主日礼拝

主は共に

「主は共に」 副牧師 乾元美

・ 旧約聖書:出エジプト記 第3章7-15節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第16章9-20節
・ 讃美歌:208、323、90

<復活と不信>  
 わたしたちは今、教会の暦の上で「受難節」という時を過ごしています。イエスさまの十字架の苦難と死を覚え、悔い改めと祈りをもって過ごす期間です。
 そして、来月の三週目にはイースターがやってきます。イエスさまが死の中から復活なさったことを感謝し、喜び祝うのがイースターです。
 イースターも最近は、タマゴや、ヒヨコや、うさぎグッズを販売する日として、日本の世の中にも表面的に定着してきました。本来、タマゴやヒヨコ、うさぎは、イエスさまの死からの甦りを記念するイースターに、生命力の象徴として用いられてきたものです。
 わたし自身にとっても、イースターのイメージは、生命、光、勝利…というような、とても明るく、力が湧いてくるような、そんな晴れやかなイメージです。  

 今日の聖書箇所は、十字架で死なれたイエスさまが墓に葬られたあと、父なる神に復活させられて、人々に姿を現された場面です。そして、弟子たちに現われた主イエスは、彼らに福音を宣べ伝えることをお命じになりました。そして、天に上げられ、神の右の座に着かれた、とあります。
 神が救いのご計画のために遣わして下さった、神の御子、救い主イエスさまが、十字架の死によって罪の赦しの御業を成し遂げられた。そして、復活させられ、死をも打ち破られた。主イエスの勝利が響き渡り、神のご栄光が満ち満ちている、そんなイースターの場面です。    

 しかし、この場面において、人々の姿はどのように語られているでしょうか。ここで繰り返し語られていることは、弟子たちが復活の主イエスと出会った人の話を「信じなかった」ということです。そして、そのことを主イエスが「おとがめになった」とあります。
 主イエスは十字架に架かられる前から、御自分が侮辱され、殺される、ということと、三日の後に復活する、ということを何度も弟子たちに語って来られました。
 しかし、主イエスが死んで葬られた後、弟子たちは、他の者から「墓が空になっていた」、「生きておられる主イエスと出会った」と聞いても、「あの時、主イエスがおっしゃっていた通りだ!」とはならなかったのです。信じなかったのです。彼らの心は、どうしてそんなに不信仰で、かたくなになっていたのでしょうか。
 そして、この弟子たちの不信仰とかたくなな心は、実はわたしたちも、持っているものなのではないでしょうか。

<弟子たちの不信仰>  
 今日の9~10節には、マグダラのマリアが復活の主イエスと出会い、「イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた」とあります。イエスと一緒にいた人々、つまり弟子たちは、主イエスが死なれてからずっと泣き悲しんでいました。  
 これは、どのような涙であり、どのような悲しみだったのでしょうか。

 それは、まず、愛する人を失った悲しみです。わたしたちにとって、「死」というものは圧倒的な力をもっています。不可逆的なものであり、死に捕えられたら、そこで地上の人生は終わってしまいます。死んだ人とは、もう会うことは出来ません。日常の中からすっぽりと姿が消えてしまう。日々の生活に、その人が存在した空間に、穴が空いてしまいます。  
 主イエスは十字架に架かって、苦しんで死なれました。数日前の晩には、過越しの食事を共にし、賛美をし、御言葉を語って下さったのに、今はもう、そのお姿を見ることは出来ないのです。主イエスは、この地上にはおられない方となってしまった。墓の中に葬られてしまった。主イエスの死という圧倒的な現実が、弟子たちを支配しています。  

 そして、もう一つは、深い後悔です。悔やんでも悔やみきれない。もう取り返しがつかない。弟子たちは、主イエスを見捨てて逃げ、そんな人は知らないと、自らその関係を絶ち切ってしまいました。死んでも従うと言ったのに、あっさりと裏切ってしまった。死なれた後に、葬りを申し出ることも出来なかった。自分たちの弱さ、卑怯さ、情けなさに落ち込み、罪の意識に苛まれ、どうしようもない気持ちになっていたのではないでしょうか。  

 さらに、弟子たちは、自分たちの希望が失われてしまい、絶望を感じていたと思います。弟子たちは、主イエスが「メシア」「救い主」であると信じ、神の国を実現してくださること、イスラエルの王国が再建されることを望んでいました。
 確かに、主イエスは「神の国は近づいた」とおっしゃった。自分たちも、この方こそ「メシア」、「救い主」だと告白した。それなのに、どうして神に呪われる仕方で、こんなに残酷な方法で、侮辱され、殺されてしまったのか。自分たちユダヤ人の、イスラエルの王国を建て直して下さるのではなかったのか。諸国を支配し、王となられるのではなかったのか。この方に、生活も家族も、すべてを捨てて従ったのに、期待は裏切られ、夢は破れてしまったのです。
 しかも、反逆者として処刑された者の弟子であったことが知られたら、自分たちも危険人物とみなされて、逮捕されたり、処刑されたりするかも知れません。これからもまた、「イエスなど知らない」と言い続けなければならないかも知れない。自分たちのこれからの歩みはどうなっていくのか。逃げて隠れて生きていくのか。そんな先の見えない、不安と、恐れと、絶望が、弟子たちを支配していたのです。

