クリスマス讃美夕礼拝

大きな喜びを告げる

「大きな喜びを告げる」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: ミカ書 第4章1-3節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第2章1-21節

大きな喜びを告げる
教会のクリスマス讃美夕礼拝にようこそおいで下さいました。今年のクリスマスを皆さんとご一緒に喜び祝うことが出来ることを感謝します。
先ほど、新約聖書ルカによる福音書第2章に記されているクリスマスの物語が朗読されました。その中に、主イエス・キリストがお生まれになった晩、その近くの野原で羊の群れの番をしていた羊飼いたちに天使が現れて、救い主の誕生を告げたという話が語られています。天使は「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と言いました。全ての民に与えられる大きな喜び、それが救い主イエス・キリストの誕生という出来事です。私たちは今宵、この大きな喜びの知らせを聞くためにこの讃美夕礼拝に集っているのです。
しかしイエス・キリストの誕生はどうしてそんなに大きな喜びの知らせなのでしょうか。この物語にあるように、イエス・キリストはベツレヘムという町で生まれました。生まれたばかりのイエスが飼い葉桶に寝かされたとあることから、その場所は馬小屋だったと言われます。なぜそんな所で生まれなければならなかったのか。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」とあります。イエスの母マリアとその夫ヨセフは、旅先で、宿屋を探したけれども泊まる場所を得ることができず、仕方なく馬小屋で出産を迎えたのです。臨月を迎えていた彼らがどうしてそんな旅をしなければならなかったのか。それは時のローマ皇帝アウグストゥスが、全領土の住民に登録をせよとの勅令を出したからでした。住民登録の勅令です。住民登録はローマが人々から税金を取るためになされます。ユダヤの人々にとってこの住民登録は、自分たちを支配している征服者であるローマに税金を取られるために、わざわざ登録に行かなければならないという屈辱的な苦しみです。このような望まない旅を、しかも身重の体をかかえてしなければならなかったマリアとヨセフの苦しみはなおさら大きかったでしょう。支配者、権力者の命令によって弱い貧しい者たちがこのような苦い旅を強いられ、その旅先の馬小屋で一人の赤ん坊が生まれた、この出来事のいったいどこに、「大きな喜び」などあるのでしょうか。

私たちの現実
クリスマスを迎えた私たちの現実に目を向けてみたいと思います。この2009年、私たちは、大きな変化を体験しています。今年のはじめには、アメリカで、オバマ大統領が就任しました。共和党のブッシュから民主党のオバマへの政権交代というだけでなく、初のアフリカ系アメリカ人大統領の就任はアメリカの歴史において画期的な変化です。アメリカの人々の間に、特に泥沼のイラク戦争の中で、それだけの大きな変化への期待があったということでしょう。日本でも、8月末の衆議院選挙において民主党が圧勝し、政権交代が起りました。いわゆる55年体制が崩壊したこの出来事によって、日本の20世紀がようやく終わったのだと言う人もいます。日本人の間にも、変化への期待が、かつてないほど強く起ってきています。アメリカにせよ日本にせよ、このように変化への期待が高まっているということは、それだけ現状における閉塞感が強まっているということです。私たちの社会は今、新自由主義という名の自己責任、弱肉強食の原理に、金融危機とそれによる厳しい不況があいまって、格差がますます広がり、貧困層が増えてきているという問題を抱えています。そしてその人々に対するセーフティーネットが構築されていません。多くの人々が、職や家を失って、前途に希望を見出せない中でこのクリスマスを迎えているのです。クリスマスだからといって暢気に喜んではいられない、という現実の中に私たちはいるのです。
今年もこの後で皆さんとご一緒に、アッシジのフランチェスコの「平和の祈り」を祈りたいと思います。「平和」ということについても、私たちは今年、いろいろなことを考えさせられています。オバマ大統領がノーベル平和賞を受賞しました。「核兵器のない世界を築こう」という彼の演説が評価されたのです。そういうことを言っただけでノーベル平和賞をもらえてしまうというのはずいぶん簡単なことだ、とも思います。しかしそれを、全人類を何度も滅亡させることができる量の核兵器を持っている軍隊の最高司令官である人が語ったところに意味があるわけです。そのオバマ大統領は、ノーベル平和賞受賞演説で、平和のための戦争はあり得ると発言して物議をかもしました。私は、彼の演説は非常にバランスの取れた、真摯なものであると思いますが、これに賛同するにせよ批判するにせよ、私たちはここから、軍事力と平和という問題について考えさせられます。これは鳩山政権が先送りしている、普天間基地の移転問題などとも関わってくる問題です。軍事力によって平和が守られる、ということは世界の歴史が示す一つの真理です。代表的なのは、「パックス・ロマーナ」という、ローマ帝国の覇権、支配の下での平和です。それを確立したのが、先ほどの聖書に出てきた皇帝アウグストゥスです。主イエス・キリストの誕生は、丁度このアウグストゥスによる「パックス・ロマーナ」の確立とほぼ時を同じくしていたのです。キリスト教が数十年で地中海世界の全体に広がっていったのは、このローマによる平和とその下での交通網の整備、人や物資の往来の安全が確保されたことによるという面が大きいのです。
そのように私たちは今、軍事力と平和という古くて新しい、そして難しい問題と直面しているわけですが、もう一つ私たちが直面している、昔はなかった新しい問題が、気候変動、地球温暖化です。これへの対策を話合う「コップ15」が先日終わりました。先進国と途上国の利害が対立して一時は決裂かと思われた会議でしたが、どうにか、「コペンハーゲン合意に留意する」ということを合意して終わりました。しかしこの会議を通して明らかになったのは、自分の国の利害を超えて世界全体、地球環境のために行動することがいかに困難であるか、ということです。それぞれの国が自らの利益を守ろうとして対立している内に、地球環境はどんどん悪化していく、という事態が起っていることをこの会議は明らかにしたと言えるでしょう。

