説教「イエスの母となったマリア」 牧師 藤掛順一
旧約聖書 イザヤ書第9章1-6節
新約聖書 ルカによる福音書第1章26-38節
教会のクリスマスの祝いの中心
本日のこのクリスマス礼拝において、二人の方々が洗礼を受けて主イエス・キリストの救いにあずかり、この教会の教会員となります。そしてこの礼拝においては聖餐が行われ、新たに洗礼を受けた方々と共にそれにあずかります。洗礼によってキリストと結び合わされ、その救いにあずかった者たちが、聖餐のパンと杯をいただいて、キリストの体と血とにあずかり、心も体もキリストと一体となって歩んでいくという神さまの救いのみ業が、この礼拝において、聖霊なる神さまのお働きによってなされるのです。そこに、キリストの体である教会が築かれていきます。教会とは、洗礼を受け、聖餐にあずかって生きる者たちの群れです。洗礼が授けられ、聖餐が行われるところにこそ、教会は築かれ、主イエス・キリストによる救いのみ業が前進していくのです。24日に二回行われるクリスマス讃美夕礼拝は、多くの人たちとクリスマスの喜びを分かち合う伝道の場として大切ですが、教会のクリスマスの祝いの中心は、洗礼と聖餐が行われる本日のこの礼拝だと言うことができるのです。
主イエスの母となったマリア
教会のクリスマスの祝いの中心であるこの礼拝において、私が皆さんと分かち合いたいと思っているのは、主イエスの母となることを天使から告げられたマリアが、それに応えて語った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」という言葉です。今年はこの言葉に集中してクリスマス礼拝を守りたいのです。
マリアは、ガリラヤの町ナザレに住む一人の普通の女性でした。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけ、つまり婚約者だったとあります。当時の女性は14歳ぐらいで婚約、結婚するのが普通だったそうですから、マリアもそれぐらいの年齢だったのでしょう。今で言えば中学生ですが、勿論今とは年齢の感覚が全く違いますから、今の中学生の女の子をそのままマリアに重ねることはできません。しかしマリアが、結婚適齢期になった一人の女性として、他の多くの人たちと同じように、いよいよ結婚して家庭を築き、ゆくゆくは母となって、たとえ貧しくてもそこそこに幸せな人生を送ることを夢見ていたことは確かでしょう。そのマリアのもとにある日突然天使が現れて、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と言ったのです。
マリアの戸惑い
「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」と29節にありますが、無理もありません。戸惑うマリアに天使は、あなたは身ごもって男の子を産む。その名をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、神の子と呼ばれ、ダビデの王座を受け継ぐイスラエルの王となる、と言いました。マリアはますます混乱して「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言いました。それは要するに、私はまだ男性と肉体的関係を持っていません、ということです。ヨセフと婚約してはいても、まだ共に暮らしてはいない自分が今妊娠することなどあり得ない。それは「あり得ない」というだけではありません。ヨセフのいいなずけである自分が、ヨセフと関係することなしに身ごもったとしたら、それは誰が見ても、ヨセフを裏切って他の誰かと関係した、と疑われてしまう事態です。自分には全く身に覚えがなくても、次第にお腹が大きくなっていくという事実の前ではそれを否定できません。当時の社会ではそれは姦淫という重い罪であり、場合によっては死刑になってしまうかもしれないことなのです。たとえ殺されはしなかったとしても、そのようにして子どもを産んだ女性の人生には大きな困難と苦しみが伴うことが目に見えています。だからマリアにとってこの天使のお告げは、「おめでとう」どころではない、むしろ大迷惑な、突然大きな苦しみに突き落とされるような出来事だったのです。
しかし天使は「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」と語ります。つまりマリアが身ごもって男の子を産むのは、聖霊が彼女に降るからであり、いと高き方である神の力によることなのだ、というのです。人間の常識ではあり得ないことを、神は聖霊の力によってなさる。そのことが、あなたの親族であるエリサベトにも既に起っている。不妊の女と言われてもう年をとっている彼女が、今妊娠6ヶ月を迎えているのです。まさに37節にあるように、「神にできないことは何一つない」のです。
マリアの信仰の決断
