創立記念

アルファとオメガ

「アルファとオメガ」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 創世記 第1章1-5節
・ 新約聖書: ヨハネの黙示録 第22章6-21節
・ 讃美歌:6、69、575

教会の歴史の前進
 今日のこの礼拝は、横浜指路教会の創立136周年を記念する礼拝です。指路教会は明日、9月13日に、136歳の誕生日を迎えます。1874年、明治7年にこの教会は生まれました。それから136年の間、この教会において、聖書のみ言葉が語られ、礼拝がささげられ続けてきました。これまでたくさんの人々が、その礼拝においてイエス様と出会い、その救いの恵みにあずかってきました。教会の歴史は礼拝の歴史です。今日私たちがこうして神様を礼拝することによって、この教会の136年の歴史がさらに前進していくのです。今この礼拝に集っている私たち皆が、その歴史を担って歩んでいます。もう何十年もこの教会の教会員として生きている方々は勿論のこと、今日この礼拝で洗礼を受けて新しく教会員になる方々も、洗礼を受けてはいないけれども礼拝に集っておられる方々も、そしてこの総員礼拝に参加している教会学校の生徒や保護者の皆さんも、ここにいる全て人々が、この教会の歩みに参加しているのです。

聖書全巻リレー通読
 9月2日の木曜日の午後から今朝まで十日間、「聖書全巻リレー通読」が行われてきました。毎日、朝から晩まで、この講壇で、たくさんの人たちが入れ替わり立ち替わり、聖書を朗読してきたのです。旧約聖書の最初の創世記から読み始め、そして先ほどこの礼拝の始まる前に、ご一緒にヨハネの黙示録の最後の2章を読むことによってその通読が終わりました。この通読も、教会の歴史の大事な一こまです。沢山の人々がそれに参加しました。教会員は勿論のこと、その家族も、今日洗礼を受けるために準備しておられる方々も、その他の求道中の方々も、また他の教会に属しておられる方々も、最年少は、幼児洗礼を受けており、教会学校の生徒である小学校2年生の岩本天君でした。また教会学校生徒の保護者の方も参加して下さいました。さらには、お昼休みコンサートに来られ、そこで通読のことを聞いてその後残られた方も、朗読に参加して下さいました。宍戸ハンナ先生の婚約者である神学生の長尾さんも参加されました。本当に沢山の、そしてこの教会との関係もいろいろである方々が、この教会の136年の歴史の前進に参加して下さったのです。神様の恵みによってこのことが実現したことを心から感謝したいと思います。
 さて今日のこの礼拝では、聖書の一番最初と一番最後のところを朗読していただきました。本の内容を理解するために、最初と最後だけを読む、というやり方があります。そういうことをここでしようというわけではありません。私たちは教会全体で、聖書の全体を通読し終えたところです。最初と最後のところを読むことによって、その聖書全体を改めてふりかえり、私たちが聖書から聞き取るべき大切なことを確認したいと思うのです。

聖書の初めのところ
 聖書の最初のところに語られているのは、神様がこの世界を、そして私たち人間を創って下さったという天地創造の物語です。神様が「光あれ」と言われると光があった、そのように、この世界は、神様のみ言葉によって創られ、整えられたのです。このことは、まず第一に、この世界は神様のものであり、神様が支配しておられるのだ、ということを語っています。この世界は、そして私たち人間は、神様によって創られ、命を与えられ、導かれているのです。この世界があるのも、私という人間が生きているのも、神様のみ心によるのです。そして第二に、このことは、神様が私たち人間を心から愛して下さっている、ということでもあります。神様はこの世界を秩序ある所として整え、そこに人間を住まわせて下さいました。私たち人間を愛して、私たちが生きる場として、この世界を創って下さったのです。神様のこの世界に対するご支配の根本には、私たちに対する愛があります。み言葉によって世界を創られたというのも、そのことの現れです。この世界は神様のみ言葉によって、つまり語りかけによって創られ、支えられているのです。それは私たちが、その神様のみ言葉を聞いて、神様との交わりに生きるためです。神様は私たちと交わりを持とうとしておられます。それは、私たちを愛しておられる、ということなのです。聖書の初めのところに語られているのは、神様の愛によるご支配なのです。

