夕礼拝

主のしるし

「主のしるし」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第10章1-29節
・ 新約聖書: ローマの信徒への手紙 第9章14-18節
・ 讃美歌 : 141、357

十の災い
 月に一度、私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書出エジプト記からみ言葉に聞いています。前回、8月には、7章の14節から8章の終わりまでを読みました。出エジプト記の7章から12章にかけてのところには、モーセとアロンがエジプト王ファラオに、奴隷とされているイスラエルの民を解放するように要求したこと、しかしファラオが心を頑なにしてそれを認めようとしないので、主なる神様がエジプトに災いを下されたことが語られています。全部で十の災いが下されました。前回読んだ所には最初の四つの災いのことが語られていました。先ほど朗読したのは10章ですが、本日は9章も含めて、つまり第五の災いから第九の災いまでのところを読みたいと思います。第五の災いは9章1節から7節の「家畜の疫病の災い」、第六は8節から12節の「膿みの出るはれ物の災い」、第七は13節から9章の終わりまでの「雹の災い」、第八は10章1節から20節の「いなごの災い」、第九は21節以下の「暗闇の災い」です。最後の第十の災いは11、12章に語られています。それはエジプト中の初子、つまり最初に生まれた男の子が殺されるという災いです。この十番目の決定的な災いによって、ついにイスラエルはエジプトから解放されたのです。本日はそのクライマックスの直前の箇所を読むわけです。

イスラエルとエジプトの区別
 前回第一から第四の災いを読むことによって気付かされたのは、四つの災いの話がただ並べられているのではなくて、次第に内容が深まっていっている、ということです。特に第四の「あぶの災い」から新たな展開が見られます。この災いから、神様はエジプトの人々とイスラエルの民を区別して、エジプトの人々の上にのみ災いを下すようになったのです。エジプト全土にあぶが満ちたのに、イスラエルの民の住むゴシェン地方には全く入り込みませんでした。このことによって、主なる神様が、ご自分の民であるイスラエル人をエジプト人とは区別しておられ、エジプトに対してイスラエルの解放を求めてこれらの災いを下しておられることがはっきりと示されたのです。このことは、この後下されていく災いにおいても繰り返されていきます。9章1節以下の第五の「家畜の疫病の災い」においても、疫病で死んだのはエジプト人の家畜のみであり、イスラエルの家畜は一頭も死ななかったのです。9章8節以下の第六の「膿みの出るはれ物の災い」においてはそのことははっきりとは語られていませんが、11節にこのはれ物が「エジプト人すべてに生じた」とあるのは、イスラエルの民は除いて、ということを意味しているのでしょう。そしてこの神様がイスラエルの民をエジプト人から区別する、ということが決定的に示されるのが、11、12章に語られる「過越」の出来事なのです。

ファラオの心にまで及ぶ災い
 さて9章13節からは第七の災い、「雹の災い」です。ここにも内容の深まりがあります。それを示しているのが14節の主のみ言葉です。主はこのように言っておられます。「今度こそ、わたしはあなた自身とあなたの家臣とあなたの民に、あらゆる災害をくだす。わたしのような神は、地上のどこにもいないことを、あなたに分からせるためである」。「今度こそ」とは、これまでとは違って今度こそ、という意味です。これまでの六つの災いと今度の災いではどこが違うのでしょうか。それは「あなた自身とあなたの家臣とあなたの民に」という点でしょう。つまりこれまでの災いと違うのは、「あなた自身とあなたの家臣」つまりファラオ自身とその家臣たちにも災いが直接及んでいくということです。これまでの災いも、「エジプト全土」また「エジプト人すべて」に及ぶものでした。しかしこれらの災いは、ファラオや家来たちの生活を直接脅かすまでには至っていなかったのです。災いによって苦しんでいたのは一般の人々で、ファラオとその家来たち、つまり支配者たちにはまだ余裕があったのです。しかしこの第七の災いからは、彼らにも直接被害が及んでいきます。そのことが20、21節に示されています。「ファラオの家臣のうち、主の言葉を畏れた者は、自分の僕と家畜を家に避難させたが、主の言葉を心に留めなかった者は、僕と家畜を野に残しておいた」。ファラオの家臣たちのうち家畜を野に残しておいた者たちは、雹によってそれらを全滅させられたのです。つまりいよいよファラオの周辺にも災いが迫ってきたのです。しかしここではまだファラオ自身は直接被害を受けていません。ファラオ自身への災いは、最後の第十の災いにおいて現実となるのです。つまりファラオの初子、長男も主の使いによって撃ち殺されてしまうのです。長男、つまり跡取り息子というのは、王にとって何よりも大切なものです。王朝は明確な後継者がいることによって安定するもので、それが失われると混乱が生じるのは昔も今も変わりません。第十の災いにおいて、跡取り息子というファラオ自身にとって最も大切な存在にまで災いが及ぶに至って、ついに彼はイスラエルの解放を認めることになるのです。14節のみ言葉はこのクライマックスを予告していると言うことができます。ここに「あなた自身」という言葉がありますが、それは「あなたの心」とも訳せる言葉です。大事な跡取り息子はファラオにとって自分の「心」と言ってもいいような存在なのです。そのファラオの「心」にまで災いが及ぶことを14節は予告しているのです。ですからここに「あらゆる災害をくだす」と複数形で語られているのは、第七から第十に至る全ての災いをひっくるめていると言えるでしょう。