飼い葉桶に寝ている乳飲み子
私たちは今、このような様々な問題、課題をかかえている中でクリスマスを迎えています。その私たちに今宵神様から大きな喜びの知らせが告げられるのです。その知らせとは、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」という知らせです。この知らせこそ、「民全体に与えられる大きな喜び」なのです。しかもそれに続く12節にはこうあります。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。飼い葉桶に寝ている乳飲み子こそが、民全体に与えられる大きな喜びの印だと天使は告げたのです。

神が告げて下さった喜び
この大きな喜びは、私たちが自分の周囲の状況を見つめていくことによって見出すことができるものではありません。また自分の心の中を探しまわって見つけることができる喜びでもありません。主イエスの馬小屋での誕生を喜びと感じることなど、まっとうな神経の持ち主には誰にも出来はしないのです。この大きな喜びは、外から、私たちのところに到来する喜びです。そもそも「大きな喜びを告げる」と言われていることがそれを示しています。この喜びは、外から、神様から告げられる喜びなのです。神様が告げて下さらなければ分からない、私たちの喜びとはならない喜びなのです。もともと私たちの心の中にある喜びならば、告げられる必要はないし、そのための印も必要ではないわけです。
それでは、神様が告げて下さった喜び、私たちのところに到来した喜びとは何でしょうか。それは、神様の独り子であられる主イエスが、一人の乳飲み子となって、この世に生まれて下さったということです。しかも、馬小屋の中で、誰にも顧みられず、受け入れてもらえない悲惨な状況の中で、私たちと同じ人間となって下さったのです。それは、神様の独り子イエス・キリストが、様々な苦しみを背負い、悩みや不安を抱いている私たちと同じ所に降りてきて下さったということです。私たちは、いろいろな意味での格差の中で、貧しさや劣等感による苦しみと惨めさを感じることがあります。人間関係の中で、相手に自分を理解してもらえない、お互いに心が通じ合わないという悲しみを抱くことがあります。病の苦しみにのたうち回り、なぜ自分だけがこのような苦しみを背負わなければならないのかと、神様にも人にも心を閉ざしてしまうことがあります。老いていき、以前はできたことができなくなっていくという悲しみに心塞がれてしまうことがあります。その他にも、私たちが味わう様々な苦しみがあります。苦しみは皆個々別々ですから、それを十把一絡げにすることはできません。しかし主イエスが馬小屋で生まれ、飼い葉桶の中に寝かされたという出来事は、そのような具体的な苦しみ、悲しみ、不安、悩みの中にいる私たちのところに、神様の独り子が救い主として来て下さったということなのです。それが、神様がクリスマスに告げて下さる大きな喜びなのです。

十字架と復活による救い主
主イエス・キリストは私たちのところに来て下さっただけではありません。この主イエスは、最後は十字架につけられて殺されました。死刑に処せられたのです。それは、何か悪事を働いたからではありません。主イエスは、ご自身は何の罪もないのに、私たちの罪を全て背負い、引き受けて、死刑になって下さったのです。何の罪もない主イエスが、神様に背き逆らってばかりいる罪人である私たちの身代わりとなって死んで下さったことによって、私たちの罪が赦されました。そして神様は主イエスを死者の中から復活させて新しい命、永遠の命を与えて下さったのです。この主イエスの十字架と復活によって、私たちは罪を赦されて新しくされ、神様の民として生きることができるようになったのです。主イエスが私たちの救い主としてこの世に来て下さったという恵みの出来事は、この主イエスのご生涯全体によって成し遂げられたのです。馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたという悲惨な出来事は、十字架の死に至る主イエスのご生涯の全体を先取りし、予告していると言うことができます。飼い葉桶に寝かされた乳飲み子主イエスを見つめる時、私たちはそこに、私たちの身代わりになって十字架につけられて死んで下さった主イエスのお姿を見るのです。そしてそこに、私たちのところに来て下さった神様の独り子、まことの救い主を見出すのです。

