夕礼拝

大牧者がお見えになる

「大牧者がお見えになる」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: 申命記 第11章26-32節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第5章1-5節
・ 讃美歌 : 267、278

それぞれの違い
信仰生活はすべての人のためにあるものです。どのような立場の人でも、神様を信じ、イエス・キリストを信じることができます。しかし、この世での職業、働きが違い、家庭に違いがあるようにそれぞれが送る信仰生活は違います。信じる信仰の内容は同じでも、信仰生活の仕方は違います。ペトロの第一の手紙にはそのことがよく現されております。なぜなら、この手紙の少し前でありますが2章の18節には「召し使いたちへの勧め」と小見出しがあります。召し使い、人に仕える奴隷の立場にある信仰者に対して勧めをしています。それに続いて、3章では「妻と夫」と小見出しがあり、信仰のある妻が、夫に対してどういう生き方をしなければならないかを、教えています。そしてその後の7節には「夫たちよ」と夫に対しても勧めをしています。召し使いも妻も夫もそれぞれの生活があり、それぞれの場所において信仰の戦いがあることをペトロは良く知っておりました。

長老とは
そして本日の5章においては「長老たちへの勧め」をしております。これは今までの考え方とは少し違います。 長老とは、召し使いのような社会的立場ではなく、また妻や夫のような家庭における関係でもないのです。長老 とは教会の中における事柄であります。5節に「若い人たち、長老に従いなさい。」とあります。ですから長老 とは字の通り、年を重ねた者という意味もあるのです。どこの社会でも集団が形成されると、その中にいる見識 がある年上の人、年を重ねた者は豊かな経験がありますので、それゆえに尊敬されることも多かったでしょう。 それゆえに年を重ねた者が群れの指導者的立場を担っていたのです。本日の箇所で語られていることは、長老が 教会でどんな働きをし、教会の仲間たちが、長老に対してどういう態度をとったらよいか、という、教会生活に ついての、具体的な教えであります。
ペトロは「わたしは長老の一人」として、自分自身の立場を明らかにして、どういう立場であなたがたに勧 め、勧告を与えるかを語ります。ペトロは使徒であり、伝道者でした。そのペトロが、自分も長老の一人と言っているということは、彼が語りかけている相手の長老たちも同じように伝道者のような役目をしていたということになります。この頃は「長老」と言う言葉の意味がまだ厳密には定まっていなかったとも言えます。ですから、ここでの長老は、教会の中にいる見識があり比較的年上で指導の責任を負い、教会の世話をしている人物たちと言えるでしょう。教会がキリストの体となるように奉仕をするのが長老の働きであります。
そのような働きを担うのが長老であります。そしてペトロは「わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。」と自分のことを「わたしは長老の一人として」勧めます。ペトロは使徒であり、伝道者であったのであります。それなら、自分も長老の一人というのは相手の長老も、同じように伝道者のような役目としていたということになるでしょう。この頃はまだ「長老」という言葉の意味がまだ定まっていなかったと言えます。しかし、今日でも「長老」と言うときには宣教長老と治会(会を治める)長老というのがあって、伝道者・牧師は宣教長老であって福音を宣べ伝え、教えをなす長老と言われているのです。それに対して、治会長老とは牧師と一緒に教会を治める長老であります。教会が秩序ある、信仰によって歩む者として相応しくあるように指導する長老であります。そのようなことが、この地上において教会がキリストの体となることです。キリストの体とはこの地上における教会全体がイエス・キリスト体として働くことです。信仰者とはキリスト教の団体に入っている者である言うのではなく、キリストに属する者になるということです。キリストの体の一部になって生きることです。キリストの体の一部分なのですから、キリストと血のつながりがある、キリストと関係があるということです。信仰者がキリストの体の一部となるのであれば、キリストに喜ばれるような生活をし、御心にかなった生活をしていくことが大事なのであります。長老にとって大事なことは「キリストの証人」になることです。

