「選ばれた、尊い、生きた石」 副牧師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:イザヤ書 第28章16-18節
・ 新約聖書:ペトロの手紙一 第2章1-11節
・ 讃美歌:
新たに生まれた者
月に一回、ペトロの手紙一を読み進めてきました。本日から2章に入ります。これまでこの手紙の著者である使徒ペトロは、私たちキリスト者が「新たに生まれた者」であると語ってきました。本日の箇所の直前、1章23節では「神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」と言われています。ここで見つめられているのは洗礼です。私たちが洗礼を受けるとは、一言で言えば、私たちが新たに生まれることなのです。洗礼において、私たちは罪に支配された古い自分に死に、復活したキリストの新しい命、永遠の命に与って生き始めたのです。とはいえ私たちの多くは洗礼を授かったからといって、自分が新たに生まれたという実感を持つわけではありません。むしろ洗礼を授かる前と授かった後でなにも変わっていないように思えるのです。しかしたとえ私たちが実感できなくても、ほかならぬ神が、洗礼において確かに私たちが新たに生まれたのを知っていてくださいます。私たちキリスト者が「新たに生まれた者」であることの確かさは、私たちがそれを実感できるかどうかにあるのではなく、主イエス・キリストによって私たちを新しく生まれさせてくださった神にこそあるのです。私たちはこの神の確かさを信じるからこそ、自分が「新たに生まれた者」であることをも信じるのです。
生まれたばかりの乳飲み子のように
そのように信じるとき、私たちは「新たに生まれた者」としての歩みへと導かれます。2節でこのように言われています。「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」。ここで「生まれたばかりの乳飲み子」は、洗礼において新たに生まれた者の比喩(譬え)です。生まれたばかりの乳飲み子が乳を求め、それを飲んで成長していくように、洗礼において新たに生まれた者も、混じりけのない霊の乳を求め、それを飲んで成長していくことが見つめられているのです。分かりやすい譬えだと思います。しかしその一方で、勘違いしやすい譬えであるかもしれません。生まれたばかりの乳飲み子は、乳を飲んで成長することによって、いずれ乳離れ(ちばなれ)します。いつまでも「乳飲み子」ではいられないのです。そうであるならば私たちキリスト者も、混じりけのない霊の乳を飲んで成長することによって、いずれ霊の乳から離れていくということなのでしょうか。霊の乳を必要としなくなることが私たちキリスト者の成長ということなのでしょうか。そうではありません。洗礼を授かった直後は、生まれたばかりの乳飲み子のようだけど、信仰生活を過ごしていく中で、段々と乳飲み子のようではなくなるということではないのです。そうではなくペトロが見つめているのは、私たちキリスト者は生まれたばかりの乳飲み子のようであり続けなくてはならないということです。洗礼を授かってしばらくの間だけでなく、信仰の生涯に亘って、私たちは生まれたばかりの乳飲み子のように混じりけのない霊の乳を慕い求め、それを飲んで成長するのです。「混じりけのない霊の乳」は、「混じりけのない言葉の乳」と訳されることもあります。混じりけのない言葉とは神の言葉にほかなりません。23節で言えば、「神の変わることのない生きた言葉」です。また「慕い求める」は、別の箇所では「しきりに~したがっている」(テサロニケの信徒への手紙一3:6)と訳されています。生まれたばかりの乳飲み子は、それこそしきりに乳を求めます。それと同じように私たちもしきりに神の変わることのない生きた言葉の乳を求めるのです。乳飲み子とは違い、私たちはこの神の言葉の乳から離れてしまってはなりません。み言葉の乳を飲まなくなってはならないのです。私たちキリスト者の成長は、み言葉の乳から離れることによってではなく、み言葉の乳を飲み続けることによってこそ起こされていくのです。
「救われるようになる」とは
私たちが「混じりけのない霊の乳を慕い求め」るのは、それを「飲んで成長し、救われるようになるため」であると言われています。「救われるようになる」とは、霊とみ言葉の乳を飲んで成長することによって救いを獲得するということではありません。すでに主イエス・キリストの十字架と復活によって私たちの救いは実現しているのです。しかしその完成は、世の終わりを待たなくてはなりません。ですから「救われるようになる」とは、世の終わりの救いの完成に与ることです。私たちは霊とみ言葉の乳を飲み続けながら、世の終わりの救いの完成に向かって歩んでいくのです。1章13節では「イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」と言われていました。私たちは世の終わりに主イエス・キリストが再び来てくださり、救いを完成して、復活と永遠の命を与えてくださるのをひたすら待ち望みつつ歩んでいくのです。しかし私たちは自分の力や頑張りによって救いの完成を待ち望むことができるわけではありません。そうではなく霊とみ言葉の乳を飲み続けることによって、私たちに救いの完成を待ち望む信仰が与えられ、その信仰が確かなものとされていくのです。私たちの信仰における成長とは、救いの完成を待ち望む信仰がますます確かなものとされることにほかならないのです。
