夕礼拝

主の言葉を退けるなら

「主の言葉を退けるなら」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:サムエル記上 第15章1-23節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙 第2章1-18節
・ 讃美歌:6、463

アマレクを滅ぼせ
 月に一度、私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書、サムエル記上からみ言葉に聞いています。本日はその第15章です。サムエル記は、イスラエルがそれまでの緩やかな部族連合体から王国となっていった、その過渡期を描いています。その時期に、主なる神によって立てられてイスラエルを導いたのがサムエルでした。彼は神から示された人に油を注いで王としたのです。最初に王となったのはサウルでした。しかしサウルは王としての務めを全うすることはできず、結局は神に見捨てられてしまったのです。本日の15章には、そのことが決定的となったいきさつが語られています。
 主なる神はサムエルを通してサウルに、アマレク人を攻め滅ぼすようにと命じました。それは2節にあるように、イスラエルの民が奴隷とされていたエジプトから、主の導きによって脱出して、約束の地カナンへと旅していた時、アマレク人が妨害したことに対する罰です。その時のことは出エジプト記の17章に語られているのですが、その時以来アマレク人はイスラエルにとって宿敵だったのです。主は、そのアマレク人を徹底的に滅ぼせ、とサウルにお命じになりました。3節に「行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない」とあります。私たちはこれを読むと、神はなんと残酷なことを命令するのか、これではプーチンより酷いではないか、と思います。今日の感覚からするとそういうことになるわけですが、約三千年前のこの時代には、今日私たちが普通に持っているいわゆる人道的感覚というものはなかった、ということを意識しておかなければなりません。ですから現在の感覚でこの話を批判することは不適切です。ヒトラーのナチスはユダヤ人に対してこれと同じことをしようとしました。三千年前にアマレクを絶滅させたユダヤ人が、20世紀になるとナチスによって絶滅させられそうになったのです。しかし20世紀においては、それは国際法に違反する戦争犯罪として、また人道に対する罪として厳しく断罪されました。人類は、幾多の虐殺や戦争の悲惨な体験を経て、そういう人道的な感覚を養ってきたのです。だから今は、戦争にも国際法が適用されて、無差別な殺戮は戦争犯罪とされています。ウクライナにおける戦争においても、お互いに、相手が戦争犯罪を犯している、と非難し合うということが起っています。今は、戦争にも一応ルールがある、ということになっている。それは人間の感覚や常識の進歩として喜ぶべきことです。それでもやはり戦争の悲惨さに変わりはない、という現実を私たちは今目の当たりにしているわけです。聖書に語られているのは、そのような人道的感覚もルールも全くなかった時代のことですから、そこにこだわって前に進めなくなるのではなく、聖書がこの話によって何を語ろうとしているのかを読み取っていきたいのです。
 さてサウルは神からの命令を受けて、兵士を召集してアマレクに対する陣をしきました。6節には、アマレク人と共にいたカイン人に、あなたがたを巻き添えにしたくはないから避難するようにと伝えたことが語られています。カイン人は別の箇所では「ケニ人」とも言われていて、モーセのしゅうとがその民族だったとされています。そういう関係もあって、彼らはイスラエルに好意的であり、助けてくれたのです。アマレクを攻める前に彼らを避難させているサウルは、決して、逆上して無差別に殺戮を行なうような人ではありません。そういう意味でも彼は王としての資質に欠けていたわけではありません。しかしサウルは、このアマレクとの戦いにおいて、神に見捨てられるようなことをしてしまったのです。それは何だったのでしょうか。

