主日礼拝

みんなの祈りの家

「みんなの祈りの家」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第56章1-8節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第11章15-26節
・ 讃美歌:208、298、500

<怒るイエスさま>
 本日の箇所には、エルサレムの神殿の境内で、売り買いしていた人々や両替人を、主イエスが追い出し、その腰掛をひっくり返したりした、ということが語られています。いわゆる、「宮清め」と呼ばれる出来事です。
 柔和な方であるイエスさまですが、こんなに荒々しいお姿もあるのかと、ちょっと驚いてしまいます。ヨハネによる福音書の、同じ出来事が書かれている所では、縄で鞭を作って動物を追い払い、両替人の金をまき散らし、台を倒し…と、もっと激しく描かれています。イエスさまの強い怒りが伝わる描写です。
イエスさまはどうしてここまで徹底的に、神殿の境内での商売や両替の仕事を、お許しにならなかったのでしょうか。聖なる神殿でお金もうけをしようとしていたことが原因なのでしょうか。しかし実は、それほどコトは単純ではありません。

わたしたちは、この人たち怒られちゃったな、と他人事のように思うことは出来ないのです。ここには、礼拝や祈りの根本がどういうものであるか、神が求めておられる礼拝がどういうものかが示されているからです。

<神殿での商売>
 ところで、今日の舞台の「神殿」というのは、バビロン捕囚後にエルサレムに建てられた第二神殿のことです。たいそう立派で、大理石でできていて、遠くからでも美しく輝いて見えたそうです。まず、ここがどういう場所かを知っておく必要があります。
神殿とは、神に礼拝を捧げる場所であり、動物の犠牲や供物を捧げたり、祈ったりする場所です。一番奥まった所にある至聖所には、神さまのご臨在がある、と信じられていました。
もちろん、神さまは神殿に閉じ込められるようなお方ではありません。でも、イスラエルの人々は簡単に神には近づけないので、そのような整えられた場所で、祭司に執り成してもらい、罪を赦して頂くために、神に動物の犠牲や供物を捧げ、祈ったのです。
ですから、神殿というのは神の民イスラエルの人々の精神的な支柱でしたし、また豪華で美しいその建物は、誇りでもあったと思います。

神殿は、入ることが出来る場所が、人によって制限されていました。年に一度だけ大祭司が入る「至聖所」、祭司だけが入ることが出来る「聖所」、そしてイスラエルの男性しか入れない「イスラエル人の庭」、イスラエルの女性が入ることが出来る「婦人の庭」、そして、割礼を受けていない人々のための「異邦人の庭」です。
今日の箇所で、商売や両替が行われていた境内というのは、最後の「異邦人の庭」でのことでした。

異邦人の庭で行われていた商売は、神殿に礼拝を捧げに来た人々のためのものです。遠方から巡礼に来る人もいますので、犠牲にするための動物を連れて旅をするのは大変ですから、現地調達ができるようにしました。また、神殿の外から持ち込んだ動物は、傷が無いかどうかなど、検査を受ける必要がありました。しかし、境内で売られている動物は、すでに検査済みで、その手間を省くことが出来たのです。
また、両替と言うのは、神殿で捧げる献金はユダヤの通貨である必要があったので、ローマの貨幣などはユダヤの貨幣などに交替してから神殿に納めました。
イスラエルの人々は、このように自分たちの礼拝を便利よく整えるために、異邦人の庭を使って商売をしたり、通り道に使ったりしていたのです。

<異邦人の庭>
このような人々を、主イエスは追い出し、蹴散らされました。そして言われました。
17節です。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」

『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』とあるのは、本日読んでいただいたイザヤ書56章7節からの引用です。
56章で語られていることは、神の救いが、神の民イスラエルだけではなく、異邦人にも与えられる、つまり世のすべての人々に与えられる、という神さまの御心であり、救いのご計画です。
「祈りの家」とありますが、「祈り」とは、神の言葉を聞き、それに対して応答することです。祈りは「神との対話」とも言われます。神と語らい、交わりをもつことが「祈る」ということなのです。
そして、この神との交わりは、決して一部の人に閉じられているものではない。イスラエルの民だけが神との交わりを持つことが出来るのではなくて、すべての国の人が、神に祈り、神との交わりを持つことが出来る。祈りの家に来ることが出来る。救いにあずかることが出来る。それが、神さまがイザヤを通して語ってこられたことでした。

