主日礼拝

どうしたらよいのだろう

「どうしたらよいのだろう」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: ヨエル書 第3章1節
・ 新約聖書: 使徒言行録 第2章36-42節
・ 讃美歌:205、470、507

ペンテコステの日に
 先々週の日曜日はペンテコステ、聖霊降臨日でした。ペンテコステは、復活して天に昇ったイエス様のもとから、聖霊が弟子たちに降った日です。聖霊を受けたことによって弟子たちは力を与えられて、イエス様こそ私たちみんなの救い主です、と人々に宣べ伝え始めました。それによってこの世界に初めて教会が誕生したのです。ですからペンテコステは教会の誕生日です。その日に起ったことが、使徒言行録の第2章に語られています。聖霊を受けた弟子たちを代表して、ペトロが、集まって来た人々にお話をしました。そのお話の最後の言葉が、先ほど朗読された箇所の最初の所、36節です。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。ペトロはこう言って話をしめくくったのです。

どうしたらよいのだろう
 このお話を聞いていたのはエルサレムの人々です。このエルサレムで、つい五十日ほど前に、イエス様は十字架につけられて殺されたのです。その時エルサレムの人々は「イエスを十字架につけろ」と叫びました。エルサレムの人々のその叫びによってイエス様の十字架の死刑が決まったのです。ペトロはその人々に、あなたがたはイエスを十字架につけて殺してしまった、でも神様はイエスを三日目に復活させて下さった、このイエス様こそが、旧約聖書でメシアと呼ばれていた私たちの救い主なのだ、と告げたのです。このペトロの話を聞いた人たちはどうしたでしょうか。37節に「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った」とあります。エルサレムの人々はペトロの話を聞いて、自分たちがとんでもないことをしてしまったことに気付かされたのです。自分たちは、神様から遣わされた救い主を十字架につけて殺してしまうという、とりかえしのつかないことをしてしまった、どうしたよいのだろう、と途方に暮れたのです。
 皆さんはこれを聞いてどう思いますか。「この人たちは、イエス様のことを信じないで十字架につけるようなことをしたからこんなことになったんだ、自業自得だ、ざまあ見ろ」と思う人がもしもいるとしたら、それは聖書の読み方が間違っています。ペトロがこの話をしたのは、そんなふうにエルサレムの人々を責めるためではありません。そもそも、ペトロや弟子たちだって、決して人のことを責めることができるような者ではないのです。彼らは、イエス様が捕まえられた時に、みんなイエス様を見捨てて逃げてしまいました。ペトロは遠く離れてそっとついて行きましたが、「お前もあのイエスの仲間だろう」と言われて、「そんな人は知らない、関係ない」と三度言ってしまいました。だからペトロら弟子たちも、最後までイエス様に従うことはできなかったのだし、イエス様を裏切ってしまったのです。そういう意味では「十字架につけろ」と叫んだエルサレムの人々と同じです。イエス様を十字架につけて殺してしまった人たちの中に、弟子たちもいるのです。

私たちみんなの問い
 それじゃあ私たちはどうでしょうか。私たちは、「イエスを十字架につけろ」と叫んだエルサレムの人々や、イエス様を見捨てて逃げた弟子たちのことを、「あなたがたはなんてひどいことをしたのか」と言って責めることはできるでしょうか。そんなことはできません。私たちも、イエス様のことをいつもきちんと救い主と信じて従っているかというと、そうではないと言わざるを得ません。イエス様に従うよりも、自分の思い通りにすることを先ず考え、求めているのが私たちです。神様が自分の願いをかなえてくれるなら信じるけれど、それがかなえられないとすぐにそっぽを向くのです。要するに自分が主人になっていたいのです。だから口では「主イエス様」などと言っていても、いざイエス様が本当に私たちの主人となって、私たちの思いとは違うことをお命じになると、私たちもすぐにあのエルサレムの人々と一緒に「イエスを十字架につけろ」と叫んでしまうのです。つまり、イエス様を十字架につけて殺した「あなたがた」というのは、エルサレムの人々であり、ペトロら弟子たちでもあり、そして私たちでもあるのです。だからエルサレムの人々がペトロの言葉を聞いて「どうしたらよいのだろう」と思ったというのも、他人事ではありません。私たちも、彼らと同じようにとんでもないことをしてしまっているのであって、どうしたらよいのだろう、と途方に暮れなければならないのは私たちも同じなのです。そのように、神様の前で「どうしたらよいのだろう」と途方に暮れること、それが私たちの信仰の始まりなのです。

あなたの罪は赦される
 「どうしたらよいのだろう」と途方に暮れている人々にペトロはこう言いました。38節です。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」。神様が遣わして下さった救い主であるイエス様を十字架につけて殺してしまうというとんでもない罪を犯してしまって、どうしたらよいのだろう、とうろたえている人々にペトロは、あなたの罪は赦される、と告げたのです。なぜそんなことを言えるのか。それはペトロたち自身が罪を赦していただいたからです。主イエスを見捨てて逃げてしまった罪、主イエスのことを三度「知らない」と言って裏切ってしまった罪を、ペトロたちは、主なる神様によって全て赦され、帳消しにしていただいたのです。その赦しは、イエス様の十字架の死と復活によって実現しました。イエス様は私たちが神様に背き逆らっており、神様をも周りの人々をも愛することができずにむしろ憎んでしまい、傷つけてしまう、そういう罪に捕えられ支配されていることを知っておられます。そしてその私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。イエス様が罪人である私たちの身代わりとなって十字架の死刑を受けて下さったことによって、私たちの罪は赦され、帳消しにされたのです。そしてイエス様の父である神様は、十字架にかかって死んだイエス様を復活させて、新しい命を与えて下さいました。このイエス様の十字架の死と復活とによって、ペトロら弟子たちも、イエス様を見捨てて逃げてしまったことや、「知らない」と言ってしまった罪を赦されて、もう一度新しく、弟子として歩み始めることができたのです。

