夕礼拝

クリスマスに誰を拝むのか

説 教 「クリスマスに誰を拝むのか」副牧師 川嶋章弘
旧 約 ミカ書第5章1節
新 約 マタイによる福音書第2章1-12節

驚くべきことが語られている
 待降節(アドヴェント)第四の主の日を迎えました。降誕日、いわゆるクリスマスは25日ですけれども、25日は平日ですので、その直前の日曜日に私たちの教会はクリスマス礼拝を守っています。この夕礼拝でもマタイによる福音書2章1~12節に記されているクリスマスの出来事を語っているみ言葉に聴いていきたいと思います。
 この箇所はよく親しまれている箇所で、昨日の教会学校のクリスマス祝会におけるページェント(降誕劇)でも、もちろんこの場面がありました。子どもたちが演じているので、全体的にほのぼのとした場面となっています。もしかすると私たちはそのようなページェントの印象でこの箇所を読んでいるかもしれません。しかしこの箇所は、よく読んでみると驚くべきことが語られています。この箇所で繰り返し出てくる大切な言葉は、「拝む」という言葉です。2節で占星術の学者たちが「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言っていますし、8節ではヘロデが「わたしも言って拝もう」と言っています。そして11節では、学者たちが「ひれ伏して幼子を拝み」と言われています。「ひれ伏して拝み」と言われているように、「拝む」というのはひれ伏すという姿勢を伴います。私たちはなかなかそのような姿勢をとった経験がないのではないでしょうか。自分がひれ伏している姿を思い浮かべにくいと思います。ですから学者たちのひれ伏している姿は驚くべき姿であり、しかも幼子にひれ伏しているとなると、およそ考えにくいことが起こっているのです。

占星術の学者たち
 考えにくいことが起こっているという点では、この物語はその始まりからそうだと言えるでしょう。冒頭1節で、「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て」と言われています。ヘロデ王とは、ユダヤの王であったヘロデ大王のことです。彼はローマ帝国によってユダヤの王に任命されてユダヤを支配していました。政治家としては優れていたようですが、猜疑心が強く、自分の地位を脅かす者は身内であっても処刑しました。常にローマ帝国の顔色をうかがう必要もあり、その支配を安定させるために細心の注意を払っていたと思います。そのヘロデ大王の時代に、主イエスはユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。そのとき東方から占星術の学者たちがエルサレムにやって来たのです。新共同訳では「占星術の学者」と訳されていますが、聖書協会共同訳では「博士」と訳されています。もともとこの言葉は、古代ペルシアの祭司を務めた部族の名称でしたが、その意味が拡大し、東方の魔術、夢占い、占星術、神学、哲学に通じた学者を指すようになりました。ですからこの言葉だけで「占星術の学者」と断定できるわけではありませんが、星を見てエルサレムに来たというこの物語の文脈から、新共同訳は「占星術の学者」と訳したのだと思います。いずれにしてもはっきりしていることは、彼らがユダヤ人ではなく異邦人であったということ、そして当時の最高の知識人であり、社会的にも高い地位にあったということです。
 学者たちは「東の方から」エルサレムに来ました。「東の方」と言われているだけで正確な場所は分かりませんが、おそらくペルシア帝国の領域であったのではないかと思います。その地域は、かつてはアッシリア帝国が支配し、さらにはバビロニア帝国が支配した地域とも重なり、多くのイスラエルの民が捕囚として連れ去られた地でもあります。そのような東方の地から、学者たちは長い道のりを旅してエルサレムにやって来たのです。
 その目的は、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝むため」です。不思議なことです。異邦人である彼らが、誰がユダヤ人の王になるかということに関心を持っていたとは思えません。小国のしかもローマ帝国の支配のもとにあるユダヤの王に興味を引かれるというのは考えにくいことです。それにもかかわらず彼らがエルサレムに来たのは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」が、ユダヤ人だけでなく、すべての人の王となる方、それゆえ自分たちの王、自分たちの救い主となる方だと思っていたからではないでしょうか。なぜそう思ったのかは想像するしかありません。先ほど触れましたが、彼らの国はかつてイスラエルの民が捕囚とされた地であり、その子孫が暮らしていた場所でもあります。最高の知識人であった学者たちは、何らかの形で、イスラエルの民が大切にしていたメシア預言、救い主の預言を知ったのかもしれません。旧約聖書には星とメシアの結びつきを語っているみ言葉もあるので(民数記24章17節)、それを知ったのかもしれません。それで彼らはその星を見て救い主の誕生を知って、エルサレムまでやって来た、そのように想像することも許されると思います。

