クリスマス礼拝 「神は我々と共におられる」牧師 藤掛順一
旧 約 イザヤ書第7章1-17節
新 約 マタイによる福音書第1章18-25節
天使のお告げを信じたマリアとヨセフ
聖書の中で、イエス・キリストの誕生の物語が語られているのは、マタイによる福音書とルカによる福音書です。どちらの福音書も、母マリアが、婚約者ヨセフと一緒になる前に聖霊によって身ごもって主イエスを生んだことを語っています。いわゆる「処女降誕」の奇跡です。そしてどちらの福音書も、その奇跡を天使が前もって告げたことを語っています。しかし天使がそのことを告げた相手が、マタイとルカでは違っています。ルカにおいては、母マリアにそれが告げられました。いわゆる「受胎告知」の場面です。マリアはとまどいながらも、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と天使のお告げを信じて受け入れたのです。それに対してマタイにおいては、天使が現れたのはヨセフです。婚約者マリアが妊娠したことを知ったヨセフは、ひそかに縁を切ろうとした、と19節にあります。マリアが自分によらずに妊娠したということは、常識的に考えれば、マリアが自分との結婚の約束を裏切った、ということです。ヨセフはそのことを訴えることもできました。当時の掟では、そうしたらマリアは姦淫の罪で死刑になってしまうかもしれないのです。しかし彼は、「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」のです。それは彼の精一杯のやさしさでしたが、もうマリアとは結婚できない、と思っていたのです。そこに天使が現れて、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と告げたのです。さらに天使は「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」とも言いました。つまり天使はヨセフに、マリアはあなたを裏切ったのではなくて、聖霊によって身ごもっているのだから、彼女を妻として迎え入れ、生まれて来る子の父親になりなさい、と彼に求めたのです。ヨセフはこの天使のお告げを信じて受け入れました。それはマリアが「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言ったのと同じことです。つまりルカにおいてはマリアが、マタイにおいてはヨセフが、天使のお告げを信じて受け入れたことによって、主イエス・キリストの誕生というクリスマスの出来事が実現したのです。もしもどちらかが、天使のお告げを受け入れなかったら、主イエスは無事に生まれて来ることはできなかったでしょう。そうしたら私たちがクリスマスを喜び祝うことはできなかったし、そもそも主イエス・キリストによる救いは実現しなかったのです。
イエスと名付ける
さて本日は、マタイによる福音書において、ヨセフが天使のお告げを受けた場面をご一緒に読みます。天使はヨセフに、マリアを妻として迎え入れ、生まれて来る子をイエスと名付けることを求めました。先ほども申しましたように、子どもに名前をつけるとは、その子を自分の子として受け入れ、育てていく責任を負うということです。しかし天使は、その子にあなたの思い通りの名前をつけて、あなたの子として育てなさい、と言ったのではありませんでした。その子にイエスと名付けることを求めたのです。それに続いて「この子は自分の民を罪から救うからである」と言っています。それが、その子がイエスと名付けられるべきであることの理由です。イエスというのは、主は救い、という意味です。当時のユダヤ人たちの中ではこの名前はありふれたものだったようです。主なる神による救いを信じ、求めていた多くの人々が、その救いの実現を願って自分の子にイエス、主は救いと名付けていたのです。しかし天使は、マリアが聖霊によって身ごもって産むこの子こそ、自分の民を罪から救う者となる、と言いました。多くの人々が願望を込めて「イエス、主は救い」という名前を子どもにつけているが、この子はその主なる神による救いを本当に実現する者となるのだ、と宣言したのです。ヨセフはその子に「イエス」と名付けることによって、主なる神による救いの実現のために仕えることを求められたのです。
インマヌエル
マタイによる福音書は、この天使のお告げに続いて、これは預言者によって語られていた主なる神の言葉の実現なのだ、と語っています。それは、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という預言です。それは先ほど共に朗読された、旧約聖書イザヤ書第7章14節の言葉です。マリアが聖霊によって身ごもり、男の子を産むという、天使が告げた出来事によって、イザヤのこの預言が実現するのだとマタイ福音書は語っているのです。