教会は、悔い改めて洗礼を受けた人たちの群れ
 そのイエス様の十字架と復活による赦しが、私たちと同じようにあなたがたにも与えられるのですよ、とペトロは告げています。それが「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」という勧めです。イエス・キリストの名によって洗礼を受けるならば、イエス様の十字架の死と復活によって実現した罪の赦しと新しい命が私たちにも与えられるのです。イエス様を十字架につけて殺してしまった、というとんでもない罪を犯した人であってもです。これが、「どうしたらよいのだろう」という問いへの答えです。とんでもない罪を犯してしまった、どうしたらよいのだろう?洗礼を受ければよいのです。そのためのただ一つの条件は、「悔い改める」ということです。それは、私たちが自分で努力して正しい人、立派な人になろうとすることではありません。悔い改めるというのは、自分がとんでもない罪を犯していること、しかも自分ではそれをどうすることもできないことを認めて、神様の方に向き直り、「赦して下さい」とお願いすることなのです。そうするならば神様は、イエス様の十字架と復活のみわざによって、私たちの罪を赦して下さり、死の力に打ち勝つ新しい命を与えて下さるのです。その救いの印が洗礼なのです。
 教会というのは、洗礼を受けて、イエス様の十字架と復活による罪の赦しと新しい命を与えていただいた人たちの群れです。教会学校の生徒の皆さんの中には、何人かは、もう洗礼を受けている人がいます。お父さんやお母さんの信仰によって、赤ちゃんの時に幼児洗礼を受けた人もいます。教会学校の先生方はみんな、洗礼を受けた人たちです。そして今日は、いつもこの教会で神様を礼拝している沢山の大人の人たちと一緒にこの礼拝を守っていますが、この大人の人たちの中の沢山の人たちも洗礼を受けています。その人たちは皆、自分の罪を告白して洗礼を受け、神様によって赦していただいて、ここで語っているペトロのように喜びと希望をもって新しく歩み始めているのです。教会というのは、建物のことではなくて、そのように洗礼を受けてイエス様の救いにあずかった人たちの集まりなのです。

聖霊の働きによって
 そういうふうに言うと、洗礼を受けていない人は、私たちは教会に来てはいけないのかしら、私たちがいると、洗礼を受けた人たちの邪魔になるのではないかしら、と思うかもしれませんが、そんなことはありません。ペンテコステのこの日、三千人の人が洗礼を受けたと41節に書かれています。ということはペトロは、三千人以上の、洗礼を受けていない人たちを前にして、イエス様の救いを語ったのです。もともとイエス様の弟子であり、ペンテコステの出来事によって聖霊を受けた人たちはせいぜい四、五十人だったでしょう。まだ洗礼を受けていない人たちの方がはるかに沢山いる、それが、生まれたばかりの教会の最初の姿だったのです。つまり教会というのは、まだ洗礼を受けていない人々が大勢集まって来て、イエス様を信じるようになり、洗礼を受ける、そういうことが起る所なのです。洗礼を受け、罪を赦していただくなら、「賜物として聖霊を受けます」と語られています。このペンテコステの日に、弟子たちに聖霊が与えられたことによって教会が誕生しました。その聖霊が、洗礼を受けた人たちにも与えられて、その人たちも教会に加えられていったのです。洗礼を受けることによって、新たな人々が教会の仲間に加えられていく、そういう聖霊のみ業が約束されているのです。

神の招き
 そして39節には「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」とあります。私たちがこうして教会に来て神様を礼拝しているのは、主なる神様が招いて下さっているからです。神様は小さな子供から大人、お年よりまで、みんなを招いて下さっています。教会学校の生徒や保護者のお一人お一人のことをも、まだ洗礼を受けておられない大人の方々お一人お一人のことをも、神様はしっかり見つめておられ、招いて下さっているのです。洗礼を受けるというのは、その招きに応えて、自分も神様を信じて、救い主イエス・キリストと共に生きていく、そちらへと向きを変えることです。それによって私たちは、聖霊のお働きを受け、イエス様によって実現した罪の赦しの恵みにあずかり、神様の子どもとされて、新しい命を生き始めることができるのです。この礼拝に集っておられる、まだ洗礼を受けておられない大人の皆さん、ぜひ、続けて礼拝に集い、悔い改めて自分の罪の赦しを神様に願い、洗礼を受けて教会の一員となることを真剣に考えていっていただきたいと思います。また、教会学校の生徒の皆さん、中学生、高校生になっていく中で、皆さんも、神様が自分を招いて下さっていることを信じて、洗礼を受けてイエス様と一緒に歩んでいく人になることができますように、教会の皆が皆さんのために祈っています。

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