主日礼拝

教会を建てる

2025年9月28日
説教題「教会を建てる」 副牧師 川嶋章弘

申命記 第13章2~6節
コリントの信徒への手紙一 第5章9~13節

読みにくい箇所
 私が主日礼拝を担当するときはコリントの信徒への手紙一を読み進めています。本日は5章の後半を読みます。
 ところでこの手紙の中には、私たちがよく知っている箇所が少なくありません。たとえば13章には「愛の讃歌」と呼ばれる箇所がありますが、この箇所は結婚式でもよく読まれ、キリスト者でない方にも知られています。また私たちの教会では第一主日に聖餐にあずかっていますが、その中で必ず、「聖餐制定のみ言葉」として11章23~29節が読まれます。さらにキリストの体である教会について語っている12章、キリストの復活について語っている15章も馴染みのある箇所だと思います。この手紙には私たちが繰り返し目を向けているみ言葉がたくさんあるのです。その一方でこの手紙には、私たちがあまり目を向けたいと思わない箇所も少なくないのではないでしょうか。前回から読んでいる5章や次回読む6章もそのような箇所だと思います。その理由の一つとして、これらの箇所で、パウロがコリント教会の極めて具体的な問題について語っていることがあります。時代や場所の隔たり、教会が置かれている社会の違いなどから、コリント教会の具体的な問題は、私たちの教会にそのまま当てはまるわけではないので、私たちはこれらの箇所を読みにくいと感じるのです。しかし忘れてはいけないのは、5章や6章も含めて一つの手紙であるということです。馴染みのある箇所だけに目を向けて、コリント教会の具体的な問題について語っている箇所には目を向けない、というわけにはいきません。それでは一つの手紙を読んでいるのではなく、いいとこ取りして読んでいることになるからです。ですから私たちは読みにくいと思う箇所であっても、そこでパウロが見つめていることに、コリント教会の具体的な問題の根本にあることに目を向けていきたいのです。

以前の手紙をどう読んだのか
 本日の箇所の冒頭9節に、「わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが」とあります。今、私たちが読んでいるコリントの信徒への手紙一よりも前に、パウロはコリント教会に手紙を送り、そこに、「みだらな者と交際してはいけない」と書いたのです。しかしどうやらコリント教会の人たちは、パウロのこの言葉をちゃんと理解しなかったようです。
 前回5章1~8節を読みました。そこではコリント教会の人たちの間に「みだらな行い」、つまり男女の関係における性的な不品行があったことが語られていました。それは、当時、性的な規範が緩かったギリシア・ローマ世界でも禁じられているほどの「みだらな行い」でした。しかしパウロが、そこで問題としていたのは、性的な不品行がコリント教会に起こったことそれ自体ではありません。パウロにとって、何よりも問題であったのは、コリント教会が教会で起こった罪を見過ごしていたこと、それに対して何もせず、放置していたことでした。しかもパウロが、以前の手紙で、「みだらな者と交際してはいけない」と書いていたにもかかわらず、依然として教会で起こった「みだらな行い」を見過ごし、放置していたのです。一体、コリント教会の人たちは、パウロの以前の手紙をどのように読んだのでしょうか。直接的には記されていませんが、10節のパウロの言葉は手掛かりとなります。9節から改めてお読みします。「わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません」。パウロは、自分が以前の手紙で「みだらな者と交際してはいけない」と書いたのは、「この世のみだらな者と一切つきあってはならない、ということではない」、と語っています。ということは、コリント教会の人たちが、パウロの言葉を、「この世のみだらな者と一切つきあってはならない」と理解していた、ということになります。もっとも後で見るように、コリント教会の人たちはパウロの言葉を自分たちに都合良く受けとめているので、本当にそう思っていた、というわけではないかもしれません。

