主日礼拝

両親

「両親」 牧師 馬場康夫
旧約聖書 創世記第28章10-17節
新約聖書 ヨハネによる福音書第14章16-18節

1.
 今朝は、皆さんが信仰生活をしておられる横浜指路教会と、私が仕えております小田原十字町教会が加盟しております神奈川連合長老会の講壇交換日に当たっており、私が横浜指路教会に遣わされました。私が横浜指路教会において主日礼拝説教を語りますのは3回目です。随分前、私が若かった頃に招かれました青年伝道夕礼拝、2010年の神奈川連合長老会講壇交換、そして今日です。今、小田原十字町教会には小田原市の隣の南足柄市に居住なさっておられる横浜指路教会の教会員が礼拝に出席され、横浜市在住の小田原十字町教会の教会員家族が横浜指路教会において信仰生活を続けています。また、私が日曜学校に通っていた西部連合長老会に加盟している神戸神愛教会の教会員、私の若い頃のことをよくご存知の教会員が横浜指路教会において信仰生活を続けています。このような親しい間柄に二つの教会がおかれていますことを神に心から感謝しております。しかし、そうであってもとても緊張しています。そのような中で、この礼拝の場に、川嶋章弘牧師はじめ司式をしておられる松森しおり長老はじめ私が存じている何人かの横浜指路教会の教会員がいらっしゃる、ということは、説教を語る私にとって大きな支えです。皆さんもそうだと思います。教会に行けば親しい信仰の友だちがいる、礼拝に出席すれば礼拝が終わってからいつもおしゃべりする信仰の友だちに会える、ということはとても心丈夫なことと思います。それだけに、いつもはここで説教を語ってくださる藤掛順一牧師がいらっしゃらない、ということはさびしいことだと思います。勿論、礼拝に出席するのは、牧師に会うためではなく、牧師が説教において語る私たちの唯一の真実の救い主神の子主イエス・キリストに出合うためです、と常々教わっていても、身に付けていても、さびしいことだと思います。
 さて、今朝、耳を傾けています聖書の言葉は新約聖書ヨハネによる福音書14:16~18に記されている言葉です。主イエスが弟子たちとの最後の晩餐において語ってくださった言葉です。主イエスは弟子たちとの最後の晩餐を終えられた翌日、十字架に赴かれます。弟子たちは間もなく主イエスと別れざるを得なくなります。ヨハネによる福音書によると、主イエスは弟子たちとともに三年間寝食をともにしてくださいました。弟子たちは主イエスが語ってくださった力強い言葉を直ぐ傍で聴くことができました。素晴らしい奇跡を目の当たりにすることができました。この御方こそ救い主神の子である、と信じてついてきました。弟子たちはいつも主イエスがともにいてくださったので安心でした。しかし、主イエスは、間もなく去って行かれる、ということを予告なさいました。それで、主イエスは約束してくださいました。14:16「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」、今まで主イエスが弟子たちの直ぐ傍にいてくださり、弟子たちを護り、助け、慰め、支えてこられました。その主イエスが去って行かれます。そこで、主イエスは御自分の代わりに別の弁護者を与える、と約束してくださったのです。

