主日礼拝

御子を待ち望む

「御子を待ち望む」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; イザヤ書、第46章 1節-4節
・ 新約聖書; テサロニケの信徒への手紙一、第1章 8節-10節

主の言葉が響き渡る
 主日礼拝において、テサロニケの信徒への手紙一を読み進めておりまして、先週は、1章の8節までを読みました。本日は、8節からを読みます。先週と今週で重なっている8節には「主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです」とあります。使徒パウロはここで、テサロニケの教会の人々が、主の言葉、神様の独り子イエス・キリストによる救いの恵みを告げる福音の言葉を、ただ聞いて信じ、受け入れただけでなく、そのみ言葉が彼らから、ギリシャ全土に、力強く響き渡っている、テサロニケ教会が伝道の拠点、み言葉の発信地となっている、そのことを心から喜び、彼らにと言うよりも、そのようにして下さった神様に感謝しているのです。主の言葉が彼らから響き渡っている、それは先週も申しましたように、主の言葉という情報を発信している、ということではありません。「神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられている」とあります。伝えられているのは、テサロニケ教会の人々の信仰の有り様なのです。彼らがどのように神様を信じ、主イエス・キリストの救いにあずかって生きているか、その様子が伝えられていくことを通して、主の言葉が響き渡っているのです。み言葉が伝えられ、伝道がなされていくのはこのようにしてです。それはただ知識として、言葉として伝えられていくのではなくて、それを信じ、それによって生きている人々の生活を通して伝えられていくのです。だからこそそれは、ただ伝えられるのではなく、「響き渡る」のです。知識や言葉は、伝えられることはあっても、響き渡ることはないでしょう。それによって生きる人々の生活が伴う時に、主の言葉は響き渡っていくのです。そしてそれは、右翼の街宣車のような、強圧的でやかましい響きではありません。このパイプオルガンの力強く美しい響きが私たちの心を揺さぶる、そのようにみ言葉は響き渡り、人々の心を揺り動かしていくのです。テサロニケの教会の人々の信仰の有り様を伝えているのは、テサロニケの人々ではありません。9節に「彼ら自身がわたしたちについて言い広めている」とあります。彼らとは、マケドニア州やアカイア州のみでなく、至るところの人々です。つまりテサロニケの人々が自分たちの信仰の生活を言い広めているというよりも、それを見聞きした人々が感銘を受け、次々にそれが言い広められているのです。これも、言葉が伝言ゲームのように伝えられていると言うよりも、ある音に共鳴して他のものが同じ音を発していく、そういう音の連鎖になぞらえた方がよいでしょう。主の言葉はそのように、至る所に共鳴しつつ響き渡っているのです。

伝道者と教会の信頼関係
 パウロがこの9節で、「わたしたちについて」と言っていることに注目したいと思います。伝えられているのはテサロニケの人々の信仰の有り様だけではないのです。パウロたち伝道者のことも共に言い広められているのです。これはただ単に、テサロニケの人々の信仰とその生活はパウロたちによって教えられたものであり、彼らはパウロたちと同じ信仰に立ち、歩んでいるのだ、テサロニケの人々とパウロたちは一つなのだ、ということを言っているのではないでしょう。9節の後半に、「すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか」とあることからそれが分かります。人々が言い広めているのは、テサロニケの人々がどのような信仰の生活をしているか、ということだけではなく、パウロたち伝道者が彼らの間でどう迎えられたか、ということ、つまり、伝道者と彼らとの関係がどうであるか、ということでもあるのです。主の言葉が響き渡っていく、ということにおいて、伝道者と教会の人々との関係ということをパウロは大切な要素としてあげています。み言葉を語り伝える者と、それを聞く者との間に、よい関係、しっかりした信頼関係があることによってこそ、主の言葉は響き渡っていくのです。「わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか」となっています。これを読むと、教会の人々が伝道者たちをどのようにしっかりと迎えたか、伝道者をどれだけ大切にし、尊重したか、という話であるように感じます。しかし原文を読むと、「迎えられた」という意味の言葉はないのです。前の口語訳聖書ではここは「わたしたちが、どんなにしてあなたがたの所にはいって行ったか」となっています。こちらの方が原文の直訳に近いのであって、用いられているのは、「迎える」ではなく「入る」という言葉なのです。つまり主語は「あなたがた」ではなく「私たち」、つまり伝道者たちの方です。伝道者たちが、テサロニケの人々のところに、どのようにして入って行ったか、そこでどのようにふるまい、どのようにみ言葉を語り、どのように生活したか、ということが言われているのです。ですからここでは先週読んだ5節の後半の、「わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです」というところと同じことが見つめられています。伝道者と教会の人々とのよい関係、信頼関係は、まず、伝道者がどのように人々の間に入って行くか、その伝道者のふるまいにかかっているのです。

