主日礼拝

あなたは神のもの

「あなたは神のもの」  伝道師 矢澤 美佐子

・ 旧約聖書; ヨブ記、第42章 1節-6節
・ 新約聖書; マタイによる福音書 、第19章 16節-30節

 
 私達はそれぞれ、自分の将来について、理想の姿を描いて生きているのではないでしょうか。それは、若い時だけのことではなく、年老いても、「私は、このような自分でいたい」と思って生きているのではないかと思うのです。そして、私達はその理想に向かって毎日心を配り努力をしています。 今日、聖書に登場してきた青年もまた、自分の理想の姿を描いて、努力していたのです。常に善い行いを目指し、さらには、完全な善いことを求めて、主イエスに近づいたのです。  この青年は、たくさんの財産を持っていました。これまで、こつこつ努力を積み重ね、財産を貯めたのです。それと共に、高い地位にもついたのです。さらに、きちんと神に対する信仰もあり、戒めをみな守っていました。青年は、地上での生活で欲しい物は何でも持っていたばかりでなく、その生活を真面目に行っていたのです。周りの人は、この青年を立派な信仰者だ、と見ていたことでしょう。青年は、皆が認める模範的な信仰者だったのです。
 けれども、周りの人々の思いとはうらはらに、この青年は、自分の人生に満たされないものを感じていたのです。心の空洞を埋められないのです。自分は、まだ足りないものがある。そう思っていたのです。いくら努力を積み重ねて、たくさんの財産を持ち、皆から誉められような信仰を持っていても、安らぐことができないのです。安心することができないのです。この世では、十分に暮らしていけるだけの蓄えはある。地上での生活の保証はもう十分に得ている。
けれども、どうでしょうか。この地上での命は必ず終わりがくる。これまで努力して積み重ねてきたものは、この地上での命が終わると共に、あっけなく消え去るだけではないか。そのような空しい思いがいつも脳裏をかすめ、自分を不安にさせていたのです。

   私達もこの青年と同じ思いを抱くのではないでしょうか?これまで、こつこつ積み上げてきた物があります。努力して守ってきたものがあるのです。
 けれども、この地上での命の終わりと共に、これまで積み上げてきた物を全て手放さなくてはならなくなるのです。その時には、この地上で拠り所としていた物、生活の安らぎを得ていた物は、何の意味もなさなくなるのです。
 青年は、いつまでたっても不安でたまりません。そこで青年は、主イエスに近づき、必死の思いでこう質問をしたのです。
 「先生、永遠の命を得るには、どんな善い事をすればよいでしょうか」
 青年は、永遠の命が欲しかったのです。死によって滅びてしまう幸せではなく、永遠に続く幸せが欲しかったのです。神の国で永遠の命に生きる祝福を得なければ、本当の安らぎ、完全な幸せに至ってはいないと思ったのです。
 青年は、聖書をよく読み、戒めをきちんと守って来た人です。ですから、人間が必ず死に、自分自身もまた死ぬべき人間である事を知っていたのです。若くして、自分の終わりの時を見つめることができたのです。  そこで青年は、永遠の命について知っておられるであろう主イエスに近づき、永遠の命を得る方法を教えていただこうとしました。そして、さらに努力を積み重ね、何とかして永遠の命を手に入れよう。そう考えたのです。

 そこで、主イエスはこうお答えになりました。
 「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」
 青年は、「どの掟ですか」と問い返します。どの掟を守ったら永遠の命がいただけるのですか?「どの掟ですか」と問うのです。
 主イエスは、こうお答えになります。
 「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい』」  これは、十戒に言われている戒めです。当時のユダヤ人なら、子供でも良く知っています。もちろん、この青年も十分に知っていました。小さいころから、しっかりと守ってきた戒めです。だから、青年は、何を今さらと思ったのでしょう。青年は、こう主イエスに申し上げます。
 「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
青年は、完全に戒めを守って来ました。だから、主イエスに「そうか、では、永遠の命は、あなたの物だ」そう言って頂けると期待したかも知れません。
 しかし、主イエスは、青年にこう仰せになります。
 「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
 あなたはまだ完全ではない。これを聞いて青年はどうしたでしょうか。悲しみながら立ち去ったのです。何故でしょう。たくさんの財産を全て手放すことはできなかったからです。だから、青年は、悲しみながら立ち去るしかなかったのです。

