「わたしたちは主のもの」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編 第100編1-5節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第14章7-9節
・ 讃美歌:16、327、510
召天者の名簿
本日の礼拝は召天者記念礼拝です。私たちの教会の教会員として天に召された方々、また教会員のご家族等で教会で葬儀が行なわれた方々のことを覚え、ご遺族をお招きしてこの礼拝を守っています。お手もとに召天者の名簿をお配りしました。昨年のこの礼拝以降、新たにこの名簿に加えられたのは、昨年9月14日に天に召されたFさん以下の13名です。この一年間で新たにこれらの方々が天に召されました。これらの方々のことは私たちの記憶に新しいわけですが、この名簿には、私たちが直接知らない方々も多く含まれています。私はこの教会に着任して丁度十年経ったところですが、私が着任してから天に召されたのは、この名簿の二頁目の最初の行の後半、2003年9月16日に天に召されたOさんからです。それ以前の方々の中にも何人かは存じ上げている方がおられますが、殆どは知らない方です。それにこの名簿は1986年以降の召天者であるわけで、今年で139年の歴史を持つこの教会に連なりつつ天に召された方々ははるかに沢山おられます。それらの、私たちが名前も知らない多くの方々のことをも意識しつつ、この礼拝を守りたいのです。
召天者の幸いは定まっている
先に天に召された方々のことを覚えて守るこの礼拝は、世間の感覚で言えば、それらの方々の供養をし、冥福を祈るために行なわれていると思われるかもしれません。しかし私たちキリスト教会は、供養はしないし冥福を祈ることもしません。冥福とは死後の幸福という意味ですが、私たちは亡くなった方々の死後の幸福を祈ることはしないのです。それは、死んだ後のことはどうでもよいということではありません。そうではなくて、私たちの信仰においては、主イエス・キリストを信じ、教会に連なる者として天に召された方々は、既に主キリストのもとに迎えられ、パウロがフィリピの信徒への手紙の第1章23節で「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており」と語っているように、キリストと共にある幸いを与えられているのであって、その意味で彼らの幸福は定まっており、私たちが供養したり祈ったりする必要はないからです。先程、旧約聖書、詩編第100編が朗読されました。その3節に、「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」とありました。先に天に召された方々は、この詩に歌われているように「主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」とされ、彼らをご自分のものとして下さったその主のもとに迎えられたのです。洗礼を受けておられなかったけれども教会において葬儀を行なった方々もいます。その方々も、教会との、信仰者との何らかのつながりの中にありました。また教会において葬儀を行なったということは、私たちはその方々を主にお委ねしたのです。それらの方々をも、主がご自分のものとしてみもとに迎え、地上の苦しみ悲しみから解き放って主と共にある平安を与えて下さっていることを私たちは信じています。召天者の方々の幸いはそのように主が与えて下さっているものなのであって、その方々が迷わないように私たちが地上から何らかの支援をしたり、その魂の幸福のために何かをすることはできないし、その必要はないのです。それでは何のためにこの召天者記念礼拝があるのか。それは私たちが召天者のことを覚えることを通して、その方々が地上の人生において、主イエス・キリストとの出会いを与えられ、信仰を与えられ、主のもの、主に養われる羊とされた、その恵みに感謝し、神様をほめたたえるためです。そして、なお地上の歩みを続ける私たちも、この方々に与えられたのと同じ恵みによって主のものとして生かされ、その恵みの中で人生の最後を迎えるための備えをしていくのです。私たちも、遅かれ早かれ、地上の歩みを終える時が来ます。その時に、「感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入」ることができるように、私たちを造り、養い、導いて下さる主なる神様との交わりを、今この地上においてしっかりと結びたいのです。信仰とは、神様との交わりに生きることです。その神様との交わりの中心が礼拝です。ですから召天者記念礼拝は、召天者の方々のためではなく、むしろ私たちが神様との交わりに生きるためにあります。私たちが召天者のために何かをすると言うよりも、召天者の方々が今、主なる神様のみ前で、なお地上を歩む苦しみや悲しみまた誘惑の中にいる私たちのためにとりなし祈ってくれている、その祈りに支えられてこの礼拝がなされていると言うこともできるでしょう。迷わないように支援されなければならないのは、むしろ私たち地上を生きている者なのです。
信仰は賭け?
