「人間の罪」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:創世記 第3章1-13節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第3章21-26節
・ 讃美歌:
神の愛によってこの世界は創造された
私たちが毎週の礼拝で告白している「使徒信条」は「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と始まっています。「使徒信条」には、どの教派であれ、およそキリスト教会であればみんなが信じている事柄が語られています。天地の造り主である神を信じることが教会の信仰の根本であるわけです。先週までの二週間、このことを語っている聖書の箇所、神が天地の全てを創造されたという天地創造の話を読んできました。そこから示された最も大事なことは、天地創造は、神が私たち人間のためにして下さった、人間への愛のみ業なのだ、ということです。旧約聖書創世記の第1章と第2章には、内容もかなり違う二つの天地創造物語が記されていますが、いずれにおいても中心的に語られているのは、神が私たち人間を造り、命を与え、祝福して下さったということです。第1章においては、混沌であり暗闇に覆われていたこの世界に神が秩序を与え、人間が生きることのできる場として整えて下さり、そこに人間を創造して下さったこと、その人間は神にかたどって、神に似た者として造られ、他の被造物を神のみ心に従って管理する務めを与えられていることが語られていました。神はこの世界を「極めて良い」ものとして造り、人間に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」という祝福を与えて下さったのです。第2章、正確には2章4節後半以下においては、土の塵から造られた人に神が命の息を吹き入れて下さったことによって人は生きる者となったこと、神は人のために「エデンの園」を設け、そこに住まわせて下さったこと、そこには2章9節にあるように「見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木」が生えており、人はそれを自由に取って食べることができた、つまり人が安心して生きることのできる場を神が用意して下さったことが語られていました。さらに神は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」というみ心によって、人間が男と女という性別を持って、つまり同じ人間でありつつ自分とは違う他者と共に生きる者として下さったとも語られていました。そこにも、人間に対する神の祝福が示されていたのです。つまり聖書は、天地創造の物語によって、この世界がこうして存在しており、私たち人間がこうして生きているのは、神が私たちを愛し、祝福して下さっていることによるのだ、と語っているのです。
神からの問いかけ
聖書はこの天地創造の物語によって私たちに問いかけています。「あなたは、あなたを愛してこの世界を造り、あなたに命を与えて下さった神とどういう関係をもって生きているのか」という問いかけです。聖書が語る天地創造の話は、この世界がどのようにして出来たかという説明ではありません。そういう説明は科学がしてくれます。科学はこの世界の仕組みやそこに働いている原理を説明していますが、その説明を知らなくても、十分に理解できなくても、私たちは生きていけますし、それを知ることによって私たちの生き方が根本的に変わるわけではありません。しかし天地創造の話は、「わたしはあなたを愛して、あなたを造り、あなたに命を与えた。わたしはあなたと交わりを持つことを願っている」という神からのメッセージです。それを知ったなら、私たちはそれに答えなければなりません。どう答えるかは私たちの自由です。そんなメッセージは無視して、シカトして、神なんて知らないよ、と生きることもできるし、その愛を受け止めて神と共に生きることもできます。いずれにせよ、神からのこのメッセージは私たちへの問いかけであり、私たちの生き方に関わるのです。神が「天地の造り主」であると信じることによって私たちは、「その神とどう関わって生きるのか」という問いの前に立たされるのです。
神の愛に応えていない人間の罪
聖書は、人間がこの問いにどう答えているのかを語っています。それが、創世記第2章に続いて語られている第3章です。ここには、神の愛によって命を与えられ、祝福を受けて、楽園とも呼ばれるエデンの園で暮らしていた人間が、神と共に生きることをやめてしまったこと、それによって神との良い関係を失い、エデンの園から追放され、楽園を失ったこと、いわゆる失楽園の話が語られています。つまり、人間は、神からのあの愛のメッセージを受け止めて神と共に生きるのではなく、神を無視して、神からそっぽを向いて生きているのだ、ということがこの第3章に語られているのです。それはつまり、人間が罪に陥ったということです。罪とは、神の語りかけに応えず、神を無視して自分の思い通りに生きようとすることです。人間は皆その罪に捕えられてしまっている、そのために、神の祝福を失い、楽園を失い、荒れ野のようなこの世界を、苦しみつつ生きている、私たち人間のそういう現在の姿の起源がこの第3章に語られているのです。神がこの世界の全てと私たち人間とを愛をもって創造して下さったことを語っている1章2章と、その愛に私たち人間がどう応えているかを語っている3章とは不可分に結びついています。天地創造の物語は、神の愛と恵みを語っているだけでなく、その愛に応えていない私たち人間の罪をも明らかにしているのです。
人間の自由