聖書の最後のところ
 それでは聖書の最後のところ、ヨハネの黙示録は何を語っているのでしょうか。ここには、この世界の終わりのことが語られています。この世界は、自然に終わるのではありません。神様がこの世界を終わらせられるのです。そのことをヨハネ黙示録は語っています。つまり聖書は、神様によって始まったこの世界が、神様によって終わることを最後に語っているのです。この世界の初めも終わりも、神様のみ手の中にあり、神様が支配しておられるのです。

人間の罪と神による救い
 この最初と最後だけ読めば、聖書全体が分かるわけではありません。この初めと終わりの間に沢山のことが語られています。それを大胆に二つのことに絞ることができると思います。第一は、神様のご支配に対して人間がどれだけ逆らっており、神様に従わず、自分勝手な歩みをしているか、ということ、つまり人間の罪ということです。第二は、そのような罪の中にある人間に神様が救いを与えて下さる、という神様の恵みです。聖書は、神様によって始まり、神様によって終わるこの世界の歩みにおける、人間の罪と、神様による救いの恵みを描いている、と言うことができるのです。
 第一の、人間の罪についてですが、神様は、先ほど申しましたように、人間を心から愛して、命を与え、養い、育み、導こうとしておられます。そのためのこの世界を創って下さったのです。しかし人間は、その神様の愛を無にし、み心に背き逆らってばかりいます。その結果、人間どうしも愛し合うことができなくなり、いろいろな悲惨なことが起っています。特に旧約聖書には、そういう人間の罪に対する神様の怒りと裁きいうことが繰り返し語られています。そこだけを読むと、聖書の神様は厳しい恐ろしい方だという感じがしてしまいます。けれどもその神様は、もともと人間を心から愛して下さっている神様です。愛しているからこそ、その愛を受け入れず無にし、背き逆らう者に対する怒りを燃やされるのです。神様の怒りと裁きの背後には、深い愛があるのです。それゆえに、先程の第二のこと、罪人に対する救いが語られていきます。神様はただお怒りになるだけの方ではなくて、怒ると同時に、罪に陥っている人間に深い憐れみと慈しみを示して下さる方なのです。その憐れみと慈しみによって、神様は罪に陥っている私たちのための救いの道を開いて下さいました。そのために、独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さったのです。私たちが、主イエス・キリストによって罪を赦されて救いにあずかることが、神様が最終的に目指しておられることなのです。ヨハネの黙示録の最後のところにもそのことが語られています。22章14節にこのようにありますう。「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである」。「命の木に対する権利」、それは永遠の命にあずかる権利です。その権利を与えられ、門を通って都に入ることが、救われることです。この都は、この世の終わりに天から降ってくる、救われる者だけが入ることができる新しいエルサレムのことです。その都に入る門、道となって下さったのが、イエス様なのです。この救いの都に入る者は、「自分の衣を洗い清め」るのだ、と語られています。けれどもこれは、私たちが自分で自分の衣を洗い清めるということではありません。罪にまみれた私たちの衣は、自分でいくら洗濯しても清くすることはできません。私たちを清くすることができるのは、神様の独り子イエス・キリストが十字架にかかって流して下さった尊い血潮のみです。イエス様の十字架の死による罪の赦しの恵みをいただくことこそが、「自分の衣を洗い清める」ことなのです。そしてイエス様は、この罪の赦しの恵みを私たちに、ただで与えて下さいます。そのことが同じ22章の17節の後半に語られています。「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」。命の水を飲むことが、救われることです。私たちはこの夏の暑さの中でのどが渇いて死にそうになっている人のように、命の水を求めて渇いています。でもこの水を買うための代金を持っていません。イエス様による救いにあずかるのに相応しい正しさも、清さも、立派さも、力も、何も持っていないのです。でもイエス様は価なしに、ただで、命の水を、救いを与えて下さいます。いや、その代金はイエス様ご自身が支払って下さったのです。それがイエス様の十字架の死です。イエス様が、ご自分の命という代金を、私たちに代って支払って下さったことによって、私たちは、命の水を、タダで、いただくことができるのです。イエス様はここで、その命の水が欲しい者は私のところに来なさい、と私たちを招いて下さっています。私たちはこのイエス様の招きによって、イエス様のもとに来て、命の水をいただくのです。それが洗礼を受けるということです。本日は3名の方々が新たに洗礼を受けてこの教会に加えられます。洗礼を受けて信仰者、クリスチャンになるとは、イエス様のこの招きが自分に与えられていることを信じて、その招きに応えて、命の水をイエス様からいただくことなのです。