2.
 だから、ヨハネによる福音書第14章はこう始まりました。14:1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」、弟子たちは主イエスとの別れが近付いており、心を騒がせていました、不安を抱えていました。それで、主イエスは、心を騒がせるな、と語ってくださいました。主イエスはかつてこの地上において、弟子たちとともに歩まれた時、何回でもこの言葉を弟子たちに語られたに違いありません。また、どれだけ多くの人々がこの言葉に慰めを見い出してきたことかと思います。実際、14:27「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」、主イエスはもう一度、心を騒がせるな、と語ってくださいました。弟子たちが心を騒がしていたからです。ヨハネによる福音書第14章は、心を騒がせるな、と主イエスが語ってくださった言葉で始まり、心を騒がせるな、と主イエスが語ってくださった言葉で終わっている、と言っても過言ではありません。
 しかし、主イエスは、心を騒がせるな、と語られ、頑張れ、と励まされたのではありません。主イエスは弟子たちの心を騒がせる思いを汲んでくださり、14:16「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」、と主イエス御自身が私たちに代わって、私たちに先んじて父なる神に祈りを献げてくださり、別の弁護者を遣わしてくださる、と約束してくださいました。心を騒がせるな、と主イエスがお語りになられた言葉と、心を騒がせるな、脅えるな、と主イエスがもう一度お語りになられた言葉の間に挟まれている言葉が、別の弁護者を遣わしてくださる、というお約束でした。主イエス御自身が直々に父なる神に願ってくださいました。心を騒がせる弟子たちに、私たちに別の弁護者を与えてください、と主イエスが祈りを献げてくださり、別の弁護者をあなたたちに遣わす、と約束してくださいました。主イエスが直接父なる神に願ってくださり、弟子たちに、私たちに、別の弁護者を与えてくださる、と約束してくださったのですから、約束を違えられることはありません。弟子たちにとって、私たちにとってこんなに心強いことはありません。
 それなら、主イエスが遣わしてくださる、与えてくださると約束してくださった別の弁護者とはいったい何でしょうか。別の弁護者ということは、今までにも弁護者が与えられていた、ということです。それはいったい誰か、というと、今まで弟子たちの傍らにいらっしゃった主イエス御自身です。
 弁護者である主イエスが弟子たちを護り、助け、慰め、導いてくださったように、いや、それだけではなく、十字架によって弁護してくださったように、私たちを護り、助け、慰め、導いてくださるように、さらに、十字架によって弁護してくださるように、別の弁護者もまた主イエスと同じように弟子たちを護り、助け、慰め、導いてくださり、弁護してくださり、私たちを護り、助け、慰め、導いてくださり、弁護してくださるのです。
 しかし、主イエスが弟子たちを、私たちを護り、助け、慰め、導いてくださる、ということはよく分かりますが、主イエスが弟子たちを、私たちを十字架によって弁護してくださる、ということはいったいどういうことでしょうか。また、別の弁護者も弟子たちを、私たちを弁護してくださる、ということはいったいどういうことでしょうか。
 そもそも、なぜ、弟子たちに、私たちに弁護する者が必要か、というと、私たちが被告人だからです。私たちが被告人、などというのは穏やかではありません。しかし、私たちはもともと神の法廷において審きを受けざるを得ない罪を背負った人間です。私たちは主イエスが求められるような聖さ、義さ、愛の深さに生ききることはできません。ですから、私たちは神と隣人に対する加害者であり、神の法廷において審きを受けざるを得ない被告人です。
 罪、というのは誰かを叩いたとか、蹴飛ばしたとか、悪口を言ったとか、勿論、そういうことを含みますけれども、罪、というのは、もともと神と私たちとの間の大きな隔たりです、神との関係の破れ、神が私たちから、遠く隔たっておられることです。この隔たりを、教会では、罪、と言います。この隔たりに主イエスが十字架によって、梯子を架けてくださいました、橋を架けてくださいました。
裁判所に出ていかなければならない被告人に弁護士が与えられ、弁護士の力によって罪が軽くなる、無罪が裁判長によって言い渡されるように、私たちは神の法廷、神の前での裁判において、明らかに有罪が確定しているのにもかかわらず、弁護者である主イエスが十字架によって私たちが受けるべき筈であった罪の審きを身代わりに引き受けてくださり、裁判長である父なる神によって無罪が言い渡されたのです。
 このように、アダムとエバの堕落によって閉じられてしまった父なる神への道、いや、私たち自身の罪によって閉じられてしまった神の国、天国への道を主イエスが御自分の十字架によって開いてくださったのです。閉ざされた天国への道を主イエスが私たちのために御自分の十字架の死と復活によって開けてくださったのです。
 だから、主イエスは、14:6「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」、と主イエスは約束してくださいました。神に至る道、救いに至る道は唯一つ、主イエスの十字架の死と復活が私たちの罪の審きの身代わりであった、と信じる信仰です。
 さらに、かつて、主イエスが弟子たちの傍らにいてくださり、弟子たちを護り、助け、慰め、支え、十字架によって弁護してくださったように、別の弁護者もまた主イエスと同じように弟子たちを護り、助け、慰め、導いてくださり、弁護してくださり、私たちを護り、助け、慰め、導いてくださり、弁護してくださるのです。

