主日礼拝

十字架につけられたキリスト

説教題「十字架につけられたキリスト」
旧約聖書 イザヤ書第40章27-31節
新約聖書 コリントの信徒への手紙一第2章1-5節

説教題
 本日の説教題を「十字架につけられたキリスト」としました。ご存知のように教会の外の掲示板には、この一週間この説教題が掲示されていましたし、教会のホームページでもトップ画面のすぐ下に「次週の礼拝」の予告があり、そこにこの説教題が掲載されていました。教会の前の掲示板は通りすがりの方が結構ご覧になっていますし、教会のホームページも多くの方が閲覧くださっているようです。そのことを思うとき、「十字架につけられたキリスト」という説教題をご覧になった方々は、どのように思われただろうか、と少し心配になっていました。聖書やキリスト教を知らない方がご覧になったら、「ひいてしまう」かもしれない、と思ったからです。釘を打たれ、十字架に架けられて殺されたキリストが、むごたらしい十字架刑で処刑されたキリストが、説教題として掲示板やホームページに掲げられていることにギョッとされて、このお話を聞くのは遠慮したいと思った方があるかもしれません。その一方で長く礼拝生活を送っている方々にとっては、逆にインパクトがない説教題であったと思います。毎週のように説教において、キリストが私たちのために十字架に架けられて死なれたことを聞いている者たちにとっては、「ああ、またか」とまでは思わないとしても、特に驚くような、興味を惹かれるような説教題ではないからです。ですから聖書や教会を知らない方々に訴えるという観点からも、つまり伝道的な観点からも、あるいは礼拝生活を続けている方々に訴えるという観点からも、あまり良い説教題でなかったのかもしれません。もう少し人を惹きつけるような、「キャッチーな」説教題にすれば良かったかな、と思わなくもないのです。そのように思い、ちょっとした葛藤を抱えながら本日の箇所の説教に備えてきました。しかしその中で示されたのは、この手紙を書いたパウロが、世の人々が躓き、「ひいてしまう」キリストの十字架に、あるいは礼拝生活を続けている方々が「ああ、またか」と思ってしまうかもしれないキリストの十字架にひたすら集中しているということなのです。

十字架につけられたキリストを宣べ伝える
 「十字架につけられたキリスト」は、本日の箇所の2節にある言葉ですが、少し前の1章23節にもあり、このように言われていました。「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」(23-24節)。「十字架につけられたキリスト」は、ユダヤ人にはつまずかせるものであり、異邦人には愚かなものだと言われています。犯罪者を処刑する十字架刑で殺されたキリストに救いがあるとは、愚かなことにしか思えなかった、躓きでしかなかったからです。このことはパウロの時代だけに当てはまるのではありません。今もなんら変わらないのです。ローマ帝国に対して輝かしい勝利を収めたキリストに救いがあると言われれば、人々は躓かなかったでしょう。誰もが英雄を好むからです。しかしローマ帝国によってむごたらしい十字架刑で殺されたキリストに、みすぼらしい姿のキリストに救いがあることには、誰もが躓くのです。躓くことには怒りが伴います。私たちは道を歩いていて石に躓くことがありますが、そのとき私たちは自分の不注意に対して反省するより、石が転がっていることに対して怒るのではないでしょうか。「なんで、こんなところに石が転がっているんだ」と怒り出すのです。同じように、世の人々が「十字架につけられたキリスト」に躓くとき、その「十字架につけられたキリスト」に対して怒りや反発を覚え、無視したり、遠ざけようとしたりするのです。それならば多くの人たちがもう少し受け入れやすいことを、反発を覚えないことを語れば良いのではないか、そのほうが伝道は進むのではないか、と思います。しかしパウロは、そうは言いません。あくまで「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えると言います。人を躓かせ、人の目には愚かなことにしか思えない、十字架につけられたキリストによる救いを、ただそれだけを宣べ伝える、と言うのです。それは、「十字架につけられたキリスト」によってのみ私たちが救われるからです。ほかのどんなものも私たちを救うことはできません。ただ「十字架につけられたキリスト」だけが私たちを救うのです。だからパウロはコリントにおいても、「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えて、伝道したのです。