主の恵み深さを味わった
3節でペトロは「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました」と言っています。きっとペトロは、詩編34編9節の「味わい、見よ、主の恵み深さを」というみ言葉を想い起こしていたに違いありません。もっともペトロは、この手紙を読んでいる小アジアの諸教会の人たちに、そして私たちに「主が恵み深い方だということを味わいなさい」と勧めているのではありません。そうではなく彼らが、そして私たちがすでに「主が恵み深い方だということを味わった」と宣言しているのです。
ほかならぬペトロ自身が、誰よりも主の恵み深さを味わいました。ペトロは主イエスの十字架を前にして「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカによる福音書22:33)と言いました。しかし主イエスが逮捕されると、彼は三度、主イエスを知らないと言ったのです。主イエスを裏切ってしまったペトロは、自分が主イエスに見捨てられて当然だと思っていたに違いありません。けれども復活した主イエスは裏切ったペトロに出会ってくださり、赦してくださり、新しく生かしてくださいました。このときペトロは、取り返しのつかない罪による絶望から引き上げてくださった主イエスの計り知れない赦しの恵みを味わったのです。そのとき彼が味わった主イエスの恵み深さこそ、その後のペトロの人生を支え続けたのです。
ペトロと同じように私たちも救いに与るのにまったくふさわしくない者でした。神に背いてばかり、神を裏切ってばかりいる私たちは、むしろ滅ぼされるべき者であったのです。それにもかかわらず主イエス・キリストは、そのような私たちのために十字架に架かって死んでくださいました。この主イエスの十字架による救いに与ることによって、私たちも主イエスの恵み深さを味わったのです。主イエスの恵み深さこそが、今、私たちを生かし、支え続けているのです。
選ばれた、尊い、生きた石
さて、4節で「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです」と言われています。3節との結びつきを考えれば、「この主のもとに来なさい」とは、「恵み深い方である主のもとに来なさい」ということです。4節ではこの「恵み深い方である主」が、「人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石」と言い換えられているのです。かつて主イエスは人々からなんの価値もない道端の石のように扱われました。蹴飛ばされ、投げ捨てられ、十字架の死へと追いやられたのです。しかし神は、道端の石のように人々から捨てられ、十字架で死なれた主イエスを復活させて、選ばれた尊い生きた石としてくださったのです。
霊的な家に造り上げられる
主イエス・キリストは神によって選ばれた尊い生きた石です。しかしそれだけでなく、続く5節で私たちも「生きた石」として用いられると、このように言われています。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」。4節の「生きた石」は単数形ですから、主イエス・キリストは、たった一つの選ばれた尊い生きた石です。それに対して5節の「生きた石」は実は複数形です。ですから「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられる」とは、私たち一人ひとりが生きた石として用いられることによって、霊的な家に造り上げられるということです。それは、私たちがそれぞれ別々の霊的な家に造り上げられるということではありません。先ほどの2節では、生まれたばかりの乳飲み子のように混じりけのない霊の乳を飲むことによって私たちが成長すると語られていました。そこで見つめられていたのは、私たち一人ひとりの成長です。しかし5節はそうではありません。私たち一人ひとりが生きた石として用いられることによって、一つの霊的な家に造り上げられていくこと、すなわち教会に造り上げられていくことが見つめられているのです。生きた石とされた私たち一人ひとりが積み上げられていくことによって、目に見える建物としての教会ではなく、キリストの体なる教会が造り上げられていくのです。実は、この手紙では「教会(エクレーシア)」という言葉は一度も使われていません。しかしこの手紙は「教会」という言葉を使わずに、確かに教会について語っているのです。