サウルがしたこと
 サウルに率いられたイスラエル軍はアマレク人を討ち、8節にあるように、神の命令の通りにその民をことごとく剣にかけて滅ぼしましたが、アマレクの王アガクだけは生け捕りにしました。また9節には、「しかしサウルと兵士は、アガク、および羊と牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、小羊、その他の上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさず、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くした」とあります。主なる神の命令は、王をも含めた全ての人を殺し、動物たちも全て滅ぼせということでしたが、サウルはその命令痛りにしなかったのです。彼は、皆殺しにせよという神の命令は余りにも残酷だから、人道的見地から一部の人を生かしておいたのではありません。生かしておいたのは王アガク一人であって、他の人は皆殺しにしたのです。何のためにアガクを生かしておいたのでしょうか。古代の戦争においては、勝利した王は凱旋パレードをして、人々に自分の勝利を大々的に示す、ということが行われていました。あのロシアの「対独戦勝記念日」のパレードのようなものです。その凱旋行進に、打ち破った敵の王を捕虜として引いていき、人々の目にその姿を晒す、ということが行われたのです。それは王の勝利の何よりの証拠であり、その威光を人々に示す絶好の機会です。サウルは、諸国の王たちがしているように、アガクを自分の凱旋行進に引き出すために生かしておいたのでしょう。彼のそういう思いは、12節に「自分のために戦勝碑を建て」たと語られていることからも分かります。彼の中には、自分の華々しい勝利を人々に示し、誇りたい思いがあったのです。
 家畜についてはどうでしょうか。9節にあったように、上等なもの、肥えたもの、つまり値打ちのある家畜は生かしておいて、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くしたのです。そのことをサムエルに責められたサウルは15節でこう言っています。「兵士がアマレク人のもとから引いて来たのです。彼らはあなたの神、主への供え物にしようと、羊と牛の最上のものを取って置いたのです。ほかのものは滅ぼし尽くしました」。つまりこれは兵士たちがしたことだ、ということです。それはそうだったのでしょう。24節ではこうも言っています。「わたしは、主の御命令とあなたの言葉に背いて罪を犯しました。兵士を恐れ、彼らの声に聞き従ってしまいました」。肥えた家畜を生かしておこうとしたのは兵士たちであり、彼は兵士たちの思いに従ってしまったのです。では兵士たちは何のために肥えた家畜を生かしておこうとしたのでしょうか。今の15節にも、そして21節にも、「主への供え物にしようと」とあります。主なる神への供え物とするために肥えた家畜を生かしておいた。それは一見とても信仰深いことのように思われます。しかし、そもそも全てを滅ぼし尽くすということ自体が、全てを神にお献げする、という意味なのです。つまり主がお命じになったこの戦いは、宿敵であるアマレクの脅威を取り除くためと言うよりも、彼らを全て神への献げ物とするためだったのです。
 神への献げ物にはいくつかの種類があります。最も重要なのは「焼き尽くす献げ物」です。全てを焼き尽くして神に献げるのです。主の命令は、アマレクをこの焼き尽くす献げ物として献げよ、ということでした。ちなみに、この「焼き尽くす献げ物」を意味する言葉が「ホロコースト」です。それは今日ではナチスによるユダヤ人大虐殺のことを意味する言葉となりました。先ほども申しましたように、この時イスラエルがアマレクに対してしたのと同じことを、後にナチスがユダヤ人に対してしたのです。そして今、ウクライナにおいてもそれと同じようなことが行われていることを私たちは深い悲しみをもって見つめています。このような虐殺は決してあってはならないことです。本日の箇所の話は、大量虐殺を正当化しているのでは決してありません。この話において聖書が語っているのは、全てを滅ぼして焼き尽くす献げ物とすることを命じられていた兵士たちが、その中の上等なものを取っておいて、それを神への献げ物としようとしたということです。つまり彼らは、戦いにおいて得た戦利品を、焼き尽くす献げ物ではなくて、普通の献げ物にしたのです。普通の献げ物においては、献げた動物の肉の一部が祭壇で焼かれ、残りは献げた人のものになります。焼き尽くす献げ物においては文字通り全てを焼き尽くして神に献げるから手元には何も残りませんが、普通の献げ物なら、献げた人間がその一部を手に入れることができるのです。兵士たちはそれを狙っていたのです。ですから、「主への供え物にしようとした」という兵士たちの言葉は、神を敬う信仰による言葉のように聞こえますけれども、実は自分たちの分け前を求める思いがそこにはあるのです。サウルは兵士たちのそういう思いを認め、受け入れたのです。それは彼自身が、アガクを自分の勝利を誇るために生かしておいたことへのうしろめたさから、兵士たちの思いも叶えてやった、ということかもしれません。いずれせよ彼はこのように、主なる神のご命令の一部だけを実行することによって、自分と兵士たちの願い、欲望を叶えようとしたのです。