神の言葉によって
 学者たちがこのとき何歳であったかは分かりません。しかしすでにそれなりの人生を歩んでいたのではないでしょうか。学者としての実績を積み重ね、社会的にも高い地位を得ていたのだと思います。ところが彼らはふと立ち止まったのです。何かが足りない、このままではいけない、変わらなければならない、そう思ったのではないでしょうか。そう思ったから、膨大な知識の中から、イスラエルの民が大切にしていたメシア預言が気になったのです。それは、神の言葉が気になった、神の言葉に引っかかったということです。神の言葉が与えられることによって、このままではいけない、変わらなければならないと思っていた学者たちは旅立ちます。簡単な旅ではありません。長く困難な旅となることは目に見えていました。しかし神の言葉によって押し出されて、学者たちはユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝みに、自分たちの王、自分たちの救い主を拝みに冒険へと出かけたのです。
 このことは最初のクリスマスにだけ起こるのではありません。今も起こっていることです。私たちが教会に来るようになったきっかけは色々ですが、しかし何かが足りない、このままではいけない、変わらなければならない、そのような思いがどこかにあったのではないでしょうか。そのような思いを持っているからこそ、昔、教会学校で通っていた教会が思い浮かんだり、昔、読んだ聖書のみ言葉が思い浮かんだり、教会に通っている友人、知人のことが思い浮かんだりするのです。そして教会に行こうという思いが与えられ、冒険するような気持ちで教会に向かいます。もちろんそれは自分の力によってというより聖霊のお働きによって、と言うべきでしょう。学者たちは異邦人の中で最初に幼子イエスをひれ伏して拝みました。最初にキリストを礼拝したのです。私たちは彼らに続く者であり、これからも彼らに続く者が起こされていきます。聖霊のお働きによって教会へと導かれ、キリストを礼拝する者が起こされていくのです。

不安に駆られるヘロデ
 さて、学者たちがエルサレムに来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言ったのを聞いて、「ヘロデ王は不安を抱いた」と3節にあります。「不安を抱いた」と訳された言葉は、「おびえた」や「うろたえた」とも訳される言葉です。ヘロデ王は不安と恐れに駆られました。自分がユダヤ人の王であるはずなのに、自分のほかにユダヤ人の王として生まれた者がいるとしたら、その人物は、彼にとって自分の王座を脅かす脅威となり得ます。ローマ帝国の支配のもとにあったとはいえ、ヘロデは一国の王であり、大きな権力と高い地位を得ていました。しかしほかに王となる人物が現れたら、その権力や地位を失うことになりかねません。彼はそのことを恐れて、不安になり、うろたえたのです。ヘロデは確かに優秀な政治家であったかもしれません。しかし彼の人生を根本的にとらえていたのは不安と恐れであっただろうと思います。だから自分のライバルとなるような人たちを処刑しました。そして本日の箇所の後、2章16節で語られているように、ユダヤ人の王として生まれた幼子を殺すために、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させ」るのです。不安と恐れに駆られたヘロデは、その権力を乱用して残虐な行為に走ったのです。

不安に駆られるエルサレムの人々
 3節の後半には「エルサレムの人々も皆、同様であった」とあります。学者たちの言葉を聞いて、エルサレムの人々も皆、ヘロデと同じように不安を抱いたのです。これは不思議な感じがします。エルサレムの人々はヘロデの統治に満足していたわけではありません。むしろ猜疑心が強く、身内すら処刑する彼の厳しさに反感を覚えていたはずです。なにより彼らは自分たちの救い主、メシアの誕生を待ち望んでいたはずなのです。それなのにエルサレムの人々は新しい王が生まれた、メシアが生まれたと聞いて、ヘロデと同じように不安と恐れに駆られました。なぜでしょうか。ヘロデの統治のもとで、それなりに恩恵をこうむっていた人たちがいて、その人たちはヘロデの統治を望んでいたということがあるかもしれません。しかしより根本的には、エルサレムの人々は、新しい王が現れることによって自分が変わらなくてはいけないことを恐れたのではないでしょうか。新しい王によって自分が変えられることを恐れたのです。彼らはヘロデのように一国の王ではありませんでしたが、それぞれ自分の人生の王であった、と言うことができます。自分の人生は自分のものであり、自分の人生の王であり続けたい、と思っていました。エルサレムの人々も今ある自分を守りたかった、失いたくなかったのです。色々と文句を言いつつも、ヘロデに反感を抱きつつも、自分たちが根本的に変えられることを望んでいませんでした。だから彼らは学者たちの言葉を聞いて、自分自身が自分の人生の王でいられなくなることを恐れ、不安を覚え、うろたえたのです。

