主日礼拝

互いにへりくだって生きる

12月10日 主日礼拝
説教 「互いにへりくだって生きる」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 箴言第3章27-35節
新約聖書 ペトロの手紙一第5章1-7節

長老にしか関係がない?
 ペトロの手紙一を読み進めて、本日から第5章に入ります。この手紙も残すところこの5章だけとなりました。本日を含めてあと三回で読み終える予定です。本日の箇所は1-7節ですが、読んですぐに思うことは、この箇所が長老への勧めを語っているということではないでしょうか。そして、このように思うのです。この箇所は長老には関係があるかもしれないけれど自分には関係がない。けれども本当にこの箇所は、長老にしか関係がないのでしょうか。何がこの箇所の中心メッセージなのかご一緒に見ていきたいと思います。

なぜ長老についての勧めが語られているのか
 とはいえ1節でペトロが、あるいはペトロの名前を借りた著者が、「わたしは長老の一人として…あなたがたのうちの長老たちに勧めます」と言っているように、続く2節以下で長老への勧めが語られていることは確かです。ですから私たちはまず長老への勧めをしっかりと受け止めなくてはなりません。しかしその具体的な内容について見ていく前に、なぜここで長老についての勧めが語られているのかを思い巡らしてみたいと思います。直前の箇所では「キリスト者として苦しみを受ける」(4章16節)ことが語られていました。繰り返しお話ししてきたことですが、この手紙が書かれた時代に小アジアの諸教会に連なる人たちはローマ帝国による迫害を受けていました。彼ら彼女たちはキリスト者であるという理由で、自分自身や自分の身近な人たちが捕らえられ、罰せられることを恐れて生きていたのです。それだけでなく異教社会にあって、周囲のキリスト者でない人たちとの関わりの中でも、苦しみ、悩み、葛藤しなければなりませんでした。直前の箇所はもとより、この手紙全体がこのような状況の中にある小アジアのキリスト者に向かって、苦難と試練の中にある希望を語っているのです。このことを考えるとき、なぜここで唐突に長老について語られているのだろうかと思います。召し使いと主人の関係、キリスト者でない妻や夫との関係が語られてきましたし、異教社会との関係も語られてきました。まさにそれらの関係において小アジアのキリスト者たちは苦しみ、悩み、葛藤していたからです。しかし教会の中のキリスト者同士の関係についてはそれほど多く語られてきませんでした。教会の中に、長老とそうでない人がいることも、本日の箇所で初めて語られていることです。そうであるならペトロは、ここで手紙の本筋から一旦離れて、教会の長老への勧めを語り始めたのでしょうか。そうではないと思うのです。教会が異教社会にあって迫害を恐れ、周囲の人たちとの衝突や軋轢に苦しんでいるからこそ、ペトロは長老たちに語りかけたのではないでしょうか。教会が危機に直面しているからこそ、長老たちに語りかける必要があったのです。苦難と試練の中にあって、危機の中にあって教会が生き延びるためには、長老が教会に連なる人たちの先頭に立って、その務めを担っていかなくてはならない、とペトロは分かっていたからです。

危機の中で芽生えた教会の制度
 私たちの教会は「長老制度」という制度によって歩んでいる教会です。長老制度においては、教会総会の選挙で選ばれた長老たちの会議、長老会に権威があり、私たちはこの長老会において神の御心が示されると信じて歩んでいます。ですから長老会が教会の営みについて多くのことを決断しているのです。この手紙が書かれた時代に、私たちの教会と同じような制度が整っていたというわけではありません。しかし少なくとも本日の箇所に、教会制度、とりわけ長老制度の芽生えを見ることができると思います。そしてなによりも大切なことは、この教会の制度が、危機の中で芽生えたということです。順調で落ち着いているときに教会の制度が芽生えたのではありません。危機の中にあるからこそ、教会は制度を必要としたのです。直面する危機に対処するために、危機の中にあっても神のご支配が教会に現れるために制度が必要であり、教会に連なる人たちの先頭に立つ長老が必要であったのです。