語る者も聞く者も
 しかし勿論、そのよい関係、信頼関係は、伝道者を迎えた人々のあり方にもかかっています。信頼関係は、双方のあり方が相俟って生まれるものです。テサロニケの人々も、パウロたち伝道者の働きに、しかりと応えていったのです。その姿が、9節の後半から10節の前半に語られているのです。「また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを」とあるのがそれです。パウロたち伝道者の働きの様子と、彼らを迎えたテサロニケの人々のこのような信仰の有り様、その両者が呼応しあって、そこにすらばらしい信頼関係が生まれたのです。それが、パウロがここで言っている「彼ら自身がわたしたちについて言い広めている」ことの内容です。パウロらと、テサロニケの教会の人々との間のこのすばらしい信頼関係によって、主の言葉が響き渡っているのです。主の言葉はこのように、それをしっかりと語る者がおり、またそれをしっかりと聞く者がいることによって、そして語る者においても聞く者においても、それが本当にその人の生活の中に息づき、生き方の根幹となることによって、人間の思いを越えて響き渡っていくのです。テサロニケ教会において起っていたのはそういうことでした。語る者がいても聞く者に聞く耳がなければ、どんなにすばらしいみ言葉が語られてもそれは響き渡っていきません。また、聞く耳のある者がいても、しっかりと語る者がいなければ、やはり響き渡っていきません。そして、語る者も聞く者も、そのみ言葉によって生かされ造り変えられていくのでなければ、やはり響き渡ってはいかないのです。

偶像から離れ
 テサロニケの人々は、パウロらの語る福音のみ言葉によって生かされ、造り変えられました。その内容が今読んだ9節10節です。まず9節には、「あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか」とあります。テサロニケの人々はみ言葉によってこのように造り変えられたのです。テサロニケはギリシャの大都市です。ギリシャ文明には、ギリシャ神話に描かれているように沢山の神々がいます。それらの像が町の至る所にあります。みんな、人間が造った像、偶像です。そしてそれぞれの神々がぞれぞれの役割を持っていて、何をお願いする時はどこそこの神のところへ行ってお参りする、というようなことが行われていたのです。テサロニケの人々は、そういう神々の世界、偶像の世界の中を生きていたのです。しかし彼らはそのような偶像の神々から離れて、主なる神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったのです。そういう回心、立ち帰り、転換が彼らに起ったのです。偶像から生けるまことの神に立ち帰ることは、私たちにおいても起っています。日本の社会も、ギリシャの社会とある意味似たところがあって、沢山の神々がいます。神として祭られる様々な偶像があり、それらを拝むことが習慣的に行われています。お正月になると多くの人々が神社に初詣に行きます。私のいた富山鹿島町教会の近くに、富山県護国神社があって、大晦日の夜、紅白が終わる頃になると急に教会の前がにぎやかになります。みんな教会の前の道に車を停めて護国神社に初詣に行くのです。中には、教会の前でも手を合わせて拝んでいく人もいます。いろんな神様を拝んでおいた方がご利益が多いと思うのでしょうか。私たち日本人は、クリスチャンとなる時に、そういう偶像礼拝を退け、ただ一人の、生けるまことの神をのみ信じ、礼拝する者となるという回心、立ち帰り、転換をします。偶像から離れて神に立ち帰ることは、私たちの信仰においても、テサロニケの人々と同じように大切な要素なのです。

