主日礼拝

キリストの思いを抱いて

2024年10月13日
説教題「キリストの思いを抱いて」 副牧師 川嶋章弘

イザヤ書 第40章12~14節
コリントの信徒への手紙一 第2章6~16節

隠され、秘められた神の救いの計画
 本日はコリントの信徒への手紙一2章6~16節を読みます。先月、6~9節を読みましたので、本日は10節以下を中心に読むことになりますが、10節以下は6~9節の内容を受けて語られているので、6~16節全体を聖書箇所としました。6~9節と10節以下の結びつきを捉えつつ10節以下を読み進めていきます。
 10節冒頭で、「神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました」と言われていますが、「そのこと」について6~9節で語られていました。一言で言えば、「そのこと」とは「神の知恵」です。その「神の知恵」が隠された神秘であったということが、7節前半で「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり」と言われていました。「神秘」と訳された言葉は、「秘められた計画」とも訳されます。2章1節で「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」と言われていましたが、この「秘められた計画」が「神秘」と同じ言葉です。このように「神の知恵」とは隠され、秘められた計画です。ではその計画とは、具体的にはどのような計画なのでしょうか。それが、7節後半で「神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたもの」と言われていました。つまり神様は私たちに栄光を与えるためのご計画、つまり私たちを救うためのご計画を天地創造の前から定めてくださっていたのです。隠され、秘められた計画とは、私たちを救うための神様の救いのご計画なのです。独り子イエス・キリストの十字架の死は、この神様の救いのご計画において決定的な出来事でした。私たちを救いたいというみ心の故に、神様は独り子を十字架に架けてくださったのです。しかしこの救いのご計画は隠されていたので、8節にあるように、「この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解」できませんでした。主イエスが最も残酷な十字架刑で死なれることに、みすぼらしいお姿で死なれることに、神様の救いがあるとは誰も思わなかったのです。パウロが9節で引用しているみ言葉を用いれば、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかった」救いのみ業を、神様は主イエス・キリストの十字架で成し遂げてくださったのです。

主イエスの十字架と復活において
 この神様の救いのご計画はずっと隠され、秘められたままであったのではありません。改めて10節を見ると、「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました」とあります。神様が私たちにその救いのご計画を「明らかに示して」くださった、と言われています。「明らかに示す」という言葉は、「覆いを取り除く」という意味の言葉です。覆いがかけられて隠され、秘められていたものが、その覆いが取り除かれることによって明らかになります。私たちは自分の力でその覆いを取り除くことはできません。神様が覆いを取り除いてくださることによって、神様の秘められた救いのご計画が私たちに明らかになるのです。このことが主イエスの十字架の死と復活において実現しました。独り子が十字架で死なれ復活させられることにおいて、神様の秘められた救いのご計画が明らかに示されたのです。

聖霊の働きによって
 しかしよく考えてみると、主イエスの十字架の死と復活という2000年ほど前に起こった歴史的事実を知ったからといって、神様の救いのみ心を知らされた、とは言えません。私たちへの計り知れない神様の愛を知らされた、とも言えません。別の言い方をすれば、歴史的事実を知ったからといって、主イエスが「この私」の罪のために死んでくださった、と信じられるわけではないのです。このことが起こるのは、「“霊”によって」とあるように、聖霊の働きによってです。礼拝に来て説教を聞いていても、自分で聖書を読んでいても、あるいは教会学校やキリスト教学校で聖書のお話を聞いていても、主イエスの十字架の死は自分とは関係ない、と思っていたのに、あるとき主イエスの十字架の死が「この私」のためだった、と気づかされます。このことが、まさに聖霊の働きによって起こるのです。今、天におられる主イエスが聖霊の働きによって私たちと出会ってくださることによって起こるのです。私たちは聖霊の働きによってこそ、神様の秘められた救いのご計画が、「この私」のための救いのご計画であることを明らかに示されるのです。
“霊”
 少し話が脱線しますが、「神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました」の「霊」が、ダブルクォーテーションで括られているのにお気づきかと思います。これはこの「霊」が「神の霊」、つまり聖霊を意味することを示しています。11節の「人の内にある霊」の「霊」や、12節の「世の霊」の「霊」も、言葉としてはダブルクォーテーションで括られた「霊」と同じ言葉ですが、文脈から聖霊を意味していないことが分かるので括られていません。この箇所に限らず、新約聖書で「霊」がダブルクォーテーションで括られていたら、その「“霊”」は聖霊を、「神の霊」を意味しているのです。