主の言葉を退けたサウルは王位から退けられる
 主なる神はこのサウルの行動を問題になさいました。そして11節でサムエルにこう言われたのです。「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない」。神の命令の一部を行うことによって神に従っていることを示しつつ、そこで自分の思い、欲望をも叶えようとする、それは「わたしに背を向け、わたしの命令を果たさない」ことだ、そのような者をイスラエルの王としたことを悔やむ、と主は言われたのです。その主の言葉を聞いてサムエルは「深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ」とあります。これはサムエルが主なる神に、サウルを赦し、見捨てないで下さるようにと必死に執り成し祈った、ということでしょう。サムエルはサウルを救おうとしたのです。しかし、夜通し祈った末に示された主のみ心は、サウルを王の位から退ける、ということでした。22、23節にそのことが語られています。「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。反逆は占いの罪に、高慢は偶像崇拝に等しい。主の御言葉を退けたあなたは、王位から退けられる」。主の御声に聞き従うこと、それに耳を傾け従うことこそが、イスラエルの王に求められている最も大事なことなのです。サウルはその主の御言葉に背き、それを退けたのです。それゆえに神は彼を王位から退けるのです。
 サウルが王として立てられながら、結局その位から退けられてしまったことの理由がここに語られています。しかしこれを読むと私たちはやはり納得できない思いを抱くのではないでしょうか。確かにサウルは、神の命令をその通りに行いませんでした。そこには自分の威光を人々に示そうとする思いがありました。しかし彼は基本的には神のご命令に従ってアマレクを滅ぼしたのです。神の命令の目的は達せられているのです。それなのに、そこにおいて完全に命令の通りにしなかったことによって王位から退けられてしまうというのは、余りにも酷ではないか。ほんの僅かな命令違反にこのように目くじらを立てるのは、了見が狭すぎるのではないか。そのように感じるのではないでしょうか。そのことについて、さらにみ言葉に基づいて考えていきたいと思います。

サウルは自分を取るに足らぬ者を思った
 主なる神はサウルに、あなたは私の言葉を退けた、と責めておられます。それはどういうことなのでしょうか。主のご命令を一から十まで全てその通りにしなかった、ということなのでしょうか。一から九までは従っても、最後の一つを行なわなければ、あとの九つは全て無になり、主の言葉を全て退けたことになる、それが主なる神のみ心なのでしょうか。そうではないでしょう。主のみ心は17節のサムエルの言葉に示されています。「サムエルは言った。『あなたは、自分自身の目には取りに足らぬ者と映っているかもしれない。しかしあなたはイスラエルの諸部族の頭ではないか。主は油を注いで、あなたをイスラエルの上に王とされたのだ』」。ここに、サウルのしたことの根本的な意味が示されているのです。サウルは、自分自身を、取るに足らぬ者と思ったのです。それはどういうことでしょうか。サウルはアガクを凱旋行進に連らせ、自分の勝利を人々に示そうとしました。それは彼が、自分の勝利をそのように示すことによって王としての威光を保とうとした、ということです。そうしなければ人々は自分を王として敬い、従って来ないのではないか、という不安がそこにはあります。ロシアの対独戦勝記念日のパレードの背後にもプーチンのそういう不安があります。また彼は、分捕った家畜の一部を自分たちのものにしたいという兵士たちの思いを受け入れました。それは、兵士たちのご機縁を取ることによって彼らの心を自分に繋ぎ止めておこうと思ったからです。24節で彼自身が、「兵士を恐れ、彼らの声に聞き従ってしまった」と言っています。つまり彼がしたことは、人々が自分を王として敬ってくれるための、また兵士たちの自分への忠誠心を繋ぎ止めておくための、小細工だったのです。そのようなことをしたのは、彼が、自分は取るに足りないちっぽけな者で、いつ人々に見捨てられ、王位を失ってしまう分からない、と思っていたからです。しかしサムエルはそのサウルにこう言っているのです。「しかしあなたはイスラエルの諸部族の頭ではないか。主は油を注いで、あなたをイスラエルの王とされたのだ」。つまり、あなたは自分が思っているような取るに足りないちっぽけな者ではない。あなたは神によって油を注がれ、イスラエルの王として立てられた者なのだ。あなたの王位は、人々の評判や人気によってではなくて、主なる神によってこそ支えられているのだ。兵士たちがあなたに従っているのも、あなたが彼らのご機嫌を取っているからではなくて、主なる神の力によることなのだ。あなたは主なる神の選びと支え、導き、守りの中で王として立てられている。あなたはそのことを自覚し、そのことに依り頼んで歩むべきだった。それが、イスラエルの王として立てられたあなたがなすべきことだったのだ、とサムエルは言っているのです。サウルはこのことを見失ったのです。その途端に、自分のちっぽけさばかりが目に入るようになり、自分は取るに足りない者だということを恐れるようになり、そして自分でどうにかして威厳を示し、人の心を繋ぎ止めて王位を守ろうとしたのです。つまり彼がしてしまった失敗は、神の命令を一から十まで完全に守らなかったということではなくて、主なる神が自分に与えて下さっている大きな恵みから目を離し、神が自分を大切に思い、重んじて下さっていることを見失って、自分を取るに足らぬ者と思ってしまったことだったのです。彼は主の言葉を退けた、それは、滅ぼし尽くせという命令の通りにしなかったことではなくて、「わたしはあなたを選び、イスラエルの王として立てる。イスラエルのまことの王であるわたしが、これからはあなたを通してこの民を守り、導いていくのだ」と言って下さった、その主の御言葉を退けた、ということだったのです。この主の恵みの御言葉を退け、そこから目を離したことによって彼は、自分は取るに足りない者だという不安に陥り、自分の力でどうにかしなければと思ってしまった、それが彼の失敗だったのです。

