夕礼拝

サウルの最期

「サウルの最期」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:サムエル記上 第28章1-25節
・ 新約聖書:使徒言行録 第13章16-25節
・ 讃美歌:294、462

ペリシテの王のもとに身を寄せたダビデ
 私が夕礼拝説教を担当する日には、旧約聖書サムエル記上からみ言葉に聞いてきましたが、本日がその最後となります。サムエル記上の後半は、イスラエルの最初の王サウルが没落し、代ってダビデが頭角を表わし、王となる道を昇っていく様子を語っています。本日は28章だけを朗読しましたが、27章から31章までを通して、サウルの最期と、そこでのダビデの姿を見ていきたいと思います。
 ダビデは、ペリシテとの戦いにおいて、大男ゴリアトを倒してイスラエルを勝利に導き、イスラエルの将軍として確固たる地位を築いていきました。サウルはそのダビデを次第に警戒するようになり、遂にはダビデを殺そうとするようになりました。それでダビデはサウルのもとを逃れ、荒れ野で逃亡の生活を送りつつ、武装集団を形成していきました。27章には、ダビデがイスラエルの宿敵であるペリシテの王のもとに身を寄せ、その家臣になったことが語られています。ペリシテの王アキシュは、ダビデがサウルに憎まれて自分の方に寝返って来たことを喜び、彼にツィクラグという町を与えました。ダビデはペリシテ王のもとに身を寄せつつ、力を蓄えていったのです。しかしペリシテとイスラエルは長年の敵ですから、当然両者の間に戦いが起ります。そうなると、ダビデは同胞であるイスラエルと戦わなければならなくなります。そのことが28章の始めのところに語られています。1~2節です。「そのころ、ペリシテ人はイスラエルと戦うために軍を集結させた。アキシュはダビデに言った。『あなたもあなたの兵もわたしと一緒に戦陣に加わることを、よく承知していてもらいたい。』ダビデはアキシュに答えた。『それによって、僕の働きがお分かりになるでしょう。』アキシュはダビデに言った。『それなら、常にあなたをわたしの護衛の長としよう』」。ペリシテの王アキシュはダビデに、同胞と戦う覚悟を問うたのです。それに対してダビデは、「イスラエルを相手にひと暴れしてみせましょう。それによって私の忠誠心がおわかりになるでしょう」と答えたのです。そのように勇ましいことを言いつつダビデの心は千々に乱れていたに違いありません。このままでは同胞と戦わなければならなくなる、どうしよう、と思っているのです。

主の託宣が得られない
 28章4節から、場面はサウルの側に転換します。ペリシテ軍が攻め上ってきたので、サウルもイスラエルの全軍を集めて陣を敷きましたが、サウルの心は恐れおののいていました。彼は主なる神に託宣を求めた、と6節にあります。戦いに臨んで主のお告げを得ようとしたのです。しかし「主は夢によっても、ウリムによっても、預言者によってもお答えにならなかった」とあります。ここは注意深く読まなければなりません。普通、主なる神に託宣を求めることは祭司を通してするのです。しかしここには祭司が出てきません。ウリムというのは祭司が身につける祭具です。祭具はあるが祭司はいないのです。何故そうなったのか、その原因はサウル自身にあります。22章に、逃亡中のダビデを祭司アヒメレクが助けたことに腹を立てたサウルが、主の祭司たちを皆殺しにしたことが語られていました。だからサウルのもとにもう祭司はいないのです。祭司たちを皆殺しにしておいて、主なる神に託宣を求めても得られないのは当然です。

