「天の父への祈り」 牧師 藤掛 順一
詩編 第27編1~14節
マタイによる福音書 第6章5~8節
思想と信仰の違い
本日の聖書の個所、マタイによる福音書の第6章5節以下には、祈りについての主イエスの教えが語られています。祈りは、信仰をもって生きることの基本です。信仰とは、私たちが神について、あるいは人間やその救いについてある知識や考えを持つことではありません。知識や考えを持つことを思想と言いますが、信仰は思想ではないのです。勿論信仰をもって生きるためには聖書についての一定の知識が必要です。けれども、聖書の知識を沢山身に着けて、それに基づいて自分なりにある思想を築いたとしても、それは信仰ではありません。なぜならそれは自分の頭の中で完結しているものだからです。思想は、自分の頭で考えていれば成り立ちます。しかし信仰は、生きている神との交わりです。信仰は自分一人では成り立ちません。相手である神との対話と交わりがあって初めて成り立つのです。その神との対話と交わりの具体的な現れが祈りです。祈ることなしに神や救いのことをあれこれえているだけなら、それは思想ではあっても信仰ではありません。祈りにおいて神との交わりに生きるようになって初めて、信仰が生まれるのです。そしてこの、祈って神との交わりに生きる信仰こそ、様々な困難や苦しみ悲しみの中で私たちを支えます。聖書の知識をいくら持っていても、神や救いについての深い思想を持っていても、祈りにおいて神との交わりに生きていなければ、苦しみや悲しみとの戦いを戦い抜くことはできないでしょう。苦しみや悲しみの中で私たちを本当に支えるのは、知識や思想ではなくて、信仰であり、祈りなのです。
偽善への警告
このように祈りは信仰においてなくてはならないものです。その祈りについての主イエスの教えがここに語られているのですが、ここで主イエスが言っておられるのは、祈りは大事だから絶えず熱心に祈りなさい、ということではありません。ここに語られているのは、祈る時にこういう間違いに陥らないように気をつけなさい、ということです。私たちの祈りが、ともすれば間違ったものになってしまうことを主イエスは見つめておられるのです。
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない」とあります。「祈るときにも」という言い方によって、その前に語られていたこととのつながりが示されています。先週読んだ1~4節には、「施しをするときには」という教えが語られていました。施しと祈り、それらは6章1節にある「善行」の代表です。「善行」は先週申しましたように「義」という言葉です。義なること、正しいことの代表として、施しと祈りがあげられているのです。そして主イエスがここで見つめておられるのは、義なること、正しいことの代表である施しや祈りが、偽善になってしまうことがある、ということです。「熱心に施しをせよ」とか「絶えず祈れ」と教える前に主イエスはそういう偽善への警告を語っておられるのです。
偽善者の祈り
偽善者の祈りとはどのような祈りなのでしょうか。「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」とあります。偽善者たちは、多くの人が見ている所で祈ろうとするのです。それは、当時の社会において、祈ることが立派な、信仰深い行為として尊敬されていたからです。今の私たちの社会にはそういう感覚は全くありませんから、これと同じことは私たちにおいては起りません。今、関内の駅前に立って祈っている人がいたら、尊敬されるどころか、「あいつ何やってんだ、おかしいんじゃないか」と思われるだけです。主イエスは6節で「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と言われました。なるべく人目につかない所で、一人だけになって祈れということですが、私たちは言われなくてもそのように祈ろうとしています。人前で祈るなんて恥ずかしい、祈るなら誰も見ていない所で、と思っているのです。祈りの社会における位置づけが、主イエスの当時のユダヤ人たちと現代の私たちとでは全く違うので、主イエスがここで語っておられるようなことは私たちには起らないのです。しかしそれは果たして、私たちの祈りは偽善とは無縁だ、ということなのでしょうか。
神のまなざしを意識して祈れ
