説教 「洗われ、聖なる者とされ、義とされて」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 イザヤ書第44章21-23節
新約聖書 コリントの信徒への手紙一第6章1-11節
主イエスのお姿やお言葉が見えにくい?
私が主日礼拝を担当するときにはコリントの信徒への手紙一を読み進めていて、本日から6章に入ります。これまで私たちはコリント教会で多くの問題が起こっていたことを見てきましたが、本日の箇所でも教会で起こったある問題が取り上げられています。この箇所を読むと私たちは少々うんざりしてしまうかもしれません。パウロの厳しい言葉ばかりが目について、主イエスのお姿やお言葉が見えにくいと感じるからです。しかし本当にそうなのでしょうか。この問いを心に留めつつ、本日の箇所に目を向けていきたいと思います。
教会員同士の間で揉め事は起こる
さて本日の箇所でパウロが取り上げている問題とは、どのような問題でしょうか。冒頭1節にこのようにあります。「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです」。コリント教会のあるメンバーがほかのメンバーと争いを起こしました。教会員同士の間で揉め事が起こったのです。しかしパウロは、それ自体を非難しているのではありません。このことは私たちに大切なことを教えています。それは、教会において、ということは私たちの教会においても、教会員同士の間で揉め事が起こることがある、ということです。揉め事が起こらないほうが良いように思えます。しかし教会が活発に活動し、教会員同士の関わりが増えていけば揉め事も増えていきます。ポスト・コロナと呼ばれる時代になり、教会の交わりも随分回復してきました。それ自体は本当に嬉しいことです。しかし交わりが回復すれば、教会員同士の関わりも増え、揉め事も起こっていくのです。何故でしょうか。それは教会が罪人の集まりだからです。罪人である私たちが関わりを持ち、交わりを持つとき、揉め事は避けられない。パウロはそのことをよく知っていたのです。
キリスト者でない人たちに訴え出たことへの非難
ではパウロは何を非難したのでしょうか。それは、1節によれば、あるメンバーがほかのメンバーと争いを起こしたとき、その争いを解決するために、「聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出」たことでした。ここで「聖なる者たち」とは教会の人たちのことで、「正しくない人々」とは教会の外部の人たちのことです。教会の外部の人たちを「正しくない人々」と呼ぶことはけしからん、と思われるかもしれません。しかしパウロはここで、教会の外部の人たちは道徳的に正しくない人たちだ、と言っているわけではありません。そもそも「聖なる者」とは道徳的に正しい人、いわゆる清く、正しい人を意味しているのではありません。そうではなく神の救いにあずかり、神のものとして分かたれた者を意味しています。また「正しくない人々」も、6節の「信仰のない人々」と同じ意味で、神の救いにあずかっていない者たちのことです。ですからここでパウロは、教会で揉め事が起こったときに、教会の人たちに訴え出るのではなく、教会の外部の人たち、信仰のない人たち、要するにキリスト者でない人たちに訴え出たことを非難しているのです。
世俗の裁判に訴えてはいけない?
この手紙が書かれ読まれた時代のギリシア人は裁判好きであったそうです。コリント教会のメンバーにはギリシア人からキリスト者になった人たちも少なくありませんでした。その中のあるメンバーが、キリスト者になってからも裁判好きから抜け出すことができず、教会でほかのメンバーと争いを起こした時に、世俗の裁判に訴え出て事件を解決しようとした、ということなのでしょう。パウロはそのことを非難したのです。そのためこの箇所は時々、キリスト者は世俗の裁判に訴えてはいけない、と理解されることがあります。しかしそれは誤った理解です。教会はこの世にある限り治外法権では決してありません。この世の権力の外にあって、どんなことについても自分たちで自分たちを裁く権利がある、と考えるのは傲慢です。私たちの教会は地上にある限り、場合によっては、世俗の裁判において裁いてもらわなければならないこともあるのです。
ささいな揉め事
けれども、そもそもここでパウロが問題にしているのは、世俗の裁判において裁いてもらわなければならないような事件ではありません。教会員同士のこの揉め事について、2節の後半では「ささいな事件」と言われていますし、4節では「日常生活にかかわる争い」と言われています。この「日常生活にかかわる争い」と訳された言葉は、この手紙が書かれた時代より少し後の3世紀頃には、「法廷に持ち出すべきでない、家で解決すべき、重大な犯罪と対比される日常生活上の喧嘩」と定義されています。教会の文脈に置き換えれば、「世俗の裁判に訴え出るべきでない、教会で解決すべき、重大な犯罪ではない教会生活上の揉め事」と言うことができるでしょう。そのような教会員同士の揉め事を解決するために、教会の外部の人たちに訴え出るのではなく、なぜ教会の人たちに訴え出ないのか、とパウロは言っているのです。
