「わたしは復活であり、命である」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編 第34編1-23節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第11章17-27節
・ 讃美歌:15、326、518
私たちのための礼拝
本日の礼拝は、召天者記念礼拝です。この教会の教会員として天に召された方々、またこの教会で葬儀が行われた方々を覚えてこの礼拝を守っています。145年の歴史があるこの教会において覚えられるべき召天者は数え切れないほどおられますが、お手元には過去約30年の間に亡くなられた方々の名簿をお配りしました。この30年間にこれだけの方々と、私たちは地上におけるお別れをしてきたのです。
これらの方々を覚えるこの礼拝において私たちは何をするのでしょうか。世間ではよく、亡くなった方々の冥福を祈る、ということを言います。それは仏教用語であり、冥土つまり死後の世界における幸福を祈るということでしょう。供養する、というのも、死んだ人々の魂が幸いであるためになされることです。しかし教会は、冥福を祈ることはしないし、供養もしません。その理由は、主イエス・キリストを信じて、その恵みの中で亡くなった方々は主のみもとに召されたのであって、そこで既に平安を与えられていることを私たちは確信しているからです。私たちが冥福を祈らなければ死んだ人々が幸いになれないなどということはないし、私たちが供養しないとその魂が迷って何か悪さをするなどということもないのです。つまり、私たちがこの召天者記念礼拝を行うのは、既に天に召された方々の魂を慰めたり、その幸いを祈るためではありません。誰のためにこの礼拝をするのかと問われるならば、それは私たち自身のためなのです。
死に備える
今この地上を生きている私たちは、いつか必ず肉体の死を迎えます。つまり私たちの誰もが召天者予備軍なのです。その私たちは、地上を生きるこの人生を歩む中で、必ず迎える死に備えていかなければなりません。そしてこれは、けっこう大変な、しんどいことです。私たちの人生の最後には、死ぬという大きな仕事があるのです。何の備えもなしにその大仕事を迎えることはしない方がよいでしょう。既に天に召された方々のことを覚えつつ守るこの礼拝は、私たち自身が死を迎えるための備えです。その備えは、お年寄りだけに必要なのではありません。若い人にもそれは必要です。それは、若い人だっていつ人生の終りを迎えるか誰にも分からないから、ということもありますが、それ以上に、人生の終りである死を意識し、それに備えていくことによって、私たちの生き方が変わるからです。本当に大切にすべきものが何かがそこに見えてくるからです。私たちは、死を見つめることによってこそより良く生きることができるのです。そのために、この召天者記念礼拝はあるのです。
愛する者の死がもたらす悲しみ
この礼拝においてご一緒の読み味わおうとしているのは、ヨハネによる福音書第11章17節以下です。ヨハネ福音書の第11章は、「ラザロの復活」を語っています。病気で死んで葬られ、既に四日経っていたラザロを、主イエス・キリストが復活させたという奇跡の話です。しかし本日ご一緒に読むのは、その奇跡そのものではなくて、その前のところ、ラザロが死んで葬られて四日目に主イエスがラザロの二人の姉妹マルタとマリアのところに来られた場面です。19節に「マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた」とあります。兄弟ラザロの死によって、マルタとマリアの姉妹は深い悲しみ、嘆きの中にいたのです。愛する者の死は、深い悲しみを私たちにもたらします。それは、その人にもう会うことができないという喪失の悲しみ、愛する人を奪われてしまったことへの怒りやくやしさ、もっとこうしてあげればよかった、こうすべきだったのではないかという取り返しのつかない後悔の念、そして死の圧倒的な力の前で自分の無力さを思い知らされた絶望の思い、それらの様々な思いが混じり合った悲しみです。愛する者の死は、遺族や親しかった者たちにこのような悲しみ、嘆きをもたらすのです。多くの人々が彼女らを慰めるために来ていました。しかし私たちもそのような時に体験することですが、愛する者の死を嘆き悲しんでいる人の前では私たちには慰めの言葉もないのです。慰めてあげよう、などと思ってかける言葉はかえってその人の心を傷つけるものとなります。私たちにできることは、その悲しみにそっと寄り添い、共に涙を流すことだけだと言わなければならないでしょう。