主イエスは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉めて、つまり人が見ていない所で祈れとおっしゃったわけですが、それは、「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」ということのためです。人が見ていないところで、ということが大事なのではなくて、「隠れたところにおられるあなたの父」に祈ることを主イエスは求めておられるのです。それはつまり、祈る時に、人の目ではなく、神のまなざしを意識しなさい、ということです。私たちは元々人の目を避けて祈りたがっていますが、それは神のまなざしの前で祈ろうとしているということでしょうか。そうではないのではないでしょうか。人が見ていなければ自動的に神の目を意識するようになる、とは言えません。人が見ていなくても、自分の目は常に自分を見つめています。その自分が、「人にどう見られているだろうか」ということを気にしているなら、自分の目が結局人の目の代わりをしているのです。だから、誰もいない部屋で一人で祈っていても、神のまなざしよりも、結局人の目を気にしている、ということはいくらでもあるのです。
人と自分を見比べる
また、私たちはいつも自分と人とを見比べて、誇ったりいじけたりしています。あの人がああいうことをしているのだから自分はもっと頑張らなければと焦ったり、あの人があのくらいなら自分はこれでいいだろう、と安心したりしているのです。そのように人と自分を比較して一喜一憂しているということは、神のまなざしではなくて人の目を意識しているということです。そこでは祈りも、人と自分を比べるきっかけになります。自分はあの人よりも祈っている、あの人より自分の方が祈りが上手だ、などと思ってみたり、あの人の祈りはすごい、あの人の祈りにはかなわない、と思ったりするのです。
神のまなざしの前で、神との交わりに生きる
主イエスが偽善者と言われたのは、そのように、人の目を気にして、人と自分を見比べているばかりで、神のまなざしの前に立っていない、神に向かって祈ることができていない者たちです。先週も申しましたように、偽善者という言葉は、俳優、演技する人という意味です。人の目に自分がどう映っているかを意識して演技することが偽善です。偽善が問題なのは、自分を実際よりも良く見せようとするからではなくて、人の目を意識することによって、神の目の前で生きることが失われてしまうからなのです。「彼らは既に報いを受けている」と言われています。これも先週のところに出てきた言葉です。「既に受けている」とは、領収書を書いてしまった、という意味だと先週申しました。お代はもう十分いただきました。もうこれ以上は請求しません、ということです。人の目の前で生きている者は、人の評価、評判つまり人間の与える報いが得られればそれで十分なのです。それ以上の報い、神からの報いは必要ないのです。と言うよりも、そもそもその報いを与えて下さる神の前で生きていないのです。祈っていながら、神の前で生きていない、神のまなざしを意識しておらず、人の目を気にして、人との比べ合いの中で生きている、それがここに描かれている偽善者の姿です。それに対して主イエスは、あなたがたは、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる、とおっしゃったのです。それは、ただ誰もいない部屋で人目を避けて祈れというだけのことではなくて、人の目を意識するのではなく、神のまなざしの前で祈り、人との比較ではなく神との交わりに生きなさい、ということです。
相手である神をはっきり意識して祈る
つまり祈るときに大切なのは、祈る相手である神をしっかりと意識し、見つめることです。聖書が教えている祈りは、心の中で何かを念じることではありません。念じるだけなら、相手がいなくてもできるし、よくわからないものに対して祈ることもできます。しかし真実な祈りとは、相手との交わりです。相手がはっきりしないのに、何となく祈るのでは、交わりが成り立ちません。私たちは、相手である神をはっきりと意識して祈るのです。主イエスは、そのような祈りを私たちに与えて下さるために、ここで、私たちが祈る相手である神とは、どのような方であられるのかを教えて下さっているのです。
異邦人の祈り