この「ささいな事件」や「日常生活にかかわる争い」が具体的にどのような事件であったのかは分かりません。しかしこのような「ささいな事件」や揉め事は私たちの教会でもしばしば起こっていることです。教会で世俗の裁判で裁いてもらわなければならない事件は、ほとんど起きません。私たちにとって、そのような事件は身近なことではありません。しかし教会生活上のささいな事件や揉め事はとても身近なことです。毎週のように、主の日毎に起こっている、と言っても言い過ぎではないでしょう。考え方の違いからぶつかることがあります。色々な奉仕において、奉仕者同士が揉めてしまうことがあります。相手の言葉や態度によって嫌な思いをして、傷つけられたと感じることがあります。私たちは問題だらけのコリント教会に呆れているだけではいられません。私たちの教会にもささいな事件や揉め事はたくさんあるのです。しかもささいな揉め事だから、そんなに気にしなくても良いかというと、そんなことはありません。ささいな揉め事をきっかけとして、ほかのメンバーとの関係がぎくしゃくしてしまうことがあります。深く傷つき、痛みを抱え、相手をなかなか赦せず、相手と話せなくなり、挨拶すらできなくなることもあります。場合によっては、そのささいな揉め事をきっかけとして、奉仕をやめることになったり、さらには礼拝に出席できなくなったりするのです。ささいな揉め事だからと言って軽く考えるわけにはいきません。教会は、私たちはささいな揉め事に対して、丁寧に、慎重に向き合っていく必要があるのです。しかしその際、私たちは教会の外部の人に訴え出るのではなく、教会の人たちに訴え出るべきなのです。
外部の人たちに悪い印象を与えないために
パウロがそのように言うのは、一つには、教会で起こったささいな揉め事を外部の人たちに見せることは、外部の人たちに悪い印象を与えることになる、と考えたからでしょう。6節の「兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で」というパウロの言葉には、そのパウロの思いが表れていると思います。コリント教会は異邦人社会の中にあって、誕生したばかりの本当に小さな教会でした。周りの人たちからどのように見られているかを常に気にする必要があったのです。このことはコリントと同じく異邦人社会である横浜にある私たちの教会も同じです。もちろん私たちはキリストの福音に関してこの社会に迎合することはあり得ません。キリストの福音、福音の真理は、たとえ社会から批判され、馬鹿にされたとしても一歩も譲ることはありません。しかしそれ以外のことに関して、敢えてこの社会から悪い印象を持たれるようなことをすべきではない。それはむしろ教会の使命である伝道を私たち自身が妨げることになりかねません。教会内で起こったささいなゴタゴタを、外部の人たちに見せるのは、まさにそのようなことなのではないでしょうか。
聖なる者たちが世を裁く
しかしもっと本質的な理由があります。パウロは2節でこのように言っています。「あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか」。「あなたがたは知らないのですか」は、パウロが大事なことを言うときの口癖です。ここでパウロは大事なこととして、「聖なる者たち」が、つまりキリスト者が世を裁く、と言います。それはキリスト者が、つまり私たちが、今、この世の中で起こっている様々なことについて、キリスト教信仰に基づいて、「これは間違っている」「あれも間違っている」と批判することではありません。この「裁く」は文法的には未来形です。つまりキリスト者は将来世を裁くことになる、と言われているのです。また「裁く」とは「支配する」ということでもあります。つまり将来、世の終わりに、キリストが再びこの世に来てくださり、この世を裁き、恵みによって支配されるそのときに、洗礼を受け、キリストによる救いにあずかり、キリストと結ばれ一つとされた私たちも、その裁きに、その恵みのご支配に参与することが見つめられているのです。3節によれば、キリストの裁きに参与するキリスト者は、「天使たちさえ裁く者」ですらあります。私たちキリスト者には、世の終わりに救いの完成にあずかり、つまり復活と永遠の命にあずかり、再臨のキリストの恵みのご支配に参与するというまことに大きな恵みと約束が与えられているのです。教会で起こったささいな揉め事を、教会の外部の人ではなく、教会の人たちに訴え出るべき本質的な理由はこのことにあります。パウロはコリント教会の人たちに、そして私たちに、「それほどの大きな恵みと約束を与えられているのに、あなたがたにはささいな揉め事すら裁く力がないのか」、と問いかけているのです。