 考えてみますと、この青年は、戒めをきちんと守って来たのです。ですから、貧しい人々にも施しをしてきたことでしょう。特にユダヤ教では、貧しい人々に施しをすることが奨励されていましたので、彼もそのような施しをしてきたのです。
 しかし、それはあくまでも、彼の生活が脅かされない限りにおいて、施しをしてきたのです。自分の生活の保証を犠牲にしてまでの施しはしてこなかったのです。これまで、こつこつ努力を積み重ねて得た数々の品物、大きな家や、金銀、召使い、高い地位。それらのものは、青年にとって努力の結晶であり、命の保証であり、自分がこれから生きていく拠り所だったのです。それらのものを、みな手放すことはできないのです。
 この青年の姿から、私達もまた同じように、自分の持ち物を全て手放し、貧しい人に施すことのできない自分であることを発見するのではないでしょうか。私達もまた、この主イエスの言葉を、悲しみながら聞くのではないでしょうか。この主イエスの御言葉に、驚き、悲しみ、嘆く者として、私達は、この御言葉を自分に語られている事として、真剣に聞かなければならないでしょう。

主イエスは、この後すぐ、弟子達に向かってこう仰せになりました。
 「金持ちが神の国に入るより、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
 それに対して、弟子達は、こう言うのです。
 「それでは、だれが救われるのだろうか」
私達も、この言葉にますます驚き、嘆くのです。私達は、金持ちの青年ほどではないけれど、生きていくために必要な蓄えを持っています。それを全て手放すことはできません。そういう私達です。そういう私達が、神の国に入ることは、らくだが針の穴を通るよりも難しいと言うのです。ほとんど無理ではないか。救われないのではないか。そう考えると、私達は不安でたまりません。私達は、一体どうすればよいのでしょうか。やはり、主イエスが青年に求められたように、私達は、永遠の命を得るためには、覚悟を決めて、全財産を手放なすしか方法はないのでしょうか。

 そこで考えたいのです。主イエスは、本当にここで、全財産を手放した者に永遠の命が与えられると、そう仰せになっているのでしょうか。永遠の命を得るには、財産を手放さなくてはならないのでしょうか。  私達は、主イエスがここで、ほんとうに伝えたいとされていることを、きちんと聞き取りたいと思います。一体、主イエスは、私達に、何を求めておられるのでしょうか?
 そこで、もし、全財産を捨てることができた人がいたらどうでしょうか?「私は、本当に全財産を捨てて主イエスに従った。」実際にそういう人がいるかもしれません。
しかし、良く考えてみたいのです。もしそれができたとしても、私たちの目の前にはコリントの信徒への手紙(Ⅰ.13:3)の御言葉が立ちふさがるのです。
「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」
 つまり、あなたは、貧しい人を愛するという心からしているのか?ということです。全財産を施したとしても、そこには自分を神に認めてもらおうとする思いがあるのではないか。結局、自分が救われるために、貧しい人を利用するということをしてしまっているのではないか。そのことを主イエスは、見つめておられるのです。
 そのことが良く分かるのが弟子達の態度です。弟子達は、青年が自分の財産を全て手放す事ができなかったのを見ていました。手放す事ができなかった青年を知っていて、主イエスにこのように言うのです。
 「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」
 何もかも捨てた、と言うのです。そうでしょう。ペトロは漁師でした。ペトロとアンデレの兄弟は漁師であることを捨てて、主イエスに従って参りました。ヤコブとヨハネの兄弟もそうでした。船と網と父とを置いたまま、「私に従って来なさい」と言われるままに主イエスに従ったのです。「何もかも捨てた」のです。
そして、ついには「では、何をいただけるのでしょうか」と神の前に手を出して、「私はあの青年とは違う。ほら、全てを捨てて、あなたに従っているではありませんか」そう言って、自分の行為を神の前に見せびらかしているのです。聖書は、とことん私達の姿を描いていきます。私達の罪深さを描ききろうとします。