さて創世記第3章には、蛇が登場します。この蛇は、人間を誘惑して、神の祝福を失わせようとする、いわゆるサタンの象徴です。その蛇が女にこう語りかけてきたのです。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」。エデンの園には、食べるに良いものをもたらすあらゆる木が生えていました。神は2章16、17節で人(アダム)に「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」とおっしゃいました。多くの木の実を自由に食べてよいが、園の中央に生えている善悪の知識の木の実だけは食べてはいけない、ここに、神によって命を与えられた人間がエデンの園においてどのように生きていたのかが象徴的に示されています。つまり人間は、「園のすべての木から取って食べなさい」という大きな自由を与えられていたのです。しかしそこには「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」という一つの禁止がありました。大きな自由と小さな禁止、これが、エデンの園における人間の生活でした。小さな禁止があるからこそ、この園は神が設けて下さったものであり、神が、全ての木から取って食べなさいという大きな自由を与えて下さっていることが分かるのです。私たちはよく、神はどうして食べてはいけない木をエデンの園に生えせていたのか、そんなものなければ、それを食べてしまうこともなかったではないか、と思いますが、それは違います。その木があるからこそ、その実は食べずに他の木の実のみを食べる、という人間の自由な意志による決断が可能になるのです。つまり、小さな禁止があるからこそ、大きな自由に生きることができるのです。神に従ってこの実を食べないことも、背いて食べることも、どちらをも選び取ることができる自由が人間に与えられていたのです。
蛇の誘惑
蛇はそのことを承知の上で、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と言っています。神が与えておられる小さな禁止を「どの木からも食べてはいけない」という途方もなく大きなものとして意識させようとしているのです。女はそれに対して「わたしたちは園の木の実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっさいました」と答えています。すると蛇はすかさず別のことを言ってきます。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」。この実を食べると死んでしまうと神が言っているのは嘘だ、と蛇は言うのです。あなたがこれを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなるから、そうならせないために神は嘘をついているのだ。「神のように善悪を知るものとなる」というのは素晴しいこと、望ましいことであるようにも感じられます。でもこれは、神のように、自分で善悪を決めることができるようになる、ということであり、つまり神と肩を並べる者となって、もう神なしに、自分で物事を全て判断して生きていける者となる、神から独立して自分の思い通りに生きる者となる、ということなのです。あなたにそうなられるのが嫌だから、つまりあなたがた人間をいつまでも自分の下にがんじがらめに縛り付け、支配しておきたいから、神はこの実を食べてはいけないと言っているんだ、と蛇は言っているのです。この蛇の言葉の根本的な意味は、神はあなたがた人間を愛してはいない、暴君のように支配しているだけだ、ということです。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」というさっきの言葉も、神はそんなひどいことを言っているのか、それでは生きていけないではないか、神はあなたがたをそういう不自由な状態に縛り付けているのだ、ということです。そのようにして蛇は、人間の心に、神のもとで、神と共に生きるのは不自由な、窮屈な、自分らしく生きることができない束縛された生活だ、という思いを抱かせようとしているのです。
人間の罪の本質
そう言われて改めてこの木の実を見ると、「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた」。このようにして人間は、いわゆる「禁断の木の実」を食べてしまったのです。ということはこれは、お腹が空いていたのでつい食べちゃったとか、禁じられていたのでますます手を出したくなった、というようなことではありません。彼らがこの木の実を食べたのは、もう神のもとで神と共に生きることはやめよう、神から独立して、自分で全てのことを判断して、自分が人生の主人となって生きていこう、という思いによってなのです。つまり人間は、神の愛に応えて神と共に生きることをやめたのです。神との交わりに生きることをやめたのです。それが、人間が罪に陥ったということなのです。
神は人間をご自分にかたどって、神に似たものとして造って下さいました。そのことの意味は、神の語りかけに応えて、神と共に生きることができるものとして造られたということだ、とこれまで繰り返しお話ししてきました。神の愛に応えて、神との交わりに生きることにこそ、人間が神に似せて造られたことの意味と恵みがあったのです。そういう意味では、人間のこの罪は、神にかたどって造られた自らの本質を放棄してしまった、ということです。神の似姿だった人間は罪によってその似姿を失ってしまったのです。
人間の罪の結果
この罪の結果何が起こったか、が7節以下に語られていきます。「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」。蛇が言った通り、目が開けたのです。それまで見えていなかったことが見えてきたのです。何が見えて来たのか。それは「自分たちが裸であること」でした。最初の人間、男と女は裸で生きていました。2章の最後25節に「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」とありました。裸であることに何の不都合も問題もなかったのです。そのことには二つの意味があります。一つは、神が守って下さっていたので、自分で身を守る必要がなかったということです。全く無防備で生きることができたのです。しかしもう一つの方が大事な意味です。それは、何も隠すことがなかった、全てオープンだった、そういう完全な交わりがあったということです。しかしこの木の実を食べたとたんに、「自分たちは裸だ」という意識が生まれ、「これでは困る」と思い始めたのです。そしていちじくの葉で腰を覆うものを作った、ここは隠さなければ、ということが始まったのです。その「隠す」ということが8節に語られています。