この天使の言葉は、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言ったマリアに対して、神にできないことは何一つないのだから、男性を知らないあなたが聖霊の力によって身ごもることだってありえるのだ、と言っているように感じられます。しかしそもそもマリアの「どうして、そのようなことがありえましょうか」という言葉は、男性を知らない自分が出産するなんてあり得ない、と言っているのではないでしょう。むしろ彼女の思いは、「そんなことになったら、私が夢見ている人並みに幸せな人生がおじゃんになってしまいます。そんなの迷惑です。お断りです」ということだったのでしょう。つまり彼女は天使が告げたことがあり得ないと言ったのではなくて、それを受け入れたくなかった、拒みたかったのです。それに対して天使はマリアに、「これは主なる神のみ心だ。主が聖霊によってこのことをなそうとしておられるのだ。神の全能の力によってこのことは行われるのだ」と言ったのです。この言葉を聞いてマリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言ったのです。それは「主のみ言葉に従います。み心のとおりに私になさって下さい」ということです。マリアは、神のみ言葉に従い、み心を受け入れるという信仰の決断をしたのです。この決断の結果、彼女はこの後、身重の体でガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムまで旅をしなければならなくなりました。そしてその旅先のベツレヘムで初めての出産をし、生まれた赤ん坊を布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。そのことから、そこは馬小屋だったと言われるようになりました。馬小屋だったのかどうかは分かりませんが、人間の泊まるべき部屋で出産をすることができなかったということは確かでしょう。「あなたは身ごもって男の子を産む」という天使のお告げは彼女にこのような苦しみをもたらしたのです。さらに彼女は、幼子イエスを殺そうとしていたヘロデ王の手を逃れるために、夫ヨセフと共にエジプトにまで避難しなければならなかった、とマタイ福音書は語っています。またおよそ三十年後に彼女は、こうしてお腹を痛めて産んだ息子イエスが、十字架にかけられて殺されるのを見ることになりました。マリアはこの時点でこれらのことを全て予測していたわけではありません。しかし彼女は、「お言葉どおり、この身に成りますように」という信仰の決断によって自分が、それまで願っていた人並みな幸せからはほど遠い、数々の苦しみ、悲しみを味わう人生を送ることになることをはっきりと知っていたのです。神の独り子イエス・キリストの誕生は、このマリアの信仰の決断によってこそ実現しました。マリアが、そしてそれはヨセフもですが、天使が告げたことを主なる神のみ心として受け入れ、それに従わなかったら、主イエスはこの世に生まれてくることはできなかったし、無事に育つこともできなかったでしょう。つまり救い主としてのご生涯も、十字架と復活もなかったのです。父なる神が独り子主イエスを人間としてこの世に遣わすことによって実現して下さろうとしていた救いのみ業のすべてが、マリアという一人の若い女性の信仰の決断にかかっていたのです。
わたしは主のはしためです
マリアはどうして天使のお告げを受け入れることができたのでしょうか。ヨセフに婚約を破棄されて捨てられてしまうかもしれないし、場合によっては死刑になってしまうかもしれないのです。いずれにしても苦しみを背負うことになるのが目に見えているのに、「お言葉どおり、この身に成りますように」と言ったのは何故なのでしょうか。その理由は単純です。「わたしは主のはしためです」これがその理由です。「はしため」とは、召使、僕(しもべ)を意味する言葉です。マリアは、自分は主なる神さまの召使、僕だ、ということを知っていたのです。つまり自分の人生の主人は自分ではなくて主なる神さまであることを知っていたのです。だから天使から、自分が願っていたのとは違う、苦しみ悲しみを負うことが目に見えている歩みを示された時に、それを受け入れたくない、断りたいと一方では思いながらも、それが主である神さまのみ心であるならば、それを受け入れ、そのみ心に従ったのです。それがマリアの信仰の決断でした。つまりマリアにとってこれは特別な決断ではありません。「わたしは主のはしためです」と信じているなら、主なる神さまこそが自分の主人であることを知っているならば、むしろそれは自然なこと、当然のことなのです。それは全ての信仰者においても同じでしょう。自分は主なる神の僕だ、自分の人生の主人は自分ではなくて主なる神だ、と信じることが私たちの信仰なのです。だから、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」というマリアの言葉は、マリアが特別に立派な人、聖人だったから語られたのではありません。これは全ての信仰者たちに共通する言葉です。このように生きることが信仰をもって生きることなのです。
主に従い、仕える者
ところで、「はしため」という言葉は初めて聞いた、という人も多いのではないでしょうか。文語訳聖書以来そう訳されてきましたが、来年度から用いる聖書協会共同訳では「仕え女(つかえめ)」となっています。しかしこれだって普段使われる言葉ではありません。「はしため」にしても「仕え女」にしても、聖書の中でしかお目にかからない言葉です。そういう言葉を使って訳してしまうと、聖書に語られていることが私たちの普段の生活とは関係のない別の世界のことになってしまいます。先ほど申しましたようにこれは召使、僕を意味する言葉です。それだってもう古臭い言葉かもしれません。説明的に訳せば「仕える者」です。新約聖書が書かれたギリシア語においては、男性の「仕える者」と女性の「仕える者」が語尾の変化によって区別されていて、ここはマリアの言葉ですから当然女性の形が用いられています。それを生かそうとして「はしため」とか「仕え女」と訳したわけです。しかし日本語においてはそこで男女の区別を示す必要は特にありません。だから私はこのマリアの言葉は「わたしは主の僕です」あるいは「わたしは主に従い、仕える者です」と訳せばよいと思っています。大切なことは、マリアがここで、自分は主なる神に従い、仕える者です、だから主のお言葉に従います、と言ったということです。「はしため」などという聞き慣れない言葉を使ってしまうと、何か特別なことを言ったように感じてしまいますが、マリアは当たり前のことを言ったのです。信仰をもって生きるとは、「わたしは主に従い、仕える者です。だから主のお言葉に従います。み心の通りに私になさってください」という信仰の決断をすることなのです。
