夕礼拝

ヨセフへのお告げ

12月3日 夕礼拝
説教 「ヨセフへのお告げ」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 イザヤ書第7章14節
新約聖書 マタイによる福音書第1章18-25節

クリスマスの物語に耳を傾けて
 アドヴェント(待降節)を迎えました。私が夕礼拝の説教を担当するときにはルカによる福音書を続けて読み進めていますが、このアドヴェントの期間は、ルカ福音書の連続講解から離れ、聖書が告げる幾つかのクリスマスの物語に耳を傾けていきたいと思います。12月の夕礼拝で私が担当するのは3日、17日、24日ですが、本日は「ヨセフへのお告げ」、17日は「マリアへのお告げ」、そして24日は「神に栄光、地に平和」という題で、説教を語らせていただきます。

孤独が深まる季節
 アドヴェントを迎えるのを待たずして、10月31日のハロウィンが終わると、早くもスーパーではクリスマスソングが流れ始め、近くの伊勢佐木モールや上大岡の駅前なども電飾で彩られるようになってきました。スーパーに行くだけでも、街並みを見るだけでも、クリスマスムードが高まっているのを感じます。世の中のクリスマスムードが高まるにつれ、私たちもどこかうきうきした気持ちを感じているのではないでしょうか。
 けれどもその一方で、クリスマスシーズンは孤独が深まる季節でもあります。クリスマスの喜びは自分とは関係ないと思わずにはいられない方がいらっしゃるのです。決して他人事ではありません。私たちの中にもいらっしゃると思います。あるいはかつてそう思っていたかもしれないし、これからそう思うことがあるかもしれません。クリスマスソングを聞いても、街中のイルミネーションを見ても、うきうきした気持ちになるどころか、かえって心が沈んでしまう。悩みや苦しみや悲しみを抱えていて、あるいは不安や恐れを抱えていて、クリスマスが近づいていることを到底喜べない。喜んでいる人やうきうきしている人を見ると、羨ましく思ったり妬ましく思ったりしてしまう。そのように思う自分のことも嫌になる。そういうことがあるのではないでしょうか。そしてそのような自分の気持ちを誰も分かってくれないという寂しさが孤独をさらに深めるのです。自分が一人ぼっちでいるように思えてならないのです。
 しかしクリスマスの出来事は、街中のイルミネーションを見ても心が沈み、クリスマスが近づいていることを喜べず、自分が一人ぼっちでいるように思えてならない人たちにこそ、本当の喜びを与えるのです。本日、私たちはクリスマスの出来事のただ中にいた一人の人物の物語を通して、聖書が告げているクリスマスの本当の喜びに目を向けていきたいと思います。その一人の人物とは、イエスの母マリアの夫ヨセフです。最初のクリスマスに、ヨセフはうきうきした気持ちとはほど遠い気持ちを抱えていました。喜ぶよりも戸惑い、苦しみ、恐れ、そして孤独を感じていたのです。

クリスマスの出来事は神のみ業
 本日の箇所の冒頭18節に「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」とあり、続けてこのように語られています。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」。当時のユダヤの社会では、婚約は法的には夫婦となることを意味し、約一年間の婚約の期間は別々に暮らし、その後一緒に暮らすことになっていました。つまりマリアは、ヨセフと婚約はしていたけれど、まだ一緒に暮らしていなかった一年の間に身ごもったのです。この18節は簡潔な文であるにもかかわらず、イエス・キリストの誕生が、つまりクリスマスの出来事がどのような出来事であったかを示しています。マリアが聖霊によって身ごもったとは、男の人と関わることなく身ごもったということです。当時のユダヤの社会では、男の人は人間あるいは人間の力の代表でしたから、マリアが聖霊によって身ごもったとは、人間の力によらずに身ごもったということにほかなりません。つまりマリアが聖霊によって身ごもったことは、イエス・キリストの誕生が人間の力によらない、神様の力によるものであり、神様のみ業であることを見つめているのです。クリスマスの出来事は、人間の力が排除されたところで、神様が一方的に人間の歴史に介入してくださったことによって起こったのです。