神の深みさえも究める聖霊
 さて話を戻して、10節の後半でこのように言われています。「“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます」。聖霊の働きによって私たちに神様の救いのみ心が明らかに示されるのは、聖霊がすべてのことを、神様の深みさえも究めるからです。神様の深みとは、人間を救おうとされる神様の恵み、神様の愛の計り知れない深さ、大きさです。その神様の恵みと愛の深さ、大きさを、私たちは自分の知識や経験によって知ることはできません。しかし聖霊はその深さ、大きさを究めていて、それを私たちに示し、信じさせるのです。このように聖霊が神様の深みさえも究めていることを、人間の経験と対比して説明しているのが11節です。「人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません」と言われていますが、「人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか」とは、自分のことはほかの人には分からない、自分のことは自分にしか分からないということです。このことは必ずしも正しくないのであって、私たちはしばしば自分のことが自分でも分からないということを経験します。しかしその一方で私たちは確かに、自分の苦しみや悲しみをほかの人に分かってもらえない、という経験もします。ここではそのような自分の思いは自分にしか分からないという私たちの経験を取り上げている、と言えるでしょう。それと同じように、いえそれ以上に、神様のことは「神の霊」にしか分かりません。「神の霊」、聖霊だけが、神様の御心を、その救いのご計画を、その救いのみ業を知っていて、それを私たちに伝えるのです。

洗礼を受けて、聖霊を受ける
 12節の前半では、「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました」と言われています。原文を見ても、文頭に「私たち」という代名詞があります。ギリシア語では代名詞が必ずしも必要ではないので、代名詞があるのは「私たち」を強調するためです。あえて強調して訳せば、「ほかならぬ私たちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました」となります。その「ほかならぬ私たち」とは、この手紙を書き、コリント教会を建てたパウロとその同僚の伝道者たちではありません。そうではなく「ほかならぬ私たち」とは、すべてのキリスト者のことです。6節から16節で一貫して使われている「わたしたち」は、すべてのキリスト者を指しているのです。何故なら神様からの霊を受けたのは、パウロのような伝道者だけではなく、すべてのキリスト者だからです。使徒言行録2章はペンテコステの出来事を語っていますが、聖霊が弟子たちの上に降ると、彼らは神様の偉大な救いのみ業を語り始めました。弟子たちを代表してペトロが説教をしますが、その説教を聞いて心を打たれた人たちが、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねると、ペトロはこのように答えました。2章38節です。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。私たちは洗礼を受けることにおいて、賜物として聖霊を受けます。洗礼において、神様の深みさえも究めている聖霊を受けることによって、12節の後半にあるように、「神から恵みとして与えられたものを知るように」なったのです。

聖霊によって神の恵みを覚える
 逆に言えば、私たちは聖霊を受けなければ、神様が恵みとして与えてくださったものに気づけません。「世の霊」と言われていましたが、「世の思い」や「世の考え」と言い換えることができるでしょう。かつて世の思いや世の考えに支配されていたとき、私たちは不平や不満をたくさん抱えていたのではないでしょうか。この世の思いや考えは、私たちを自分とほかの人を比べることへ駆り立てます。私たちはあらゆることについて自分とほかの人を比べて、自分が置かれている環境や自分が持っているものは十分ではないと、恵まれていないと、不平や不満を抱いていたのです。しかし洗礼を受けて、賜物として聖霊を受けて生きている私たちは、神様が恵みとして自分に与えてくださったものを知るようになります。それは洗礼を受けたら、置かれている環境が改善するとか、富や健康や幸福が手に入るとか、そのような自分にとって都合の良い恵みが与えられる、ということではありません。神様が与えてくださる恵みは、いわゆるご利益ではないのです。しかしたとえ置かれている環境や持っているものは、洗礼を受ける前と何一つ変わらなくても、自分の人生のすべてが主イエスの十字架において示された神様の愛の中に置かれていることに気づかされることによって、私たちは自分に与えられている恵みを覚えて歩めるようになるのです。
 そうは言っても、私たちの昨日までの一週間を振り返るなら、毎日ぶつくさと不平や不満を漏らしながら歩んでいたかもしれません。洗礼を受けても、私たちには依然として弱さと欠けがあり、私たちは神様に感謝するよりも不平や不満を漏らして生きています。しかしそのような歩みにあっても、私たちはふとした時に、神様が自分を愛し、大切にしてくださり、自分の重荷を共に担ってくださり、そして神様に向かって祈ることを許してくださっていることに気づかされます。そのとき私たちは、不平や不満を漏らしてしまう状況の中にも、神様の恵みを覚えるよう導かれるのです。主イエスの十字架の恵みを信じて生きるとき、私たちは日々の歩みの中で、神様が恵みとして自分に与えてくださったものを数えて歩むように変えられていくのです。私たちの頑張りや努力によってではなく、聖霊の働きによって、私たちはそのように変えられていくのです。