死んだサムエルの言葉
 そこでサウルは、「口寄せのできる女」を捜しました。「口寄せ」というのは、死んだ人の声を語る人のことで、呪術、魔法のたぐいです。サウルはその口寄せによって、戦いにおいていつも指示を仰いでいたけれども、死んでしまったサムエルの声を聞こうとしたのです。しかし「口寄せのできる女」は簡単には見つかりません。それは、3節後半にあるように、「サウルは、既に国内から口寄せや魔術師を追放していた」からです。彼がそのようにしたのは、主なる神が律法において、ご自分の民であるイスラエルに、魔術や占い、口寄せによって死者に聞こうとする者がいることを固く禁じておられるからです。主なる神の民であるイスラエルが聞き、従うべき方は主なる神お一人なのであって、その他のもの、例えば魔術によって死者の声を聞くようなことは、「あなたには私の他に神があってはならない」という十戒の第一の戒めを破ることになるのです。サウルは以前には神の律法に従って、口寄せや魔術師を追放しました。しかし今、危機的な状況の中で、神のお告げを得ることができないという窮地に立たされて、自らが追放したはずの口寄せに頼ろうとしているのです。そこには、主なる神のみ心からますます離れ、滅びへの道をころげ落ちていくサウルの姿が描かれています。彼は、ようやく捜し出した口寄せ女によって、死んだサムエルを呼び起こしてこう言いました。15節です。「困り果てているのです。ペリシテ人が戦いを仕掛けているのに、神はわたしを離れ去り、もはや預言者によっても、夢によってもお答えになりません。あなたをお呼びしたのは、なすべき事を教えていただくためです」。溺れる者がわらをも掴む思いでサムエルの霊に訴えたのです。しかしサムエルの霊からの答えは何の慰めをももたらしませんでした。「サムエルは言った。『なぜわたしに尋ねるのか。主があなたを離れ去り、敵となられたのだ。主は、わたしを通して告げられた事を実行される。あなたの手から王国を引き裂き、あなたの隣人、ダビデにお与えになる。あなたは主の声を聞かず、アマレク人に対する主の憤りの業を遂行しなかったので、主はこの日、あなたに対してこのようにされるのだ。主はあなたのみならず、イスラエルをもペリシテ人の手に渡される。明日、あなたとあなたの子らはわたしと共にいる。主はイスラエルの軍隊を、ペリシテ人の手に渡される』」。「主があなたを離れ去り、敵となられた」。主なる神が敵となられたのだから、もうどうすることもできないのです。あなたの王国は取り上げられ、ダビデに与えられる。この戦いにおいてイスラエルは敗北し、明日、あなたとあなたの子らはわたしと共にいる、つまり、明日、あなたがたは死ぬ、ということです。この、何の希望もない絶望の宣告によって、サウルはうちのめされました。このサムエルの言葉の中に、もともと神によって選ばれ、王として立てられたはずのサウルが何故このように見捨てられ、王国を取り上げられることになったのか、その理由が示されています。それが18節の「あなたは主の声を聞かず、アマレク人に対する主の憤りの業を遂行しなかったので、主はこの日、あなたに対してこのようにされるのだ」ということです。これは15章に語られていたことです。アマレク人との戦いにおいて、神が、その全てを滅ぼし尽くせと言っておられたのに、サウルは値打ちのあるものを戦利品として残しておいたのです。それは彼が、神のみ言葉に従うよりも自分の思いによって行動したということでした。それがサウルのつまずきの始まりだったのです。そのことによって彼は、神によって与えられた王国を失う道をたどり始めたのです。

同胞と戦うことを免れたダビデ
 29章に入ると、場面は再びダビデの方に戻ります。イスラエルとの戦いのために陣をしいたペリシテ軍の中に、ダビデがいます。彼は王アキシュの護衛のためにそのしんがりに位置していました。するとペリシテの武将たちがダビデへの疑いをもらし始めたのです。29章4、5節にこうあります。「だが、ペリシテの武将たちはいらだってアキシュに言った。『この男は帰らせるべきだ。彼をもともと配置した所に戻せ。我々と共に戦いに向かわせるな。戦いの最中に裏切られてはならない。この男が元の主人に再び迎え入れられるには、ここにいる兵士たちの首を差し出すだけで十分ではないか。『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と人々が歌い踊ったあのダビデではないか』」。元々敵だったダビデに裏切られたらたまらない、ということです。それでアキシュは仕方なくダビデを戦線から離脱させ、自分の町に帰すことにします。ここに、主なる神の不思議な導きがあります。このようにしてダビデは、同胞と戦うことを免れたのです。