ヨセフとマリアを用いて
 しかしそれは、クリスマスの出来事において人間には出番がなかったということではありません。神様は人間を用いて、人間の歴史に介入されたからです。聖霊によって身ごもったマリアが、まさにそうでした。神様はマリアを用いてイエスを生まれさせたのです。マリアはお腹にイエスを宿し、そしてイエスを出産したわけですから、神様から用いられたことがよく分かります。しかしマリアだけでなく、神様はヨセフをも用いられたのです。このことはマリアがヨセフとの婚約期間中に身ごもったことに示されています。マリアが聖霊によって身ごもるだけなら、ヨセフとの婚約期間中である必要はありません。ヨセフと婚約する前でも良かったのです。しかし二人が婚約している間に、マリアが聖霊によって身ごもることこそ、神様のみ心、神様のご意志でした。それは、生まれてくる子どもが、つまりイエスがヨセフとマリアのもとで育っていくことを、神様が望まれたということです。神様はヨセフとマリアを、この夫婦を用いて人間の歴史に介入し、クリスマスの出来事を実現してくださったのです。

ひそかに縁を切る決心
 とはいえ神様の一方的な介入は、ヨセフに大きな戸惑いを引き起こしました。法的には夫婦になっているとはいえ、婚約の期間は性的な関係を持つことはありませんでしたから、ヨセフはマリアが自分の子どもを身ごもったのではないと分かっていました。当然ヨセフは、マリアが自分以外の男性と関係を持って身ごもったと考えました。そして法的には夫婦である婚約の期間に、マリアが別の男性と関係を持ったのであれば、マリアは姦通の罪を犯したことになるのです。ヨセフがこの困難な事態に直面して、どのように対応しようとしたかが19節でこのように語られています。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。聖書はヨセフの心の動きを細かく描こうとはしません。ヨセフは正しい人であった、だからマリアのことを表ざたにするのを望まなかった、そしてひそかに縁を切ろうと決心した、と淡々と語ります。ヨセフが「正しい人」であったとは何を意味しているのでしょうか。ファリサイ派のように律法を厳格に守るという意味で、「正しい人」であったと考えられることもあります。しかしそうであるなら、マリアは姦通の罪を犯し律法に違反したのだから裁かれるべきだと考えて、マリアのことを表ざたにしても良かったはずです。しかしヨセフはそうしませんでした。ですからヨセフが「正しい人」であったとは、ファリサイ派のように律法を厳格に守るという意味ではなく、律法に示されている神の御心に従うという意味で、「正しい人」であったと考えるほうが良いように思います。もちろんヨセフには、姦通の罪を犯したマリアを妻に迎え入れるという選択肢はなかったはずです。彼には縁を切る、つまり離婚する道しかありませんでした。その点では彼は律法をしっかり守ろうとしたのです。その一方で、ヨセフがこのことを表ざたにすれば、マリアは石で打ち殺されなくてはなりませんでした(申命記22章22節以下)。しかしヨセフはそれを望まなかったのです。マリアがかわいそうだからという理由だけではないと思います。律法に示されている神の御心とは神様を愛し、隣人を愛することです。正しい人ヨセフは、この神様の御心に従い、姦通の罪を犯したマリアに対しても愛と優しさを持って接し、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに離婚しようと決心したのです。

ヨセフの苦悩と孤独
 けれどもヨセフがこのような決心に至るのは決して簡単なことではなかったと思います。確かに19節は、ヨセフの心の動きを淡々と描きます。しかしヨセフの心の内は、決して淡々としていなかったのではないでしょうか。激しく動揺していました。大きな戸惑いがありました。深い苦悩がありました。愛するマリアの裏切りに憤りを覚えずにはいられなかったはずです。思い描いていた未来予想図が、マリアと共に生きる人生の計画が崩れてしまいました。しかもマリアは自分がほかの男性と関係を持ったとは言いませんでした。マリアはヨセフに「聖霊によって身ごもった」と、そう天使が自分に告げたと説明したに違いありません。しかしヨセフはマリアの説明を聞いても、戸惑い、混乱するしかありませんでした。常識的に考えれば、「聖霊によって身ごもった」とは到底信じられなかったからです。ここにこの二人の深い孤独、この夫婦の深い孤独があります。愛する人に信じてもらえないマリアの孤独があり、愛する人を信じられないヨセフの孤独があります。クリスマスの出来事は、共に生きることを誓った二人の深い孤独のただ中で起こったのです。深い苦悩の中でヨセフは、ひそかにマリアと離婚しようと決心しました。行き場のない怒りを感じていなかったとは思えません。しかしその怒りに駆られるのではなく、愛と優しさを持ってマリアとの離婚を決心したのです。そこには最も身近な隣人を大切にしようとするヨセフの姿を見ることができます。しかし同時に、マリアが聖霊によって身ごもったことを信じられないヨセフの姿をも見ることができます。ヨセフは最も身近な隣人であるマリアの言葉を信じられなかったのです。