伝道の土台にある生き方
 このパウロの伝道の土台にあったことが、本日の箇所では語られていると言えます。この箇所の小見出しには「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」とありますが、これは正確ではありません。「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」ことについては、今見てきたように、すでに23節以下で語られていたからです。この箇所で語られていることは、むしろ2節に示されています。このように言われています。「なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」。つまりこの箇所で語られているのは、「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」ことではなく、「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい」ということなのです。そしてこの「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい」というパウロの生き方が、パウロの伝道の土台であったのです。十字架につけられたキリストだけを知って生きるとき、十字架につけられたキリストを宣べ伝える伝道が進んでいくのです。
 この「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい」という生き方は、パウロだけの生き方ではありません。私たちの生き方でもあるはずです。しかし私たちはそのように生きることができていません。最初にお話ししたように、「十字架につけられたキリスト」に「ああ、またか」と思うようになり、驚きを感じなくなり、「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい」という生き方から離れていってしまうのです。そのようにならないために私たちはどうしたら良いのでしょうか。パウロのようには生きられないと諦めたほうがよいのでしょうか。そうではないと思います。むしろパウロも「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい」という生き方から繰り返し離れそうになったのであり、それゆえにパウロはこの生き方を生き続けるために戦ったのです。私たちはその戦いをこの箇所から知ることができるのです。

衰弱と恐れと不安を抱えて
 1節に「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき」とあり、また3節にも「そちらに行ったとき」とあるように、この箇所でパウロは、自分が伝道するために、教会を建てるためにコリントを訪れたときのことを思い起こしています。3節では、「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」と言われています。つまりパウロは衰弱と恐れと不安を抱えながらコリントで伝道したのです。なぜパウロが衰弱と恐れと不安を抱えていたかについて、この箇所では何も語られていません。しかしほかの聖書箇所から推測することはできます。
 まずパウロは病を抱えていた、と考えられています。それも一時的な病ではなく、一生付き合わなければならないような病であったようです。パウロはほかの手紙で、自分の身に「一つのとげ」が与えられたと語っていて、そしてそのとげが取り去られるように三度主に願ったとも語っています。「三度」というのは、三回だけということではありません。何度も必死に「このとげを取り去ってください」と祈ったのです。それだけ深刻なとげ、深刻な病であったのだと思います。しかしこのとげ、この病は取り去られることはありませんでした。私たちはパウロのことを多くの旅をして、多くの町で伝道した屈強な伝道者として思い浮かべがちです。しかし実際のパウロは病を抱えながら伝道者として歩んだのです。その病がどんな病かは分かりませんが、病によって身体が弱れば心も弱ります。身体と心は決してばらばらのものではないからです。そして身体と心が弱れば、力強くみ言葉を語ることはできなくなります。力強く伝道できなくなるのです。それは伝道者にとってまことに深刻な事態です。3節で言われている衰弱と不安と恐れの理由の一つは、このことにあったのではないでしょうか。パウロは病のために衰弱していて、伝道者としての務めを果たせないかもしれないという大きな恐れと不安に駆られていたのです。
 さらに別の理由も考えられます。コリント伝道については使徒言行録18章に記されていますが、その9-10節には、ある夜、主が幻の中でパウロに語りかけた言葉がこのように記されています。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」。主は「恐れるな。語り続けよ、黙っているな」とパウロに語りかけました。それは裏返せば、パウロが恐れていたということであり、み言葉を語り続けられないような、黙らずにはいられないような困難に直面していたということです。その困難とは、「あなたを襲って危害を加える者はない」とあるので、コリント伝道において何らかの迫害を受けていたということかもしれません。いずれにしてもコリント伝道に固有の困難さがあり、それもまた、3節で言われているパウロの衰弱と不安と恐れの理由の一つであったのです。

