その人は、ヤロブアムが築いたベテルの祭壇に対してこう語ったのです。「祭壇よ、祭壇よ、主はこう言われる。『見よ、ダビデの家に男の子が生まれる。その名はヨシヤという。彼は、お前の上で香をたく聖なる高台の祭司たちを、お前の上でいけにえとしてささげ、人の骨をお前の上で焼く。』」「人の骨を祭壇の上で焼く」というのは、祭壇を汚すことを意味しています。つまりこの「神の人」が告げたのは、主なる神の怒りによって、このベテルの祭壇が破壊され、その祭司たちは殺され、そこでの祭儀は滅ぼされる、ということです。ヤロブアムが北王国の都合によって、自分の判断で、金の子牛の像を造り、それを拝むための祭壇を築き、祭司を立てて、主なる神への礼拝を真似たような礼拝を行っていることに対して、主なる神は怒っておられ、その聖所と祭儀を滅ぼされるのだ、とこの人は告げたのです。

ヨシヤ王によって
そしてここには、それを実行するのは、ダビデ家に生まれるヨシヤという男の子だ、と語られています。それは、大分時代が下ってから南王国ユダの王となるヨシヤ王のことです。ヨシヤ王のことは、列王記下の22、23章に語られています。彼がユダの王になった時には、北王国イスラエルは既にアッシリアによって滅ぼされて無くなっていました。しかしベテルの祭壇や祭儀は続けられていたのです。ヨシヤ王は、エルサレム神殿の修復中に発見された律法の書に基づいて、ユダ王国に宗教改革を行い、偶像の神々とその祭壇を破壊し、主なる神のみを礼拝する体制を整えたのです。その一環として彼はベテルの祭壇を取り壊し、偶像の神々の祭司たちを殺しました。そのことは列王記下の23章15節以下に語られています。数百年後にヨシヤ王によって行われるベテルの祭壇の破壊を、この神の人は預言したのです。その相手はヤロブアムです。北王国イスラエルの最初の王であり、ベテルの祭壇を築いた張本人であるヤロブアムに、主なる神がそのことを怒っておられ、この祭壇はいつか破壊される時が来ることが告げられたのです。そしてこの神の人が語った主の言葉は、数百年後に実現したのです。

老預言者と神の人
さてしかしこの13章には、さらに不思議な話が続きます。ヤロブアム王は当然ながらこの人に対して怒り、捕えようとしますが、その手は萎えて動かなくなってしまいました。神の人が祈ることによって手は元に戻りました。そういう癒しの奇跡を体験したヤロブアムは、これは粗相があってはならないと思ったのでしょうか、彼を王宮に招こうとします。しかし彼はその招きを固く断って、主なる神に命じられていた通りに、来た道とは別の道を通って帰って行きました。これが10節までの話で、そこまでは分かるのです。ところが11節以下によく分からない不思議なことが語られています。ベテルに住んでいた一人の年老いた預言者が登場します。その人があの神の人の後を追って行ったのです。そして追いつくと神の人を自分の家での食事に招待します。神の人は、ヤロブアムの招待を断ったのと同じように、ベテルで食事をしたり水を飲むことは主なる神に禁じられていると言って断ります。しかし老預言者はなお誘います。18節です。「わたしもあなたと同様、預言者です。御使いが主の言葉に従って、『あなたの家にその人を連れ戻し、パンを食べさせ、水を飲ませよ』とわたしに告げました」。しかしそれは、「彼はその人を欺いたのである」とあるように嘘でした。老預言者は、主なる神の御使いが自分に、あなたを家に招いて食事をさせるようにと命じた、と嘘をついて彼を招いたのです。神の人はそれなら、と彼の家に行って食事をしました。するとその食事をしている間に、老預言者に主の言葉が与えられました。彼はこう言ったのです。21節です「主はこう言われる。『あなたは主の命令に逆らい、あなたの神、主が授けた戒めを守らず、引き返して来て、パンを食べるな、水を飲むなと命じられていた所でパンを食べ、水を飲んだので、あなたのなきがらは先祖の墓には入れられない』」。そしてその後、神の人は帰り道で獅子に殺されてしまいます。老預言者は彼の遺体をベテルの自分の墓に葬って「なんと不幸なことよ、わが兄弟」と言ったのです。彼が預言した通りに、神の人の遺体は先祖の墓ではなく、ベテルの老預言者の墓に葬られたのです。
何なんだこの話は、と私たちは思います。そもそもこの老預言者は何をしているのか、さっぱり分かりません。嘘をついて神の人を家に招き入れておいて、その食事の席で、「あなたは主なる神の言葉に従わなかったから先祖の墓には入れない」と言うとはどういうことなのか、お前が騙したから神の人は主なる神の言葉に反することをしてしまったのではないか、と腹立たしくも思います。これははっきりと語られているわけではないから想像に過ぎませんが、この老預言者は、神の人が告げた、ベテルの祭壇の破壊を防ごうとしたのかもしれません。そのために、神の人を騙して主なる神の命じた道から外れさせれば、その語った預言は実現しなくなる、と思ったのかもしれません。食事の席で彼が語ったことは、主なる神が彼に臨んで語った言葉ですから、彼の思いではなくて主なる神の思いです。つまり老預言者は策略を用いて神の人の語った預言を無効にしようとしたけれども、結果はそうはならず、神の人が悲劇的な死を遂げることになっただけだった、ということかもしれません。そのことを申し訳ないと思ったので、彼は神の人の遺体を回収して、自分の入るべき墓に葬り、弔ったのかもしれません。