危機に直面している私たちの教会
 私たちの教会は、この手紙が書かれた時代の小アジアの諸教会と同じ危機に直面しているわけではありません。異教社会の中にあるのは同じでああっても、私たちはキリスト者であるという理由で迫害を受けることも、まして殉教することもないでしょう。しかしそれは私たちの教会が危機に直面していないということではまったくありません。むしろ私は、今、私たちの教会は、あるいは日本の教会は危機に直面している、危機の真っ只中にあると思っています。先日、神奈川連合長老会の長老執事修養会が行われました。主題講演の後、いくつかのグループに分かれての時間がありましたが、私が参加したグループでは主題から少し離れ、それぞれの教会の状況を分かち合う時間を持つことができました。その中で改めて気づかされたのは、諸教会が危機に直面しているということです。どの教会も教勢が低下しています。それに伴って教会財政もとても厳しい状況になっています。これらの危機はコロナ禍によってもたらされたのではなく、コロナ禍以前から教会が直面していた危機です。しかしコロナ禍がこの危機に拍車をかけたことも確かです。できることなら私たちは、教勢低下とそれに伴う教会財政の厳しい状況から目を逸したいと思います。しかし私たちはこの危機から目を逸してはならないのです。この危機と向き合い、ペトロが危機の中にある小アジアの諸教会に向かって、とりわけ長老に向かって語りかけている言葉を、自分たちに語りかけている言葉として聞きたいのです。

神の羊の群れを牧しなさい
 長老への勧めが具体的に語られているのが2-3節です。その冒頭に「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい」とあり、それに続いて、「~ではなく、~しなさい」や「~してはいけません、~になりなさい」という表現を用いて、長老への勧めが三つ語られています。「神の羊の群れ」とは教会にほかなりませんから、ペトロは長老たちに、「あなたがたにゆだねられている教会を牧しなさい」と勧め、それに続けて教会を牧するとはどういうことなのかを具体的に述べているのです。神の羊の群れを牧するのは、つまり教会を牧するのは牧師の務めと考えられがちですが、この御言葉はそうではないことを語っています。もちろん牧師も教会を牧します。しかし牧師だけが牧するのではない。長老制度の私たちの教会では牧師も長老の一人です。牧師も含めて長老皆が、神の羊の群れを牧する、教会を牧するのです。

神の召しに応えて神に従って
 長老への三つの勧めの第一は、「強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい」です。「強制されて」とは、神からの召命なしに、と言い換えることができると思います。誰かから「あなたは長老をしなさい」と強いられて長老になるのではないのです。そうではなく教会総会の選挙を通して示された、自分が長老として召されているという神の御心を信じることによって長老として立てられます。立てられた長老は、その召しにお応えして、自ら進んで喜んで教会を牧していくのです。その際、大切なのは「神に従って」ということでしょう。自ら進んで喜んで教会の働きを担ったとしても、それが自分に従うためであったら、つまり自分の願いや理想を実現するためであったら、神に従って教会を牧することにはならないからです。第一の勧めは神の召しにお応えして、神に従って教会を牧しなさい、と言われているのです。

神に対する熱心さによって
 第二は、「卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい」です。この手紙が書かれた時代には、教会の職務を担う人に金銭的な報酬が期待されることもあったようです。私たちの教会では牧師は謝儀をいただいていますが、長老は金銭的な報酬を受け取っているわけではないので、「利得のために」、つまり金儲けのためになにかを行うということは起こり得ません。しかし「利得のために」とは、単に金銭的な利益を得るためにということにとどまらず、自分の利益のために、自分のためにということです。ですから第二の勧めは、根本的には第一の勧めと同じことを見つめていて、長老は自分の利益ためではなく、献身的に教会に仕えることが勧められているのです。「献身的に」とは「熱心に」ということですが、その熱心は、なによりも神に対する熱心でなくてはなりません。もちろん教会を牧するとき、教会に連なる方々に熱心に仕えますが、しかしその熱心は、神に熱心に仕えることを抜きにして考えることはできないのです。神への熱心さがあってこそ人への熱心さがあるからです。神に対する熱心さを失うとき、私たちの人に対する熱心さは、しばしば相手に好かれようとする熱心さ、相手に認めてもらい、評価してもらおうとする熱心さになってしまうからです。第二の勧めは自分の利益のためでも、ほかの人の利益のためでもなく、ただ神に対する熱心さによって教会を牧しなさい、と勧めているのです。