ヨセフの恐れ
 そのヨセフに、主の天使が語りかけます。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」。天使はヨセフに「恐れるな」と告げます。ヨセフの恐れは、マリアを迎え入れてしまえば、マリアの姦通の罪をなかったことにしてしまうことに、つまり律法を蔑ろにしてしまうことにありました。だから天使は、マリアが姦通によって身ごもったのではないから、そのことを恐れることはないとヨセフに告げたのです。しかしヨセフの恐れはそれだけではなかったように思います。ヨセフは自分の人生に起こった出来事に戸惑い、これからどうするべきかを悩み、愛する人を信じられない孤独に苦しんでいました。そのような自分の気持ちを誰も分かってくれないと思っていました。ヨセフは、神様が自分の人生に介入してくださったことを信じられず、神様に自分の人生を委ねられず、それゆえにマリアの言葉を信じられなかったのです。神様と最も身近な隣人を信じられないところにこそ、ヨセフの恐れがあったのではないでしょうか。

天使のお告げを信じる決心
 ヨセフはその恐れのただ中で、深い苦悩と孤独のただ中で天使のお告げを聞いたのです。天使は、「聖霊によって身ごもった」というマリアの言葉を信じられなかったヨセフに、神様のみ業によってマリアが身ごもったと告げ、神様が「あなたの人生に介入してくださった」と告げました。だから恐れることなく神様を信じ、神様に自分の人生を委ね、マリアの言葉を信じてマリアを迎え入れなさい、と告げたのです。さらに天使は「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」とも命じました。ヨセフは天使のお告げのすべてを信じ、受け入れました。24節でこのように言われています。「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」。天使が命じた通り、ヨセフはマリアを迎え入れ、生まれた子にイエスと名付けたのです。それは、マリアから生まれてくる子どもをヨセフとマリアのもとで、この夫婦のもとで育てるという神様の御心をヨセフが受け入れたということです。このヨセフの決心を通して神様はヨセフとマリアを用いられ、クリスマスの出来事を実現してくださったのです。この物語において、ヨセフは二回決心をしています。最初の決心は、マリアとひそかに縁を切ろうとした決心です。そして次の決心は、なんの証拠もないのに天使のお告げを信じ、神様を信じ、神様に自分の人生を委ね、マリアの言葉を信じた決心です。ヨセフは「男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった」と言われています。それは、ヨセフが聖霊によって身ごもったマリアを妻として受け入れることを通して、ヨセフとマリアの信頼関係が回復されたことをも見つめています。愛する人に信じてもらえないマリアの孤独も、愛する人を信じられないヨセフの孤独も、もはやありません。天使のお告げを信じ、神様を信じ、神様に自分の人生を委ねることによって、この二人は深い孤独から解放され、互いに深く信頼することができるようになったのです。

生まれてくる子が人間を罪から救う
 天使がヨセフに告げた言葉の最後に「この子は自分の民を罪から救うからである」とあります。生まれてくる子どもにイエスと名付けるよう天使は命じました。イエスとは「神は救いである」という意味の名前です。ですから「この子は自分の民を罪から救うから」というのは、生まれてくる子どもをイエスと名付ける理由を語っていることになります。しかしそれだけではありません。それどころかこの天使の言葉によってこそ、ヨセフは第一の決心を覆して、第二の、そして決定的なあの決心をしたのです。「自分の民を罪から救う」の「自分の民」とはイスラエルの民のことであり、そこにはヨセフも含まれます。ヨセフは天使の言葉を、「生まれてくる子どもはイスラエルの民を罪から救い、そしてヨセフ自身をも罪から救う」と聞いたのです。そのように信じ受け止めたのです。神様と最も身近な隣人を信じることができず、深い苦悩と孤独と恐れのただ中にあって、ヨセフは自分を罪から救うために、自分が神様と隣人を信じて生きられるようになるために、聖霊によって身ごもったマリアからイエスと名付けられる男の子が生まれると信じたのです。ヨセフが信じたのは、生まれてくる子どもがイスラエルの民と自分自身を罪から救うということにほかなりません。神様が介入してくださった人間の歴史とは、人間の罪の歴史です。神様は人間の罪の歴史に介入してくださり、ヨセフとマリアを用いて、人間を罪から救われる方、救い主イエス・キリストを誕生させてくださったのです。