受難の証人
ペトロは「長老の一人」として勧め、また、自分は「キリストの受難の証人」であり「やがて現れる栄光にあずかる者」であると言います。「キリストの受難の証人」とは、主イエス・キリストの受難を受けて証しをするのです。証人とは証しするのです。信仰によってキリストを証しする生活をするであります。自分の力で信じるように、信仰を獲得したのではなく、神様の独り子イエス・キリストの十字架と復活によって罪を赦され、救われたのが信仰者です。信仰者はイエス・キリストの十字架と復活によって救われたことを証しするのです。長老もそのようにイエス・キリストを証しするものであり、信仰者も証しするのです。 そしてペテロはここでわざわざ自分は「キリストの受難の証人」と言っております。キリストの受難とは、キリストの十字架における苦しみのことです。ペトロは十字架における受難の証人でもあるというのです。もし、 そういうなら「キリストの受難」だけでなく、「受難と復活の証人」であると言うこともできるのです。むしろ その方が適切かもしれません。イエス・キリストの救いは、十字架における受難と復活によるものであります。 それなのに、わざわざ「キリストの受難の証人」と語るのは、この手紙の相手が迫害の状況下にいるからであり ます。このペトロの第一の手紙は、迫害の中にある信仰者たちを慰め、励ましを与えるために書かれた文書で ありました。ペトロは、自分が何よりもイエス・キリストの十字架における受難の出来事によって救われたこと を信じていました。イエス・キリストの受難は、人間の罪を贖うために、十字架において死んで下さったことで す。主イエス・キリストが十字架における苦難を受けられたのは人間の罪を贖い、人間を救うためだったのです。キリストの受難は人間を救うためだったのです。ペトロは、自分はそのキリストの受難の証人である、と 言うのです。この「証人」とは英語の殉教者(martyr)の語源であって、苦難を通して信仰を立証していく人の ことです。殉教者たちは、そのようにして迫害や苦難をイエス・キリストの信仰を立証する機会としたの です。そして、そのような殉教者たちは、イエス・キリストが再び来られるとき、主イエス・キリストと同じ栄光 にあずかるというのです。ペトロはキリストの受難の証人でありまた「やがて現れる栄光にあずかる者」である と言っております。ペトロは長老の一人として、今苦難や迫害を受けている教会、信仰者の指導者という 立場の一人として勧めております。それは、教会に連なる信仰者に対しても勧めているのです。迫害を受けてい る者たちは、この世において「キリストの受難の証人」であり、「やがて現れる栄光にあずかる者」であると勧 めているのです。

謙遜に
ペトロは長老たちに続けて勧めます。「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。」( 2節)この「神の羊の群れを牧しなさい。」と言う命令は主イエスがペトロに与えたものです。ペトロは主イエ スに救われ、主イエスと共に生活をして、主イエスの伝道の活動に共におりました。ヨハネによる福音書第21 章において、復活した主イエスがペトロに会って下さったことが記されております。復活された主イエスはペト ロに向かって、三度「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい」と言われました。羊を飼い、 世話をすることは「牧する」「養う」ことであり羊に食物を与え、彼らを敵や危険から守り、安全な場所に導こ とです。主イエスはペトロが立派な者だから語るのではなく、キリストの恵みによって罪が赦され、生かされて いる者として、語るのです。ペトロは自分が主イエスから「わたしの羊の世話をしなさい」と言われたことを思 い起こしているのです。ペトロが長老達に対して「神の羊の群れを牧しなさい」と勧めたのは、教会の長老、指 導的立場にある者たちは他の信仰者達を守り、導くのことを勧めるからであります。どのようにして信仰者を守 り、導くのかとして注意すべきことを挙げております。「強制されてで はなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。」強制されてではなく、自ら進んでとあります。ですから、 自分に与えられていることを自ら進んで行うのです。「神に従って」とは「神様に望まれるように」と言うこと ができます。そして「卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を 振り回してもいけません。」(2-3節)「群れの模範になりなさい。」と勧めております。誰一人を支配 しょうとするのではなく、ただ模範となるように心掛けることを求められております。主イエスは弟子たちに 言われました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配 し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くな りたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(マルコ10: 42-44)ペトロは長老に群れの模範となることを勧めます。群れの模範となることはすべての人に僕として 仕えることであります。群れの模範となることは、すべての人に対して僕として仕えることとはどのようなことでしょうか。