教会はこのように、死とは神様によって天に召されることであり、主のみもとに召された方々の幸いは既に定まっている、と信じています。しかしそれに対しては当然疑問もあると思います。そもそも神というのは、死を恐れる人間の思いが造り出したものであり、神のもとに召されるという教えによって死の恐怖を打ち消そう、あるいはごまかそうとしているのではないのか、と思っている人もいるでしょう。また天に召された信仰者は既にキリストと共にいる喜びに入れられているということも、果して根拠はあるのか、そうだったらいいな、というだけのことであって確信は持てないではないか、という思いもあるでしょう。だからこそ、死者のためにいっしょうけんめい供養をしなければ、という思いが生じるわけです。これらの疑問を、証拠を示してすっきりと解決して見せることはできません。信仰において、そういう疑問が完全に解消されることはないでしょう。最終的には、自分が死んでみなければわからないのです。信仰は、証明できるような事柄ではありません。疑おうと思えばいくらでも疑えるのです。その中で、信じるという決断をするのです。そういう意味ではこれは、パスカルが言ったように一つの賭けです。パスカルは、「神がおられるか否か、それは賭けだ。私はおられる方に賭ける」と言ったのです。そのように、神がおられ、死ぬことは神のみもとに召されることだと信じるか、それとも別の仕方で死を受けとめていくかというのは、私たちがどこかで決断しなければならないことなのです。「賭け」などと言うと、丁と出るか半と出るか、二つに一つの偶然に人生の大事を委ねるような印象を与えてしまい、信仰は一世一代の大博打だなどということになってしまうかもしれません。しかしそれは決して、さいころの目に人生を賭けるようなことではありません。根本的には賭けかもしれませんが、私たちが神様を信じることに賭けるのには、それなりの理由、根拠があるのです。その理由、根拠となって下さったのが、主イエス・キリストなのです。
関わって下さる神
先程読まれた新約聖書の箇所、ローマの信徒への手紙第14章7節以下をごらんいただきたいと思います。その9節にこうあります。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」。「キリストが死に、そして生きた」と語られています。そのことが、「死んだ人にも生きている人にも」、つまり全ての人々と関わりのある出来事であり、このことによってキリストは私たち全ての者の主となられたのだ、というのです。「キリストが生き、そして死んだ」ではないことに注目しましょう。私たちは今生きており、やがて死んでいきます。「生き、そして死ぬ」のが私たちの歩みです。しかしキリストは死に、そして生きた。それはイエス・キリストの十字架の死と三日目の復活を指しています。死んだということはその前は生きていたのですから、正確に言えばキリストは生き、そして死に、そして復活して新しく生きたのです。このことが、私たち全ての者と関わりを持つ出来事であり、それによってキリストは全ての者の主となられたのだと聖書は語るのです。私たちの側から言えば、二千年前にイエスという人が生き、十字架にかけられて死に、そして復活したとしても、それが私たちに何の関わりがあるか、それは過去の出来事に過ぎないのであって、自分とは関係ない、ということになるでしょう。キリストの死と復活が私たち全ての者と関わりのある出来事だということは、神様の側からのみ言えることです。神様がそのようにして、私たち全ての者と関わりを持って下さったのです。
キリストの死における関わり
イエス・キリストは神様の独り子であられました。父なる神様がご自分の独り子を、一人の人間としてこの世にお遣わしになったのです。神様の方から、独り子を遣わすことによって私たちに関わって来られたのです。そのキリストが「死んだ」のは、神様が私たち人間と徹底的に、最後まで関わって下さったということです。私たちは生き、そして死んでいく身です。神様は、生きている私たちと関わって下さるだけではなくて、死んでいく私たちとも関わり、私たちの死とそこにおける苦しみをも体験して下さったのです。しかもキリストの死は、神様に背く罪人としての死、最も苦しい悲惨な十字架の死刑でした。それは本来私たちが味わわなければならないものです。私たちは神様に敵対して自分が主人となって自分の思いによって生きている罪人です。その私たちは神様に見放され、捨てられて、何の希望もなく、絶望の内に死ななければならないはずの者なのです。神様がそのような私たちのところに来て下さり、絶望の中での死を私たちに代わって引き受けて下さった、それがキリストの十字架の死です。イエス・キリストは、ただ死をも体験して下さったというだけではなくて、私たちが神様に背き、罪を犯し、それによって裁かれ、神様に見捨てられて絶望の内に死ぬはずの、その死を引き受けて下さったのです。