3.
 別の弁護者、と翻訳されている言葉を、『聖書協会共同訳聖書』は、もうひとりの弁護者、と翻訳しています。『口語訳聖書』や『文語訳聖書』は、助け主、と翻訳しており、明治訳、と呼ばれている『文語訳聖書』は、慰むる者、と翻訳していました。父なる神が弟子たちに与えてくださる別の弁護者、もうひとりの弁護者は弟子たちを助け、慰める者、私たちを助け、慰めてくださる者。弁護者、助け主、慰むる者、と翻訳されている言葉は、もともと、呼べば傍らに来る者、という意味の言葉です。なぜ、呼ぶのでしょうか。不安だからです、苦しいからです、悲しいからです、悩んでいるからです、痛みを抱えているからです、さびしいからです、自分一人だけで耐えることができないからです。だから、傍にいてほしい、助けてほしい、慰めてほしいと呼び掛けます。
 間もなく主イエスは弟子たちのところから去って行かれます。弟子たちだけが取り残されます。弟子たちは今まで主イエスが自分たちのすぐ傍にいてくださったから安心でした。ところが、主イエスが去って行かれます。弟子たちのこの不安は私たちにもよく分かります。私たちもさまざまな出来事に出遭って、不安になることがあります、一人で耐えることができなくなってしまうことがあります。その時、牧師、家族、友人、知人がいてくれると安心です。呼べば来てくれるからです。主イエスは、ここで、弟子たちに、御自分の代わりに呼べば来てくださる助け主、慰める者、もうひとりの弁護者を遣わしてくださる、と約束してくださいました。
 呼べば来てくださる助け主、慰める者、もうひとりの弁護者とはいったい何でしょうか。14:17「この方は、真理の霊である。」、真理の霊。14:6「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。』」、真理の霊、というのは主イエスの霊、神の霊です。言い換えると、聖霊です。別の弁護者とは主イエスの霊、聖霊です。主イエスは御自分の代わりに、もうひとりの弁護者である聖霊を遣わしてくださることを約束してくださったのです。だから、心を騒がせる必要がない。

4-a.
 今まで主イエスが弟子たちの直ぐ傍にいてくださり、弟子たちを護り、助け、慰め、導いてくださり、十字架によって弁護してくださったように、これからはもうひとりの弁護者である聖霊が弟子たちを護り、助け、慰め、導いてくださり、弟子たちのために執り成してくださるから、心を騒がせる必要がなくなるのです。主イエスが弁護者として十字架に赴いてくださり、神と私たちとの間に横たわっている罪という断絶に梯子、橋を架けてくださり、神とともに生きることができるようにしてくださり、私たちの不安を取り除いてくださいました。
 さらに、もうひとりの弁護者である聖霊を弟子たちに降り注いでくださり、主イエスがこの地上において弟子たちの直ぐ傍にいてくださり、弟子たちを護り、助け、慰め、導いてくださったように、もうひとりの弁護者である聖霊が私たちの直ぐ傍にいてくださり、私たちたちを護り、助け、慰め、導いてくださり、父なる神に祈りを運んでくださるのです。だから、もう心を騒がせる必要はない、平和、平安を与える、と主イエスは約束してくださったのです。

4-b.
 14:27「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」、と語っておられるように、弟子たちが心を騒がせ、脅え、歩き始める勇気を失っていました。私たちもまたさまざまな出来事に遭遇し、心を騒がせ、脅え、立ち上がって、それぞれの人生に、歩むべき道に出掛けて行くことができなくなってしまうことがあります。主イエスは、私たちが教会での暫くの安息と休息を喜び楽しむだけではなく、出掛けて行くことを求めておられます。私たちが出掛けて行く時に、脅えがあることを主イエスは御存知です。だからこそ、主イエスは、心を騒がせるな、脅えるな、と励ましてくださり、平安を与えてくださることを約束してくださいました。しかし、ただ心を騒がせるな、脅えるな、頑張れ、と仰ったのではありません。
 主イエスが語ってくださった言葉は、14:27「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」、という言葉でした。主イエスが平和を残してくださるのです。『新共同訳聖書』は、平和、と翻訳していますが、『口語訳聖書』は、平安、と翻訳していました。主イエスが平和、平安を与えてくださるのです。平和、神との和らぎが与えられ、初めて神との安らぎが与えられるのです。主イエスが十字架によって神との和らぎ、平和を与えてくださり、神がともにいてくださる安らぎ、平安を与えてくださるのです。だから、心を騒がせる必要もないし、脅える必要もありません。もう一度立ち上がって歩き始めることができます。主イエスは、心を騒がせるな、脅えるな、と語ってくださっただけではなく、主イエスは御自分の代わりに、呼べば傍らに来てくださる者、護り、助け、慰め、導いてくださるもうひとりの弁護者である聖霊を遣わしてくださることを約束してくださいました。