 弟子達は、全財産を捨て、何もかも捨てて従ってきたのです。けれど、そこには、どうしても自分の行いによって、自分の神に対する敬虔な思いや善意によって、「よくやった、お前は正しい」と言っていただきたいという思いがあるのです。自分は、神に認めていただけた。だから、私の信仰は立派だ。そういう思いからどうしても抜け出すことができないのです。自分の功績によって、神にほめていただき、永遠の命をいただこう。そういう思いがどうしても付きまとうのです。神の為、貧しい人の為でなく、自分の為にしている自分自身がいるのです。
ですから、「わたしの行いは全て、完全に聖い心で行っており、自分の為でなく、貧しい人のため、神のためなのです。だから、永遠の命をください」などと言える人は、一人もいないのです。

だから、主イエスは、私達の力では、永遠の命を得ることは無理なのだと仰せになっておられるのです。らくだが針の穴を通る方がまだ易しいのです。
 考えてみますと、らくだが針の穴を通ること。それは、不可能に近いことです。糸を通すのも難しい針の穴。その針の穴にらくだが通るのです。そこで、私達はこう考えるかも知れません。
 キャラバン隊が荷物をたくさんらくだに積んで旅をする時に、本当に隘路というような所があって、らくだがそこを越えるのがとっても難しい。そこを越えるのに、大変な時間がかかる。そういう難所を、針の穴と呼んでいたのではないかと説明したくなるのです。そうやって、私達は、自分が自分の裁量で何とかできる領域に引き降したいと思うのです。ですから、通れないわけではないけれど、通るのが大変難しい所というような説明をつけたくなったりします。

 けれども、ここはどうでしょうか。不可能なのです。私はさっき、不可能に近いと申しました。不可能に近い。これは私達がやってやれない事ではないけれど、やるのが難しい、という意味で不可能に近いのではありません。私達には不可能なのです。らくだが針の穴を通る方が易しい。これは私達には不可能であると主イエスは仰せになっているのです。

 そこで、弟子達は言います。「それでは、だれが救われるのだろうか」口語訳ではおもしろい言い方をしています。「では、だれが救われることができるのだろう」救われることができる、と言うのです。
「救う」というのは、救って下さるお方がなさる事で、私達ができるとか、できないということではないはずです。けれども、ここでも弟子達は「救われることができるだろうか」と言うわけです。私達が何とかして、できる領域に引っ張り込みたいのです。
 そうではなく、私たちの方からは、救われることはできないのです。わたしたちができることではないのです。
 そこで、主イエスは彼らを見つめてこう仰せになります。
「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」
そうです。私達には不可能なのです。しかし、神には可能なのです。「神は何でもできる」のです。そして、「神は何でもできる」と言う御言葉。このことが持っている言葉の意味は大変なことなのです。「神は何でもできる」それは、自分の力で救われることのできない私達の為に、神は御子イエス・キリストを私達にくださるということなのです。神は、御子イエス・キリストを死に渡すことによって、私達に永遠の命をくださるのです。これは、徹底的に神の御業なのです。私達のどんなに多くの持ち物によっても、どんなに立派な功績によっても、とうてい手にする事が出来ないものを、神は御子の死によって、私達にお与え下さるのです。神は、愛する御子を死に渡し、その変わりに私達を救う、という畏るべきことをも、おできになるお方なのです。「神は何でもできる」のです。