積極的なマルタ
このような悲しみの中にあるマルタとマリアのもとに、主イエス・キリストが来られたのです。そのことによって、彼女たちに新しいことが起っていきます。慰めに来ていた人々によっては起らなかった新しいことが、主イエスの到来によって起ったのです。しかしその前に、マルタとマリアでは来られた主イエスの迎え方が違っていた、ということが語られています。20節に「マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた」とあるのです。二人共同じ悲しみの中にあったけれども、マルタはその中でも気丈に立ち上がり、主イエスを迎えに出ました。しかしマリアは、悲しみのためにこの時は立ち上がることもできず、後から主イエスのもとに行ったのです。これは、どちらがより立派だとか、どちらを見倣うべきだということではありません。マルタとマリアとは性格が違うのです。そこに優劣はありません。主イエスはどちらをも深く憐れみ、救いのみ業を行って下さるのです。ただ、マルタが主イエスを迎えに行ったのは、主イエスに語りたいことがあったからです。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」。このことを語るために、彼女は主イエスを迎えに出たのです。何事にもより積極的なマルタの性格が見て取れます。
マルタと私たち
マルタのこの言葉は何を語っているのでしょうか。彼女たちはラザロがまだ生きていた時に、主イエスのもとに使いを送り、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせたと3節に語られています。それは、はっきりとは語られていなくても、早くここへ来てラザロを癒して下さい、という願いの表れです。しかし主イエスが来られる前にラザロは死んでしまいました。だからこのマルタの言葉は、「なぜもっと早く来て、癒して下さらなかったのですか」という、主イエスへの恨みの言葉であるようにも思われます。しかしその思いの前提にあるのは、主イエスならラザロの病気を癒し、命を救って下さったに違いない、という信頼であり期待です。彼女らは主イエスを信じ、信頼し、頼っていたのです。そしてマルタは、兄弟ラザロが死んでしまった今も、主イエスに対するその信頼を失ってはいません。「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」という22節がそれを表しています。「今でも」、つまりラザロが死んでしまった今でも、主イエスが神にお願いすることは何でもかなえられる、主イエスは神の独り子として、父なる神とそういう関係にあられることをマルタは信じているのです。だから彼女は、兄弟の死の深い悲しみ、嘆きの中でも、主イエスを迎えに出て、そのみ前に立っているのです。このマルタの姿は、今この召天者記念礼拝に集っている私たちの姿と重なると言えるでしょう。私たちは、召天者の方々が死の力に捉えられてこの群れから奪い去られたという事実を見つめています。召天者の中には、いわゆる天寿を全うしてと言えるお年で亡くなった方もいれば、どうしてこんなに早く、と嘆かずにはおれなかった方もいます。ご遺族にとってはその思いは一入でしょう。しかしいずれにしても、その方の死という現実を私たちはどうすることもできません。そのような悲しみ、嘆き、無力感の中で、しかし私たちは今日この礼拝へと足を運んできました。主イエスのもとにやって来たのです。その思いは人によっていろいろでしょうが、基本的に、主イエス・キリストへの信頼や期待が多少なりともあるからこそここにやって来たのだと言えるでしょう。愛する者の死による深い悲しみの中で主イエスを迎えに出たマルタと同じことを今私たちもしているのです。
復活を信じる
そのマルタに、主イエスははっきりとこう宣言なさいました。「あなたの兄弟は復活する」。あなたの愛する兄弟は死んであなたのもとから取り去られた、あなたはその悲しみ、嘆きの中にいる。しかし、その兄弟は復活する、新しい命、もはや死ぬことのない命を生きる者となるのだ、その復活の命において、あなたは兄弟と再会することができる、と主イエスは宣言なさったのです。この礼拝において主イエスが私たちに告げて下さるのもそのことです。「あなたの兄弟は復活する」。召天者の方々は復活して、新しい命に生きる者となる、その復活において再会することができる、主イエスはそのように私たちにも告げておられるのです。