待ち望む信仰
 けれどもこのヨハネの黙示録が私たちに示そうとしている大事なことがもう一つあります。それは、先程も言いましたように、ここには、この世の終わりのことが語られている、ということです。この世の終わりはまだ来ていません。それは将来のことなのです。ヨハネ黙示録は、将来、この世の終わりにイエス様による救いが完成することを語っており、その救いを待ち望む信仰を私たちに与えようとしているのです。聖書が教えてくれているのは、この「待ち望む」信仰です。その信仰を教えるための鍵となる言葉がここに繰り返し語られています。それは「見よ、わたしはすぐに来る」というイエス様のお言葉です。7節にも、12節にもあります。そして20節にはこうあります。「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください」。聖書がその最後に告げているのは、イエス様がすぐに来られる、という約束なのです。私たちのために十字架にかかって死んで下さり、三日目に復活して天に昇られたイエス様がもう一度来られる。そのことによって、この世は終わり、神の国が完成するのです。その時、私たちの救いも完成するのです。このイエス様の約束を信じて、「アーメン、主イエスよ、来てください」と祈りながら生きるのが、私たちの信仰です。洗礼を受けて信仰者になるというのは、この祈りを共に祈る群れに加えられることです。今のこの世を生きる私たちの歩みには、いつも人間の罪と弱さがつきまとっています。私たちはその中でイエス様の招きによって救いにあずかりますが、その救いはまだ完成してはいません。そこには苦しみや悲しみがなおあり、自分の、また他の人の罪に嘆き苦しむことがなお起ります。しかしその中で私たちは、救い主イエス・キリストがもう一度来て下さり、私たちの救いを完成して下さることを信じて、主イエスが来られることを忍耐して待ち望みつつ生きるのです。

アルファとオメガ
 この待ち望む信仰は、決して不確かな、あやふやな、単なる願望ではありません。聖書の最初と最後を読むことによって示されること、つまり主イエス・キリストの父なる神様こそがこの世界を創り、支配しておられ、そしてその神様によってこの世界は終わるのだ、ということを見つめることによって、私たちは、「わたしはすぐに来る」という主イエスの約束が確かであることを確信することができるのです。ヨハネ黙示録の22章13節に「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」とあります。アルファとオメガは、新約聖書が書かれているギリシャ語のアルファベットの最初と最後の文字です。英語のアルファベットで言えば、AとZです。主イエス・キリストこそ、この世界の最初から最後までを支配し、導いておられる方であり、私たちの人生を、最初から最後までみ手の中に置き、支えて下さる方、私たちの救いを、最初から最後まで責任をもって実現して下さる方なのです。教会の136年の歴史は、このアルファでありオメガである主イエス・キリストを信じて、「主イエスよ、来てください」と祈りながら生き、そして天に召されていった多くの人々によって担われてきました。今度は私たちがその歴史を担い、世の終わりに来て下さる主イエスを待ち望みながら、それぞれに与えられている人生を、希望をもって歩み抜いていきたいのです。

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