イザヤ書56章には、異邦人と宦官が出てきます。3節に、「主のもとに集ってきた異邦人は言うな/主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな。見よ、わたしは枯れ木に過ぎない、と。」とあります。
イスラエルの民は、神に選ばれた民であり、そのしるしとして生まれた時に「割礼」という男性の生殖器の一部を切り取る儀式を受けました。異邦人、つまり外国の人々は、この割礼を受けていません。イスラエルの人々は、そのような選ばれたしるしを持たない人々は、神の救いから漏れている、と考えていました。
しかし、異邦人の中には、このイスラエルの神を熱心に求める人々もいました。そういった人々の中には、遠くからエルサレム神殿までやってきて、神殿の奥まで行くことが出来なくても、異邦人の庭までしか入れなくても、わざわざやってきて、神に真剣に祈りを捧げる人々がいたのです。

また、宦官というのは、宮廷で仕えるために去勢をされた男性のことです。彼らは、決して救いに与ることは出来ないとされてきました。なぜなら、神の民であるしるしの「割礼」を受けることが出来ないからです。異邦人でも、改宗すれば割礼を受けて、神の民となることが出来ました。しかし、宦官は去勢してしまっているので、生涯、割礼を受けることは出来ません。それで、宦官は救われる資格がない、彼らは救いから落ちてしまっている、と考えられていたのです。
「見よ、わたしは枯れ木に過ぎない」とは、子孫を残すことが出来ず、また、救いに与る可能性もない、すっかり命を失ってしまったものだ、ということです。

 イスラエルの人々は、自分たちが神に選ばれた特別な民であるということを誇りに思っていましたし、自分たちこそ救いに与る清い者、他の者は汚れた者であるとして、そうした異邦人や、救われないとされている人々と交わりを持たないようにして、遠ざけようとする者もいました。
しかし神は、そのような者たちも、わたしの救いへと招く。わたしの祈りの家に、つまり神を礼拝するところに、異邦人も、宦官も、連なることをゆるす、と言っておられるのです。

<神の救いのご計画>
神がイスラエルの民を選ばれたのは、イスラエルの民だけに資格を与えて救うためではありません。イスラエルの民を用いて、すべての人々が神のもとに立ち帰り、救いに与ることができるようにするために、神はイスラエルの民を選ばれたのです。
神は、宦官のように「自分は救われようがない。すっかり枯れてしまい、何の望みもない。」と、救いを諦めており、他人からも「あの人は絶対に救われようがない」と判断されている、そのような人にも、「そんなことを言ってはならない、わたしはそのような者をも、わたしの許に招くのだ」と言っておられるのです。それが、神の御心です。

神の救いの恵みを、わたしたち人間が、制限したり、小さくしたり、勝手に資格を設けてはいけません。わたしなんか正しく立派ではないから救われない。わたしは赦していただけるような人間じゃない。こういう人にならないと、救いにはふさわしくない。そうやって、勝手に条件をつけて、自分を救いから遠ざけることも間違っていますし、あんな悪党は神さまの恵みに与れるわけがない。あの人の罪は赦されるはずがない。あんなことをした人が救わてたまるもんか。そんな風に、人の救いについて判断しようとすることも間違っています。
神は、御自分の正しさに基いて、神の自由なご意志で、救おうとされる者を、救って下さる方なのです。

しかしこれは、どんな人でもすべての人が自動的に救われる、ということを言っているのではありません。人の知らない所で、神さまが勝手に救って下さるのではありません。
救いとは、神のもとに立ち帰ることであり、神との関係の中に生きること、神を礼拝し、祈り、賛美して生きる者になるということです。
神との関係なしに、救われるということはありません。神が、わたしを選び、わたしの神でいて下さる。神がわたしを愛し、命を与え、導いて下さる。この神の愛に、わたしも応える。そのような交わりを与えられることこそ、救いなのです。

そのために、まず神が、わたしたちの名を呼び、招いて下さいます。この招きは、主イエス・キリストを通して、語りかけられます。主イエスは神のみ子ですが、選ばれたイスラエルの民の中で、まことの人となってお生まれになり、わたしたちに、この神の救いのご計画、救いのみ心を表すために、来て下さった方なのです。そして、すべての国の人が、神のもとに集められ、祈りの家に連なるようにと、神の国を告げ知らせておられるのです。

<枯れたいちじくの木>
ところが、神に祈りを捧げる神殿で、異邦人のために用意された祈りの場所を、イスラエルの者たちは、商売の場所にしてしまっていたのです。そこには動物の鳴き声がうるさく響きわたり、人々の声、喧噪で満ちていたでしょう。すべての人に救いを与えるために、特別に選ばれたイスラエルの民が、自分たちの便利のために、都合の良さのために、異邦人から神との交わりの場所を奪っているのです。