神からゆだねられている人々
 第三は、「ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい」です。権威を振り回すのではなく、群れの模範となれと言われていますが、「ゆだねられている人々」という言葉にも注目したいと思います。この言葉は元々「くじ」を意味する言葉です。「くじを引く」の「くじ」です。小アジアにおいて、長老はある地域やある教会を牧する務めを託されていたようですが、その地域や教会は長老自身が選ぶのではなく割り当てられていたようです。自分で選ぶのではなく神のみ心によって割り当てられることが、「くじを引く」という言葉に見つめられています。ですから「ゆだねられている人々」とは、神のみ心によってゆだねられている人々ということにほかならないのです。第三の勧めは、長老が自分の親しみやすい人だけを牧するのではなく、そのときそのとき神から委ねられている人々を牧して、その人々の模範となることを勧めているのです。

主イエスが愛してくださるから
 これまで長老への三つの勧めを見てきましたが、このように勧められると、今、長老として立てられている方々は、牧師も含めて、自分がこれらの務めを果たせていないことに不安になるのではないでしょうか。あるいは今、長老ではない方々も、このように勧められると、自分はとてもではないけれど長老にはふさわしくない、と思われるかもしれません。しかし私たちはこの勧めを語っているのが、あのペトロであることを忘れてはなりません。ペトロが長老たちに語った、「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい」という言葉は、主イエスご自身がほかならぬペトロにお語りくださった言葉なのです。ヨハネによる福音書によれば、復活された主イエスはペトロに出会ってくださり、「わたしを愛しているか」と尋ねられました。ペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えると、主イエスは「わたしの(小)羊を飼いなさい」と命じられました。主イエスは三度、「わたしを愛しているか」とペトロに尋ね、三度とも同じように答えるペトロに、三度「わたしの羊を飼いなさい」と命じられたのです。かつてペトロは主イエスの十字架を前にして、三度主イエスを知らないと言い、主イエスを裏切りました。そのペトロに主イエスは同じく三度「わたしを愛しているか」と尋ねられたのです。それは、ペトロ自身の主イエスへの愛の深さを証明するためでも、主イエスに従って生きる覚悟が十分であることを証明するためでもありません。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」とは、「主が私を愛してくださるから、私は主を愛することができる。そのことを主はご存じです」、ということだからです。ペトロは自分自身の中には主イエスを愛する愛をこれっぽっちも持っていないことを分かっていました。しかし主イエスは十字架で死なれることによって、ご自分を裏切ったペトロを、取り返しのつかない罪を犯したペトロを赦してくださったのです。この主イエスの愛に包まれているから、自分自身の中には主イエスへの愛を持つことができなくても、ペトロは主イエスを愛することができるのです。そうであるならペトロは、長老たちが神に従って生きることができる立派な人だから、あるいは主イエスへの大きな愛を持っているから、「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい」と命じているのではありません。自分の力では神に従うことができず、自分の中には神への愛をこれっぽっちも持っていない、罪人である自分のために主イエスが十字架で死んでくださった。このことによって長老たちが生かされているから、この主イエスの愛によって長老たちが生かされているから、ペトロは「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい」と命じているのです。誰よりも自分自身には神の羊の群れを牧する力も愛もないことを知っていたペトロが、自分と同じように長老たちが主イエスの愛によって包まれていることを信じるゆえに、このように命じているのです。

しぼむことのない栄冠を受ける
 このように主イエスの愛によって生かされ、委ねられた務めを担う長老たちへの約束が4節で、このように語られています。「そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります」。大牧者とは主イエス・キリストのことですから、「大牧者がお見えになるとき」とは、主イエス・キリストが再びこの世に来てくださるときであり、世の終わり、救いの完成のときです。そのとき「しぼむことのない栄冠」を受ける、つまり救いの完成にあずかり、復活と永遠の命にあずかるという大きな報いが、長老たちに約束されているのです。地上の歩みにおいては、長老は報われないことが多いかもしれません。教会のために、委ねられている人々のために献身的に仕える中で、多くの労苦を担い、多くの問題に直面し、ときには周りから理解されず、あるいは自分の弱さや欠けのゆえに苦しむことがあるに違いありません。しかしそれにもかかわらず、自分自身の力によってではなく主イエスの愛によって支えられ、長老としての務めを担う者たちに、救いの完成のときに、「しぼむことのない栄冠」を受けるという大きな報いが約束されているのです。