7、8節には、異邦人のように祈るな、と教えられています。異邦人とは、まことの神を知らず、神の民とされていない人々です。つまり祈る相手である神のことがはっきりと分かっていないのが異邦人です。その人々の祈りは、「くどくどと述べる」、「言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」という祈りになるのです。「くどくどと述べる」は「吃る(どもる)」という言葉から来ています。それは異邦人たちが、呪文のような言葉を繰り返したり、多くの神々の名前を羅列して祈っていたことを指しているようです。そのような祈りの言葉は、よく聞き取れない、どもっている言葉のように聞こえたのでしょう。彼らがそういう祈りをするのは、呪文を唱えたり神々の名を呼ぶことによって、神に自分の願いを叶えてもらうためです。つまり祈りを聞き入れてもらうために、くどくどと述べるのです。そこでは祈りは、神を自分のために動かす手段となっています。それは不遜なことのように聞こえますが、私たちが、神に聞き入れてもらおうとして熱心に祈る、というのもそれと大して変わらないのではないでしょうか。そしてこのような、神を動かそうとする祈りは、どうしても、くどくどと、言葉数多く祈ることになるのです。ある願いを、一度祈っただけで聞き入れてもらえるとは思えない、やはり二度三度、繰り返してお願いしなければ叶えられそうにないと思うのです。日本にも「お百度を踏む」という言い方があります。願いごとを叶えてもらうには、百度繰り返しお参りをして願う、そのくらいすれば、神仏も聞き入れて下さるだろう、ということです。これがまさに「言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んでいる」異邦人の祈りです。つまり、まことの神を知らない異邦人にとって、神は限りなく遠いところにいる存在なのです。神が祈りを聞いて下さるのか、恵みを与えて下さるのか、分からないのです。だから何度も繰り返し言葉数多く祈り願ったり、知っている限りの神々の名を呼んで、どれかがヒットすることを期待するのです。遠くにいる神を必死に呼んで、自分の願いに気づいてもらおうとして祈っている、それが異邦人の祈りなのです。
あなたがたは神の民とされている
主イエスは弟子たちに、つまり私たちに、「彼らのまねをしてはならない」とお教えになりました。それは、くどくどと言葉数多く祈るのではなくて、簡潔に一言だけ祈りなさい、ということではありません。主イエスは私たちに、あなたがたは異邦人ではなくて神の民なのだ、と言っておられるのです。神の民、それは神がご自分の民として下さった者たち、神がその人々の神となって下さった民です。神の民とされているあなたがたは、自分が祈っている相手である神はどのような方であるかをはっきりと知らされているのだ、と主イエスは言っておられるのです。それが8節です。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」。異邦人の神は、何度も何度も祈り求めて自分の願いを聞いてもらわなければならない神です。しかし神の民である私たちが祈る相手である神は、「願う前から、あなたがたに必要なものをご存じ」である方です。私たちは、自分の必要、願いを神に知っていただくために、一言すらも祈る必要はないのです。神の方が先に、私たちの必要を、求めを、知っていて下さるからです。ということは、私たちは、祈ることによって神の目を自分の方に向けさせる必要はない、ということです。異邦人の神は、限りなく遠くにいてそっぽを向いている神です。異邦人は、その神の目を自分の方に向けさせ、願いを聞いてもらうために祈るのです。しかし神の民である私たちが祈る相手は、私たちが祈る前から、つまり私たちが神のことを意識し、見つめるようになる前から、既に私たちのことを見つめて下さっており、私たちの必要を覚えて下さっている方なのです。つまり私たちをご自分の民として下さった神は、遠くにいるのではなくて、私たちの近くに来て下さって、共にいて下さり、私たちを愛して下さっているのです。あなたがたは、そういう神の民とされており、そういう神に祈ることができるのだ、と主イエスは告げて下さっているのです。
しかしそれは本当でしょうか。神が私たちをご自分の民として下さっており、私たちが願う前から、私たちの必要をご存じであり、それを与えて下さる、そのように私たちを愛して下さっている、そんなことは本当にあるのでしょうか。主イエス・キリストのご生涯が、それが本当であることを私たちに示して下さっています。主イエスは、父なる神によってこの世に、私たちのところに遣わされた独り子です。神が独り子を遣わして下さったのは、私たちが祈り求めたからではありません。神の一方的な恵みのみ心によることです。そして主イエスは、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、罪の赦しを与えて下さったのです。これも、私たちがそのように祈り願ったわけではありません。私たちはそんなことを神に願うことはできないし、そもそも神の独り子が自分のために十字架にかかって死んで下さるなどということは想像することすらできません。しかし神は、願う前から、私たちの救いのために必要なことをご存知であり、独り子主イエスの十字架の死と復活によってそれを与えて下さったのです。
