主日礼拝

平和を祈れ

説 教 「平和を祈れ」牧師 藤掛順一
旧 約 イザヤ書第52章7-12節
新 約 マタイによる福音書第10章5-15節

十二使徒
主イエス・キリストに十二人の弟子たちがいたことはよく知られています。主イエスのもとで教えを聞き、従って来ていた人はもっと沢山いたのですが、主はその中から十二人を特別に選び出されたのでした。前回マタイによる福音書を読んだ9月1日の礼拝において、その十二人が選ばれたところを読みました。10章1~5節です。十二人の名前がそこに並べられていました。この十二人は、何のために選ばれたのでしょうか。1節には、彼らに「汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」とありました。そして本日の冒頭の5節に「イエスはこの十二人を派遣するにあたり」とあります。「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす」という特別な力を与えられて派遣されるために、彼らは選ばれたのです。2節には彼らのことが「十二使徒」と呼ばれています。「使徒」というのは「遣わされた者」という意味です。本日の箇所は、その十二使徒を派遣するに当っての主イエスの教えです。彼ら十二人が、遣わされていった先々で、何をしたらよいのか、またどういうことに注意すべきか、が語られているのです。何をしたらよいのかは7、8節に語られています。「行って『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」。「天の国は近づいた」と告げ知らせ、そのしるしとして「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす」ために彼らは遣わされたのです。

主イエスのみ心を行う働き手
病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払う、それはどの一つをとっても驚くべきことです。こんな力を与えられて派遣された使徒たちはすごいなと思うわけですが、しかしここに語られていることは全て、主イエス・キリストご自身がしておられたことです。「天の国は近づいた」、それは4章17節で主イエスが伝道を始めた時に最初にお語りになったことでした。主イエスは天の国、つまり神のご支配の到来を告げ知らせておられたのです。病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病の人を清め、悪霊を追い出す、というのも全て、「天の国は近づいた」ことのしるしとして主イエスがなさってきたみ業です。つまり十二使徒は、主イエスご自身がなさっていたことを行うための力を与えられたのです。それによって、9章36節に語られていた、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」という主イエスの深い憐れみのみ心が実現していったのです。彼らは、主イエスの憐れみのみ心が人々の間で具体的に行われていくための「働き手」として遣わされたのです。

私たちも遣わされていく
主イエスによってそのように選ばれ、遣わされたのはこの十二人だけなのでしょうか。「使徒」と呼ばれるのは確かに、この十二人と、後に立てられたパウロまでです。その後の教会の指導者たちのことは「使徒」とは言いません。しかし、主イエスが十二人を選んで派遣なさったことは、後の教会の人々と、つまり私たちと、決して無関係な話ではありません。そもそも、彼らの数が十二人だったということが象徴的な意味を持っています。十二というのは、イスラエルの民の部族の数です。アブラハムの孫であるヤコブが、主なる神からイスラエルという名前を与えられ、その息子あるいは孫たち十二人から、神の民イスラエルの十二の部族が起りました。十二人の弟子が選ばれ派遣されたことは、このことに重ねられています。つまりこの十二人から、新しいイスラエル、新しい神の民が、つまり教会が生まれていったのです。彼ら十二人は教会の先頭に立っているのです。新しいイスラエルである教会は、民族としてではなく、「天の国は近づいた」という福音を信じ、その天の国をもたらした主イエスをキリスト、救い主と信じる者たちによって築かれていきます。そしてその教会に連なる者たちが、最初の十二人に続いて遣わされて福音を宣べ伝えていったことによって、全世界へと広がっていったのです。ですから、主イエスによって選ばれて派遣されたのは、十二人の使徒たちだけではありません。使徒たちが宣べ伝えた福音を信じて、新しい神の民である教会に連なって生きている者たちは、彼らと同じ使命を与えられているのです。つまり私たちも主イエスによって遣わされていくのです。

私たちへの教え
そのことは別の角度からも確認することができます。このマタイ福音書において、本日の10章5節に「イエスはこの十二人を派遣するにあたり」とありますが、その後を読んでいっても、派遣された十二人がどうした、ということは全く語られていません。マルコやルカにおいては、派遣された弟子たちが主イエスのもとに帰ってきて、自分たちのしたことを報告したことが語られているのですが、マタイにはそれが全くありません。つまりマタイは、この十二人が派遣されて何をしたか、ではなくて、この福音書を読んでいる教会の人々に、つまり私たちに、あなたがたも、この十二人と同じように主イエスによって選ばれ、主イエスの救いのみ業を担う「収穫のための働き手」として派遣されていくのだ、ということを語ろうとしているのです。派遣された者たちが何をするかは、彼らではなくて私たちの問題なのです。その私たちが、どのように歩んだらよいのかをマタイはここに語っているのです。ですからここでの主イエスの教えは、十二人の弟子たちに対してと言うよりも、むしろ私たちに対する教えなのです。