でもこれって少し変だなと思うのではないでしょうか。「おとめが身ごもって男の子を産む」という預言は確かに、マリアが聖霊によって身ごもって男の子を産むことにおいて実現します。でも、「その名はインマヌエルと呼ばれる」ということは実現していないのではないか。天使はその子にインマヌエルと名付けることを求めたのではなくて、イエスと名付けなさいと言ったのです。そしてこの後マタイ福音書を読んでいっても、主イエスのことが「インマヌエル」と呼ばれているところはありません。「その名はインマヌエルと呼ばれる」ということはどこにも実現していないように思えるのです。このことは、「その子をイエスと名付けなさい」という天使のお告げに続いてこのイザヤ書の預言が語られており、そしてその預言の言葉自体にも「その名はインマヌエルと呼ばれる」とあることから生じる勘違いです。マタイ福音書はこのイザヤの預言によって、マリアが産む男の子の名前がどうなるかを語っているのではありません。この預言の引用へと繋がる22節には、「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」とあります。「このすべてのこと」とは、マリアが聖霊によって身ごもり、男の子を産み、ヨセフがその子にイエスと名付ける、そのすべてのこと、つまりイエス・キリストの誕生の出来事全体を指しています。それによって、イザヤのこの預言が実現したのだとマタイは語っているのです。つまり「インマヌエル」は主イエスの名前と言うよりも、主イエスの誕生によって実現したことです。その意味はマタイが語っているように「神は我々と共におられる」ということです。マリアが聖霊によって身ごもって男の子を産み、ヨセフがその子にイエス(主は救い)と名付けることによって、イザヤが預言したインマヌエル、神は我々と共におられる、ということが実現したのだ、とマタイ福音書は語っているのです。つまりクリスマスの出来事によって、インマヌエル、神は我々と共におられる、ということが実現したのです。本日はこのことをさらに深く見つめていきたいと思います。
この世の現実の中で
イザヤ書第7章において、このインマヌエル預言はどのような状況の中で語られたのでしょうか。そのことを見つめるために、先ほどはイザヤ書第7章の1節から17節を朗読していただきました。そこに語られていることをここで詳しく説明している時間はありません。それについては、12月の昼の聖書研究祈祷会でお話ししました。ホームページからその録音を聞くことができるし、原稿を読むこともできます。またプリントも受付のラックにあるので、それを読んでいただきたいと思います。ごく簡単に言えば、イスラエル王国はこの時既に北王国イスラエルと南王国ユダとに分裂していましたが、新たに興ってきた大国であるアッシリア帝国の脅威にさらされていました。そういう超大国の脅威の中で、小さな国であるイスラエルやユダが、生き延びるためにどの国と同盟を結ぶか、今の言葉で言えば集団的自衛権をどう行使するか、で右往左往している様子がこのイザヤ書第7章に描かれているのです。そういう世界情勢によって人々の心が動揺している中で、預言者イザヤはユダの王アハズに「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」と語ったのです。その流れの中で、14節の「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」という預言も語られました。つまりこの預言は、大国の脅威にさらされて動揺している人々に対して語られた主なる神の言葉なのです。私たちも同じ現実の中にいます。覇権主義的な国家による圧力が強まっており、わが国の安全保障をめぐる事態は今や大きく変わっている、と語られています。その中で、軍備の増強がなされると共に、集団的自衛権の行使を容認するように憲法の解釈が変更されました。同盟国との関係を強めることによって国を守ろうとしているのです。それはイザヤ書第7章に語られているユダ王国の状況とよく似ていると言えるでしょう。「インマヌエル、神は我々と共におられる」という預言はそういうこの世の現実の中で語られたのです。つまりこの預言は、この世界を生きている私たちの具体的な現実とそこにおける苦しみ、不安、動揺と関係のない所での話ではありません。この世界の現実からは目を背けて信仰の世界に生きることによって神が共におられるという平安を得よう、という話ではないのです。
苦しみの現実の中で
そしてマタイによる福音書は、このイザヤのインマヌエル預言が、主イエス・キリストの誕生において実現した、と語っています。このことも、この世界の現実とかけ離れた所で起っているのではありません。マタイはこの後の第2章で、ユダヤ人の新たな王が生まれたということを東の国の学者たちから聞いたヘロデ王が、誕生したばかりのイエスを殺そうとしたこと、そのためにヨセフはマリアと幼子イエスを守るために、エジプトへ逃げなければならなかったこと、怒り狂ったヘロデによってベツレヘム周辺の二歳以下の男の子たちが虐殺されたことを語っています。それは、この世の権力者が、自分の権力を守ろうとして、弱い立場の者たちを苦しめ、殺した、ということです。そういうことが今もこの世界には起っています。そのような悲惨な現実のただ中で、インマヌエル、神は我々と共におられる、という預言が実現したのだ、とマタイは語っているのです。マリアとヨセフにしても、天使のお告げを信じてそれに従い、イエスの母となり父となったために数々の苦しみを体験しなければなりませんでした。つまりここに語られているのは、インマヌエル、神は我々と共におられる、などということはいったいどこに実現しているのか、と思わずにはおれないような現実なのです。マタイ福音書は、そのような現実を描きつつ、主イエスの誕生において、インマヌエル、神は我々と共におられる、という預言が実現した、と語っているのです。それはどういうことなのでしょうか。