インマヌエルの実現
 22節では、このクリスマスの出来事が起こったのは、神様が預言者を通して告げられていたことが実現するためであったと言われ、共に読まれた旧約聖書イザヤ書7章14節のみ言葉を引用して、このように言われています。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」。つまり聖霊によって身ごもったマリアが男の子を産むことによって、イエス・キリストが誕生することによって、イザヤが預言した「インマヌエル」が、「神は我々と共におられる」が実現するのです。イエス・キリストの誕生によって神様が私たちと共にいてくださることが実現した。それが、クリスマスの出来事にほかならないのです。しかしこのことも、「この子は自分の民を罪から救う」という天使の言葉を抜きにして受け止めることはできません。聖霊によって身ごもったマリアからイエスが誕生したことで、ただちに神様が私たちと共にいてくださるようになったのではないからです。イエスの誕生と、「神は我々と共におられる」の実現の間には、マリアから生まれたイエスが「自分の民を罪から救う」ために、十字架に架けられて死ななければならなかったのです。天使の「この子は自分の民を罪から救う」という言葉は、イエス・キリストの誕生に、クリスマスの出来事に、すでにイエス・キリストの十字架の死を見つめています。イエスの十字架の死によって私たちが罪から救われることを見つめているのです。イエス・キリストは、十字架の死に向かうためにお生まれになりました。このイエスの十字架の死においてこそ、私たちの罪が赦され、神様と私たちとの関係が回復され、神様は私たちといつも共にいてくださるようになったのです。だからこそイエスが、十字架の死に向かうためにお生まれになったクリスマスの出来事において、「神は我々と共におられる」が、インマヌエルが実現した、と言われているのです。

神が私たちといつも共に
 救われてもなお私たちは罪を犯し続けています。本日アドヴェント第一主日は教会の暦(カレンダー)では一年の始まりです。過ぎ去った一年を振り返るならば、この一年も私たちは罪を犯し続けてきました。またこの一年の世界の現実に目を向けるとき、私たち人間の罪深さを思わずにはいられません。しかしクリスマスにお生まれになり、十字架で死なれたイエスによって、神様は罪を犯し続けている私たちと共にいてくださるのです。罪の力が渦巻くこの世界にあって私たちと共にいてくださるのです。
 クリスマスの出来事が私たちに与える本当の喜びとは、クリスマスに聖霊によって身ごもったマリアから生まれ、私たちの罪を赦すために十字架で死なれたイエス・キリストによって、神様が私たちといつも共にいてくださるという喜びです。クリスマスソングを聞いても、街中のイルミネーションを見ても心が沈んでしまい、自分が一人ぼっちでいるように思えてしまう私たちに、このクリスマスの本当の喜びが告げられています。神様に自分の人生を委ねることができず、神様と身近な隣人すら信じることができず、苦悩と孤独と恐れのただ中にある私たちに、このクリスマスの本当の喜びが告げられているのです。ヨセフは、深い苦悩と孤独と恐れのただ中で、天使のお告げを信じ受け入れ、天使が命じた通りにしました。神様は、神様を信じ、神様に自分の人生を委ねたヨセフといつも共にいてくださり、最も身近な隣人であるマリアとの信頼関係の回復をも与えてくださったのです。私たちもヨセフと同じように、日々の苦悩や孤独や恐れの中で、神様を信じるのが難しい状況の中で、クリスマスに神様が私たちのためにイエス・キリストを遣わしてくださったことを信じます。キリストの十字架の死によって私たちの罪が赦され、神様がいついかなるときも、たとえ深い苦悩と孤独と恐れの中にあるときも、私たちと共にいてくださると信じるのです。クリスマスの本当の喜びは、自分の力では喜べない私たちと神様がいつも共にいてくださる喜びです。一人ぼっちのように思えてしまう私たちと確かに神様が共にいてくださり、私たちを決して一人ぼっちにしないという喜びです。クリスマスが近づいても、喜びよりも苦しみや恐れや孤独を感じている私たちのために、イエス・キリストが生まれてくださり、インマヌエルを実現してくださったことが、クリスマスの本当の喜びなのです。本日から始まるアドヴェントの期間、私たちはこのクリスマスの本当の喜びに豊かに与っていきたいのです。

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