主イエスはご自分の父である神を、ここで繰り返し、「あなたがたの父」と呼んで下さっています。独り子の命をも与えて私たちを救って下さったことによって、神は、私たちの父となって下さり、私たちを子として愛して下さっているのです。私たちは主イエス・キリストによって、この神の子とされており、主イエスの父であり、私たちの父となって下さった神の恵みのまなざしの中で生きる者とされているのです。この天の父のまなざしの中で、神の子として、父との交わりに生きるために、私たちは祈るのです。
なぜ祈るのか
ですから私たちの祈りは、神を動かして、自分の方を向いてもらって、願いを聞いてもらうためではありません。そんなことはできないと言うよりも、する必要がないのです。私たちが願うより前に、神は天の父として、私たちに必要なものを知っておられ、それを必要な時に与えて下さるからです。それなら、祈っても祈らなくても変わりはないではないか、祈る必要などないのではないか、と思うかもしれません。願いを叶えてもらう、ということにおいては、確かにその通り、祈っても祈らなくても変わりはありません。祈ればそれだけ願いが叶う確立が高まるわけではないし、祈らないと願いが叶えられないわけでもありません。神が、私たちにとって必要であるとお考えになれば、その願いは相応しい時に叶えられるし、必要ではないとお考えならば、どんなに祈り願っても叶えられないのです。だから、願いを叶える、ということにおいては、祈っても祈らなくても同じことです。このことを弁えておかないと、私たちの祈りも、どこかで、「言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んでいる」異邦人の祈りと同じになってしまいます。けれども、それでは祈ることには意味がないのか、必要ないのか、というとそんなことはありません。私たちは、願う前から私たちに必要なものをご存じであり、それを与えて下さる天の父なる神の子とされており、その恵みの中に生かされているのです。私たちが神に祈るようになるより前に、神は独り子イエス・キリストによって、私たちをご自分の民として下さっていたのです。私たちの近くに来て下さり、愛をもって共にいて下さるのです。私たちは祈ることによって、それほどに私たちを愛して下さっている父なる神との交わりに生きることができます。神の子として、神と共に生きることができるのです。祈ることをせず、この神との交わりを持たず、この神と対話せずに生きるなんて、そんなもったいない話はありません。それは喩えて言うならば、一億円の宝くじに当ったのに、それをお金に替えようとしないようなものです。父なる神の恵みは、主イエスを通して、私たちが願う前から、確かに私たちに注がれています。しかしその神の恵みが私たちの現実となり、私たちがその恵みの中で喜んで、感謝しつつ、神の子として生きることは、祈りによって現実となるのです。知識や思想において神の恵みを知っていても、それだけではその恵みの中で、それに支えられて生きることはできません。祈ることによってこそ、私たちはその恵みを現実に味わい、体験するのです。ですから祈りは、信仰をもって生きるためになくてはならないものです。祈らない者は信仰者ではないのです。しかしそれは、「信仰者たる者、祈らなければならない」という掟や戒律の話ではなくて、私たちは、祈るという大きな恵みを与えられている、ということです。祈りによってこそ、私たちに必要なものを全てご存じであり、それを恵みをもって与えて下さる天の父なる神の子として生きることができるのです。本日共に読まれた詩編第27編の4節に、「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを」とあります。祈ることによってこそ私たちは、命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えつつこの人生を歩むことができるのです。