聖霊によって救いの恵みを語る
 私たちは聖霊の働きによって、神様の救いのみ心、救いのご計画を示され、自分に恵みとして与えられているものを示されて、それで終わりではありません。私たちはその救いのみ心、救いのご計画を、ほかの人たちに語り始めます。伝道し始めるのです。主イエスの十字架による救いの恵みを知ったら、それを語り出さずにはいられないのです。来週、私たちの教会では「秋の伝道礼拝」が行われます。この礼拝において私たちは、まだ神様の救いのみ心を知らない方々に、そのみ心を、その恵みを届けていきたいと願います。しかし私たちの知恵や力によって救いのみ心が人々に届いていくのではありません。13節でこのように言われています。「そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです」。教会が救いの恵みを語るとしたら、それは「人の知恵に教えられた言葉」によるのではなく、「“霊”に教えられた言葉」によります。聖霊の働きによって、聖霊に教えられた言葉によって、教会は救いの恵みを人々に語っていきます。「神の霊」によって示されたことは、「神の霊」によってしか語ることも説明することもできないからです。ですから私たちは、来週の「秋の伝道礼拝」に向かって、なによりも聖霊の働きを求めて祈っていきたいのです。

取り繕わずに証しする
 このことは私たち一人ひとりの証においても同じです。私たちは礼拝から遣わされて、それぞれの場で救いの恵みを証しして生きる使命を与えられています。それは必ずしも言葉によって証ししなければならない、ということではありません。神様の救いのみ心を示され、神様が与えてくださる恵みを数えつつ歩んでいるキリスト者は、その場にいるだけで、救いの恵みを証しして生きているからです。しかし言葉によって証しする機会が与えられることもあります。そのようなとき、私たちはどんな言葉を語ったら良いか分からなくなったり、言葉を取り繕ってしまったりします。けれども13節が私たちに告げていることは、私たちは聖霊の働きによってこそ救いの恵みを人々に語ることができる、ということです。私たちは聖霊の働きによって、聖霊に教えられた言葉によって、救いの恵みを知らされました。しかしそれだけでなくその救いの恵みを人々に語り、証しし、届けていくのも、同じ聖霊の働き、聖霊に教えられた言葉によるのです。それは具体的に言えば、取り繕わなくて良い、格好つけなくて良い、ということではないでしょうか。洗礼を受けてキリスト者となったので、不平や不満を言うことなく生きることができています、と取り繕って証しするのではなくて、不平や不満を漏らしてしまう毎日だけど、その中でも神様が与えてくださった恵みを覚えつつ生きることができています、と証ししていくのです。そのような私たちの偽りのない言葉が、聖霊の働きによって人々に救いの恵みを届ける言葉となっていくのです。