生きた石とされた
私たちが生きた石として用いられることは、驚くべきことではないでしょうか。なぜなら本来私たちは、生きた石とはとても言えないからです。私たちは硬くて、ゴツゴツした、尖った石です。その硬さによって、自分の意見を頑なに譲らず、自己中心的に生きてしまいます。その尖った部分で、すぐに相手を傷つけ、また自分自身をも傷つけてしまいます。私たちは生きた石ではなく、むしろ罪に支配された死んだ石なのです。ペトロ自身もかつて罪に支配された死んだ石でした。主イエスを裏切ることによって、絶望のどん底に転がっている死んだ石であったのです。しかし甦られた主イエスは、その死んだ石であったペトロを拾い上げてくださり、生きた石としてくださり、最初の教会を造り上げていくために用いてくださったのです。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」というペトロの言葉は、ペトロ自身が身をもって経験したことなのです。同じように、罪に支配された死んだ石であった私たちは、復活のキリストによって拾い上げられ、生きた石とされました。たった一つの選ばれた尊い生きた石である主イエス・キリストに結ばれることによって、罪に支配された死んだ石が打ち砕かれ、復活のキリストの新しい命に結ばれた生きた石とされたのです。
かなめ石である主イエス・キリスト
とはいえ私たちが生きた石として用いられたとしても、選ばれた尊い生きた石である主イエス・キリストなしに教会を造り上げることはできません。私たちは皆、主イエスによって生きた石とされましたが、それぞれ違った賜物を与えられている個性を持った生きた石です。そのような違いのある生きた石が、積み上げられて教会に造り上げられるためには、そこに「かなめ石」がなくてはなりません。「かなめ石」がなければ、私たちを生きた石としていくら積み上げても、すぐにぐらついて崩れてしまうのです。だからペトロは6節で、旧約聖書のみ言葉を引用してこのように言います。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない」。共に読まれた旧約聖書イザヤ書28章16節では「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石 堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信じる者は慌てることはない」と言われていました。ここでペトロはイザヤ書のみ言葉をそのまま引用するのではなく、いくつか言葉を変えて引用しているのです。シオンとはエルサレムのことですが、ここでは教会と言い換えても良いと思います。神は、選ばれた尊いかなめ石である主イエス・キリストを教会に置いてくださり、教会の礎としてくださいました。そのかなめ石があるからこそ、生きた石とされた私たちがばらばらになることなくしっかり積み上げられ、そのことによって教会が造り上げられていくのです。
決して失望しない
ペトロは、イザヤが「信じる者は慌てることはない」と告げたみ言葉を、「信じる者は決して失望しない」と言い換えました。選ばれた尊い生きた石である主イエスを信じる者は慌てることがないと語るのでは、自分が味わった主の恵み深さを言い表すのに十分ではなかったからではないでしょうか。慌てないどころではない、決して失望しないのだ、と言っているのです。絶望のどん底から引き上げてくださる主イエスを信じる者は、決して失望することがありません。地上の生涯において死を迎えるときも、この生きた石である主イエスを信じる者は絶望することがないのです。主イエスによる復活と永遠の命の約束が、私たちに死を越えた希望を与えているからです。
祭司として立てられる
5節では、私たちが生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられることだけでなく、「聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」とも言われています。私たちが生きた石として用いられるとは、私たちが「聖なる祭司」として立てられることでもあるのです。9節でも「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」と言われています。「選ばれた民」、「聖なる国民」、「神のものとなった民」は分かりやすいと思います。私たちは神の一方的な恵みによって選ばれた「選ばれた民」であり、キリストの十字架の贖いによって神のものとされ、聖なる者とされた「聖なる国民、神のものとなった民」だからです。しかしそれらに加えて、私たちは「王の系統を引く祭司」であると言われています。私たちが生きた石として用いられるとは、「聖なる祭司」としてあるいは「王の系統を引く祭司」として、要するに「祭司」として立てられることなのです。