 弟子たちにとっては、十字架にかかって死なれた時から、主イエスは死んだ人物であり、もう彼らと共にはおられない存在でした。弟子たちは、主イエスがいない世界に取り残されたような思いだったのではないでしょうか。そして弟子たちにとって、主イエスが失われ、死が支配する世界は、空虚で、不安と恐れに満ちたものでしかありませんでした。そして、これらが、弟子たちの心を固く閉じさせ、かたくなにし、不信仰を生んだのです。主イエスの復活の約束を思い起こすこともなく、自分の殻に閉じこもったのです。

 弟子たちはこの時、自分たちが、神から最も離れたところにいると感じていたのではないかと思います。救い主が死んでしまった。しかも自分たちは裏切ってしまった。天の父なる神は、助けてくださらないのか。沈黙しておられるのか。または激しく怒っておられるのだろうか。そもそも、信じるべきものが間違っていたのだろうか。
 弟子たちは、神を疑い、神との交わりを失ってしまうという、命あるものが最も恐れるべき、神から離れるというまことの死に直面していたのです。

<その時主イエスは>  
 弟子たちがそのように不信仰に陥り、心を閉ざしている間、主イエスはどこにおられたのでしょうか。  
 主イエスは死んで、墓の中におられました。死ぬときには、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、神に捨てられる者の苦しみと嘆きの中で死なれました。そして、神から見放された、暗黒の滅びの世界とされている墓の中に、その身を横たえておられたのです。  

 どうして神の御子が、神に見捨てられた嘆きを叫ばなければならなかったのでしょうか。どうして死者となり、葬られて、滅びの中に身を横たえなければならなかったのでしょうか。
 それは、わたしたちを救うためです。人が自らの罪のために味わわなければならない、神に見放されるという最大の苦しみから、最も絶望すべき滅びの死から、わたしたちを助け出して下さるためです。わたしたちが捕らわれている罪と死の支配のどん底にまで、最果てにまで、主イエスは降って来てくださり、そこにおいてこそ、救い主としての救いの御業を成し遂げて下さったのです。
 主イエスは、弟子たちの罪も、絶望も、死への恐れも、すべてを御自分の身に引き受けて下さいました。どれだけ弟子たち、わたしたちが、神から離れても、絶望しても、たとえ死んだとしても、その苦しみと滅びは、すでに主イエスがすべて引き受けて下さったものなのです。わたしたちがそこに直面する時には、すでにわたしを救うために先におられる主イエスの救いの御手が、そこに伸ばされているのです。わたしたちが、おられないと感じるときも、主イエスはずっと共におられるのです。  

 なぜそこまでして下さるのでしょうか。それは、愛する御子の命を与えてでも、わたしたちを救いたいと、造り主である父なる神が望んで下さったからです。そこまで、愛して下さったからです。
 父なる神は、主イエスの十字架の死による罪の贖いによって、すべての者の罪を赦して下さいます。そして、父なる神は、御子である主イエスを死者の中から復活させて下さいました。復活の出来事によって、すべての者の罪の贖いが、主イエスの十字架の死によって成し遂げられたこと、そして死にも勝利なさったことが明らかにされたのです。
 主イエスを信じる者は罪を赦され、神との交わり、関係を回復させられます。そして終わりの日にはこの復活に与り、神と共に生きる永遠の命に与ることが出来るのだと、保証して下さったのです。  

 生きている時も、死ぬ時も、いつも十字架と復活の主イエスが共におられる。わたしたちが、主イエスのものである。これが、わたしたちの救いです。神と共に生きることこそ、わたしたちが本当に命を生きるということです。

<とがめられる>  
 でも、弟子たちも、わたしたちも、心のかたくなさのゆえに、恐れと不安のゆえに、現実の力の強さのゆえに、この救いを素直に受け入れることが出来ないのです。主イエスが、その苦しみをすべて引き受けて下さったのに、すべてに勝利され、もう恐れることはないのに、心を閉ざし、その言葉を受け入れず、信じようとしないのです。自分で、光から目を逸らし、暗闇に留まろうとするのです。  