背負って下さる神
 しかし私たちはこの「偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになる」ということが本当に分かっているでしょうか。偶像に満ちたこの社会の中で生きることにおいて、私たちは信仰の戦いを求められます。偶像礼拝と、それに関係することを避けようとする時に、いろいろな軋轢が生まれます。例えば、仏教のお葬式に連なる時に、遺体に向かって手を合わせることは偶像礼拝ではないか、お焼香をすることはどうなのだろうか、家族や親戚の法事に連なることはどうなのだろうか、家にある仏壇や神棚は処分しなければならないのだろうか、会社や仕事上の関係の中で宗教行事に付き合わされる時はどうしたらよいのだろうか、家を建てる時に地鎮祭を行うことはいけないのではないだろうか、町内会の会費から神社へのお布施が支払われることには反対すべきなのだろうか、考え出せばきりがなくいろいろなことが出てくるのです。この社会の中でキリスト信者として生きる私たちの生活は、日々、このような偶像礼拝的なものとの戦いの中に置かれています。そういう生活をしていく中で、私たちはいつのまにか、「偶像から離れて神に立ち帰る」ということの根本を見失って、「こういうことはしてもよいのだろうか、それともいけないのだろうか」「どこまではキリスト信者としてしてもよいことで、どこから先は偶像礼拝に当たるのだろうか」というようなことばかりを気にするようになってしまっていることはないでしょうか。そうなるとその生活は、律法を守ることに汲々とし、こういうことは律法違反に当たらないだろうかをびくびくしながら生きていた当時のユダヤ人たちと同じことになってしまいます。「偶像を離れて神に立ち帰る」ことが、一つの律法となって、「クリスチャンらしい立派な生活をする」ということになってしまうのです。しかし、偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになることは、そんなせせこましいことではありません。ユダヤ教の律法に代る新しい律法の下で生きる者になることではないのです。偶像と、生けるまことの神の違い、それを最も端的に言い表しているのが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書46章1?4節です。その1節に、「ベル」とか「ネボ」とあるのが、偶像の神々です。ここで見つめられているのは、国が戦いに敗れて、人々が敵から逃げていく、そういう敗走の場面です。その時に、偶像の神々は、獣や家畜に背負わされて人々と共に逃げていくのです。しかしその像は次第に重荷となり、逃げていく人々の足手まといになり、結局は敵に捕われて、捕虜となった人々と共に敵の分捕り品になっていくのです。そこに見つめられている偶像の本質、それは、人間が背負っていかなければならない神、ということです。人間が、自分の手で造り出し、刻んだ偶像は、人間の思いや願いの投影です。それは私たち人間と共に立ちもし倒れもするのです。人間が元気で力強い時には、偶像も力や威厳を持っているように見えます。しかし人間が弱り衰えていく時には、偶像も力を失い、むしろ重荷となっていくのです。人間が担い、背負っている神、それが偶像の本質です。それに対して、生けるまことの神とはどのような方であるかが、3、4節に語られています。「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ」とあります。それは、バビロニアによって国を滅ぼされ、バビロンに捕囚として連れてこられた人々、祖国を失った敗残の民です。もはや自分の力で立つことのできない、弱さと苦しみの中にいる民に対して、主なる神様はこう言われるのです。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」。あなたがたを造り、今まで背負ってきたのはわたしだ、そしてわたしは、あなたがたを最後まで背負い続ける、と主は言われます。「老いる日まで、白髪になるまで」、つまり、あなたがたがどんなに弱り衰えていく時にも、最後まで担い続ける、わたしはあなたがたを造ったのだから、造った者として最後まで責任を持つ、と神様は言われるのです。生けるまことの神とは、このように、私たちをどこまでも背負って下さる方です。そこに、偶像とは正反対の、生けるまことの神の本質があります。偶像を離れ、生けるまことの神に立ち帰るとは、自分で神々を造り出し、それを自分の力で担い、自分が倒れれば神も共に倒れるという生き方をしている私たちが、神様に担われ、背負われ、救い出される者へと変えられることなのです。「生けるまことの神に仕えるようになる」とは、私たちがいろいろな奉仕をして神に仕える者となるというよりも、私たちを最後まで責任をもって担い、背負い、救い出して下さる主なる神様を喜び、み名をほめたたえ、礼拝しつつ生きる者となることです。それによって私たちの人生に、本当にしっかりとした土台が与えられます。私たちがどんなに弱り、苦しみ、悲しみ嘆き、もう自分の足で立つことができないと思う時にも、私たちのことを背負っていて下さり、支えていて下さる方がおられるのだということを示されるのです。テサロニケの人々は、自分が全てを担い、背負い込んで生きる、という生活から、神様によって担われ、背負われて生きる生活へと、方向転換を与えられたのです。そこには人生の本当の喜びと力の源があります。自分が神様によって最後まで徹底的に背負われているという喜びを与えられることによって、私たちは、自分の重荷を、背負って行く力を与えられるのです。偶像から離れて神に立ち帰るとは、偶像を拝んではならないという戒めを守るために汲々として生きる者になることではなくて、人生の本当の喜びと力の源を与えられて生きることなのです。その喜びと力とを知るならば、人間が造り、担っている偶像は私たちにとって、もはや何の意味も持たない無駄なもの、どうでもよいものになるのです。