十字架につけられたキリストだけを知る
 これらの二つの理由のどちらかを選ばなくてはいけないということではありません。むしろ抱えていた病とコリント伝道に伴う困難さの両方が相俟って、パウロに衰弱と恐れと不安を与えたのです。そのように衰弱し、大きな恐れと不安に捕らわれる中で、パウロは何をしたのでしょうか。どのような対策をしたのでしょうか。それが、これまで見てきた2節で語られていることです。パウロは「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決め」たのです。「心に決める」は、「判断する」という言葉です。パウロは衰弱と不安と恐れの中で、十字架につけられたキリストだけを知ろうと判断して決めたのです。
 それにしても「十字架につけられたキリストだけを知る」とは、どういうことでしょうか。それまでに得てきた様々な知識を捨て去ることでしょうか。そのようなことは不可能なことのように思えます。あるいはこれからはあらゆる知識や情報を拒んで、十字架につけられたキリストだけを考えて生きる、ということでしょうか。そのようなことは現実に関わることをやめて、隠遁して生活でもしない限り不可能なことです。しかしパウロは決して不可能なことを言っているのではありません。「キリストだけを知る」の「知る」という言葉は、聖書においては単に「知識を得る」という意味ではありません。もっと人格的な関わりを意味する言葉です。聖書で神様が私たちを知っていてくださる、と語られるとき、それは神様が私たちに関わってくださり、私たちと共にいてくださるということです。ですからキリストだけを知って生きるとは、キリストと共に生き、そしてキリストだけを頼りとし、頼みとして生きる、ということなのです。パウロは病を抱え、コリント伝道の困難さに直面し、衰弱し、恐れと不安に襲われる中でも、十字架につけられたキリストだけを頼みとして生きることを判断して決めたのです。

自分の誇りが打ち砕かれる戦い
 しかしそこには戦いがあります。十字架につけられたキリストだけを頼みとして生きるのには戦いがあるのです。このことは私たちが自分自身のことを考えればよく分かります。私たちは誰もが病に直面することがあり、なによりも老いに直面します。老いていく中で、私たちは今まで出来ていたことが出来なくなっていきます。それは私たちにとって大きな恐れであり不安に違いありません。あるいは私たちはそれぞれに困難を抱えて生きています。学校生活や職場や家庭の中で様々な困難や葛藤を抱え、弱ってしまったり、恐れたり、不安になったりしながら生きているのです。これらのことはもちろんキリスト者だけに限ったことではありません。今日、この礼拝に初めて出席してくださっている方もいらっしゃると思いますが、その方々も、そして毎週礼拝に出席している者たちも誰もが病や老いに直面し、それぞれの生活の中で困難に直面し、衰弱や恐れや不安を抱えているのです。その中で、私たちは十字架につけられたキリストだけを知り、キリストだけを頼みとするよりも、むしろそれ以外のものを頼みとしているのではないでしょうか。老いによって出来ていたことが出来なくなる中で、キリストではなく自分の持っているものに頼ろうとし、困難に直面する中でキリストではなく自分の力、自分の知識や経験に頼ろうとするのです。そしてそれは、むしろ自然なことです。パウロの時代も今も、十字架につけられたキリストを頼みとするより、自分の持っているもの、自分の知識や経験に頼るほうが当たり前なのです。しかしパウロはその当たり前と戦って、自分の持っているものでも、自分の知識や経験でもなく、十字架につけられたキリストだけを頼みとし、それ以外を頼みとしないで生きることを判断して決めたのです。このことは、自分の持っているものや知識や経験が、自分の人生の拠り所には決してならないと認めることでもあります。それは簡単なことではありません。そこには激しい戦いがあります。なぜならそのことを認めることは、自分の誇りを打ち砕かれること、自分のプライドを打ち砕かれることだからです。私たちは自分の持っているものや知識や経験が、自分の人生を本当には支えない、ということを認めたくありません。そんなことをすれば自分の価値が無くなってしまうかのように思えるからです。自分のプライドがボロボロになってしまうからです。だから十字架につけられたキリストだけを頼みとして生きるのには、自分の誇り、自分のプライドが打ち砕かれていく戦いがあるのです。