この世にあって生きる
 そうであったとしてもこの言葉に続けて、10節後半でパウロが言っていることには耳を傾ける必要があります。パウロはこのように言います。「もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう」。もし、キリスト者がこの世のみだらな者と一切つきあってはいけないなら、キリスト者はこの世の中から出て行かねばならない。パウロはそう言っています。以前もお話ししましたが、コリントという街は東西南北の交通の要所であり、人の往来も激しく、経済的な繁栄を享受する一方で、貧富の格差が大きく、また性的な不品行を始めとする人心の荒廃が進んでいました。街の背後にそびえ立つ丘には、ギリシア神話の女神アフロディーテーの神殿もありましたが、そのアフロディーテーを始め、ギリシア神話の様々な神々が崇拝され、またローマ皇帝も崇拝されていました。そのようなコリントの現実を踏まえると、10節で言われているような、「みだらな者」、「強欲な者」、「人の物を奪う者」、「偶像を礼拝する者」というのは、決して特別な人たちではなかったはずです。性的な乱れがはびこっていれば「みだらな者」もいたでしょう。経済的な繁栄に伴って「強欲な者」がいて当然ですし、貧富の格差の拡大は、富んでいる者が貧しい者から奪うという意味でも、貧しい者がほかの人の物を奪うという意味でも、「人の物を奪う者」を生み出したでしょう。そしてコリントに「偶像礼拝をする者」がいたのは当たり前のことです。ですからコリントの街で、そのような人たちと一切つきあってはいけないのであれば、コリント教会の人たちは街から出て行くか、教会の中に閉じ籠もるしかありません。しかしパウロのこの言葉は、それは間違っている、と言っているのです。
 私たちが暮らしている横浜、川崎、あるいは東京といった都会も、コリントの街とよく似ています。人の往来が激しく、経済的な繁栄を享受する一方で、貧富の格差が広がり、性的な不品行を始めとする人心の荒廃が進んでいます。その中で、私たちキリスト者はどのように生きるべきなのでしょうか。パウロの言葉が示しているのは、私たちキリスト者は、この世から出て行くのでも、教会に閉じ籠もるのでもなく、この世の只中で生きる、ということです。キリスト教会の歴史の中で、この世と断絶し、この世から出て行き、自分たちだけの共同体に閉じ籠もることは大きな誘惑であり続けてきたし、今もあり続けています。しかしここでパウロの言葉が示していることは、そしてとりわけプロテスタント教会が大切にしていることは、その誘惑に抵抗して、私たちキリスト者がこの世にあって生きる、ということです。「世捨て人」になったり、いわゆる「出家」をしたり、隠遁したりするのではなく、10節で挙げられているような人たちがいるこの世にあって生きていくのです。それは簡単なことではありません。そこには悩みや葛藤があり、板挟みになることがあり、戦いがあります。しかし私たちはこの世から撤退して、教会の中に閉じ籠もるのではなく、この世の只中で、キリスト者として、キリストによる救いを証しして生きていくのです。
教会の中でみだらな者とつきあってはならない
 このことは私たちがしっかり受けとめておくべきことですが、パウロはこの箇所ではこのことをさらに展開していません。なぜなら問題は、コリント教会の人たちがこの世にあってどのように生きるかよりも、教会の中でどのように生きるかにあったからです。11節でパウロはこのように言っています。「わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです」。つまりパウロが以前の手紙で「みだらな者と交際してはいけない」と書いた、その真意は、世の中のみだらな者と一切つきあってはならないということではなく、兄弟と呼ばれる人、つまり教会員の中で、みだらな者とつきあうな、そのような人と一緒に食事もするな、ということであったのです。

感情的な反発
 裏を返せば、コリント教会の人たちは以前の手紙を、「パウロ先生は、この世のみだらな者と交際してはいけないと語っているのであって、教会の中のみだらな者と交際してはいけないと語ったのではない」、と読んだということです。だからこそ彼らは、教会の中で起こった性的な不品行を見過ごし、放置していたのです。しかしパウロの以前の手紙をこのように読むことには無理を感じます。パウロの言葉を歪めて理解したとしか思えないのです。彼らは、パウロが「この世のみだらな者と交際してはいけないと語った」と理解したというよりも、とにかく、「教会の中のみだらな者と交際してはいけないと語ったのではない」と、理解したかったのです。
 このような歪んだ理解が出てきたのは、パウロの言葉に対するコリント教会の人たちの感情的な反発があったからではないでしょうか。教会の中で、「みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな」というのは、あまりに厳しすぎる。そのようなことを言ったら、誰とも付き合えなくなるかもしれないし、教会の交わりは成り立たなくなるではないか、と思ったのです。だからパウロの言葉を、「教会の外のみだらな者とは付き合わないほうが良いけれど、教会の中のみだらな者と付き合ってはいけないと語ったのではない」と歪めて理解して、教会の中は今のままで良い、変わる必要はないと考えたのです。
 私たちも、このパウロの言葉を読むとき、同じような感情的な反発を抱きます。私たちはこの箇所にあまり目を向けたいと思わない、とお話ししましたが、それはこの箇所を読むとき反発を抱くからでもあるのではないでしょうか。私たちはこれまで読んできた、たとえば1章18節の「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」や、23節の「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」というパウロの言葉は、その通りだと受けとめることができます。しかし11節の言葉は、なかなか受けとめられません。こんな厳しいことを言っていたら、教会の交わりは成り立たないし、教会に来たいと思う人も減ってしまうし、伝道も出来なくなるではないか、と反発を抱かずにはいられないのです。