主イエスの宣言に対してマルタは、「終りの日の復活の時に復活することは存じております」と答えました。これが教会の信仰です。主イエス・キリストを神の独り子、救い主と信じているキリスト者は、主イエスの十字架の死と復活によって神が私たちに、罪の赦しと、そして復活して永遠の命に生きる者となる、という救いを与えて下さっていることを信じています。そしてその復活と永遠の命は、この世の終りの日、主イエスがもう一度この世に来られ、そのご支配があらわになり、いわゆる最後の審判が行われるその時に与えられるのだと聖書は告げており、教会は「終りの日の復活の時に復活すること」を信じて待ち望んでいるのです。つまりマルタはここで教会の信仰を先取りして語り、告白しているのです。私たちも先程、「使徒信条」において、「からだのよみがえり」と「永遠の命」を信じる、と告白しました。その意味でも、このマルタの姿は、この礼拝に集っている私たちの姿であると言うことができるのです。
なお信じるべきこと
愛する者の死の悲しみの中でも主イエスを救い主と信じて教会の信仰を告白しているマルタに、主イエスはこう宣言なさいました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。マルタは、「終りの日の復活の時に復活することは存じております」と告白したのです。復活を信じていると言ったのです。しかし主イエスはなおも、「このことを信じるか」と問うておられます。あなたがなお信じるべきことがある、信じることができることがある、それを信じることこそがあなたを本当に生かすのだ、あなたはそれを信じるか、と主イエスは問うておられるのです。その問いが今、私たちにも問われているのです。私たちがなお信じるべきこと、信じることができることがある。それは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」ということです。主イエス・キリストこそが復活であり、命である。主イエスを信じる者は、死んでもなお生きることができるのだし、決して死ぬことがない、つまり永遠の命を、今この人生の中で生き始めることができる、そのことを信じなさい、と主イエスはおっしゃっているのです。
復活を信じることに慰めを見出す
マルタは復活を信じています。世の終わりの、主イエスの再臨の時に、主イエスの父である神のご支配があらわになり、完成して、神の国が来る。そこにおいて、復活して永遠の命を生きる者とされるという救いが与えられることを信じているのです。それは先程も申しましたように、使徒信条に語られている教会の信仰です。主イエスの十字架の死と復活によって誕生した教会が、聖霊の力によって、この救いの希望を与えられ、その信仰を告白し、宣べ伝えているのです。私たちも、教会の礼拝に通う中で、使徒信条などの教会の信仰告白を学び、主イエス・キリストの十字架の死と復活による救いを知らされ、主イエスの復活が私たち自身の復活の先駆けであり、その私たちの復活が世の終わりに約束されていることを教えられ、それを信じて洗礼を受け、信仰者となって歩んでいくのです。しかしそれははっきり言って、そう教えられたので、よく分からないけど、そう言われるんだからそうかなと思っている、ということでしょう。終りの日の復活などということが私たちに実感として分かるわけはないのです。でも主イエスの十字架と復活による救いを信じ、主イエスを救い主として信頼しているがゆえに、終りの日の復活とそこにおける再会をも信じている、それが私たちの信仰でしょう。特に愛する者の死に直面する時に、また自らの死を見つめそれに備えていく時に、私たちはこの信仰によって大いに慰められ、支えられるのです。マルタも、兄弟ラザロの死の悲しみの中で、「終りの日の復活の時に復活することは存じております」という信仰に慰めを見出しているのです。
わたしは復活であり、命である