仲裁し、調停し、和解を目指す
そうであるなら、教会で揉め事が起こったときは、教会の会議に訴え出ることをパウロは求めているのでしょうか。それも違います。確かに5章では、教会内で重大な罪を犯した者を悔い改めに導くために、その人を教会の交わりの外に置くという、いわゆる「戒規」について触れられていました。「戒規」であれば、教会の会議、つまり長老会で決定されることです。しかし本日の箇所で問題となっているのは、繰り返しになりますが、「ささいな事件」であり、「日常の生活にかかわる争い」です。「戒規」の対象となるような問題ではありません。ですからパウロはここで、世俗の裁判に訴え出るのではなく、教会の会議に訴え出なさい、と言っているのでもないのです。その意味で本日の箇所の小見出し、「信仰のない人々に訴え出てはならない」は間違ってはいませんが誤解を招きかねません。パウロが「信仰のない人々に訴え出てはならない」と言うとき、それは、その代わりに教会内で裁判のようなものを行いなさい、ということでは決してないのです。だからパウロは5節でこのように言います。「あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか」。パウロが求めていることは、教会員同士の間で揉め事が起こったときに、教会の外部でも内部でも裁判のようなものに訴え出るのではなく、教会の人たちが仲裁しなさい、調停しなさい、そして和解を目指しなさい、ということなのです。コリント教会の人たちは自分たちの知恵を誇っていました。ですから5節のパウロの言葉は痛烈な非難です。知恵を誇っているのに、ささいな揉め事を仲裁し、調停する力もないのか、と非難しているのです。
教会全体の敗北
それゆえパウロは7節前半でこのように言います。「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです」。これは教会のメンバーの中で勝った人と負けた人がいる、ということではありません。教会で揉め事が起こったときに、それを裁判ざたにすること自体が、すでに教会全体の敗北だと言っているのです。揉め事を起こした当事者だけではありません。世の終わりに救いの完成にあずかり、再臨のキリストのご支配に参与するという大きな恵みと約束を与えられているにもかかわらず、ささいな揉め事を仲裁し、調停し、和解を目指そうとしない教会全体が敗北しているのです。
私たちの教会でもしばしばささいな揉め事が起こります。考え方の違いから衝突することがあり、奉仕者同士が揉めることがあり、言葉や態度によって傷つけることがあります。そのとき私たちはコリント教会の人のように世俗の裁判に訴えることはないでしょう。教会の会議に訴えることもないかもしれません。しかしそのまま放ったらかしておくことはあるのではないでしょうか。当事者だけでなく、ほかのメンバーも仲裁し、調停し、和解を目指そうとしない。揉め事をきっかけとして、関係がぎくしゃくしたまま、目も合わせず、口も聞かず、挨拶もできないまま。そのようなことはないでしょうか。もしそのようなことがあるとしたら、教会で起こった揉め事を放ったらかしにしておいて、仲裁し、調停し、和解を目指そうとしないなら、私たちの教会全体は敗北しているのです。
自分の正しさを主張するために
しかしそのように言われても、私たちは自分たちの力で揉め事を仲裁し、調停し、和解を目指すことができるのだろうかと途方に暮れます。一体、私たちはどうすれば良いのでしょうか。そのことを考えるために、そもそもコリント教会のメンバーが、なぜ訴え出ようとしたのかに目を向ける必要があります。それは、自分が正しく、相手は間違っていると思ったからではないでしょうか。自分の正しさを主張しなければ、奪い取られてしまうかもしれないと思ったのです。具体的にどのような揉め事であったかは分かりませんが、奪い取られそうになったのは必ずしも物理的なものとは限りません。自分の信念や誇り、名誉や名声かもしれません。それらを傷つけられ、奪われたくないから、自分の正しさを主張したのです。それは、この世の中では特別なことではありません。奪い取られないために自分の正しさを主張するのは、むしろこの世の中では当たり前なのです。
主イエスのお言葉を想い起こして
しかしパウロは、自分の正しさを主張し振りかざすコリント教会の人たちに深く心を痛めていたに違いありません。自分が伝えたことを分かってもらえなかったからだけではありません。何よりもパウロは主イエスのことを想っていたのではないしょうか。主イエスのことを想い、主イエスを見つめて深く心を痛めたのだと思うのです。パウロは7節後半で言います。「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」。パウロは主イエスのお言葉を想い起こして、このように言ったのではないでしょうか。マタイによる福音書5章39、40節で主イエスはこのように言われています。「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」。パウロはこの主イエスのお言葉を想い起こして、「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのか」、「なぜ、むしろ奪われるままでいないのか」と言ったのです。自分の正しさを主張し、振りかざすのではなく、なぜむしろ不義を甘んじて受け、奪われるままでいないのか、と言ったのです。