自分の人生の王であろうとする私たち
 私たちもそれぞれが小さなヘロデである、と言わなくてはなりません。私たちもエルサレムの人たちとなんら変わらない、と認めなくてはなりません。私たちは一国の王ではありませんが、しかし自分の人生の王であろうとしています。ヘロデは自分の地位が脅かされると残虐になりました。ひどい王だと言うのは簡単です。しかし実は、私たちこそ自分の人生の王としての地位が脅かされると、攻撃的になるのではないでしょうか。自分の人生の王としての地位が脅かされるというのは、簡単に言えば、思い通りにいかなくなる、ということです。私たちは自分の人生が思い通りにいかなくなるとき、自分の周りにいる人たちを、隣人を批判し、攻撃し、傷つけてしまいます。隣人ではなく自分自身を攻撃し、傷つけてしまうこともあります。ヘロデがそうであったように、またエルサレムの人々がそうであったように、私たちも自分自身が自分の人生の王であり続けようとする限り、王でいられなくなることへの不安と恐れに駆られて生きることになるのです。そして不安と恐れに駆られて生きるとき、私たちは自分自身と隣人を攻撃し、傷つけてしまうのです。

ベツレヘムへ
 不安と恐れに駆られたヘロデは、祭司長たちや律法学者たちを集めて、「メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただし」ました。すると彼らは、共に読まれた旧約聖書ミカ書5章1節のみ言葉を引用して、このように言います。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである」。この預言を聞いたヘロデは学者たちを「ひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめ」ました。そしてこのように言って、学者たちをベツレヘムへ送り出します。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」。「わたしも行って拝もう」と言っていますが、もちろんヘロデにその気はありません。学者たちがその子を見つけたら、殺してしまおうと思っていたのです。一方、学者たちは、ユダヤ人の王が生まれる正確な場所を知りませんでした。しかし預言者がベツレヘムと告げていたことを知って、彼らはベツレヘムへと向かいます。その彼らを、東方で見た星が先立って進み、幼子イエスのいる場所へと導きました。星の導きは、聖霊なる神の導きです。彼らはみ言葉によって目的地を示され、聖霊によって導かれて目的地にたどり着いたのです。

このままではいけないと思っている人のため
 私たちは占星術の学者たちと、祭司長たちや律法学者たちの違いに目を向けなければなりません。祭司長や律法学者は、つまりユダヤ教の宗教指導者たちは、メシアが、救い主がどこでお生まれになるのか、その正確な場所をみ言葉から示されていました。彼らは占星術の学者たちより正確な知識と情報を持っていたのです。(旧約)聖書の専門家ですから、当然と言えば当然です。しかし彼らは学者たちと違って、幼子イエスのもとに向かおうとはしませんでした。天使のお告げを聞いた羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう」と言って出かけました。ヘロデの言葉を聞いた学者たちも出かけました。しかし宗教指導者たちは出かけなかった。旅に出ようとしなかった。目的地を知らなかったからではありません。目的地を知っていたにもかかわらず動こうとしなかった。ヘロデのもとに留まったのです。なぜでしょうか。変わりたくなかったからです。今のままが良かったからです。ヘロデのもとで、ヘロデの機嫌を取りつつも、自分の権力や地位を守りたかったからです。だからみ言葉が与えられていても、救い主がお生まれになった正確な場所を知っていても動こうとしなかった。旅に出ようとは、冒険に出かけようとは思わなかったのです。同じみ言葉が与えられていても、そのみ言葉によって旅立つ者とそうでない者がいます。占星術の学者たちと宗教指導者たちとの違いは知識の量でもなければ、社会的な身分でもありません。どちらも知識人であったし、社会的な身分は高かったのです。けれども学者たちは、宗教指導者たちと違って、このままではいけない、変わらなければならない、と思っていた。そこに違いがあるのです。ですからこのように言うことができると思います。クリスマスの出来事は、このままではいけない、変わらなければならないと思っている人たちのためにある。あるいはこのように言ったほうがよいかもしれません。クリスマスの出来事は、キリストの誕生は私たちを変えないわけにはいかない、私たちをこれまでのままにはしておかない、私たちをこれまでの自分とは違う新しい自分にする、私たちを旅立たせ、冒険へと出かけさせるのです。