自然の人
 その一方で私たちは、教会の伝道がなかなか進んでいかない、私たち一人ひとりの証がなかなか届かない、という現実にも直面しています。このことは私たちを落胆させますが、しかし14節では、むしろ神様の救いはなかなか理解されないということが見つめられています。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです」。「自然の人」とは、自然体で生きている人のことではありません。積極的な意味で使われているのではなく、15節の「霊の人」と対比されて、消極的な意味で使われています。口語訳で「生まれながらの人」と訳されていたように、「自然の人」とは、生まれながらの人間、神様に背き、神様から離れ、自己中心的に生きている人間のことです。そのように生きている人は、「神の霊に属する事柄を受け入れません」、と言われています。神様の救いのみ心や救いのご計画、あるいは神様が恵みとして与えてくださるものを受け入れようとしないのです。「自然の人」にとって、救いのみ心とか、救いのご計画とか、恵みの賜物というのは愚かなことであり、理解できないことだからです。それは、2000年前に主イエスが十字架で死なれたことを愚かなことと考えているとか、理解できないということでは必ずしもありません。誰でもその歴史的事実は理解できるし、人によっては主イエスの十字架の死を愚かなことどころか英雄的な行為と考えています。しかし主イエスの十字架の死が、「この私」の罪の赦しのためであった、「この私」を救うためであった、ということは愚かなことであり、理解できないことなのです。主イエスの十字架は私たちが罪人であることを突きつけます。私たちが自分の力では救われないことを突きつけ、なにごとも自分の力で何とかしたいと思っている私たちの誇り、プライドを傷つけます。だから「自然の人」にとって、「生まれながらの人」にとって、主イエスの十字架による救いは受け入れがたいことであり、魅力のないことであり、愚かなことにしか思えないのです。それを受け入れることができるのは、「霊によって初めて判断できるからです」、とあるように聖霊の働きによるほかないのです。

霊の人
 私たちもかつては「自然の人」でした。神様に背き、神様から離れ、自己中心的に生きていました。その私たちが聖霊によって導かれ、信仰を与えられ、洗礼を受け、賜物として聖霊を受けて新しくされて、「霊の人」とされました。15節では、「霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません」と言われています。分かりにくいみ言葉ですが、「霊の人」が「一切を判断」するとは、神様の救いのご計画を示されている「霊の人」が、どんなことに対しても、その救いのご計画の中で、それに基づいて決めていく、ということではないでしょうか。主イエスの十字架のもとで決めていく、と言ってもよいでしょう。私たちは日々、大小様々なことを決断していますが、そのとき自分の願いを求めるのではなく、神様のみ心を求めていきます。一つひとつの決断を自分の考えや思いの中だけで行うのではなく、神様の救いのご計画の中で、救いのみ心の中で、主イエスの十字架のもとで行うのです。そしてそのように神様の救いのご計画の中で判断していく「霊の人」は、「だれからも判断されたり」しません。それは、ほかの人が自分をどのように判断するのか、どのように思うのかに、自分の判断が左右されないということでしょう。ほかの人に好かれようと思って、あるいは嫌われようと思って決断するのではなく、神様のみ心を求めて決断することができるのです。洗礼を受け、聖霊を受けて、「霊の人」とされた私たちには、ほかの人からの判断に右往左往しない生き方が、聖霊の働きによって示される神様のみ心を求めていく生き方が与えられていくのです。

キリストの思いを抱いて
 16節の冒頭には「『だれが主の思いを知り、主を教えるというのか』」とあります。これは共に読まれたイザヤ書40章13節からの引用です。そこでは「主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか」と言われています。預言者イザヤは、そのような者はいない、「主の霊を測りうる者」はいない、と告げているのです。しかしパウロはこのみ言葉を引用した後で、このように告げています。「しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています」。イザヤは「主の霊を測りうる者」はいない、と告げました。しかし洗礼を受け、賜物として聖霊を受けて、「霊の人」とされた私たちは「キリストの思いを抱いて」いるのです。聖書協会共同訳では、「主の霊」は「主の思い」と訳されています。つまりイザヤが「主の思い」と言ったのを、パウロは「キリストの思い」と言い換えているのです。私たちは主の思い、つまり神様のみ心を直接的に知らされるのではありません。聖霊の働きによって、そしてキリストの思いを抱くことによって神様のみ心を知らされます。ご自分は何一つ罪を犯されなかったのに、私たちを救うために、私たちの罪をすべて背負って十字架に架かって死なれたキリストの思いを抱いて生きるとき、聖霊の働きによって神様のみ心が私たちに示されていくのです。そしてキリストの思いを抱き、キリストの愛を抱いて生きる私たちは、聖霊の働きによって、キリストの十字架の恵みを証ししていきます。キリストの思いを抱いて生きる私たちが、聖霊の働きによって豊かに用いられて、キリストの十字架の恵みが人々に届けられていくのです。だからこそ私たちは、日々キリストの思いを抱いて歩んでいきたい。「この私」の罪のために、「この私」を救うために十字架に架かってくださったキリストの思いを抱いて歩んでいきたいのです。来週、「秋の伝道礼拝」が行われます。私たちはキリストの思いを抱いて、この伝道礼拝に備えていきたいのです。

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