救われた者は自由なのだから何をしても良い
 さらに言えば、コリント教会の人たちにとって、パウロの言葉は感情的な反発を抱くだけのものではなかったはずです。彼らはより自覚的に、教会の中で11節に挙げられているような人たちと付き合うことを肯定していた、と思われるのです。なぜならコリント教会の人たちは、救われた者は自由なのだから何をしても良い、と考えていたからです。彼らが日々口にしていたと思われる言葉が、6章12節の「わたしには、すべてのことが許されている」です。救われた者は自由であり、救われた者にはすべてのことが許されている、だから何をしても良いんだ、と思っていたのです。5章の前半では、教会で性的な不品行が起こったことに対して、コリント教会の人たちが高ぶり、誇っていた、とも言われていました。それは、旧約聖書に記されている掟に背くことが、自分たちが掟から自由になって生きていることの象徴となる、と思っていたからです。ですからコリント教会の人たちにとって、11節に挙げられているような人たちと付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけないというパウロの言葉は、掟からの自由に逆行するものであり、自分たちが自由であることに、自分たちにはすべてのことが許されていることに逆行するものであり、受け入れられないものであったのです。だからパウロの言葉を、パウロは教会の中のことを言っているのではなく、教会の外のことを言っている、と歪めて理解したのです。
 私たちは、コリント教会の人たちとまったく同じように考えているわけではないでしょう。それでも私たちも11節のパウロの言葉を煩わしく感じるのではないでしょうか。このような人やあのような人とは付き合うな、一緒に食事もするなと言われるのは、自分たちの自由を侵害されているように思えます。キリスト者はもっと自由であって良いのではないか、あれもダメこれもダメではなくて、もっと自由であることが、キリスト者らしさではないか、と思うのです。

キリストの十字架が見失われている
 けれどもコリント教会の人たちが、また私たちがパウロの言葉に反発を抱いたり、自由を侵害されているように感じるとき、決定的に見失っていることがあります。それは、主イエス・キリストの十字架です。パウロは、この手紙で「十字架につけられたキリストを宣べ伝えて」いると語りました。「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」とも語りました。「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」というのは、キリストがずっと十字架につけられたまま、ということではありません。そうではなく、あたかも今、私たちが十字架につけられたキリストを目の当たりにしているかのように、キリストの十字架が、今を生きる私たちに影響を及ぼし続けているということです。そうであれば本日の箇所で語っていることも、十字架につけられたキリストと切り離されていることではあり得ません。キリストの十字架と別々のことではないのです。
 神様は独り子イエス・キリストを十字架に架けることによって、私たちの罪を赦してくださり、私たちを救ってくださいました。キリストの十字架によって赦されない罪は一つもありません。「みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者」も赦され、救われるのです。このリストに含まれても含まれなくても、私たちは等しく罪人であり、しかし同時に、等しくキリストの十字架によって罪を赦された者です。教会はキリストの十字架によって罪を赦された者たちの群れなのです。しかしそれは、私たちが自分の罪に無関心になることでも、まして罪を赦され、救われた者は自由だから何をしても良い、と開き直ることでもありません。キリストの十字架によって罪を赦されたのであれば、その救いの恵みの中で生かされているのであれば、罪を犯して良いということにはならないはずなのです。もちろん私たちは救われてなお、日々、罪を犯しています。この一週間もどれだけ神様と隣人とに対して罪を犯してしまったかと思います。しかしそこで私たちは、罪を犯してしまうのはしょうがないと、あるいは罪を犯したって良いんだ、と開き直るのではありません。御子キリストが私たちの罪のために十字架で死んでくださったことに目を向けるなら開き直れるはずがない。罪を犯してしまうのはしょうがない、罪を犯したって良いんだ、と開き直るとき、コリント教会の人たちも私たちも、キリストの十字架を見失っています。十字架につけられたキリストから目を逸らしているのです。私たちは十字架につけられたキリストを見つめるとき、日々犯してしまう罪に無関心になることなく、その罪と真剣に向き合い、悔い改めつつ歩んでいくのです。