私たちの苦しみ悲しみを担って下さるために
このことが先ず第一に示しているのは、インマヌエル、神は我々と共におられる、ということは、人間の罪によって引き起こされているこの世の厳しい現実、苦しみや悲しみの現実の中でこそ実現するのだ、ということです。私たちが平穏無事で幸せな生活をしていることが、神が共にいてくださることのしるしなのではないのです。平穏無事な生活をしているところには神がおられない、というわけではありません。それももちろん共にいて下さる神の恵みです。しかし神はむしろ、人間の罪が猛威を振るっており、それによって人々が苦しみ悲しんでいる、そこにおいてこそ、私たちと共にいて下さるのです。苦しみや悲しみにあえいでいる私たちをこそ、神は共にいて担って下さるのです。そのために、神の独り子であるイエス・キリストが、人となってこの世に生まれて下さったのです。主イエスの誕生によってインマヌエル、神が我々と共におられるということが実現したというのはそういうことです。インマヌエル、神は我々と共におられるというのは、私たちの苦しみや悲しみが取り除かれることではなくて、それを主イエスが共にいて担って下さる、ということなのです。クリスマスの出来事によってそういうことが実現したのです。
主イエスの誕生と、生涯と、十字架と復活によって
そしてそうであるならば、このインマヌエル、神は我々と共におられるという恵みは、主イエスの誕生のみによって実現したことではありません。クリスマスに誕生した主イエスは、そのご生涯の全体において、苦しんでいる者、悲しんでいる者、罪を犯している者たちあと共に歩んで下さいました。苦しんでいる者たちに、神の国つまり神のご支配が近づいたと告げ、罪に陥っている者たちをご自分のもとに招いて神による赦しを語り、あなたがたは神の子として、神と共に生きることができる、という救いを宣言して下さったのです。そして主イエスはその救いを具体的に実現するために、私たち人間の全ての罪を背負って、十字架にかかって死んで下さいました。苦しんでいる者、罪に陥っている者と共におり、その苦しみと罪とを担って下さるというインマヌエルの恵みは、主イエスの十字架の死においてこそ実現したのです。そして主イエスをこの世にお遣わしになった父なる神は、十字架にかかって死んだ主イエスを復活させ、永遠の命を生きる者として下さいました。主イエスが復活して永遠の命を生きておられるというのは、私たちと関係のない所で生きておられるということではなくて、私たちといつも共にいて下さる、ということです。マタイによる福音書の最後のところ、第28章20節において、復活した主イエスが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束して下さっています。主イエスの復活によってこそ、インマヌエル、神は我々と共におられる、という恵みが実現したのです。このようにインマヌエルの恵みは、主イエスの誕生と、ご生涯と、十字架の死と、そして復活によって、私たちの現実となっているのです。私たちはクリスマスに、主イエスの誕生を喜び祝うことによって、このインマヌエルの恵みが実現し始めたことを喜び祝っているのです。
洗礼と聖餐によって
クリスマスに実現し始め、主イエスのご生涯と、十字架の死と、復活によって確立したインマヌエルの恵みに、私たちは洗礼を受けることによってあずかります。洗礼を受けるというのは、主イエス・キリストによって、インマヌエル、神は我々と共におられる、という恵みが実現していることを信じて、つまり苦しみや悲しみの多い、そして罪にまみれている私たちの人生を、主イエスが共にいて担って下さっていることを信じて、その主イエスと結び合わされることです。洗礼を受けた私たちは、キリストの体である教会の一員となって、兄弟姉妹と共に、キリストに繋がって生きていきます。そこで、インマヌエル、神は我々と共におられる、という恵みを体験していくのです。
本日共にあずかる聖餐もそのために備えられています。洗礼を受けた者は聖餐にあずかり、主イエス・キリストが十字架の死によって私たちの罪を赦し、神の子として下さっている恵みを味わうのです。また世の終わりに私たちも復活と永遠の命を与えられて、主のもとであずかる喜びの食卓を、この世の歩みの中でほんの少し前もって味わい、その希望を確かにされつつ歩むのです。この聖餐においても私たちは、インマヌエル、神は我々と共におられるという恵みを体験していくのです。
それぞれに与えられている務めを負うことの中で
しかし洗礼を受け、聖餐にあずかりつつ生きているとしても、私たちを取り巻くこの世の現実はまことに厳しいものであり、人間の罪が渦巻いており、悲惨な出来事が日々起っています。目に見える現実だけを見つめていたら、いったいどこにインマヌエル、神は我々と共におられる、という救いがあるのか、と思わすにはおれません。しかし私たちのそのような悲惨な罪に満ちた現実を、共にいて担って下さるために、神の独り子イエス・キリストが、人間となってこの世に生まれて下さったのです。クリスマスに私たちはそのことを覚え、感謝し、喜び祝うのです。そして私たちも、マリアやヨセフと同じように、苦しみや悲しみ、悲惨な罪に満ちたこの世の現実の中で、神が私たちに背負うことを求めておられるそれぞれの務め、使命を、進んで負っていくのです。それを負って歩む中で、インマヌエル、神は我々と共におられる、という恵みを、私たちも確かに体験していくことができるのです。