御子を待ち望む
 「更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを」とあります。御子イエス・キリストが天から再び来られるのを待ち望む、テサロニケの人々はその待望の信仰に生きる者となったのです。10節後半には「この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」とあります。御子イエス・キリストは、神が死者の中から復活させて下さった方です。その前提には当然、この御子が十字架にかかって死なれたことがあります。神様の独り子であられるイエス・キリストが、私たちのために人間となってこの世に来て下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。そこに、神様が私たちを最後まで背負って下さるという恵みの具体的な現れがあります。イザヤ書には、「老いるまで、白髪になるまで」とありましたが、それは別の角度から言えば、私たちがどんな罪人であっても、神様に逆らい、敵対する者であっても、その私たちを最後まで背負って下さる、ということでもあるのです。それが主イエスの十字架の死の意味です。私たちが偶像から離れて立ち帰る生けるまことの神は、天の高みから私たちを見下ろしている方ではなくて、独り子なる神として人間となり、十字架の苦しみと死とによって私たちの罪を背負い切り、それを赦して下さる方なのです。そして父なる神様は主イエスを復活させて下さいました。それは、主イエスの十字架によって成し遂げられた罪の赦しの恵みが、死の力にも勝利して、私たちに新しい命、永遠の命を与えるものであることを示すためです。主イエスの復活によって、神様の恵みの力が、私たちの生きている間だけでなく、死んだ後にも、肉体の死を越えた彼方にも及んでいることが示されたのです。言い換えれば、神様が私たちを、死においても、死んだ後にも、なお背負っていて下さることが示されたのです。そしてそれだけではありません。復活して天に昇られ、父なる神の右に座しておられる主イエスが、そこからもう一度来て下さり、神様のご支配が目に見える仕方で顕わになり、それによってこの世が終わり、神の国が完成する、そういう時が来ることが約束されているのです。その時には、私たちも、主イエスの復活にあずかって復活し、新しい体を与えられ、永遠の命に生きる者とされるのです。主イエスの再臨を信じ、そこにおける私たち自身の復活を信じることは、荒唐無稽なことに思えるかもしれません。けれども、もしもそれがないならば、私たちを結局最終的に支配するのは死の力だということになるのです。神様の恵みも死の力に打ち勝つことはできない、せいぜい、死の支配の中でもなんとか平安を与えるぐらいの力しかない、ということになるのです。それは、聖書が教えていることとは違います。聖書は、生けるまことの神様の力、ご支配は、死にも打ち勝つものだと告げているのです。それが具体的に起ったのが、主イエスの復活です。そしてそれは主イエスにのみ起ることではなくて、私たち一人一人にも与えられる恵みです。そのことが、御子が天から来られる再臨の時に実現するのです。生けるまことの神は、私たちを最後まで責任もって背負って下さる、それは、この世の終わりの、御子の再臨における復活に至るまで、ということなのです。御子が天から来られるのを待ち望むというのは、神様が私たちを最後まで背負っていって下さる、その恵みを信じ、そこに希望を置いて生きることに他ならないのです。御子の再臨を待ち望む信仰は私たちに、この世における最後の希望が断たれた後もなお残る、究極的な希望を与えるのです。

喜びと祝いの食卓
 偶像から離れ、生けるまことの神に立ち帰ることと、御子が天から来られるのを待ち望むようになることとは、このように、一つのことです。それは、主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられているまことの喜びと希望に生きる者とされることなのです。テサロニケ教会の人々は、この喜びと希望に生きていた、それによって、主の言葉が彼らから響き渡っていったのです。私たちも、彼らと同じ喜びと希望を与えられています。これからあずかる聖餐はその喜びと希望の食卓です。パンと杯にあずかることによって私たちは、主イエス・キリストが私たちの罪の赦しのために肉を裂き、血を流して十字架の上で死んで下さった、その恵みを味わいます。罪人である私たちを、神様が御子の十字架の死によってどこまでも背負って下さる、その喜びを味わうのです。それと同時にこの食卓は、主イエスの再臨によって神様のご支配があらわになり、神の国が完成する、その時に神様のもとであずかる喜び祝いの食卓の先取りです。パウロが伝えた聖餐制定の言葉の中に、「だからあなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」とあります。主が来られる時まで、御子が天から来られるのを待ち望みつつ、私たちは聖餐にあずかるのです。この喜びと希望の食卓を共にしつつ生きるのが教会です。私たちがこの喜びと希望に生かされ、御子を待ち望みつつ生きていく時に、主の言葉は私たちのところからも出て、この世に響き渡っていくのです。

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