ひれ伏してキリストを拝む
 学者たちはこのままではいけないと思って、東の国からエルサレムまでやって来て、そしてベツレヘムに、幼子イエスのもとにたどり着きました。彼らが本当に変わったのは、いえ本当に変えられたのは、幼子イエスと出会うことによってです。11節でこのように言われています。「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」。学者たちはひれ伏して幼子イエスを拝みました。幼子イエスを礼拝したのです。「クリスマス」の「クリス」は「キリスト」を、「マス」は「礼拝」を意味しますから、「クリスマス」とは「キリスト礼拝」を意味します。まさに学者たちは、最初のクリスマスにキリストを礼拝したのです。相手に「ひれ伏して」「拝む」とは、その相手を自分の王とすることです。このとき学者たちはキリストを自分の王としました。自分の人生の王、主(あるじ)としたのです。彼らもかつては自分の人生は自分のものだと思っていました。自分の知識や地位を握りしめていました。しかしあるときこのままではいけない、という思いが与えられて旅立ちました。そして今、自分が仕えるべき本当の王、本当の主(あるじ)に出会ったのです。自分の人生は自分のものではなくキリストのものだという確信が与えられました。キリストを自分の人生の王として生きる者に変えられました。自分の知識や地位を握りしめるのではなく、それらを手放してキリストに仕えて生きる者に変えられました。これまでとは違う自分に変えられたのです。ひれ伏してキリストを拝むとは、キリストを礼拝するとはそういうことです。
 「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」とも言われていました。「喜びにあふれた」は、直訳すれば、「大きな喜びを非常に喜んだ」となります。言葉にならないほどの大きな喜びを言い表しているのです。単に幼子のいるところにたどり着けて喜んだのではありません。自分の王に、自分の救い主に出会うことによって与えられる喜びにあふれたのです。自分を王として生きる歩みには不安と恐れが満ちていました。しかしキリストを王として生きる歩みには、言葉にならないほどの大きな喜びがあふれているのです。
 最初に、私たちは自分がひれ伏している姿を思い浮かべにくい、とお話ししました。それは、私たちがひれ伏すという習慣がないからだけではなく、根本的に私たちはキリストにひれ伏すことを拒んでいるからではないでしょうか。キリストを自分の王としたくない。自分自身が自分の王のままであり続けたいのです。そのような頑なさを私たちは抱えています。しかしキリストと出会うことによって、いえキリストが出会ってくださることによってその私たちの頑なさが砕かれ、私たちは変えられます。私たちの人生の王の交代が、主(あるじ)の交代が起こるのです。キリストを自分の人生の王として、主(あるじ)として歩む人生が始まるのです。もしかしたらヘロデも祭司長や律法学者もベツレヘムへ向かい、幼子イエスと出会っていたら、変えられていたのかもしれません。しかし彼らは動きませんでした。変わることを恐れたからです。ですからこのままではいけない、変わらなくてはいけないという思いは、キリストとの出会いのきっかけとなります。そのような思いを抱いて一歩踏み出す私たちに、キリストは出会ってくださり、私たちを、キリストを王として生きる者へ、自分の握りしめているものを手放してキリストに仕える者へと変えてくださるのです。

新しい歩みが始まる
 占星術の学者たちは幼子イエスに「黄金、乳香、没薬を贈り物として献げ」ました。それは自分の最も大切なものを献げたということです。自分自身を献げたと言ってよい。私たちがキリストを王として生きるとは、キリストに自分自身を献げて生きることなのです。さらに言えば、「黄金、乳香、没薬」は、占星術の学者たちの商売道具でした。商売道具をキリストに献げたことは、自分の職業をキリストに明け渡したということです。占星術の学者をやめたかもしれない。いえ、やめていないかもしれない。やめていないかもしれないけれど、占星術の学者であり続けたかもしれないけれど、しかし仕事の目的が変わりました。自分のための職業ではなく、キリストのための職業となったのです。占星術の学者であってもなくても、彼らはキリストに仕えて働く者とされたのです。だからといって、彼らはキリストのもとに留まり続けたわけではありません。「『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」のです。「別の道を通って」とは、自分たちの計画した道を通るのではなく、それとは別の神様が計画した道を通って、ということです。キリストを王として生きるとき、これまでとは別の道が、神様のご計画に導かれて歩む道が与えられるのです。
 私たちもこの礼拝が終わると自分たちの日常へと戻っていきます。しかしクリスマスの出来事を、キリストの誕生を知らされた私たちは変えられます。キリストを礼拝して生きる者へ、キリストを王として生きる者へ、神様のご計画に導かれて生きる者へと変えられるのです。これまでと変わらない日常が続くのではなく、キリストを王として生きる、キリストに仕えて生きる新しい日常が始まるのです。クリスマスにキリストを礼拝する私たちに新しい歩みが、言葉にならないほどの大きな喜びにあふれた歩みが始まるのです。

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