アマレクへの勝利
 さて30章には、ペリシテとイスラエルの戦いのことが語られるに先立って、ダビデをめぐる一つのエピソードが語られています。ダビデがペリシテの陣営を離れ、自分の町ツィクラグに帰ってみると、アマレク人によって町は焼かれ、ダビデの家族や町の者たちは捕虜となって連れ去られた後でした。兵士たちは大いに嘆き悲しみ、こんなことになったのはダビデのせいだ、と反抗的になり、ダビデを苦しめました。6節にこうあります。「兵士は皆、息子、娘のことで悩み、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したので、ダビデは苦しんだ。だが、ダビデはその神、主によって力を奮い起こした」。苦しみの中でダビデは主によって力を奮い起こした、それは具体的には、主なる神の託宣を求めたということです。そこに、祭司アビアタルが登場します。この祭司を通してダビデは「この略奪隊を追跡すべきでしょうか。追いつけるでしょうか」と神に問い、「追跡せよ。必ず追いつき、救出できる」というお告げを受けたのです。サウルが、主の託宣を求めても得られなかったのとは対照的に、ダビデは主なる神によってなすべきことを示され、励ましを与えられたのです。ダビデのもとにいた祭司アビアタルは、22章でサウルによって殺された祭司アヒメレクの息子です。彼だけが逃れて、ダビデのもとに身を寄せていたのです。このようにして、サウルのもとには祭司がおらず、ダビデのもとにはいる、ということになったのです。そのことが、サウルは神からのお告げを得ることができず、ダビデはそれを得て励まされる、という対照的な結果を生んだのです。ダビデはこのお告げに励まされてアマレク人を追い、打ち破って捕われていた人々を救い出しました。アマレクを打ち破った、という点では先ほどの15章のサウルと同じです。そしてダビデもその戦いにおいて多くの戦利品を得たのです。しかしその戦利品についての姿勢が、サウルの場合とは全く違っていました。そのことが30章21節以下に語られています。ダビデの部下600人の内、200人は、急激な追跡行についてゆけず、疲れて途中で落伍しました。ダビデは残った400人と共にアマレクを打ち破ったのです。しかしダビデは、それによって得られた戦利品を、落伍した200人の者にも同じように与えました。落伍して戦いに加わらなかった者には与える必要がない、という人々に対するダビデの言葉が23節以下です。「しかし、ダビデは言った。『兄弟たちよ、主が与えてくださったものをそのようにしてはいけない。我々を守ってくださったのは主であり、襲って来たあの略奪隊を我々の手に渡されたのは主なのだ。誰がこのことについてあなたたちに同意するだろう。荷物のそばにとどまっていた者の取り分は、戦いに出て行った者の取り分と同じでなければならない。皆、同じように分け合うのだ』」。主なる神が守って下さり、勝利を与えて下さったから、これらの戦利品を得ることができたのだ、つまり、これらは戦った400人の力によって獲得したものではなくて、神が与えて下さったのだ。だからそれを自分の手柄にするのではなく、感謝して公平に分けようというのです。そこに、主なる神の恵みと導きを常に覚え、その恵みに応えて生きようとするダビデの姿勢が現れているのです。

サウルの最期
 最後の31章はついに、ペリシテとイスラエルとの戦いの場面です。イスラエルは破れ、ダビデの親友であったヨナタンを始めとするサウルの息子たちも戦死し、ついにサウルも追い詰められてギルボア山上で自害して果てます。ペリシテ軍はサウルの遺体をベト・シャンの城壁にさらしものにします。イスラエルの最初の王サウルはこのようにしてその生涯を終えたのです。

サウルとダビデの違い
 サウルの最期はまことに悲惨なものでした。主なる神に見捨てられ、もはや神の言葉を聞くこともできず、自分でもどんどん神から離れ、神がお怒りになる道を、坂道をころげ落ちるように落ちていったのです。そしてサムエル記は、そのサウルの悲惨な最期を語ると同時に、それと対照的なダビデの姿を描いています。ダビデが、サウルよりも立派で信仰深い人として描かれているわけではありません。ダビデもまた、敵であるペリシテの王のもとに身を寄せつつ、その王を欺くという人間的な策略を用いて、ずるがしこく立ち回っています。その結果、同胞と戦わなければならない危機に陥ってもいるのです。しかし彼とサウルとの違いは、彼がどんな時にも主なる神に対して心を閉ざしてしまうことがなかったということです。サウルは、ダビデへの反感から祭司たちを殺してしまいました。祭司を殺すということは、神の託宣を求める道を自ら閉ざしたということです。そしてその結果、自分で追放したはずの口寄せによって死者に問うという、主なる神が最もお嫌いになることへと走ったのです。そのようにして彼は、主なる神との対話のチャンネルを自分でどんどんつぶしてしまいました。ダビデはそれに対して、苦しみ、困難の中でも、窮地に立たされても、神のみ言葉を求め、それによって歩んだのです。そこに、サウルとダビデの違いがあったと言えるでしょう。