彼ら自身は、割礼をうけ、礼拝の形式も、犠牲の動物の基準も正しく守り、一見すれば完璧な礼拝を捧げているかも知れません。
しかし、神の御心が何にも分かっていない。むしろ、神が招いてくださった異邦人が、神に近付こうとすることを阻み、邪魔しているのです。
そしてこのことは、異邦人から礼拝を奪うだけではなく、神から奪うことにもなります。捧げられる礼拝も、神殿も、すべては神のものです。ですから、彼らが自分たちのために異邦人から礼拝を奪うということは、神から、それを奪っていることと同じなのです。

主イエスは厳しく言われます。この神殿は、神のものであり、すべての人が祈るため、神との交わりにあずかるために、招かれているところではないか。「ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしてしまった」。
どれだけ見た目が美しく整えられていても、正しく形式が守られていても、そこに神の御心に応える思いがなければ、そのような礼拝は神に喜ばれるものにはなりません。むしろ、自分たちの礼拝を整えるために、神に逆らい、罪を犯してしまっている。神の御心から離れている。そういうことが起こるのです。

わたしたちも同じです。礼拝で自分さえ満たされればよいと思ったり、自分の思う正しい礼拝をしたいとか、自分の居心地の良さを求めるために、共に礼拝を守ろうとしている人への配慮を欠いたり、自分の意にそぐわないことを排除しようとしたりするなら、同じ過ちを犯しているのです。
神がまず、敵対し、罪の中にあったわたしたちを受け入れ、赦して、礼拝に招いて下さいました。神は、そのように、わたしたちもまた、神に赦された者同士、互いを受け入れ合い、赦し合って、共に神を礼拝し、共に神との交わりに生きることを望んでおられるのです。

さて、イスラエルの人々は、この神の思いを忘れてしまっている。神の御心から離れてしまっている。そのことが「いちじくの木」の出来事によって象徴的に語られています。
20節には「翌朝早く、一行は通りがかりにあのいちじくの木が根元から枯れているのを見た」とあります。
実は、今日読んで頂いた直前の12~14節に、この前の日、イエスさまが葉の茂ったいちじくを見て、実がなっていないかな、と近寄られた。けれども、実がなっていないので「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」といちじくの木を呪われた、ということが書かれていました。
 このいちじくの木は、イスラエルの民のことを表しています。葉が茂っているというのは、見た目は青々として、良い木に見える。つまり、民は一見、整えられた礼拝を守り、神に従って歩んでいるように見える。しかし、実がついていない。実態は、神の御心から離れてしまっている。主イエスはそういう様子をご覧になったのです。
 「お前から実を食べる者がない」というのは、裁きの予告であり、20節で「根元から枯れた」というのは、その裁きの結果の「滅び」を意味しているのです。

<神を信じなさい>
 宦官は、自分は決して救われる可能性がない、という思いで「わたしは枯れ木にすぎない」と言っていました。そして実は、自分は救われると思っていたイスラエルの民もまた、「根元から枯れて」しまうもの、神の御心に背き、裁かれ、滅びに至るものであったのです。
 人は、罪に捕らわれています。根元から枯れています。神に招かれているのに、神の御心から遠ざかる。神に従って正しく歩もうとしても、その思いさえ自分の思いに引きずられる。いつも迷い、つまずき、神に逆らう、わたしたちの歩みなのです。すべての者が、枯れ木に過ぎない、実をつけることの出来ないものなのです。

 しかし、ここで主イエスはおっしゃいました。「神を信じなさい」。
 ただ神だけが、このようなわたしたちの罪を赦し、救って下さいます。神が「わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである」との御心を、実現して下さいます。
 そのために、いちじくの木が「根元から枯れる」ことに示される神の裁きを、主イエスが、代わりに引き受けて下さったのです。この、ご自身の救いの御業において、「神を信じなさい」と言われます。

主イエスは、神の御心から離れ、異邦人の礼拝を奪い、自分たちが満足する礼拝をささげている神殿を「強盗の巣」と呼ばれました。そして、マルコ福音書の15章27節では、主イエスは二人の強盗と一緒に十字架に付けられたと語られているのです。主イエスご自身が、神に対して強盗のように振る舞ったすべての者の罪を引き受け、その身に裁きを受けられ、「根元から枯れた」。つまり「死」に引き渡されたのです。