ただで受けたものをただけ与える
それは大変だ、と私たちは思わずにはいられません。主イエスご自身がなさっていたことを行うために派遣されるなんて、自分にはそんなことはとてもできない、と思います。しかしそこで私たちは、8節の終わりの言葉をよく味わう必要があります。そこには、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とあります。弟子たちが、そして私たちが派遣されてしていく業は、「ただで受けたことをただで与えること」なのです。十二人は、汚れた霊を従わせるほどの権能を主イエスから与えられました。しかしその力は、ただで与えられたものだったのです。「ただで」というのは、「贈り物として、恵みとして」という意味です。厳しい審査に合格することによってではなく、純粋な贈り物として、彼らは主イエスご自身の語っていたことを語り、なさっていた業を行う力を与えられたのです。つまり彼ら十二人が主イエスから使命を与えられて遣わされたのは、彼らが特別に優れた力や能力を持っていたからではありません。立派な人間だったからでもありません。「私にはこんな力があります、こんなことができます」と言えるものは何もないのに、ただ神の恵みによって、彼らは選ばれ、派遣されたのです。そして、ただ恵みとして与えられたものを、人々にも、ただで、何の資格も相応しさも求めることなしに与えていったのです。

何も持って行くな
そのようなあり方を具体的に示しているのが9、10節です。「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である」。弟子たちを派遣するにあたって主イエスは、何も持っていくな、と言っておられます。金貨も銀貨も銅貨も、つまりお金は一切持っていくな、袋や二枚の下着や履物や杖という、旅の最低限の必需品すらも持って行くなとおっしゃるのです。何故でしょうか。「働く者が食べ物を受けるのは当然である」というのがその理由です。つまり、遣わされた働き手には必ず必要なものが与えられるのです。誰がそれを与えてくれるのでしょうか。それは主イエスを通して彼らをお遣わしになった父なる神です。この福音書の6章31節以下で主イエスは、「だから『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」とおっしゃいました。この父なる神のみ心を信じて、神が必要なものを全て与えて下さることに信頼して、そのみ手に身を委ねて、与えられた使命を果していく、それが、何の蓄えも用意もなく派遣されていく弟子たちのあり方なのです。それはまさに神がただで、恵みによって与えて下さるものによって生かされていくということです。主イエスによって遣わされる弟子たち、信仰者は、厳しい資格審査をクリアして得た自分の能力に依り頼んで生きるのではなく、ただ神が恵みによって与えて下さるものに支えられ、生かされ、そして神が与えて下さる力によって使命を果していくのです。その使命とは、主イエスご自身の憐れみのみ業を人々の間で具体的に行っていくことです。そのためには、自分の力や相応しさなどはかえって邪魔なのです。自分は何も持っていない者が、神の恵みによって、ただで必要なものを全て与えられて歩んでいく、そこにこそ、主イエスご自身の憐れみのみ業が現されていくのです。「何も持って行くな」という教えは、そういうことを語っているのです。

平和があるように
11節以下には、遣わされた先で何をするべきかが教えられています。しかしここでも何か特別なことをせよと言われているわけではありません。することはただ一つ、12節にある「平和があるように」と挨拶することです。実はこの12節の原文には「平和があるように」という言葉はありません。直訳すれば、「その家に入ったら挨拶をしなさい」です。その挨拶が、ユダヤ人の間では「シャーローム」という言葉であり、それは「平和があるように」という意味なのです。日本語ではそういう時の挨拶の言葉は「こんにちは」ですが、これは全く意味のない、虚しい言葉だと言わざるを得ません。それに比べて「シャーローム」という挨拶は何と豊かな、深い内容を持っていることか、と思います。とにかく、その「シャーローム、平和があるように」という挨拶をすることが、弟子たちが派遣された先でするべきことなのです。そしてその一言の挨拶が、大きな意味と効果を持つのだと言われているのです。13節「家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる」。弟子たちの「平和があるように」という挨拶が、あるいは祈りが、その家の人々に本当に平和を与える力を持つのです。このことを、弟子たちの挨拶あるいは祈りの言葉に魔術的な力が与えられた、ということではありません。このことは、その前の、彼らがお金も何も持たず、つまり自分の力や蓄えによるのではなく、ただ神の養いと導きに身を委ねて遣わされていく、ということと合わせて読まれるべきです。そのように、神の恵み、憐れみのみ心を信じて、それに依り頼んで歩む者は、神から本当の平和を与えられるのです。そしてその神からの平和に生きている人は、他の人にも、その平和を伝え、与えていくことができるのです。人のもとに、本当に平和を携えて行くことができる人とはどのような人であるかがここには示されています。それは、自分の力や資格や正しさ、立派さに依り頼むのでなく、神が、何の資格もない自分にただで与えて下さった恵みによって生きている、それにこそ依り頼んでいる人です。そこにこそ、本当の平和があり、そのような人こそが、人に平和をもたらすこともできるのです。