神の人の悲劇の原因
また私たちはこの神の人が可哀想だとも思います。「主なる神からこういう示しがあった」という老預言者の言葉に騙された結果命を失ってしまったのです。それはひどいんじゃないか、と感じます。しかしこういうことも言えます。彼は、主なる神から直接命令を与えられていたのです。それは、ベテルに行ってその祭壇についての主なる神の言葉を告げ、そして別の道を通って帰れ、その間、食べたり飲んだりするためにその道を逸れてはならない、という命令でした。つまり彼は、右にも左にも逸れることなく、後戻りすることもなく、ひたすらまっすぐに前進するように命じられていたのです。しかし19節に「その人は彼と共に引き返し、彼の家でパンを食べ、水を飲んだ」とあるように、彼は引き返してしまったのです。老預言者から、「主なる神からこういう示しがあった」と言われたのですが、しかしそれは彼に示された神の言葉ではなくて、老預言者の言葉です。つまり彼は、神の言葉ではなく人間の言葉に耳を傾け、それに従って、示された道を引き返してしまったのです。そこに、彼に起こった悲劇の原因があったと言えるのです。

主の言葉によって
しかしこのようにいろいろと想像を巡らせても、この話から、納得できる倫理的、道徳的教訓を読み取ることは難しいと言わなければならないでしょう。どこかすっきりしない、釈然としない、疑問だらけでつまずきに満ちたことがここには語られているのです。しかしこの13章には、その全体を貫いている一つのモチーフがあります。それは、繰り返し語られている、「主の言葉に従って」ということです。1節に「主の言葉に従って神の人がユダからベテルに来た」とあります。そして2節には「その人は主の言葉に従って祭壇に向かって呼びかけた」とあります。神の人は主の言葉に従って遣わされ、主の言葉に従ってベテルの祭壇についての預言を語ったのです。そして9節には「主の言葉に従って、『パンを食べるな、水を飲むな、行くとき通った道に戻ってはならない』と戒められているのです」とあります。主の言葉によって彼は、右にも左にも逸れることなく、戻ることもなく、ひたすら前進するように命じられていたのです。それなのに人間の言葉を聞いて引き返してしまったのは彼の大きな間違いだったのです。つまり神の人がここで果たした使命も、また彼の失敗も、すべては「主の言葉に従って」ということを軸に展開しているのです。