選ばれた者と捨てられた者
 しかし、そのような人間的な違いは紙一重です。この二人の運命を分けた根本的なことは、サウルは神に捨てられ、ダビデは選ばれたということです。サウルの没落は、神に捨てられた者が必然的にたどらなければならなかった歩みであり、ダビデの上昇は、神に選ばれた者が必然的にたどる道だったのです。そのことを、本日の新約聖書の箇所である使徒言行録13章の21、22節が語っています。サウルが立てられ、しかし退けられて代わりにダビデが立てられたことが、このように言い表されているのです。「後に人々が王を求めたので、神は四十年の間、ベニヤミン族の者で、キシュの子サウルをお与えになり、それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う』」。サウルの没落も、ダビデの台頭も、全ては主なる神のみ心によることだ、ということです。このことによって示されているのは、私たちの救いは、人間の力や努力によってではなく、神の恵みのみ心によって与えられるのであり、神がお見捨てになるならば、私たちは滅びていくしかない、ということです。私たちが救われるのも滅びるのも、主なる神のみ心次第なのです。

主イエス・キリストによって
 それでは自分はいったいどっちなのだろうかと私たちは考えます。自分はダビデのように神に選ばれ、救われる者なのだろうか、むしろサウルのように見捨てられて滅んでいく者なのではないだろうか、と不安になるのです。しかしそんな不安を抱く必要はありません。私たちの救いも滅びも、神のみ心次第です。その神が、私たちを救うために、ダビデの子孫として独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さったのです。この主イエスが、私たちの罪をことごとくご自分の身に背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。私たちが受けるべき、罪人としての死と滅びを、主イエスが代って引き受けて下さったのです。つまり、神に捨てられる者の滅びを、主イエスがその身に受けて下さったのです。そして父なる神はその主イエスを復活させて下さいました。それは、私たちを救って下さろうとしている神の恵みが、罪と死と、それによってもたらされる滅びに打ち勝ったということです。主イエス・キリストを信じることによって私たちは、主イエスの十字架と復活による神の救いにあずかっているのです。だから私たちは、自分は救われるのだろうか、見捨てられて滅びるのだろうか、と不安になる必要はないのです。主なる神は私たちを選んで、主イエス・キリストを信じる信仰を与えて下さり、私たちを救われる者として下さっているのです。勿論それは、もう救いへのパスポートを持っているから安心だ、ということではありません。そのように言うことは、人間をお裁きになることができる主なる神を侮ることになります。しかし言えることは、私たちには、主イエスによって、いつでも、どんな状態においても、神との対話のチャンネルが開かれているということです。いつでも、どこからでも、神のみ言葉を聞き、悔い改めてみもとに立ち返ることができるということです。ダビデも、そのような生涯を歩んだのです。神に選ばれ、救いにあずかる人は、常に新しくみ言葉を聞き、それによって悔い改めて神のもとに立ち帰り続けるのです。神はその道を常に開いて下さっています。その道がもうない、神とのチャンネルがもう閉ざされてしまった、と思ってしまうところに、私たちの滅びの危機があるのです。

サウルの生涯も神のみ手の中にあった
 サウルは神に見捨てられて死にました。しかしサムエル記上31章が描くサウルの最期は、決して惨めな、不名誉なものではありません。サウルは心の内に深い絶望を抱きつつ、しかし最後までイスラエルの王として雄々しく戦って死んだのです。31章の語り方には、サウルに対する同情や敬意が込められているように思います。また、31章11節以下には、ギレアドのヤベシュの住民が、ベト・シャンの城壁にさらされているサウルの遺体を取り下ろし、火葬に付して自分たちのところに葬り、その死を悼んだと語られています。ギレアドのヤベシュは、サウルによってアンモン人から救い出された町でした。このことによってサウルはイスラエルの王として即位したことが11章に語られています。その時サウルは、「今日、主がイスラエルにおいて救いの業を行われた」と言ったのです。サウルもかつてはそのように、主なる神に用いられたのです。ヤベシュの人々はサウルの恩を忘れませんでした。そして感謝の内にサウルを丁重に葬ったのです。これらのことに、サウルの生涯も、やはり主なる神の恵みと憐れみのみ手の中にあったことを感じ取ることができるように思うのです。

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