執り成しに生きる
私たちが祭司として立てられるとは、どのような務めを担うことなのでしょうか。旧約の時代には、祭司は動物の犠牲を捧げることによって罪の贖いを得る務めを担っていました。しかしその務めは、主イエス・キリストの十字架による罪の贖いによって完全に果たされ、もはや必要なくなりました。ですから私たちはなにかを献げることによって、自分やほかの人の罪の赦しを得るのではありません。そうではなく5節に「聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」とあるように、私たちは救いの恵みに感謝して、自分自身を「神に喜ばれる霊的ないけにえ」としてお献げするのです。自分自身を神に献げることによって私たちは、主イエスが私たちのためにしてくださっている執り成しの業の一端を担わせていただくようになります。なによりも祈りによって、また具体的な行動を伴って、私たちはほかの人のための執り成しに生きていくのです。私たちが祭司として立てられているとは、主イエスに執り成されている者として、私たちがほかの人のために執り成しの業を担っていくことなのです。
ペトロはすべてのキリスト者が祭司であると言っています。ですから牧師だけが祭司の務めを担うのではありません。すべてのキリスト者が、すべての信徒が、主イエスに執り成されている者として、ほかの人のために執り成していくのです。このことを「全信徒祭司(性)」と言うことがあります。宗教改革(プロテスタント教会)の三つの旗印は、「聖書のみ」、「信仰のみ」、そしてこの「全信徒祭司(性)」です。私たちは隣人のため、家族のため、友人のため、あるいは私たちが暮らしている地域や国や世界のために、執り成しの業を担う者として立てられているのです。今こそ、私たちはこの務めを担っていきたいと思います。トルコ・シリアの地震で被災した方々のために、ウクライナにおける戦争で苦しんでいる方々のために、物価の高騰によって経済的に苦しんでいる方々のために執り成し祈っていきたいのです。
力あるみ業を広く伝えるために
ペトロは「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」と言っています。ペトロは主イエスを裏切った自分の罪が赦されるという計り知れない恵みを味わいました。主イエスを裏切り、絶望のどん底に転がっている死んだ石であったペトロを、復活のキリストが拾い上げ、生きた石としてくださり、教会を造り上げていくために用いてくださいました。ペトロにとってこの出来事こそ、暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れられた出来事にほかなりません。だからこそペトロは、ペンテコステの後に、暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を人々に伝えていったのです。伝えずにはいられなかったからです。驚くべき光の中へ入れてくださり、決して失望しない歩みを与えてくださる主イエスの救いを宣べ伝えずにはいられなかったのです。
私たちも、選ばれた尊い生きた石である主イエス・キリストを伝えていきます。伝えても受け入れられなかったらどうしようという躊躇いがあるかもしれません。確かに7節以下で語られているように、信じている私たちにはかけがえのない「生きた石」でも、信じない者たちにとっては「家を建てる者の捨てた石」であり、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。しかしそうだとしても、私たちがこの生きた石、私たちにとってかけがえのない主イエス・キリストを伝えない理由にはなりません。私たちの伝えることが受け入れられるかどうかは、私たちが気にすることではなく、神に委ねることであり、聖霊のお働きに任せることです。私たちは、ただ伝えずにはいられないのです。この生きた石によって自分が暗闇から驚くべき光の中へ入れられたことを、この生きた石によって決して失望しない人生が与えられていることを、私たちは一人でも多くの方々に証ししていくのです。
新しい年度に向かって
教会は2023年度に向かって備えのときを歩んでいます。来主日には定期教会総会も行われます。新しい年度、私たち一人ひとりが生きた石として豊かに用いられ、主イエス・キリストをかなめ石として、コロナ禍で傷ついた教会を再建していきたいと願います。戦争や災害、貧困や孤立など本当に多くの痛みと課題を抱えている世界にあって、苦しみ悲しんでいる人たちのために、私たちはなお一層執り成しの業を担っていきます。ますます私たちは、暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、選ばれた尊い生きた石である主イエス・キリストの救いを、一人でも多くの方々に、広く世の人々に伝えていくのです。