罪と向き合い、悔い改めて歩む群れ
 自分自身の罪だけではありません。私たちは教会で起こる罪に対しても無関心であるわけにはいきません。教会がキリストの十字架による罪の赦しに生きる群れであるからこそ、教会で起こる罪に対しても無関心ではいられないのです。それは、自分の正しさを振りかざして、あの人はこんな罪を犯している、この人はこんな罪を犯していると言って、批判し、裁くことでは決してありません。前回の5章2節で、パウロはコリント教会の人たちに、教会で「みだらな行い」が起こったことに対して、高ぶるのではなく、むしろ悲しむべきだ、と語りました。私たちが教会で起こる罪に対して関心を持つとは、その罪を悲しむ、ということにほかならないのです。私たちがその人の罪を共に悲しむときにだけ、その人の罪を指摘することもできるのです。ですから11節のパウロの言葉は、私たちが教会で起こる罪に対して無関心になることなく、その罪と真剣に向き合い、罪を犯した人を悔い改めに導くことを見つめています。「つきあうな」、「一緒に食事もするな」というのは、罪を犯した人を仲間外れにするためではありません。そのことを通して罪に気づき、悔い改めに導かれるためです。罪に気づき、悔い改めて、十字架による罪の赦しに生きる群れに生き続けるためなのです。教会が十字架による罪の赦しに生きる群れであるとは、罪を見逃すのではなく、罪と真剣に向き合い、罪を共に悲しみ、繰り返し悔い改めて歩む群れであるということなのです。

「外部の人々」と「内部の人々」
 パウロは12、13節で「外部の人々」、「内部の人々」という言葉を用いて、教会のメンバーと、そうでない世の中の人たちを分けて語っています。それは、教会の「内部の人々」が「外部の人々」と違って、立派な人だとか敬虔な人だとか、そのようなことを言うためではありません。そうではなく「内部の人々」と「外部の人々」の違いは、キリストの十字架による罪の赦しを知っているかどうか、それによって生かされているかどうかの違いです。「外部の人々」は、キリストの十字架による罪の赦しを知りません。だから私たちは、その人たちの罪を指摘することはできません。その人たちの罪については神様に委ねれば良いのです。だからパウロは、「外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか」と語り、「外部の人々は神がお裁きになります」と語っているのです。

教会を建てる
 しかし「内部の人々」は、つまり私たちは、キリストの十字架による罪の赦しを知っています。主イエス・キリストがご自分の命を犠牲にしてまで自分の罪を赦してくださったことを知っています。私たちは今も、十字架につけられたキリストを目の当たりにしています。それによって今、生かされてもいます。だからこそ私たちは、教会の内部で起こる罪に対して無関心にならず、罪と真剣に向き合い、罪を共に悲しみ、悔い改めていくのです。そのように歩むことによってこそ、私たちは本当に教会を建てていくことができます。自分自身の、あるいは教会で起こる罪に無関心で、罪を犯してしまうのはしょうがない、罪を犯しても良いんだ、と言っているなら、キリストの体である教会を建てていくことはできません。どんなに立派な建物があり、どんなに多くの人が集まり、仲の良い交わりがあったとしも、そこにキリストの体である教会を建てていくことはできないのです。
 とはいえ私たちは、自分自身や教会で起こる罪をめざとく見つければ、それで罪と真剣に向き合えるようになるわけではありません。そうではないのです。私たちは十字架につけられたキリストをしっかり見つめるときにだけ、罪と真剣に向き合えます。十字架による罪の赦しに生かされ、日々罪を犯してしまうとしても、罪の赦しを豊かに受けることを通して、自分自身や教会で起こる罪と真剣に向き合うことができるようになっていくのです。だから私たちは、教会を建てていくために、キリストの十字架を、十字架につけられたキリストをしっかり見つめます。主イエス・キリストが、私たちのためにご自分の命を犠牲にしてくださったことを見つめます。そのことによってこそ、そのことによってだけ、私たちはキリストの体である教会を建てていくことができるのです。私たちはキリストの十字架による罪の赦しの恵みの中で、罪と向き合い、悔い改めつつ歩むことによって教会を建てていくのです。

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