私たちの信仰の決断
洗礼を受けるとは、この信仰の決断をすることです。洗礼を受けた者は、主に従い、仕える者となって新しく生き始めるのです。自分の人生の主人はもはや自分ではなくて主なる神だ、という前提に立って生きる者となるのです。そのことの印が聖餐です。洗礼を受けた者だけが聖餐にあずかることができるのは、人生の主人はもはや自分ではなく主なる神だということを受け入れ、主に従い、仕えて生きる者たちの群れとして教会が築かれていくからです。マリアのあの信仰の決断によって主イエスによる救いが実現したのと同じように、私たちがこの信仰の決断に生きることによって、そこにキリストの体である教会が築かれ、主イエス・キリストによる救いのみ業が前進していくのです。主はそのために私たちを招いて下さり、その救いのみ業の前進のために用いようとしておられます。マリアがその招きに応えたように、私たちもこの招きに応え、洗礼を受けて教会に連なる者となり、主のみ業のために用いていただくのです。
きみの「はい」が必要なのだ
マリアが天使のお告げに戸惑いを覚え、その言葉に抵抗したように、私たちも主の招きに戸惑い、それに応えて信仰の決断をすることに躊躇を覚えます。しりごみします。それは自分の願っているのとは違う歩みをしていくことであり、苦しみや悲しみを背負うことになると思うから、恐ろしく感じるのです。
ミシェル・クオストというカトリックの司祭による『神に聴くすべを知っているなら』という本の中に、そういう思いを描いた、詩の形の祈りがあるのでご紹介したいと思います。
「主よ、わたしは『はい』というのがこわいのです。あなたはわたしを、いったいどこにつれてゆこうとなさるのですか。わたしは、びんぼうくじを引くのがこわいのです。わたしは同意書も読まないで捺印するのがこわいのです。一回『はい』と言えば、次から次へと『はい』と言わせられるのがこわいのです。まだわたしは安心できません。主よ、あなたはわたしを追いかけ、わたしを捕えられました。わたしは、あなたの声をきくまいと、雑音を追い求めましたが、一瞬の静けさの中にも、あなたはわたしの耳にすべりこみ、あなたに会うまいと道をさけて通っていたのに、そのまわり道の終わりで、あなたはわたしを待っておられました。わたしはどこにかくれたらいいのでしょう。どこでもあなたに会うので、あなたから姿をくらますことはできないのでしょうか。」
この後にも、主に従うことを躊躇し、恐れる「わたし」の言葉が長く続いていくのですが、それは省略します。そのような躊躇、恐れに対して、主イエスが「わたし」にこのように語りかけるのです。
「子よ、きみのために、世界のために、わたしはもっと求める。今までは、きみがきみの意志どおりに行動してきたが、そういうものはもういらない。きみはわたしの承認と支持を求め、きみの仕事にわたしを巻き込もうとした。子よ、わからないのか、それでは立場が反対だ。わたしはきみのすることを見てきた、きみの善意も見た、しかし今では、それ以上のことがほしいのだ。きみは、きみの仕事をもうあきらめて、きみの父なる神の意志をうけいれてくれ。子よ、『はい』と言ってくれ。わたしがこの地上にやってきたとき、マリヤの『はい』が必要であったように、きみの『はい』がいま必要なのだ。(中略)わたしにすべてをなげ出してくれ、きみのすべてを。地上におりて、きみといっしょになるために、きみの『はい』がわたしには必要なのだ。この世を救いつづけるために、きみの『はい』が必要なのだ。」
そしてこの詩、祈りは、「わたし」のこういう言葉でしめくくられています。
「主よ、あなたの要求にはとてもかないません。しかしだれがあなたに手むかいえましょう。わたしの国ではなく、あなたのみ国がくるために、わたしの心ではなく、あなたのみ心が成るために、わたしに『はい』と言わせてください。」
わたしに「はい」と言わせてください
主イエス・キリストがこの地上にお生まれになった時、主なる神はマリアに、主イエスの母となることを受け入れ、それに伴う苦しみや悲しみをも引き受けてくれ、と求めました。マリアは「はい」と応えてそれを受け入れました。それが「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」という言葉です。主なる神は今私たちにも同じことを求めておられます。イエス・キリストの十字架と復活によって神が実現して下さった救いに私たちが真実にあずかり、キリストの体である教会が築かれていくためには、そしてその救いのみ業がさらに前進し、より多くの人がそれにあずかっていくためには、私たちが「はい」と言って、主に従い仕える者となることが必要なのです。私たちが自分の人生の主人として、神さまの助けを借りて、何か善意の行いをしたとしても、そこには本当の救いはありません。主人であるべきなのは私たちではなくて主イエスなのです。主イエスのみ業こそがなされるべきなのです。聖とされ、あがめられるべきなのは私たちの名ではなくて、主なる神のみ名なのです。来るべきなのは私たちの国ではなくて、主なる神のみ国、主なる神のご支配なのです。この地上に成るべきなのは、私たちの思いや心ではなくて、主なる神のみ心なのです。私たちはマリアと共に、そのことに仕える者となりたいのです。「わたしに『はい』と言わせてください」という祈りを、今年のクリスマスの私たちの祈りとしたいのです。