 ここで、悲しみながら立ち去った青年の事を思います。彼は、欠けていたのです。何に欠けていたのでしょうか?青年は、完全な施しに欠けていた。だから、永遠の命が得られない。そうではありません。完全でない自分は、永遠の命を自分で獲得することができない。このことに気付き、主に従うことに欠けていたのです。完全であられるのはただ神のみであることを知り、その神に従うことに欠けていたのです。
 青年は、自分にはできない、と言うことに気付いたまでは良かったのです。しかし、自分にはできないことを受け入れられませんでした。認められなかったのです。だから、主イエスに「私はできない」と、正直に打ち明けることができない。主イエスに自分自身を明け渡し、従うことができなかったのです。
 主イエスは、この青年に、「主よ、罪人の私を憐れんで下さい。わたしにはできません」ということを求めておられたのです。自分の力を信じ、自分の力にすがっていた、その手を離し、主が差し出して下さっている救いの御手に、その手を握り変えることを、主は、求めておられたのです。「あなたは私のものだ」と言って下さる主イエスに、すがりつくことを求めておられたのです。

 私達は、青年と同じように「先生、どんな善いことをすれば良いのでしょうか」と、主イエスにお聞きしながら生きてしまいます。良いことをして、主に認めてもらい、安心したくなります。
しかし、私達は「どんな善いことをすれば良いでしょうか」と主に問う人生ではないのです。それは、「なぜ、善いことについて私に尋ねるのか。」と主イエスに言い返されるような、的外れな問いなのです。主イエスに「善い方はお一人である」と言い返されるような問いなのです。
ですから、私達は、救われるために、「善いこと」について尋ね求めて生きていく人生なのではありません。
そうではなく、私達のような罪人でも永遠の命が与えられ、神の国に生かして下さる「善い方」にすがって生きていくのです。

完全でない。罪人の私達。欠けたところだらけの私達。そんな私達を、なお愛して下さり、神のものとして、神の国に入れるために、死んでくださった主イエスに、丸ごとゆだねてついて行くのです。
 弟子達は主イエスに従いました。その本心は、「何かいただけるでしょうか?」と言ってしまう様な不純な動機だったかも知れません。主イエスを信じていると言いながら、最後には主を見捨てて逃げてしまうような弟子達だったかも知れません。けれども、主イエスはそのような、弱い弟子達、私達を全て受け止めて下さり、それでもいい、そんなあなたたちでもいい、私に従って来なさい、と招き続けて下さっているのです。

   そして、従う者達に向かって主イエスは、はっきりとこう仰せになっています。
「あなたがたも、わたしに従ってきたのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」また、「百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」
主に従う者に、何の報いもない、というのではありません。主を信じて従う者の歩みには、百倍の報いが与えられるのです。
 いくら自分の力で努力しても得られなかった物を、今、主イエスに委ねて従う者に、与えられるのです。永遠の命の祝福が与えられるのです。私達がどんなに全力を込めて、神に対して誠実になろうとしても、どこかで崩れてしまうような、そんな信仰でしかなくてもです。私達は、神の栄光を現し、神の祝福をもたらす者として、祝福して下さるのです。私達のどんなに愚かな言葉や、空しい信仰も、神が祝福をもって受け止めて下さり、私達をイスラエル、神の国の民として、百倍の報いを与えて下さるのです。
 そして、それは、もう既に始まっています。私達は、神の国の民とされ、神のものとされ、神の教会とされ、兄弟姉妹が与えられ、共に永遠の命に生きるという、ほんとうに豪華な報いが与えられているのです。私達の力では、決して得ることのできない、豪華な報いが、今、目の前に与えられているのです。私達は、今ここに、神の家族と共に、主の食卓に共に座り、肉体の糧をも分け合って生き、悲しみも共に、喜びも共にすることのできる、祝福に満たされた豊かな人生が始まっているのです。これからも、私達は、永遠に続く祝福に満たされた豪華な人生を、主イエス・キリストと共に歩んで行くのです。

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