キリストの復活における関わり
その主イエスを、父なる神様は復活させ、新しい命を与えて下さいました。主イエスの復活を私たちは、「そんなバカなことが」と他人事のようにあざ笑ったりしますが、神様はこのことによって私たちと、肉体の死を乗り越えた関わりを持とうとしておられるのです。神様の私たちへの関わりは、生きている間だけのことではなくて、死においても続いており、死に勝利して新しい命を与えて下さる関わりなのです。ですからキリストの復活は、昔の不思議な奇跡ではありません。神様はこのことによって、「私はあなたがたの罪を独り子キリストの十字架の死によって赦した。そしてあなたがたを支配している死の力を、キリストの復活によって打ち破った。私の恵みは死の力に勝利している。キリストにつながる者は、死に打ち勝つ新しい命の希望に生きることができるのだ」と宣言して下さっているのです。キリストが死に、生きたことによって、神様はこのように、死んでいく者である私たちと徹底的に関わりを持ち、私たちに死をも乗り越える命を与えようとしておられるのです。「死んだ人にも生きている人にも主となられる」とあるのはそのためです。神様が私たちに関わって下さるのは、生きている間だけではありません。今生きている人もやがては死んだ人になります。そうなっても、神様の私たちへの関わりは無くなってしまわない。キリストが死に、そして復活して生きて下さったことによって、神様はどこまでも私たちと関わって下さり、このキリストを主と信じる人たちに、復活の命、新しい命を与えて下さるのです。それゆえに、私たちの人生の最終的な目的地は死ではなくて、キリストによって神が打ち立てて下さった復活の命なのです。死んでキリストと共にある喜びというのも、そこに至る通過点に過ぎません。死んで魂が天国で平安を得ることが私たちの最終的な救いなのではなくて、世の終わりに、神様が死の力を完全に滅ぼして下さり、主イエスの復活にあずかって私たちも復活し、神様のもとで永遠の命を生きる者とされる、そこに、私たちの救いの完成、人生の終着点があるのです。召天者の方々も、キリストと共にある幸いの中で、この救いの完成を待ち望んでいるのです。
主のために生き、主のために死ぬ
神様がこのように私たちに徹底的に関わって下さっているから、私たちはその神様に応えて生きる。7、8節に語られているのはそういうことです。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」。ここに語られていることを勘違いしてはなりません。「わたしたちは、だれ一人自分のために生きてはならず、だれ一人自分のために死んではならない。生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ななければならない」と語られているのではないのです。つまりこれは、私たちがこうするべきだ、という戒めや教えではありません。そうではなくてここは単純な事実を語っているのです。私たちは、自分のために生きているのではないし、自分のために死ぬのでもない、主のために生き、主のために死ぬのだという事実です。そう言うと私たちはすぐに、いや自分は主のためよりもむしろ自分のために生きているし、主のために死ぬなんていうことはできそうもない、と思ってしまいます。それは、「ため」という言葉の捉え方の問題です。「自分のため」「主のため」と訳すと、「自分の思いを第一にしているか、それとも主のみ心を第一にしているか」とか「自分の欲望に仕えているのか、それとも主に仕えているのか」というような意味で考えてしまいます。しかし原文の言葉はそういう意味ではなくて、うまく日本語にしにくいのですが、強いて直訳すれば「自分自身へと生きている」「主へと生きている」あるいは「自分自身に対して生きている」「主に対して生きている」となるのです。英語の訳の中には、to という言葉を使って、We do not live to ourselves. We do not die to ourselves. つまり「私たちは自分自身へと生きるのでも、自分自身へと死ぬのでもない」と言い、さらに8節では We live to the Lord. We die to the Lord. 即ち「私たちは主へと生き、主へと死ぬ」と言っているものもあります。つまりここで問われているのは、私たちがどこを向いて生きており、どこを向いて死んでいくのか、ということなのです。自分自身の方を向いて、自分自身のことを見つめながら生き、死んでいくのか、主なる神様の方を向いて、神様を見つめながら生き、死んでいくのか、その二者択一の中で、私たちは神様の方を向いて、神様を見つめながら生きており、死んでいくのだ、と言っているのです。