主日礼拝

神からのほまれを好む

「神からのほまれを好む」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書;イザヤ書 第6章1-13節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第12章36-43節
・ 讃美歌; 13、299、522

 
エルサレムでの主イエス
本日は棕櫚の主日の礼拝です。主イエスが十字架につけられるためにエルサレムに入城された日です。今日から、主イエスが十字架につけられる前の最後の一週間、受難週に入ります。わたしたちはヨハネによる福音書を読み進めて来て、丁度、主イエスがエルサレムに入城されたすぐ後の箇所を読んでいます。12章の12節以下には、大勢の群衆がなつめやしの枝をもって主イエスを迎え出たことが記されていました。そして、本日の箇所の直前、27節以下で、主イエスは、群衆に向かってご自身が天に上げられようとしていることをお語りになったのです。間もなく十字架で死ぬということを踏まえて、最後の教えをお語りになっているのです。その締めくくりである36節で、主イエスは光を信じるようにと仰っています。35節から続く御言葉です。「光りは、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光りのあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光りの子となるために、光りのあるうちに、光りを信じなさい」。ここで、光とは、主イエス御自身のことです。世の光である主イエスがまもなく世を去ろうとしている、そこには闇が訪れようとしている。そうなる前に主イエスを信じるようにと言うのです。
主イエスは、これまで、繰り返し、御業を行い、御言葉を語って来ました。ヨハネによる福音書はそれを「しるし」と呼んでいます。主イエスの御受難が始まるエルサレム入城までの主イエスの歩みは、主イエスが神の子としての栄光をお示しになるためのしるしを行う姿が記されていたのです。そして、それらを踏まえて、ご自身を神の子救い主と信じるようにとおっしゃったのです。これは、主イエスの世の人々に対する最後の勧告と取れる教えなのです。

身を隠す主
本日の箇所は、今まで、この福音書が語ってきた主イエスのしるしや教えに続いて、福音書記者の解説が記されている部分です。しるしの箇所の締めくくりとも言えるような解説が記されているのです。36節後半には、「イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された」とあります。彼らとは、それまで、主イエスを取り囲んでいたエルサレムの群衆、世の人々のことです。主イエスは、ここで人々から身を隠し、後は弟子たちとだけ接するのです。この後、主イエスが再び、人々に姿を現されるのは、主イエスが十字架につけられる裁判においてです。
一連の主イエスのしるしを見た人々の反応はどのようなものであったのでしょうか。37節には、「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった」とあります。主イエスは大勢の群衆の前で、しるしを行われて来ました。しかし、そのしるしを見た人々がすべて、主イエスを信じたのではありません。力強く主イエスが御言葉をお語りになり、目の前でしるしを行われているにも関わらず、人々は信じなかったのです。わたしたちは時に、もし地上を歩まれた主イエスと出会い、その御業を見、主イエスがお語りになる御言葉を直接聞くことが出来たらもっと確かに信じることが出来るのにと思うことがあります。しかし、そうではありません。歴史的な主イエスと出会い、主イエスのしるしを見れば、信仰が生まれるというのではないのです。事実、この時、群衆の多くは、主イエスを信じなかったのです。むしろ、主イエスに対して憎しみを抱き、主イエスを殺そうと企む者まで出てきたのです。
そのことを考えると、主イエスのしるしが不十分であったのではないかとさえ思えます。人々から身を隠すのではなく、人々が信じるようになるまで、しるしを行ってくれれば良かったのにとも思えます。しかし、主イエスのしるしが不完全であったのではありません。主イエスは、しるしにおいて、はっきりと神の子としての栄光をお示しになられたのです。

主イエスを信じない者
では、何故、しるしを見て、主イエスを神の子と受け入れる人とそうでない人がいるのでしょうか。このことは、ヨハネによる福音書が書かれた当時、主イエスを信じる人々にとっての大きな関心事でした。当時、ユダヤ人たちの中で、主イエスを信じる人とそうでない人との対立が鮮明になって来ていたのです。それまでは、ユダヤ教の中の一つの派閥程度に思われていた、キリスト者たちが、はっきりと、ユダヤ教から区別され、ユダヤ教社会から追放されるという事態になっていたのです。そのような中で、キリスト者の中には、何故、同胞であるイスラエル人たちの中に主イエスを受け入れない人々が大勢いるのであろうか、主イエスの十字架と復活の救いの出来事が語られているのにもかかわらず、それを受け入れない人がいるのは何故だろうとの思いが強まったのです。この思いはわたしたちも抱くものです。自分が信じている信仰を、普段親しくしている周囲の人々が受け入れていない、むしろ、それを忌避しているようにさえ見える、それは何故だろうかと思うのです。
そのような状況を踏まえて、福音書記者は、そのことの理由を記します。38節では、旧約聖書イザヤ書の御言葉が引用されています。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか」、これは、イザヤ書第53章1節の引用です。ここには、ご自身の力をお隠しになる主の姿が記されます。又、続いて、40節以下には、「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない」とあります。これは、本日お読みした、イザヤ書第6章10節の引用です。「この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために」とあります。神が御自身を示すのではなくむしろお隠れになることは預言の成就であり、又、主のしるしを見ても信じない者がいる理由は、主なる神が、信じない者の目を見えなくし、心をかたくなにされているからだと言うのです。つまり、人々が信じないという状況があるのは、神の御心によって、その人々の心が頑なにされているからです。