神が重んじて下さっていることを知っているなら
 私たちにも、サウルに与えられたのと同じ恵みが与えられています。主なる神が私たちを選び、教会へと、礼拝へと導いて下さり、救いにあずからせて下さったのです。その救いは、主イエス・キリストの十字架と復活によって実現したものです。神の独り子である主イエスが、私たちのために、私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。そのことを告げるみ言葉が私たちに語りかけられています。私たちはみ言葉を聞くことによって、神がその独り子を与えて下さったほどに、私たちのことを愛し、重んじ、大切にして下さっていることを示されているのです。サウルが主によって選ばれて王として立てられたのと同じ恵みが私たちも与えられているのです。その私たちも、主の恵みの御言葉を見失い、退けてしまうなら、サウルと同じように、自分は取る足りないちっぽけな者だ、という恐れと不安に捕えられていきます。そして主のみ言葉に従うのでなく、自分の思いによって歩み始めてしまうのです。つまり、主が自分のことを本当に大切に思い、愛して下さっていることを告げるみ言葉を見失う時に私たちは、主のみ心に逆らう歩みに陥るのです。主なる神が自分を愛し、重んじて下さっていることを知っている者は、主のみ心に従って歩むことができるのです。本日共に読まれた新約聖書の箇所、フィリピの信徒への手紙第2章には、主イエス・キリストがそのように歩まれたことが語られています。まことの神であられる主イエスが、自分を無にして、へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで父なる神に従順であられたのです。主イエスがそのように歩まれたのは、父なる神が自分を子として愛し、重んじ、信頼して、人々の救いのために遣わして下さったことを知っておられたからです。父なる神が自分を愛し、重んじて下さっていることを知っているので、自分も父なる神を愛し、み言葉に従順に生きた、それが主イエスのご生涯だったのです。
 この主イエスの十字架の死に至る従順な歩みによって、神が私たちをどれほど愛し、重んじて下さっているのかが示されています。その神の愛を告げるみ言葉をしっかり聞くことによって、私たちは、自分は取るに足らぬ者だ、という不安や恐れから解放されるのです。それは、自分は立派な者だと思う、ということではなくて、神が、その独り子の命を与えて下さったほどに、弱く罪深い自分を愛し、重んじ、大切にして下さっていることを知らされる、ということです。それによって私たちは、主の言葉を退けてしまったサウルとは違う道を、主が自分を生かし、導き、み業を行って下さることを信じて歩んでいくことができるのです。

関連記事

TOP