4-c.
 しかも、ここで、忘れることができないのは、私たちだけが、弟子たちだけが心を騒がせ、不安になるのではない、ということです。いったい誰が心を騒がせられるのでしょうか。
 主イエス御自身です。13:21「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された」、主イエス御自身が心を騒がしておられました。主イエスも心を騒がしておられました。だから、主イエスは、心を騒がせるような、右往左往するような弟子たちはだらしがない、と退けられるのではありません。主イエス御自身、心を騒がせておられました。弟子たちや私たちと同じ経験をなさいました。だからこそ、不安になる弟子たちの思いを汲んでくださることができるのです。心が騒ぎ、不安になる私たちの思いを主イエスは誰よりもよく御存知です。
 そこでこそ、主イエスは断言してくださり、約束してくださいました。14:27「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」、主イエスの平安はこの世が与えることのできるような平安なのではなく、この世が与え得るような方法で与えられる平安でもない、と語られました。それでは、いったい主イエスが与えてくださる平安とはどのような平安でしょうか。
 14:28「『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。」、主イエスが弟子たちのところを去って行かれ十字架に磔られ、殺され、御復活させられ、父なる神のところへ去って行かれることによって与えてくださる平和、平安です。主イエスが十字架に磔られ、御復活させられることによって与えられる平和、平安です。主イエスが弟子たちや私たちに与えてくださる平和、平安は主イエスの十字架の死と復活による平和、平安です。ですから、主イエスが与えてくださる平和、平安はこの世が与えるような平和、平安ではなく、この世が与え得るような方法で与えるような平和、平安でもありません。
 主イエスは御自分の十字架の死と復活によって神と私たちの間に平和を築いてくださり、真実の平安を与えてくださいました、神とともに生きることができるようにしてくださいました。主イエスは御復活なさった後、四十日間にわたって弟子たちとともにいてくださいました。弟子たちにとってどれほど心強いものであったか、と思います。しかし、主イエスは御復活なさった後、永久にこの地上にとどまられたのではありませんでした。天に帰られました。しかし、それで、弟子たちから平安が失われたか、というと、そうではありませんでした。
 主イエスが、14:18「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」、と約束してくださったように、主イエスは戻ってきてくださいました。主イエスはどのようにして戻って来てくださったか、というと、14:16「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」、と約束してくださったように、もうひとりの弁護者である聖霊をお遣わしくださることによって、弟子たちのところに戻ってきてくださいました。
 だから、主イエスは、14:28「『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。」、と語られ、16:7「実を言うと、わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」、主イエスが天に帰られることによって、初めてもうひとりの弁護者である聖霊が与えられます。かつて主イエスが弟子たちの直ぐ傍にいてくださり、弟子たちを護り、助け、慰め、支えてくださったように、いや、それにもまさって主イエスが遣わしてくださるもうひとりの弁護者である聖霊が私たちを護り、助け、慰め、支えてくださるのです。
 しかも、14:17「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」、聖霊が私たちの傍らにいてくださるだけではなく、私たちの内に、心と体の中に住んでくださるのです。さらに、14:16「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」、14:23「わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」、永遠にです。永遠に父なる神と主イエスが私たちと一緒にいてくださる。私たちの心と体の中に一緒に住んでくたさり、護り、助け、慰め、支えてくださるのです。私たちが生きている時にも死ぬ時にも聖霊、神の霊に包まれているのです。神の霊、聖霊が私たちに住んでいてくださるのです。神の審きの座の前に立たされる時にも、聖霊が一緒にいてくださる。まさにそこで私たちを弁護してくださいます。覆い隠すことができない私たちの罪が暴かれる時にも、弁護してくださるのです。

5.
 最後に、主イエスが遣わしてくださる聖霊がどのようにして平安を与えてくださるのでしょうか。
 14:26~27「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」、主イエスが遣わしてくださる弁護者、即ち、聖霊が、主イエスが語ってくださった言葉を思い起こさせてくださり、教えてくださり、平安を与えてくださるのです。聖霊がこれまで主イエスが弟子たちに語ってくださった言葉を思い起こさせてくださり、教えてくださり、平安を与えてくださるのです。主イエスが語ってくださった言葉が聖霊によって弟子たちに運ばれ、私たちに運ばれる時、平安が与えられるのです。礼拝によって、説教を通して、聖霊がはたらいてくださり、私たちを護り、助け、慰め、支え、励まし、立ち上がらせてくださるのです。
 14:1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」、と語り初めてくださった主イエスが、もう一度、14:27「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」、と語ってくださり、礼拝によって、説教を通して、聖霊がはたらいてくださり、心を騒がせる私たちに真実の平安を与えてくださるのです。
 主イエスは約束してくださいました。14:18「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」、私たちは孤児ではありません。孤児は親がいない子どもたちです。私たちには両親が与えられました。父なる神、母なる教会です。母なる教会に抱かれて、神を父よ、と呼び掛けながら生きることができる神の子どもなのです。

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