互いに謙遜を身に着けなさい
 ここまで読み進めてやはりこの箇所の中心は長老への勧めではないか、と思われるかもしれません。しかし5節にこのようにあります。「同じように、若い人たち、長老に従いなさい」。若い人たちとは、年齢の若い人ということではなく、洗礼を受けてから間もない人、信仰生活の短い人ということでしょう。その人たちは長老の導きに従いなさいと言われているのです。さらに続けて、「皆互いに謙遜を身に着けなさい」と言われています。皆とは、若い人たちは皆という意味ではありません。教会に連なる人たちは皆、という意味です。つまり5節でペトロは、長老たちにだけでなく、若い人たちにだけでもなく、すべてのキリスト者に向かって、「互いに謙遜を身に着けなさい」と語っているのです。2章21節で「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」と言われていました。主イエス・キリストが残してくださった模範が、謙遜に生きることにほかなりません。先ほど3節で、長老は群れの模範になりなさいと言われていましたが、それはこのキリストが残してくださった模範に倣い、謙遜を身につけ、謙遜に生きることにおいて、教会に連なる人たちの模範となることです。5節の中心は、いえ本日の箇所の中心は「皆互いに謙遜を身に着けなさい」というみ言葉にこそあります。確かに長老は教会に連なる人たちの先頭に立って歩みます。しかし長老だけが謙遜を身に着けなさい、と言われているのではありません。すべてのキリスト者が互いに謙遜を身に着けなさい、謙遜に生きなさい、と言われているのです。そうであればこの箇所は長老だけに関係があって、自分には関係がないとは言えません。ペトロは長老への勧めを語った上で、すべてのキリスト者に、私たち一人ひとりに「互いに謙遜を身に着ける」よう語っているのです。

互いにへりくだって生きる
 私たちは謙遜と言われると、賜物が与えられていても、自分は何もできないかのように、大したことはできないかのように言ったり、振る舞ったりすることだと思いがちです。日本ではこのような謙遜が美徳であるとすら考えられています。しかし「互いに謙遜を身に着ける」とは、私たちが互いに「いえいえ、自分は大したことはできませんので、つまらない者なので」と言い合うことではありません。ペトロが言う謙遜とは、自分に与えられている賜物を隠して振る舞うことではなく、神に対して謙遜であることです。神に対してへりくだって生きることです。ペトロは、互いに謙遜を身に着けるのは、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からだと語ります。これは本日共にお読みした旧約聖書箴言3章34節のみ言葉、「主は不遜な者を嘲り へりくだる人に恵みを賜る」の引用です。高慢な者とは神に対して高慢な者であり、謙遜な者とは神に対して謙遜な者、神に対してへりくだって生きる者であり、神の前に自分を低くして生きる者です。この神の前にへりくだり、自分を低くして生きることこそ、主イエスが残してくださった模範に違いありません。主イエス・キリストは神の子であり、ご自身が神であったにもかかわらず、ご自身を低くして私たちと同じ人となってくださり、神のみ心に従って十字架で死なれ、陰府にまで降ってくださいました。キリストは神の前に徹底的にへりくだって生きられたのです。とことん低くなってくださったのです。このキリストの足跡に続き、私たちも神の前にへりくだって生きるのです。神に対してへりくだって生きることによってこそ、私たちは互いにへりくだって生きることができるようになるのです。
 6節では、神に対してへりくだり、互いにへりくだって生きる私たちに与えられている約束がこのように言われています。「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」。かの時とは、主イエス・キリストが再びこの世に来られるとき、救いの完成のときです。私たちと同じ人となってくださり、十字架で死なれ、陰府に降るまで徹底的に低くなられたキリストを、神は復活させ天に上げることによって高くしてくださいました。このキリストに結ばれ、このキリストの足跡に続いて互いにへりくだって生きる私たちを、神は世の終わりに必ず高くしてくださり、救いの完成にあずからせてくださり、復活と永遠の命にあずからせてくださるのです。
 この手紙が書かれた時代がそうであったように、今、私たちの教会も危機の中にあります。その中で私たちになによりも求められていることは、神に対してへりくだり、互いにへりくだって生きることです。私たちが互いにへりくだって生きるところにこそ、主イエス・キリストを中心とした本当の交わりが与えられていきます。危機の中にあっても、互いに謙遜を身につけ、互いにへりくだって生きることによって、私たちはキリストを土台とした教会を建て上げていくことができるのです。

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