また、続く15章38節には、主イエスが息を引き取られた時に、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と語られています。
神の臨在の場所とされる至聖所は、垂れ幕で仕切られ、年に一度、大祭司だけが、入ることがゆるされていましたが、この幕が裂けてしまったのです。
それは、もはやすべての者が、身分や性別、民族で分け隔てされることなく、この主イエス・キリストという方を通して、この方の罪の赦しによって、神に近づくことが出来る。神との交わりに入ることができる。神のご臨在の前に立ち、神と親しく歩むことがゆるされる、ということです。
そのように、主イエスの死による罪の贖いによって、「すべての国の人の祈りの家」が、まことに実現したということなのです。

「神を信じなさい」。
神は、根元から枯れた木にも、新しい命を与えることがお出来になる。主イエスを死者の中から復活させ、死んで滅びるはずのわたしたちにも、永遠の命と復活の約束を与えてくださるのです。
資格を問わず、条件をつけず、決して赦されるはずのない罪を赦し、逆らって歩むことしか出来ない者を、新しく造り変えて下さる。神との交わりのうちに、生きる者として下さる。このことを信じなさい。この神の恵みを受け取り、神と共に歩むことを祈り求めなさい。そのように言われるのです。

<赦し>
 そして、23節には「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。」とあります。

 「山」というのは、決して動かすことの出来ない、目の前に立ちはだかるもの。自分では絶対にどうすることも出来ないような困難や、まったく不可能と思われることを指します。
しかし、神は不可能を可能とする方です。山を動かすのは、人の力ではなく、神の力です。それは、わたしたちの「神を信じる力」でもありません。わたしたちの「信じるという力」を必要としているのでもない。「信じる」とは、神にすべてお任せをすること。自分の力や自分の思いをすべて退け、ただ、神がわたしの神でいて下さることを受け入れることです。
この神が、山を動かして下さる。不可能と思われることを、可能として下さる。枯れたものに命を与え、死んだ者を生き返らせて下さる。
 わたしたちがどんなに絶望するしかないと思うことも、ただただ項垂れてしまう困難も、乗り越えることができないと思う壁も、神の支えによって、乗り越えることができる。神によって可能としていただくことが出来る。そのことを信じるのです。

 だから、「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」と言われます。これは、わたしたちの願いが何でも叶うとか、問題が自分の思うように解決していく、ということではありません。
神が、わたしの神である、ということを受け入れ、祈り求めるなら、わたしたちは自分の願いどおりに神に動いてもらおうという祈りではなく、神の救いを、罪の赦しを、祈り求めるのです。神は御心に従って、ご自分に依り頼む者の救いを、必ず成し遂げて下さる、ということなのです。

 その時、25節には、あなたが恨んでいる者、赦せない者があれば、赦してあげなさい、と言われます。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦して下さると。
 しかし、わたしたちは、人をそう簡単には赦せません。敵対し、自分を傷つけ、苦しめた、そのことを無かったことにして、人を赦すなんてできません。
 さらに、今日の25節の後には、十字のマークがついています。これは、別の写本には、こういう文章が載っているものもあるよ、ということを教えていて、マルコ福音書の巻末に、11章26節として載っています。
それを見てみると、25節の後にこう続いているのです。「もし赦さないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちをお赦しにならない。」
 読まなきゃよかった、と思うかも知れません。ああ、じゃあわたしは人を赦せないから、神に赦されない。やっぱりだめだ。そんなふうに思ってしまいそうです。
しかしこれは、交換条件ではありません。わたしたちが赦したら、そのご褒美として、父なる神も赦しを与えてくださる、ということではないのです。

 なぜなら、わたしたちは、もう赦されているからです。敵対し、背いた、わたしたちの赦されるはずのない過ちを、天の父は、もう赦しておられる。主イエスの十字架の死によってあなたたちの罪を赦した、と示して下さっている。
 もう、あなたたちは天の父に赦されてしまっているのだから、この天の父なる神を信じることで、その神の赦しの現実の中で、またあなたも人を赦すことが出来るようになる。山だって動く。神を信じなさい。祈りなさい。そのように言われているのです。

 神の赦し、救いへの招きが、すべての者に告げられています。わたしたちは、この神の恵みにお答えして、赦されていることに感謝をして、主イエスが実現してくださった「すべての者の祈りの家」、神に招かれたすべての者のための「みんなの祈りの家」に集うのです。 そして、共に神を賛美し、礼拝し、祈る。互いに赦し合い、受け入れていく。そうして、神との交わりに活き活きと生かされていく教会、神の民である愛の共同体が成長していくのです。

関連記事

TOP