 死を打ち破る力は、わたしたちの現実を超えた、神の力です。罪からの救いは、自分の力では決して得ることのできない、全能の神の御業です。
 わたしたちはここに、死よりも強い神の力があること、決して赦されない者が赦していただける、想像もできない神の愛があることを、信じなさいと言われているのです。  

 復活の主イエスは、とうとう二度も信じなかった弟子たちの前に、そのお姿を現されました。14節には「十一人が食事をしているとき、イエスが現われ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」とあります。弟子たちの反応は書かれていません。しかしこのとき、十一人の弟子たちは、主イエスに厳しくとがめられてしまいました。  

 主イエスは、弟子たちの「罪」をとがめられたのではありません。「あの時、死ぬことになっても絶対に従うと言ったのに、裏切ったな。」とか、「自分の身が危険になって、わたしを置いて逃げたな。」とか、「死んだ後も、お前たちは何もしなかった。」とか、そんな風に、弟子たちの失敗や、弱さや、罪をとがめられたのではないのです。主イエスは彼らの罪を、ご自分の苦しみと死によって、もう赦して下さいました。

 主イエスがとがめたのは、「その不信仰とかたくなな心」です。なぜ、わたしの救いを信じないのか。なぜ神の愛を受け入れないのか。そのことをとがめておられるのです。
 あなたたちが暗闇に捕らわれていたとき、わたしもそこにいたのだ。あなたたちの心が沈み、泣き悲しんでいたとき、わたしも泣き悲しんでいたのだ。あなたたちが絶望したとき、わたしも共に叫んでいたのだ。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
 わたしたちの弱さも、嘆きも、絶望も、罪の深さも、死も、滅びも、主イエスはすべて知っておられます。主イエスがご存知ないものは何もありません。そして主イエスがおられないところは、墓の中にも、陰府の底にも、どこにもありません。
 主イエスは、わたしたちのすべての苦しみと、罪と、死を引き受け、先だって歩んで下さいました。そして、罪の贖いを成し遂げ、死を打ち破り、今、すべてを支配する者として、弟子たちの前に立って下さっているのです。もはや、主イエスがご支配なさらないところなど、天にも地にも、どこにもないのです。
 わたしたちは、この方が切り拓いて下さった道を、後ろに従って歩んで行くだけです。その道は、主イエスが復活なさったように、わたしたちも終わりの日に復活する希望へと続いています。
 だから主イエスは、復活し、生きているわたしを信じなさいと、語って下さり、心をかたくなにして信じない者をおとがめになるのです。主イエスの「おとがめ」は、罪を赦された者として歩むことへの招きなのです。

<宣教命令>  
 さて、主イエスは、そうして弟子たちをおとがめになると同時に、すぐに彼らにご命令を与えられました。15節にあるように、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と仰ったのです。  
 なぜ、こんな不信仰でかたくなな弟子たちを、ご自分の救いを宣べ伝えるために遣わされるのでしょうか。もっと素直で、裏切らない、強い意志の持ち主の方が、ふさわしいのではないでしょうか。

 しかし、主イエスはこの弟子たちを選ばれました。そして不信仰の只中で、この弟子たちに現れて下さり、福音を宣べ伝えることをお命じになったのです。  
 なぜなら、この救いは、弟子たちの正しさや、強い意志や、信仰深さなどによって与えられたものではないからです。意志も弱いし、臆病だし、罪深い者であったのに、ただ神が選び、愛して下さったという理由だけで、彼らは救われたからです。主イエスによってしか救われることができなかった彼らこそ、その福音を宣べ伝えるのにふさわしいのです。
 そして、その主イエスのご命令に従う中で、福音を宣べ伝える中で、弟子たちは主イエスが生きておられ、共におられるということを、ますます知らされ、変えられていくのです。

 このご命令は、主イエスに救われたすべての者に与えられています。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」
 なお、不信仰な者です。疑い深い者です。弱い、どうしようもない者です。でも、主イエスが共にいて下さる。主イエスによって、罪を赦され、救われ、生かされている。そこにこそ、神の恵みが満ちているのです。罪深い者が、赦しの中に生かされていることこそ、主イエスの救いを証しするものとなるのです。
 そしてわたしたちは、主イエスと共に歩む中で、与えられた聖霊によって、新しく変えられていきます。福音を宣べ伝える中で、その福音は本当だ、主イエスが生きておられるのは本当だ、わたしが罪を赦され、神に捕らえられているのは本当だと、ますます恵みを確かにされ、かたくなな心を砕かれ、新しくされていくのです。
 福音の宣教で、救いの御業の中で、先頭に立ち、働いて下さるのは、復活し、生きておられる主イエスご自身です。わたしたちが福音を宣べ伝えるということは、生きておられる主イエスと共に歩み、その主イエスのお働きに仕えていく、その救いの御業を間近に目撃していく、ということなのです。