このマルタのところに、そしてマルタと同じ信仰に生きている私たちのところに、主イエスが来られます。そして「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」とお告げになるのです。この主イエスの宣言は、復活と永遠の命を、終りの日という遠い将来のことから、一気に現在のことにします。あなたがたは、今生きているこの命、この人生の中で、死ぬことのない永遠の命を生き始めることができる、と主イエスは告げておられるのです。それは、復活であり命である主イエスを信じることによってです。つまり、復活してもはや死ぬことのない永遠の命を生きておられる主イエスを信じて、主イエスと結び合わされ、主イエスと共に生きる者となるならば、私たちも、この人生において主イエスの命を生き始めることができるのです。「死んでも生きる」「決して死ぬことはない」というのは、勿論私たちが肉体において不老不死になることではありません。肉体をもって生きる人生はいつか必ず終わるのです。しかしその肉体の死が、もはや私たちを主イエスによる救いの恵みから、その恵みによって与えられる永遠の命から引き離すことはない、主イエスと結び合わされて歩む私たちは、死に勝利してもはや死ぬことのない命を与えて下さる神の恵みの下で生きることができ、そして肉体の死を経てその永遠の命を生きる者とされる、それが、「死んでも生きる」「決して死ぬことはない」の意味です。主イエスを信じるなら、そのような歩みが、今のこの地上の人生の中で既に始まるのです。
主イエスの招き
愛する者の死という、私たちの力ではどうすることもできない悲しみの現実を見つめている私たちのところに、主イエス・キリストは来て下さり、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と語りかけて下さっています。復活と永遠の命を、今のこの人生において生き始めることへと私たちを招いておられるのです。主イエスのこの招きに応えて、復活であり命である主イエスを信じて、永遠の命を生き始めている群れが教会です。「からだのよみがえり、永遠の命を信ず」という使徒信条も、遠い将来の希望のみを語っているのではありません。今この人生において私たちは復活と永遠の命を生き始めることができる。そしてそれが終りの日に必ず完成するという希望に支えられて、苦しみや悲しみの多いこの人生を忍耐しつつ歩み、その希望の内に死を迎えることができる。そのような希望ある人生が、聖霊のお働きの下に与えられることを語っているのです。それゆえにこれは、使徒信条の第三の部分、聖霊への信仰を語っている部分に位置づけられているのです。聖霊に導かれて今私たちはどのように生きることができるか、がそこに語られているのです。
永遠の命を生き始める
召天者を覚えるこの礼拝において主イエスは、今地上の人生を歩んでいる私たちに出会って下さり、復活であり命である主イエスを信じて永遠の命を生き始めることへと招いておられます。この招きに応えることこそ、私たちのなすべき死への備えです。死を意識し、それに備えていくことによって、私たちの生き方が変わる、と最初に申しました。死を見つめることによってこそより良く生きることができる、とも申しました。しかし、人間はいつか死ぬものだ、ということだけを意識し、見つめていっても、私たちの生き方は希望に支えられたものへと変わることはないでしょう。そこに生じるのは、あきらめという名の絶望かもしれません。それによって本当に良く生きることができるようにはならないでしょう。私たちが、誰も避けることのできない死を見つめ、それに備えていくために最も大事なことは、その死に勝利して復活し、永遠の命を生きておられる主イエスが、もはや死ぬことのないご自身の命へと私たちを招いて下さっている、そのみ声を聞くことです。そして主イエスを信じて、永遠の命をこの人生の中で生き始めることです。そこにこそ、死によって失われることのない希望に生きる新しい歩みが与えられます。そして、様々な苦しみや悲しみがあり、人間の罪に満ちている人生を、絶望することなく、喜んで前向きに、神と人とを愛して生きることが、つまり本当に良く生きることが、そこでこそできるのです。死を見つめることによってこそ、本当に大切にすべきものが何かが見えてくる、とも申しました。世間ではよく、「病気などで死に直面したことによって命の大切さが分かった」ということが言われます。しかし命の大切さが本当に分かってくるのは、命は神が自分に与えて下さったものであり、神は私たちの命を本当に大切に思っていて下さり、独り子主イエスの十字架の死と復活によって私たちにも、死ぬことのない永遠の命を与えようとしておられる、その神の愛を信じることによってです。召天者の方々は、この神の愛を受け、復活であり命である主イエスを信じて、その人生の中で永遠の命を生き始めました。肉体をもって生きるその人生は終りましたが、死の力は、主イエスの復活によって神が確立して下さった永遠の命にもはや打ち勝つことはできません。私たちはそのことを感謝をもって覚えると共に、彼らに続いて、私たち自身の地上の人生において、永遠の命を生き始めたいのです。