不義を甘んじて受ける
パウロは9節の後半からこのようにも言っています。「みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません」。私たちはここで挙げられていることのすべてを、時代的、社会的背景を無視して、私たちの時代に適用することはできません。あるいは自分はここに挙げられていることに当てはまらないからといって安心するのでもなければ、あの人はこのことに当てはまるといって裁くのでもありません。このリストはどこまでも長くしていくことができるでしょう。何よりもパウロが9節で「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか」と言うとき、その「正しくない者」とは、「不義を甘んじて受けない者」、「奪われるままでいられない者」にほかなりません。それは、私たちのことです。私たちはささいな揉め事が起こったとき、自分の正しさを主張し振りかざします。自分も間違っているかもしれないと思うときですら、奪い取られそうになると、自分を正当化するために、その材料を必死に集めて争います。それは結局、8節にあるように、「不義を受けたくない」と思って相手に「不義を行い」、「奪われたくない」と思って相手から「奪い取って」いることなのです。それでは私たちは揉め事を仲裁し、調停し、和解を目指すことはできません。私たちはパウロが言うように、そして主イエスが言われるように、互いに正しさを主張し振りかざすのをやめて、不義を甘んじて受け、奪われるままでいるときに、揉め事を仲裁し、調停し、和解を目指していくことができるのです。
洗われ、聖なる者とされ、義とされて
そして私たちが「不義を甘んじて受け」、「奪われるままでいる」ことができるとしたら、自分の力によってではあり得ません。この箇所の終わりでパウロはこのように言います。「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」。「洗われ」とは洗礼を受けたことを意味します。「義とされ」とは、私たちが罪を赦されて神との正しい関係に入れられたことを、「聖なる者」とは神のものとして選び分かたれたことを意味します。私たちは、自分たちが洗礼を受け、キリストによる救いにあずかり、罪を赦されて、神との正しい関係に入れられ、神のものとして選び分かたれている、そのことを見つめることによってこそ、「不義を甘んじて受け」、「奪われるままでいる」者へと変えられていくのです。なぜならこの私たちの救いのために、私たちの罪の赦しのために、私たちが神との正しい関係に入れられ、神のものとして選び分かたれるために、主イエス・キリストが十字架で死んでくださったからです。何一つ罪を犯されなかったお方が、まさに不義を甘んじて受け、奪われるままで、十字架で苦しみを受け、死んでくださったからです。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」と言われた主イエスご自身が、この言葉通りに不義を甘んじて受け、すべてを奪われて、十字架で苦しみを受けて死んでくださったからです。だから私たちは、このキリストによって「洗われ、聖なる者とされ、義とされて」いることを見つめるとき、洗礼によってこのキリストと一つとされていることを見つめるとき、まことに遅々とした歩みであったとしても、「不義を甘んじて受け」「奪われるままで」いる者へと変えられていくのです。そしてそれは、すでに確かに始まっています。だからパウロは11節冒頭で、「あなたがたの中にはそのような者もいました」と言うのです。それは、今は、もうそうではない、ということです。今は、すでに「洗われ、聖なる者とされ、義とされて」いる。神の国を受け継ぐ者とされているのです。
コリント教会は問題だらけでした。しかしパウロはその問題だらけのコリント教会に、すでに洗礼によってキリストと一つとされた新しい生き方が始まっていることを見つめているのです。私たちの教会もたくさんの問題を抱えています。しかしそこにすでにキリストと一つとされた新しい生き方が確かに始まっています。「不義を甘んじて受け」「奪われるままで」いる新しい生き方が確かに始まっているのです。だからこそ様々な揉め事が起こるとしても、私たちは自分の正しさを主張し振りかざすのではなく、揉め事を仲裁し、調停し、和解を目指していくことができるのです。