 もし、自分の救いだけでよい、自分が信じているからそれだけでよい、と言うなら、それは主イエスを無視していますし、恵みを投げ捨てています。主イエスと共に、神のご計画に従い、神の国の完成を目指して歩んでいかなければ、生きて働かれる主イエスの御業を目撃することは出来ないし、恵みを経験することも出来ません。
 伝道のご命令は、救われた者に与えられた恵みです。それは、まさに神に選ばれた者の群れである教会の働きであり、使命であり、恵みと言えます。教会は、福音を告げ知らせる中で、主イエスが生きて働いて下さることを知ります。そして、群れに新しい人が招かれ、救いの出来事が起こり、喜びを共に味わいつつ、教会は成長させられていくのです。

<信じること>
 そして16節には「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」とあります。一見恐ろしく聞こえます。でもこれは、「信じないと滅びるぞ、今すぐ洗礼を受けろ」というような、脅迫的な意味ではありません。福音は、脅しや恐怖を与えるものではありません。

 洗礼を受けるということは、主イエスの十字架の死が、自分の罪のための死であり、そのことによって赦しを与えられたと信じることです。そして、主イエスの復活の新しい命に与り、終わりの日に自分もまた復活させられること信じることです。
 信じることは、聖書が分かる、とか、十字架と復活を理解出来る、というものではありません。また信仰は、自分の信じる力のことではありません。
 信仰は与えられるものです。聖霊の導きによって、生きておられる主イエスと出会い、御言葉が自分に語られていると気付き、慰めを与えられ、赦しを与えられ、生かされていく。その恵みの中で、自分の罪を知り、神の恵みを知り、信じる心が与えられていくのです。そして、洗礼へと導かれるのです。

 「信じない者は滅びの宣告を受ける。」救いを信じないのですから、それは当然のことです。しかし神は、滅びる者が生きるために、信じない者が信じる者となるために働いて下さる方です。
 顧みれば、このわたしこそ、信じない者だったのではないでしょうか。このわたしこそ、神に逆らう者であり、滅びの宣告を受けるべき者だったのではないでしょうか。
 それなのに神は愛して下さったのです。それでも救って下さったのです。信じる者として下さり、洗礼を授けて下さったのです。だから、わたしたちは、すべての人に、あなたも赦される。あなたも信じて洗礼を受けることができると、確信を持って語ることが出来るのです。

<新しい言葉>
 さらに17節には、「彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る」とあります。福音を告げ知らせる弟子たちの言葉は、新しい言葉です。
 その「新しい言葉」とは、主イエスの救いによって罪赦され、新しくされた者が、聖霊によって語り出す言葉です。それはまさに、使徒言行録でペンテコステの出来事として語られていたことでした。
 復活の主イエスが天に上げられ、弟子たちに聖霊が降りました。そして、彼らは「神の偉大な業」を世界中の言葉で語り出した、とありました。全世界に、主イエスの十字架と復活の福音の御業を告げる言葉です。それを聞いた者が、またそこで生きて働かれる主イエスと出会い、救いにあずかっていく。わたしたちには主イエスの名によって、この「新しい言葉」が与えられるのです。この言葉を、語る者とされているのです。

<主は共に>
 そして最後の19~20節には、主イエスが天に上げられ、神の右の座に着かれ、天も地も、すべてを支配しておられること。そして、弟子たちが主イエスのご命令によって、出かけて行って、至るところで宣教した、つまり新しい言葉を語った、ということが語られています。

 天におられ、生きておられる主イエスは、聖霊によって、どの時代でも、どこの場所でも、わたしたちと共にいて下さることがお出来になります。天も地も支配なさる方が、わたしたちと共に働いて下さるのです。わたしたちと交わりをもって下さり、共に歩んで下さり、「主イエスが生きておられること」を、神のご支配を、ますます信じさせて下さるのです。

 「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」とあります。
 与えられたご命令に従って宣教する弟子たち、わたしたち教会には、主イエスによって、その福音が真実であることのしるしが与えられます。それは、信じない者が救いを信じる者とされ、愛せない者が愛する者とされ、傷ついた者が癒され、悲しむ者が慰められる、そんな喜びと希望の共同体が地上に築かれていくことではないでしょうか。
 今ここでわたしたちが、主イエスを信じる群れとして礼拝をささげていることこそ、福音が真実である確かなしるしです。生きておられる主イエスが、ここで働いておられます。救いの出来事が、愛の業が、ここで起こります。
 この主にあって、福音を宣べ伝える業はこれからも前進し、神の国は完成へと向かっていくのです。生きておられる主イエスと共に、わたしたちはこれからも福音を宣べ伝え、御一緒に歩み続けてまいりましょう。

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