それは、そうすべきだとか、そうしなければ救われないぞ、ということではありません。神様が、その独り子イエス・キリストによって、私たちに徹底的に関わって下さり、生きている者にも死んだ者にも主となって下さったから、私たちもそれに応えて神様の方を向き、神様を見つめていくのだ、ということです。神様が独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さって、この世を生きている私たちと関わりを持って下さった、だから私たちも神様の方を向いて生きるのです。また独り子キリストが十字架にかかって死んで下さり、死の力に支配されている私たちと関わりを持って下さった、だから私たちも神様の方を向いて死んでいくことができるのです。「主のために生き、主のために死ぬ」というのはそういうことです。ですからそれは何か特別に立派な生き方や死に方をすることではありません。自分のことなんかそっちのけで神様に仕えていくとか、神様の栄光のために自分の命を投げ出すというようなことが意味されているのではないのです。私たちは少しも立派な者ではないし、むしろ罪深い、神様に背き逆らってばかりいる者ですが、そういう私たちに、神様は、独り子イエス・キリストによって徹底的に関わって下さり、私たちのために死んで下さり、私たちのために復活して新しい命を約束して下さったのです。神様の方から、そのように私たちに顔を向け、私たちと関わり、恵みを与えて下さったのです。それゆえに、自分自身は少しも立派ではないし、罪深い者だけれども、その神様に、私たちも関わり、その神様の方を向いて生き、その神様の方を向いて死んでいく、それが、主のために生き、主のために死ぬことです。8節の後半には「従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」とあります。どのように立派に生きるか、どのように立派に死ぬかではなくて、主のものとして生き、主のものとして死ぬことが大事なのです。そして私たちが主のものとして生き、死ぬことができるのは、神様が主イエス・キリストによって私たちと徹底的に関わって下さり、私たちを恵みのみ手によって捕えて下さり、死においてさえも、そのみ手を決してお離しにならないからなのです。私たちは、神様を信じ、主イエス・キリストに従っていくという信仰の決断をした後でも、しばしば、神様から目を離してしまい、手を離してしまい、神様に向かって生きることをやめてしまうことがあります。その時私たちは、自分自身に向かって、自分自身を見つめて生きる者となるのです。しかし自分自身のみを見つめて生きることは孤独です。多くの隣人に囲まれているとしても、根本的には一人ぼっちなのです。そのような孤独の中で生き、死ぬことは、絶望以外の何物でもないのではないでしょうか。自分とどこまでも関わりを持って下さる主イエス・キリストの父なる神様のもとで生き、そして死ぬことにこそ、本当に希望のある、幸いな生と死があるのです。
召天者を覚える
本日覚えている召天者の方々は、主イエス・キリストの父なる神様がどこまでも関わりを持って下さっている中で生き、そして死んでいった方々です。中には、途中で教会から離れてしまった人、神様を礼拝する生涯を全うすることができなかった人もいるでしょう。それらの人々は、途中で神様から手を離し、目を背けてしまったのです。また先程も申しましたようこの名簿の中には、洗礼を受けるには至らなかった人も含まれています。その人たちは、まだちゃんと神様に目を向け、手をつないではいなかったということになるでしょう。しかしそういうことは決定的な事柄ではないのです。決定的なのは、神様がその人たちと関わりを持って下さったということです。神様は、ご自分が関わりを持った、その手を決して離すことはなく、常にみ顔をその人たちに向けておられたのです。それゆえに私たちはその方々をも、召天者の名簿に加えて覚えていくことができるのです。また最初に申しましたように、この名簿以外にも、私たちがお名前も知らない、どのように生き、どのように死んだのかも分からない多くの方々がいます。けれども一つだけ確かなことは、主イエス・キリストの父なる神が、それらの人々のお一人お一人と徹底的に関わって下さり、恵みのみ手をさし伸べ続けていて下さったということなのです。そのことを信じて、私たちは神様をほめたたえるのです。そして同時に覚えるべきことは、その恵みが今私たちに同じように与えられているということです。神様は私たち一人一人と徹底的に関わっていて下さり、恵みのみ手をさし伸べ続けていて下さるのです。この神様を信じて、私たちの顔をこの神様の方へと向けていく決断、それが信仰です。そこに、「生きるにしても死ぬにしてもわたしたちは主のものです」という、本当に幸いな人生と、そして主なる神様のみもとに召され、キリストと共にいる者とされる幸いな死が与えられていくのです。