主なる神の言葉こそが実現する
そしてあの老預言者は18節で神の人に「御使が主の言葉に従って、『あなたの家にその人を連れ戻し、パンを食べさせ、水を飲ませよ』とわたしに告げました」と言いました。彼も「主の言葉に従って」と言っています。しかしこれは主の言葉ではなくて、彼が自分で考え、策略をめぐらして語った人間の言葉だったのです。そして彼らが共に食卓についていた時に、老預言者に「主の言葉が臨んだ」のです。つまり、本当の主の言葉が示されたのです。そしてこの本当の主の言葉がその通りに実現していったのです。このことを通して、老預言者はあることをはっきりと悟りました。そのことを彼が息子たちに語ったのが31、32節です。神の人の遺体を自分の墓に葬った後、彼は息子たちにこう言ったのです。「わたしが死んだら、神の人を葬った墓にわたしを葬り、あの人の骨のそばにわたしの骨を納めてくれ。あの人が、主の言葉に従ってベテルにある祭壇とサマリアの町々にあるすべての聖なる高台の神殿に向かって呼びかけた言葉は、必ず成就するからだ」。彼が悟ったこと、それは、主なる神の言葉こそが必ず実現する、ということです。彼は神の人を欺いて、主なる神がその人にお示しになった道を逸させることによって、その預言の実現を阻止しようとしました。しかしその目論見はあえなく失敗しました。彼がしたことは結局、神の人の人生を破滅させただけで、主なる神の言葉は確かに実現したのです。この体験によって彼は、神の人が主の言葉に従ってベテルの祭壇について語った預言は必ず実現する、それを妨げることは誰にもできない、ということを悟ったのです。主なる神のみ言葉は、人間のどのような策略によってもその実現を妨げることはできないのです。また主なる神のみ言葉を預けられて語った人が、主に従う道を逸れてしまうようなことがあっても、主の言葉はそれによって無になってしまうことはなく、何百年かかってかもしれないけれども、必ず実現するのです。神の人は主の言葉に従ってそのことを預言しました。そして老預言者もそのことを悟ったのです。だから彼は、神の人を自分の墓に葬り、自分の骨を彼の骨の傍に埋葬することを求めたのです。それは、何年先になるかは分からないけれども、この主の言葉が実現した時に、自分たちの墓が、そのことの預言が既に語られていたことの印となるためです。実際、列王記下の23章16節以下には、ヨシヤ王が彼らの墓を見たことが語られています。主なる神の言葉は、それ自体が力を持っており、何百年の時を経ても、必ず実現する。この13章の不可解な、つまずきに満ちた話は、そういうことを告げているのです。

生きていて力ある神の言葉
本日共に読んだ新約聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙第4章12、13節です。ここにも、神の言葉は生きており、力を発揮することが語られています。それは両刃の剣のように私たちを刺し貫いて、「心の思いや考えを見分ける」のだと言われています。13節には、「更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」とあります。生きていて力ある神の言葉によって、私たちが心の中に隠している全てのことが神の前に裸にされ、明らかにされるのです。主なる神の言葉に触れるというのは、そのように恐ろしいことなのです。あの神の人と老預言者の話も、そういうことを語っていたと言えます。しかし私たちは、その生きている神の言葉が、人間となってこの世に来て下さったことを知らされています。それが主イエス・キリストです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」主イエス・キリストは、私たちの心の思いや考えを全て見分けておられ、私たちが人には隠している全ての罪や弱さを知っておられるのです。そして主イエスは、その罪や弱さの全てを背負って、私たちのために、私たちに代って、十字架にかかって死んで下さいました。主イエスの十字架の死によって、主なる神は、私たちの罪を赦して、ご自分の民として下さいました。人となった神の言葉である主イエスによって、私たちに救いが与えられたのです。そして主なる神は主イエスを死者の中から復活させて下さいました。それによって、私たちにも、復活と永遠の命を与えて下さることを約束して下さったのです。主なる神の言葉は、主イエスの十字架と復活によって、神が私たちに救いを与え、その救いを復活と永遠の命において完成して下さると告げているのです。この神の言葉は必ず実現します。それが実現するのは、私たちが死んで墓に葬られて、何百年か経ってからかもしれません。しかし、その実現を妨げることができるものは何もないし、またその神の言葉は、それを与えられて、それを信じてその実現を待ち望んで歩んでいる私たちが、道を踏み外してしまって、あらぬ方向へと進んでしまったり、後戻りしてしまうようなことがあっても、それで無になってしまうことはないのです。私たちはそのような生きていて力のある主のみ言葉を与えられています。主の言葉は必ず実現する。そこに私たちの希望があるのです。

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