「その日、風の吹く頃、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると」。彼らは主なる神から隠れたのです。自分の身を隠したのです。それまで彼らは、神の前に何も隠すことなく裸で立っていました。しかし、神と共に生きることをやめ、自分が主人となって、自分の思い通りに生きようとした彼らは、神から身を隠すようになった。それは彼らと神との良い関係が失われたということです。このように彼らは神から身を隠すようになったわけですが、先ほどの、腰を覆うものを作ったことは、神に隠すためではなくて、人間どうし、夫と妻との間でのことです。夫婦の間にも「隠す」ことが始まったのです。もう裸で共にいることができなくなったのです。それは、共に生きる人間どうしの、その基本である夫婦の関係に亀裂が入ったということです。その亀裂はすぐに広がっていきます。主なる神は11節でアダムに「取って食べるなと命じた木から食べたのか」と問われます。アダムはそれに対して「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」と答えています。これは要するに、「わたしのせいじゃありません」ということです。あの女が取ってくれたのでわたしは食べたのです、取ったのはあの女です、と言い訳をしているのです。都合の悪いことを妻の責任にしている夫の姿がここにあります。しかも、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女」とは何でしょうか。これが自分の妻に対する言い草でしょうか。彼は2章において、神が彼女を造り、連れて来て下さった時に、「ついにこれこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と感動の叫びをあげたのです。神がこのパートナーを自分に与えて下さったことを心から感謝して、夫婦となって共に歩み出したのです。その舌の根の乾かぬうちに、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女」です。そこには、「あの女を連れて来たのは神さま、あなたではないですか。あんな女を連れて来たからこんなことになったんです」という思いすら感じられます。つまり、神が共に生きるようにと造って下さった最初の二人の人間、男と女、夫と妻との関係が壊れてしまっているのです。人間どうしの良い関係が失われてしまったのです。
これが、人間の罪の結果生じたことです。つまり人間が神に背き、神と共に生きることをやめ、自分の思い通りに生きるようになった、その罪の結果、神との正常な良い関係が失われたのは勿論のこと、それと同時に、神によって共に生きるように造られた人間どうしの正常な関係も失われ、向かい合って互いに助け合うという良い関係ではなくなり、相手のせいにして責任逃れをするような、相手を傷つけてしまう歪んだ関係になってしまっている、そういう私たちの現実を創世記第3章はこのような物語によって描き出しているのです。
私たちの現実
創世記第3章はこの後、この罪のゆえに人間はエデンの園を追放されたこと、そして人間が生きていく場である地が、人間の罪のゆえに呪われたものとなり、人間は生涯、顔に汗を流して、苦労しながら生きていかなければならなくなったこと、女性にとって出産が大きな苦しみとなり、また男と女の関係も、向かい合って共に助け合いつつ生きるという本来の関係からかけ離れたものとなったことを語っています。つまり私たちが今生きているこの世における苦しみに満ちた人間の現実がそこに語られているのです。つまり聖書は、神が人間への愛によってこの世界を造り、人間をご自分にかたどって造り、生かして下さっていること、つまり人間は神との交わりに生きる者とされており、人間どうしも、他者と向かい合って共に助け合って生きる者とされていること、そのような人間を神が「極めて良い」ものとして祝福して下さったことを先ず語っています。しかしそれに続いて、そのように造られた人間が、神に応答し、神との交わりに生きることをやめてしまう罪に陥ったことによって、神との良い関係を失うと共に、人間どうしの良い関係も失い、苦しみつつ生きる者となってしまったこと、つまり神の祝福を失ってしまったことをも語っているのです。神を天地の造り主と信じることによって私たちは、神の私たちへの大いなる愛を知らされると共に、その神の愛に応えていない人間の罪と、それによってもたらされている悲惨な現実をも示されているのです。
無償で救いを与えて下さる神
この罪とそのもたらしている現実は私たち全ての人間に及んでいます。先ほど共に読まれた新約聖書の箇所、ローマの信徒への手紙第3章の23節の、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが」がそのことを語っています。私たち人間は皆、神と共に生きることを不自由な、窮屈なことと感じて、神との交わりを捨て、自分が主人になって生きるという罪のゆえに、神の栄光を受けられなくなっている、つまり救いにあずかることができずに滅びるしかない者となっているのです。しかし、神が私たちへの愛によってこの世界を造り、私たちを神との交わりに生きるべき者として造って下さったという事実は、人間の罪によって失われたり、変わってしまうわけではありません。天地の造り主である神は、神のもとで生きることをやめてしまい、祝福を失ってしまっている私たちを、それでもなお愛して下さり、ご自分のもとへと立ち帰らせよう、祝福を回復させようとしておられるのです。そのみ心によって神はその独り子、主イエス・キリストを遣わして下さいました。そして罪人である私たちに、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」という救いを与えて下さったのです。この救いは、無償で、タダで与えられます。イエス・キリストの十字架と復活によって神が私たちを赦して下さり、神と共に生きる者として下さっていることを信じるだけで、その救いが、祝福が与えられるのです。私たちを愛してこの世界の全てを造り、私たちに命を与え、祝福して下さった神だからこそ、この主イエス・キリストによる救いを与えて下さっているのです。