大牧者が現れる
5節にこのようにあります。「同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』からです。」とあります。ここで「皆」とは長老も若い人もということです。若い人たちだけ謙遜になるのではなく、長老が年配であるがゆえに、それに続いて、その若い人も長老達も、「皆」謙遜になるように、と勧めているのです。「皆互いに謙遜を身に着けなさい。」とは教会を形成するときに、キリストの体なる教会に属するものが皆学ぶことが謙遜であるのです。「身に着ける」とは「結ぶ」という意味があります。「結ぶ」とはそのようにして謙遜という上着、着物をしっかりと身に結びつけると、勧めるのです。様々な場面において方面から謙遜さを身に着けよ、と勧めるのです。ただ若い人が長老という年上の者に従うだけでなく、長老達自身に対する戒めであるのです。単なる遠慮深さということではなく、他人の語る言葉をきちんと聞いてあげることです。私たちの日常の生活における嘆きとは、自分の思うように事柄が進まないことではないでしょうか。自分の言うことを聞いてくれない、他者が自分の思う通りに動いてくれない。そのような呟きが、心の呟きとなり、嘆きとなるのです。私たちはいつでも、人が自分の言うことを聞いてくれない、自分の思った通りに事柄が進まないことを嘆くのです。思いがけないアクシデントが人生において起こってしまうことも嘆くのです。嘆き、腹を立てて生きてしまうのです。ここでは、互いに他者の言うことを聞くことが難しいのであれば、まず自分が謙遜に耳を傾けることを学んでみたらどうか勧められるのです他者の言うことを聞くのが難しいとは、人の言葉に耳を傾けることが難しいということです。人間は本性から、人の言うことを聞くことができないのです。真実の謙遜にはなれないのです。それこそが人間の罪であります。人間は皆、自分こそが主人公であると思い込んでいるのです、またそうなれない自分にひがみを覚えるのです。ひがんでいるのです。真実に謙遜になり、服従するには人間の力では無理であります。謙遜の衣を着なければいけないのです。謙遜を身に着けることを勧めるのです。
ペトロは教会こそ、そのような謙遜を身に着けることを練習する場所であるといいます。お互いに謙遜になるのです。皆が謙遜になる、謙遜に人を導き、謙遜に人に導かれる。そのようなところでこそ「長老達に従いなさい。」と言う言葉が繰り返されるのです。謙遜になることの具体的なこととして、長老に従うことが出てくるのです。神様によって立てられた指導者に従うことです。僕として人に仕えることとは、謙遜に仕えることです。ペトロが長老たちに語りかけるのは、教会は、キリストを信じるが故に迫害を受けているからであります。一 人一人の信徒は信仰を守りとおすことで必死です。教会の存続の危機でありました。そうした中で連なる信仰者の信仰を守り、神の羊の群れである教会を形成していくために、長老の働きは大きいのです。
「そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。」(4節)大牧者とはキリスト御自身です。そしてすべての信仰者は大牧者なるキリストの羊であり、キリストの十字架の血により贖われ、キリストの御言葉、福音によって養われています。キリストは今、天上にあってその働きをなして下さっています。その大牧者がお見えになるとき、即ちイエス・キリストが再び来られる時、これまでに述べてきたような動機と目的と精神をもって人々へ奉仕に励む者は、永遠に変わることのない、しぼむことのない栄冠を受けるのです。「しぼむことのない栄冠」とは忠実な信仰者に授けられる永遠に変わらない栄光です。この当時、運動競技の優勝者にはオリーブの冠が与えられ、凱旋将軍には月桂樹の冠が与えられておりました。それらの冠は早晩しぼむけれども、神様によって授けられる栄光は永遠に変わらない、しぼむことのないと言うことです。
ペトロがこのように語ることが出来たのは、キリストの約束の希望が揺るぎないからです。主イエスは、ペトロを愛し、罪を赦し、救いの希望に入れられたように、私たちも同じように愛し、罪を赦し、救いの希望に入れてくださっています。だからこそ、ペトロが、神に従い、自ら進んで奉仕し、献身的になり、群れの模範となり、長老たちに勧めているように、私たちも主の民として、主の求めに相応しい歩みしていきたいものです。神の羊である私たちが、大牧者である主イエス・キリストの十字架と復活によって罪を赦されました。大牧者であられる主イエス・キリストは罪なきお方であるにもかかわらず、十字架の苦難を受けられました。十字架での刑罰を受けられるお姿とは、そこに真実のイエス・キリストの謙遜なお姿があります。私たちはその方が示して下さった謙遜を受けているのです。その方の姿を信じ歩んでまいりましょう。

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