さあ、ベツレヘムへ行こう
この救い主は私たちの外から到来するお方です。つまり私たちは自分の周囲や自分の心の中をいくら探し回ってもこの救い主と出会うことはできないのです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」という神様からのお告げを聞くことによってこそ、この救い主と出会うことができるのです。しかし羊飼いたちは、天使のお告げを聞いただけで主イエスと出会ったわけではありません。お告げを聞いた彼らは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と言って、立ち上がり、ベツレヘムの町に向かったのです。「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」と16節にあります。神様から大きな喜びを告げられた彼らは、今度は自分で出かけて行って、その喜びの知らせを確かめたのです。このようにして羊飼いたちは、大きな喜びを本当に得ることができたのです。20節に、「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」とあります。天使が告げた大きな喜びの知らせが、このようにして羊飼いたち自身の喜びとなり、賛美となったのです。
この羊飼いたちの姿は私たちに大切なことを教えています。つまり私たちがこの讃美夕礼拝でクリスマスの出来事の「大きな喜び」を告げられたとしても、それだけで本当にその喜びを自分の喜びとして生きることはできない、ということです。この喜びに本当にあずかるためには、私たち自身が、自分の日常の生活から立ち上がって、主イエスのもとへと出かけていかなければならないのです。私たちのところに来て下さる主イエスをお迎えしなければならないのです。それは端的に言えば、毎週日曜日にこの場で行われている礼拝に集うということです。そのことによってこそ、私たちはあの大きな喜びにあずかって生きる者とされるのです。クリスマスは、その大きな喜びへの促しを神様が与えて下さる時なのです。

大きな喜びを体験する場
日曜日の礼拝こそ、私たちに告げられた大きな喜びを体験する場です。しかし教会で神様を礼拝する者となったからといって、私たちがかかえている様々な問題や苦しみがすっきりと解決してしまうわけではありません。けれども神様を礼拝することの中で私たちは、私たちのために一人の乳飲み子となってベツレヘムの馬小屋で生まれて下さった主イエス・キリストが、私たちの全ての罪と苦しみをも背負って十字架にかかって死んで下さった方でもあられることを知らされるのです。そしてその主イエスが、復活して今も生きておられ、私たちといつも共にいて下さることを知らされるのです。そして神様が、この独り子イエス・キリストによって私たちを心から愛していて下さり、その愛の中で私たちを養い、育んで下さることを信じて、その神様のみ手に自分の人生を委ねて生きることができるようになるのです。
平和の問題も同じです。私たちが神様を信じたからといって、それで世界が平和になるわけではありません。人間の罪による対立、争いはいつの時代にもあり、戦いがなくなってしまうことはおそらくこの世の終わりまでないでしょう。そういう現実の中では、軍事力と平和の問題に絶対的な正解を見いだすことはできないでしょう。私たちは個々の事柄について、悩み苦しみながら、それぞれの思うところに従って、平和を築くための行動をしていく他はないのです。どのように平和を実現するかという点では、同じキリストを信じる者の間でも考えは違うし、違ってよいのです。しかし考え方の違いはいろいろあっても、主イエス・キリストの父である神様を礼拝しつつ生きるところでは、私たちは一つになることができます。その父なる神様が独り子イエス・キリストを遣わして下さり、その主イエスが、争いや戦いを生み出す人間の罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪を赦し、私たちが互いに赦し合って平和を築いていくことができるようにして下さったのです。この恵みの中で私たちは、「わたしをあなたの平和の道具としてお使いください」という祈りを共に祈っていくのです。「平和の祈り」は、神様こそが平和を築いて下さる方であり、その神様が私たちを平和の道具として用いて下さるのだ、ということを信じていなければ本当には祈ることができません。またこの祈りの最後の二行には、この「平和の祈り」の根拠として、「わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからゆるされ、自分を捨てて死に、永遠のいのちをいただくのですから」とあります。私たちが人に与えることができるのは、そのことによってかえって自分が受けることになるからです。それは「見返りを求めて」ということではなくて、私たちに豊かに与えて下さる神様を信じているということです。ゆるすからゆるされというのも、私たちを豊かに赦して下さる神様がおられるということです。自分を捨てて死ぬことができるのは、肉体の死の彼方に永遠の命を与えて下さる神様がおられるからです。この、私たちに豊かに与えて下さり、赦して下さり、永遠の命を与えて下さる神様と出会い、共に生きる者となること、それこそが、日曜日の教会の礼拝において与えられる大きな喜びなのです。この喜びの中でこそ私たちは、「平和の道具」として生きることができるのです。
クリスマスは、神様が私たちに大きな喜びを告げて下さる時です。その喜びが、クリスマスの時だけの一時のぬか喜びに終わるのでなくて、私たちの人生全体を満たす喜びとなり、その喜びによって私たちが「平和の道具」とされていく、そういう喜びを皆さんとご一緒に味わっていきたいと願っています。そのために、どうぞ皆さん、教会の日曜日の礼拝においで下さい。そこでは、クリスマスに告げられた民全体に与えられる大きな喜びが、毎週告げ知らされているのです。

関連記事

TOP