神の働きによって
ここで大切なことは、信仰は、人間の業ではないということです。信仰というものは、わたしたちが様々な宗教や世界観や思想を比べて、聖書に語られている福音が一番納得出来ると考えて、自分の判断力や理性によって選び取るというものではありません。表面的には、あたかも自分自身の決断のように思えるかもしれません。しかし、そこには、目を開き、心をさとして下さる主なる神様の働きがあるのです。聖霊が働いて下さらなければ、誰も、イエスを主と告白することが出来ないのです。つまり、主イエスがこの世に来て下さったという出来事のみが神さまの御業であるのではありません。その救いの出来事が、わたしたちのものとなり、わたしたちが主イエスを信じるということも又、神の霊の働きなのです。ですから、わたしたちは常に信仰を求め、その信仰が与えられていることを感謝しなくてはなりません。そして、そのことを誇るのではなく、ただ恵による選びに与っているということを驚き喜び、まだ信仰が与えられていない人々に神様が働いて下さるように祈るのです。
そのような中で、「信じない人」がいること、信仰が受け入れられないことを驚き怪しむことせずに忍耐して歩み続けなければなりません。これは、世にあってキリストを信じて歩む者が避けて通れないことであると言って良いでしょう。現代の日本では、わたしたちキリスト者が迫害に直面するということはほとんど考えられません。しかし、世の無関心という形での拒絶に曝され続けているのではないでしょうか。そのような世の反抗に直面することこそ、キリスト者の現実と言って良いのです。そこでもし、人々の拒絶に合わないように、福音の中にある躓きを取り去って歩もうとするなら、それは、キリストに従うことにはならず、むしろ世に従っているのです。

  イエスの栄光を見た
40節でイザヤの預言が引用された後、41節には、イザヤがこのように言ったのは「イエスの栄光を見た」からであるとあります。イザヤ書第6章は、イザヤが預言者として召し出された体験が記されている箇所です。イザヤは、心の頑なな民に語るために預言者として立てられたのです。つまり、イザヤの歩みは神の言葉を語っても語っても受け入れられないという経験をすることでした。イザヤは、拒絶されることが分かっていて御言葉を語りました。そんなことに意味があるのかと思うかもしれません。しかし、イザヤが、そのような立場に立たなければならないのは、彼が、主イエスの栄光を見ているからに他なりません。主イエスの栄光とは父なる神の栄光です。神の栄光を見ている者の振る舞いは、それを見ていない者にとっては躓きとなります。ここで、神の栄光というのは、神が神とされるということです。それ故、神の栄光を見て歩むとは、神が神であることを承認し、人間が人間であることを認めて、神を礼拝して歩むことです。しかし、人間は、誰しも、神を礼拝するのではなく、自分が神であるかのように振るまい、自分の栄光を求めようとします。そのことによって、神の栄光を汚すのです。まさにそのような歩みに抗して、預言者イザヤは、神の言葉を語ったのです。
イザヤ書第6章3節で、イザヤに対して、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と語られます。それを受けて、5節でイザヤは「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た」と語っています。ここには聖なる神に出会い、自らの滅びを経験し、ただ神の栄光を恐れおののきつつ仰ぎ見る預言者の姿が現されています。
イザヤも、主イエスも、神の栄光を見ています。だからこそ、イザヤは、神の栄光を世に示す時に引き起こされる人間の反抗に直面し、そして又、主イエスも、人間の反抗に直面したのです。そして、ヨハネが属している教会をはじめ、現在、世に建てられた教会もこれと同じ現実に遭遇しているのです。主イエスのしるしを目の当たりにしても、それを信じる人と、信じない人がいる。それはヨハネによる福音書が書かれた時代も現代も同じです。それ故、それは、いつの時代のキリスト者であっても、その人が神の栄光を証しするとき、必ずこの世に引き起こされる反応なのです。