第七の災い
 このようにいよいよ災いがクライマックスにさしかかろうとしているこの時点で、神様はこれらの災いを下す目的をお示しになっています。それが14節の後半です。「わたしのような神は、地上のどこにもいないことを、あなたに分からせるためである」とあります。「わたしのような神は、地上のどこにもいない」、つまり主なる神様こそがまことの神であり、この世の全てを支配し、導いておられるということをファラオに分からせることがこれらの災いの目的です。ファラオは、自分こそがエジプトの王であり、エジプトを支配していると思っています。だから、自分の支配下にいる奴隷であるイスラエルの民を解放しようとしないのです。しかし、エジプトを含めてこの世界全体を本当に支配しているのは、人間の王様ではなくて主なる神様なのです。そのことを知ろうとせず、認めようとせず、自分が王、主人であろうとしていることが人間の罪です。主なる神様はこれらの災いによって人間のそういう罪を打ち砕き、「わたしのような神は、地上のどこにもいない」ことを分からせようとしておられるのです。神様は罪人に対して怒り、滅ぼそうとしているのではありません。滅ぼそうと思うならとっくの昔にそうすることができた、と15節に語られています。16節はそれを受けて、「しかしわたしは、あなたにわたしの力を示してわたしの名を全地に語り告げさせるため、あなたを生かしておいた」と言っています。主なる神様は、心を頑なにしてみ言葉に逆らうファラオを生かしておられるのです。それは、彼にご自身のまことの神としての力を示して、彼が主の名を全地に語り告げるようになるためです。つまり背き逆らうファラオも、神様のご支配と栄光を証しする者として間接的に用いられていくのです。そういう神様のみ心がここに語られているのです。
 さらにこの第七の災いには、ファラオの家臣たちの間に、主なる神様の力を実感し、モーセが語るその言葉を畏れ、それに耳を傾ける者が出てきたことが語られています。先ほど読んだ20節に「主の言葉を畏れた者」とあるのがその人々です。その人々は、モーセの忠告を聞いて家畜を家に避難させたために全滅を免れたのです。しかし21節にあったように、「主の言葉を心に留めなかった者」、つまり神様のみ言葉を軽んじ、それを真剣に聞こうとしなかった者は、僕と家畜を野に残しておいたために、雹によってそれらを全て失うことになりました。この災いにおいても、26節には「ただし、イスラエルの人々の住むゴシェンの地域には雹は降らなかった」とあります。この災いの中でファラオは27、28節で、「今度ばかりはわたしが間違っていた。正しいのは主であり、悪いのはわたしとわたしの民である。主に祈願してくれ。恐ろしい雷と雹はもうたくさんだ。あなたたちを去らせよう。これ以上ここにとどまることはない」と言います。しかし35節にあるように、その災いが過ぎ去るとまた心を頑なにして、イスラエルを解放しようとはしなかったのです。ここまでが9章です。