ふさわしい人とは
そしてここには、彼らの挨拶を受ける相手の人が、その平和を受けるにふさわしい場合とふさわしくない場合があることが語られています。相手がふさわしくなければ、その平和は弟子たちに戻って来るのです。このふさわしさとは何でしょうか。ただで与えられると言いながら、結局は何らかのふさわしさという資格が求められているのでしょうか。そうではありません。この場合のふさわしさとは、神が与えて下さる恵み、平和を、自分の資格やふさわしさへの報酬としてではなく、まさに恵みとして受けることです。自分はどれだけのものを持っているか、何ができるか、どんな力があるか、ではなくて、神の恵みをただ恵みとして、感謝してお受けする心、それを持っている人こそ、神からの平和を受けるにふさわしい人なのです。この福音書の6章19節以下の、「地上に富を積んではならない。富は天に積みなさい」という教えにおいても、これと同じことが語られていました。地上に富を積むとは、自分の中に富、豊かさを積んで、それに依り頼むことです。そうではなくて天に富を積む、それは天の父である神の恵みにこそ信頼し、依り頼むことです。弟子たちが天の父なる神の恵みによって与えられている平和は、同じように天の父なる神に依り頼んでいる人にこそ与えられるのです。逆に、そういう心がなかったら、どんなに平和が祈られても、平和がその人のところに来ることはないのです。神が与えて下さる平和は、魔術のように実現するわけではありません。自分は神の平和にふさわしい者ではない、ということを知っているけれども、神が恵みによって平和を与えて下さることを信じて求めていく人こそが、神がただで与えて下さる平和を得ることができるのです。

11節には、「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい」と教えられています。その「ふさわしい人」もこれと同じでしょう。神の恵みが本当に恵みとして、つまりただで、何の資格もない自分に与えられていることを信じて、それを心から感謝していただく人こそが、神の平和を受けるのに「ふさわしい人」なのです。

ふさわしい人になる
この平和を伝えていくために遣わされていく私たちにとって大事なことは、まず私たち自身が、神の恵みを、本当にただで受ける者になることです。今見た意味での「ふさわしい人」に私たち自身がなることです。自分はそんな大それた使命を負うことはできない、自分にはそんな力はない、と言っている間は、私たちは、自分の力、自分の資格、自分の持っているふさわしさに依り頼もうとしているのです。それは実は神の前での傲慢、思い上がりです。私たちにそんな力がないこと、ふさわしい者でもないことなど、神は先刻ご承知です。それをご存じの上で、その私たちを選んで、ただで、恵みを与えて下さっているのです。その恵みは、独り子主イエス・キリストによって与えられています。主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さったことによって、神の恵みが、私たちを支配している罪と死の力に勝利して、私たちをそこから解放して、新しく生かして下さっているのです。イエス・キリストによってこの神の恵みがまさにただで、私たちに与えられているのです。ただで与えられているこの恵みを信じて、感謝していただく時に、私たちは、「ふさわしい人」になり、神による平和を与えられます。そしてその平和を与えられた者は、自分の中には何の蓄えも、力も、ふさわしさもないままで、「天の国は近づいた、神の恵みのご支配が今や主イエスによって始まっている」という喜びの知らせを伝える者として遣わされ、「あなたがたに平和があるように」と祈る者とされていくのです。するとそこに、苦しんでいる人が慰めと支えを与えられ、病気や死の力の支配下で恐れ、悲しみ、嘆いている人に希望が与えられ、困難や苦しみを乗り越えて新しく生き始めていく、という驚くべきことが起こります。主イエスの憐れみのみ業がなされ、神による平和が与えられるのです。私たちの力によってではありません。神がそこに働いて下さって、み業を行って下さるのです。私たちはその神のみ業のほんの一端を担う者として用いられるのです。

教会から、この世の現実へと
主イエスはここでは弟子たちに、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」とおっしゃいました。まずは、神の民イスラエルの中へとあなたがたを遣わすということです。それは私たちに当てはめるなら、まずは教会の兄弟姉妹の交わりにおいて、互いに、主イエスの憐れみのみ心に生き、平和を祈りもたらす者として歩めということでしょう。罪深い私たちは、その当たり前のことがなかなかできずに、むしろ互いに傷つけ合い、平和をもたらすどころか争いを引き起こしてしまいます。だからこそ、常に繰り返し、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」というみ言葉に立ち返らなければなりません。私たちはただで、何のふさわしさも資格もないのに、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みを受けたのです。だからそれを私たちの兄弟姉妹にも、ふさわしさや資格を問うことなく、ただで与えていく者でありたいのです。主にある兄弟姉妹の交わりを、新しいイスラエル、新しい神の民である教会をそのように築いていきたいのです。そして主イエスによる救いは、決してイスラエルの民のみに限定されてはいません。この福音書の最後のところでは、復活なさった主イエスが、弟子たちを、全世界へと派遣し、全ての民をわたしの弟子としなさいと命じておられます。主イエスはご自分の救いを、神による平和を、教会の外へと、全世界へと広げていって下さるのです。そのために、私たちを選び、遣わして下さるのです。「私はふさわしくない、私にはそんな力はない」と言うのはもうやめて、それぞれが遣わされていく争いや戦いに満ちているこの世の現実の中で、主イエスがもたらして下さった平和を告げ、「あなたがたに平和があるように」と祈っていきたいのです。

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