公に言い表さない
ところで、信仰が神さまの御業であるということは、わたしたちが信仰を求めていく態度や神に応答して行く態度を無くしてしまって良いということではありません。そこでは、わたしたちが応答していかなければなりません。そのような応答を拒んだ姿が、42節以下に記されていきます。「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった」とあります。ここには、主イエスを信じていながら、そのことを公に言い表さない人のことが記されています。この当時、ユダヤ人たちは、イエスを主と告白する人がいれば、会堂から追い出すことを決めていました。そのような中で、この人々は、「議員」という地位を守ることを信仰に優先させたのです。この議員の気持ちは、わたしたちにも良く分かることだと思います。わたしたちも又、世にあって自らの信仰を表明することをためらう思いにとらわれることがあるからです。その場の空気に支配されやすいわたしたちにとって、常に、このことは信仰の課題ではないでしょうか。
信仰には、必ず応答が伴います。先ほど、信仰の目を開くか閉ざすかは、わたしたちの業ではなく根本的には主なる神の御業であることを見てきました。ここで、信じていても、言い表さない者とは、主なる神が、信仰を与え、目を開こうとして下さっているのにも関わらず、それに応答せず、自分から、目を閉ざそうとしてしまっている者であると言っても良いでしょう。それは結局、主イエスを拒むことと同じなのです。

人間からの誉れ
聖書は、このような人々の態度について、43節で「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れを好んだのである」と記します。この神からの誉れよりも、人間からの誉れを求めて歩むことと、主イエスを拒絶することは、まさにつながっています。そのような時、人々にとっては、神さまの救いの御支配よりも、様々な人間の支配の方が確かなものに見えているのです。そこでは、神の栄光を見るのではなく、むしろ人間の栄光、自分の栄光を求めていると言っても良いでしょう。 エルサレムの群衆は、棕櫚の葉を掲げて、主イエスを迎えました。それは、かつて自分達を異国の支配から救い出した英雄を迎えた時の迎え方です。この時、人々は、本当の意味で救い主を迎えたのではありません。自分たちの支配を実現する政治的指導者として、主イエスを迎えたのです。ですから、その期待が裏切られた時、主イエスを殺す者となったのです。つまり、表面的には主イエスを受け入れていながら、その実、自分の支配を求めていたのです。棕櫚の主日の出来事の中にも、神の栄光ではなく人の栄光を求める態度があります。
 このような態度は、わたしたちの態度でもあります。ですから、「この世の主イエスを信じることに対する拒絶」ということで、わたしたちは、のんきにキリスト者とされていない人々についてのことが語られているのだと決めつける訳にはいきません。わたしたちが洗礼を受けていれば、この態度とは関係ないというのでもありません。洗礼を受けている者であっても、世の歩みの中で、神の栄光よりも人間の栄光を求めてしまうことがあるからです。主イエスは、「光りは、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光りのあるうちに歩きなさい。」とおっしゃいました。世にあって、闇の力、人間の誉れを求め、神を礼拝する歩みから遠ざけようとする力に常に追いかけられているのです。そのような中で、世の光として来られた主イエスの救いが見えなくなってしまうのです。わたしたちは、信仰をもって歩む時、常に世の力の試みに曝されるからです。わたしたちは、世の力の中にあって、絶えず、信仰が与えられ続けるように求め、そこで神の栄光を求めて行くのです。

主イエスの苦しみ
 そのような歩みは、信仰を与える、聖霊の働きの中で、主イエスの御苦しみを示されることから始まります。なぜなら、主イエスの苦しみの中に、かつて預言者イザヤやヨハネの教会が歩み、そして、今も、世の教会が歩まなければならない、神の栄光を見る歩み、神の誉れを求める歩みの大元があるからです。主イエスは、神の子として、神からの誉れのみを求めて歩まれました。その歩みは、自らの栄光を求める世の人々の拒絶に合い続ける歩みです。その歩みの極みである主イエスの十字架とは、主イエスが、世にあって神の栄光を求めて行ったことによる結果です。世の拒絶にあいながらも、主の栄光のために歩み通されたのです。そこには、人の誉れや、自分自身の栄光を求める思いはみじんもありません。自らの栄光を求め神を神としない人間の罪を十字架で贖うことこそ、神さまの御心であるからです。
わたしたちは、この苦しみを示されることの中でこそ、他でもなく、自分が人間の誉れを求めていること、その結果として、主イエスを拒まざるを得なかったことを知らされます。十字架に、わたしたち自身の躓きの結果、わたしたち自身の拒絶が明確にされているのです。そして、その上で、その十字架において、主イエスを拒んでしまうわたしたちの罪が贖われ、担われていることが示されるのです。主イエスのお姿は、人間からの誉れ、自らの栄光を求めて歩もうとする者に向かって、つねに、躓きを引き起こしつつ、そして、その躓きを乗り越える形で迫って来るのです。その御苦しみの姿を深く胸に刻みつける時に、闇の力に追い立てられているわたしたちに、真の光が確かな輝きをもって差し込んでくるのです。そこから、わたしたち自身も又、人間の栄光を求める思いや、主イエスを拒む悪しき力から解き放たれ、主イエスと共に神の栄光を見つめつつ、真に主を主と告白する応答の歩みへと導かれるのです。神の誉れを求める者の苦しみを共に担う者とされるのです。

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