主がファラオの心を頑なにする
 10章1~20節は第八の「いなごの災い」です。モーセが手をエジプトの地に差し伸べると、東風が起り、それがいなごの大群を運んで来て地の面を全て覆い、15節にあるように、「いなごは地のあらゆる草、雹の害を免れた木の実をすべて食い尽くしたので、木であれ、野の草であれ、エジプト全土のどこにも緑のものは何一つ残らなかった」のです。この10章の1節に、やはり新しい展開が見られます。それは、神様がこう言われたことです。「ファラオのもとに行きなさい。彼とその家臣の心を頑迷にしたのは、わたし自身である」。これまでに七つの災いが下されてきたが、ファラオがその都度心を頑なにしてイスラエルの解放を認めようとしなかった、過去七つの災いの話はそう語っていました。しかしここに来て、実は主なる神様ご自身がファラオの心を頑にしておられたのだ、と神様はおっしゃったのです。これが、10章に入って新たに示されたことです。第八の災いにおいては20節に、「しかし、主がファラオの心をかたくなにされたので、ファラオはイスラエルの人々を去らせなかった」とあります。また第九の「暗闇の災い」においても27節に、「しかし、主がまたファラオの心をかたくなにされたので、ファラオは彼らを去らせようとはしなかった」とあります。10章においては、主がファラオの心を頑なにされたことが繰り返し語られているのです。しかしこのことは実はここで初めて語られたわけではありません。7章の3、4節に既にこういう主の言葉がありました。「しかし、わたしはファラオの心をかたくなにするので、わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す」。モーセとアロンをファラオのもとに遣わす前に主はこのように言っておられたのです。ですからこれは既に知らされていたことです。しかし、既に知らされていたこのことの意味をイスラエルの民が本当に受け止めるためには、七つの災いが下され、その都度ファラオが心を頑なにするという体験が必要だったのです。「ファラオの心を頑なにしたのは主である」ということがこの第八の災いから示され始めているのはそのためだ言えるでしょう。

わたしが主である
 主がファラオの心を頑なにすることの意味は何でしょうか。1節の後半から2節にかけての主の言葉にそれが示されています。「それは、彼らのただ中でわたしがこれらのしるしを行うためであり、わたしがエジプト人をどのようにあしらったか、どのようなしるしを行ったかをあなたが子孫に語り伝え、わたしが主であることをあなたたちが知るためである」。主ご自身がファラオの心を頑なになさったことの意味が三つここにあげられています。第一は、彼ら、つまりファラオらエジプト人のただ中で主がこれらのしるし、つまり数々の災いを下すという力あるみ業を行うことです。このことは先ほどの9章14節にあった、「わたしのような神は、地上のどこにもいないことを、あなたに分からせるため」と同じことだと言えるでしょう。主がファラオの心を頑なにされたのは、しるしを行い、エジプト人に主こそ神であることをはっきりと知らせるためだったのです。第二と第三はイスラエルの民にとっての意味です。第二は、主なる神様がエジプト人にどのようなしるし、つまりみ業を行なって彼らを奴隷状態から解放して下さったのか、そのことをイスラエルの民が親から子へと語り伝えていくためということ。第三はその土台となることで、「わたしが主であることをあなたたちが知るため」ということです。神様がファラオの心を頑なにするのは、そのことを通してイスラエルの民が、「わたしが主である」ということを知るようになるためなのです。先ほど、主がファラオの心を頑なにすることが既に語られていた7章の3、4節を読みましたが、その続きの5節に、「わたしが主である」という言葉が出てきます。そこには、「わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる」とあります。主なる神様がファラオの心を頑なになさることによって、エジプト人が、「わたしが主である」ということを知るようになる、と7章5節は語っており、本日の10章2節は、同じことによって今度はイスラエルの民が、「わたしが主である」と知るようになると言っているのです。つまり出エジプトの出来事というのは、エジプト人もイスラエル人も共に、「わたしが主である」、つまり主なる神様こそまことの神であられ、世界を支配しておられる方だということを知るようになる、という出来事なのです。
 エジプト人は、主のみ力によって下される災いによってそのことを知らされます。主がファラオの心を九回頑なになさることによって、十回にわたる災いを受けることでそれを思い知らされるのです。それではイスラエルの民はどのようにしてそれを知らされるのでしょうか。それも、主がファラオの心を頑なになさることによってです。ファラオの心が頑なになり、イスラエルの民を去らせようとしない、それはファラオがイスラエルの民をなおも奴隷として繋ぎ止めておくということです。イスラエルの人々にすれば、奴隷状態からの解放がなかなか実現せず、苦しみが続いていくということです。ですから主がファラオの心を頑なになさるというのは、主なる神様ご自身がイスラエルの民の苦しみを長引かせ、その救いを遅らせておられるということを意味しています。イスラエルの民はこのことによって、神様に祈り願っている救いがなかなか与えられず、苦しみや悲しみがいつまでも続いていく、しかもそのことが神様ご自身のみ心によって起っている、神様がこの苦しみを長引かせておられる、ということを体験しているのです。この体験を通して彼らは、「わたしが主である」ということを知らされていったのです。  「わたしが主であることを知る」というのは常にこのようなことです。なぜなら、主なる神様こそが世界を支配し、私たちの人生を、そこに起る全てのことを導いておられると信じるなら、自分が今体験している苦しみや悲しみも、その神様のご支配の中で起っているということになるからです。つまり神様が主であられることを知ると同時に私たちは、その主こそが、今自分を捕え苦しめているファラオの心を頑なにしておられることを体験するのです。本日の箇所は、私たちがそのような体験の中で何を見つめるべきかを教えています。主がファラオの心を頑なにしておられる現実の中で、私たちが見つめるべきことは、そのことを通して主が、主ご自身の力を十分に示し、私たちの救いを実現して下さろうとしておられる、ということです。つまり、救いの実現が先延ばしにされ、苦しみが続いていくように思える現実の中で、神様のご支配を疑ったり、敵対する力の方が強いのではないかと思ってしまうのではなく、その現実を支配し、導いておられるのは主なる神様であり、その主のみ心は、私たちを救おうとする恵みのみ心なのだと信じて、希望を失わないことを、このみ言葉は教えているのです。

神の自由な憐れみによって
 本日は共に読まれる新約聖書の箇所として、ローマの信徒への手紙第9章14節以下を選びました。18節に、「このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです」とあります。本日の箇所におけるファラオのことを念頭に置いて語られている言葉です。神様は、人間の思いや計画に従って行動なさるのではない、全く自由にみ業をなさるのだ、ということです。それは、神様は何をするか分からない得体の知れない恐ろしい方だ、ということではなくて、16節に「従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです」とあるように、私たちの救いが、人間の意志や努力によってではなく、神様の自由な憐れみのみ心によって与えられるのだ、ということなのです。神様はこの全く自由な憐れみのみ心によって、独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さり、その十字架の死によって私たちを罪から解放し、神様の民として新しく生かして下さいました。たとえ私たちを今捕え、苦しめているファラオの心を神様が頑なにしておられるとしても、その神様は、この憐れみのみ心によって私たちを救おうとして下さっているのです。「主がファラオの心をかたくなにされた」というみ言葉から私たちはこのことを読み取っていきたいのです。

第九の災い
 21節以下の、第九の災い、「暗闇の災い」についても触れておきたいと思います。エジプト全土に三日間暗闇が臨み、それは人が手に感じることができるほどの暗闇で、エジプトの人々は自分のいる場所から立ち上がることもできなかったのです。しかしイスラエルの人々が住んでいる所には光がありました。この暗闇と光のコントラストは、天地創造の話を思い起こさせます。混沌であり、闇に覆われていた世界に、神様の「光あれ」というみ言葉によって光が生じたのです。エジプト全土を覆った暗闇は、この混沌と闇を象徴しています。イスラエルの民のところにあった光は、神様がみ言葉によって造り出して下さった光を象徴しています。イスラエルを解放し、救って下さる主なる神様のみ業は、あの天地創造に匹敵する、新しい世界、新しい秩序を打ち立てて下さるみ業なのです。

礼拝への解放
 10章の二つの災いにおいて見つめられているもう一つのことがあります。エジプトを去るなら男だけで行けと言うファラオに対してモーセらは9節で「若い者も年寄りも一緒に参ります。息子も娘も羊も牛も参ります。主の祭りは我々全員のものです」と言っています。また26節では、家畜も皆連れて行き、ひづめ一つ残さない、と言っています。家族と財産の全てを携えてエジプトを出るのだと言っているのです。それは「主の祭り」のためです。家畜を連れていくのも、主に仕え、いけにえを献げるためです。つまり、エジプトの奴隷状態からの解放は、主なる神様を礼拝し、その主に仕えるためなのです。救いとは、私たちが主なる神様を礼拝し、仕える者となることです。主を礼拝し、主に仕えることこそが、「わたしが主であることを知る」ということなのです。私たちは主なる神様を礼拝することの中でこそ、たとえ主が今ファラオの心を頑なにしておられるとしても、その主が自由な憐れみのみ心によって私たちへの救いのみ業を実現しようとしておられることを信じて、希望を持つことができるのです。礼拝においてこそ私たちは、闇に覆われている現実の中に光を輝かせて下さる主の力あるみ言葉を聞くことができるのです。若い者も年寄りも、息子も娘も、羊も牛も、私たちに与えられている全てのものを携えて、主なる神様を礼拝する者となるところにこそ、私たちの本当の解放、本当の自由、本当の救いがあるのです。

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