十字架につけられたキリスト
 パウロが戦ったこの戦いを私たちも戦っています。そして十字架につけられたキリストだけを頼みとして生きるときにこそ、私たちは衰弱や恐れや不安から解放され、力を与えられ、喜びと平安を与えられるのです。確かにこの世には私たちが頼りにできそうなものが、頼りたくなるようなものが溢れています。しかしそれらは私たちに一時的な力や喜びや平安を与えることしかできません。いずれその力も喜びも平安も失われてしまい、ほかに頼りとするものを探さなくてはならなくなるのです。あちらを頼りにして失望し、こちらを頼りにして失望する。そのようなことを繰り返していくことになるのです。世に溢れているものは決して、私たちの老いや死に打ち勝つことはできないし、私たちが人生の中で次から次へと直面する困難に対する変わることのない支えとはならないのです。ただ十字架につけられたキリストだけが、老いと死に、様々な困難に直面する私たちに本当の力と喜びと平安を与えます。キリストが私たちのために十字架に架かって死んでくださり、そして復活してくださったことによって、私たちに世の終わりの復活と永遠の命が約束されているからです。私たちが直面するあらゆる困難にまさる困難をキリストが十字架で引き受けてくださったことによって、私たちのあらゆる困難はキリストと共にあり、キリストが共に背負ってくださっているからです。十字架につけられたキリストこそが、それだけが、私たちを衰弱と恐れと不安から解放し、本当の力と喜びと平安を与えるのです。共に読まれた旧約聖書イザヤ書40章31節にこのようにあります。「主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。十字架につけられたキリストに望みをおく人は、それによって約束されている世の終わりの復活と永遠の命に望みをおく人は、弱るときも新たに力を与えられ、疲れを覚えるときも癒しを与えられて歩み出すことができるのです。

聖霊の働きにより頼む伝道
 そのように十字架につけられたキリストだけを頼みとして生きるとき、十字架につけられたキリストを宣べ伝える伝道が起こされていきます。パウロは1節で「神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」と言い、4節でも「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした」と言っています。パウロが十字架につけられたキリストだけを頼みとして生きるとき、パウロの伝道は、「優れた言葉や知恵」を用いない伝道、「知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明による」伝道となるのです。自分の持っているものや自分の力や知識に頼らないパウロに、聖霊と神様の力が働いて、十字架につけられたキリストによる救いが人々に届けられていくのです。しかしそれは、自分の知識や経験を一切用いない、というようなことではありません。新約聖書はギリシア語で書かれていますが、その中でもパウロの手紙は洗練されたギリシア語で書かれています。このこと一つとっても、パウロが自分の優れた知識を用いていたことが分かります。ですからパウロは自分の知識や経験を存分に用いたのです。総動員したのです。できることは何でもしたのです。しかしそれらに頼ろうとはしなかった。それらに頼って伝道したわけではありませんでした。そうではなくパウロは聖霊のお働きにより頼んで伝道したのです。自分の知識や経験によってではなく、聖霊のお働きによってこそ伝道が進むことに信頼していたのです。聖霊なる神様は、十字架につけられたキリストだけを頼みとして生き、自分に与えられた知識や経験をも用いて伝道するパウロを用いて伝道を進めてくださるのです。私たちの伝道も同じです。教会が、また私たち一人一人がキリストによる救いの喜びをほかの人に伝えようとするとき、私たちは自分の知識や経験を放棄するのではありません。むしろ総動員するのです。その意味で、伝道は受動的なものではなく能動的なものです。しかしそうであったとしても私たちは自分の知識や経験に頼って伝道するのではなく、聖霊のお働きにより頼んで伝道するのです。十字架につけられたキリストだけを頼みとして生きる私たち一人ひとりを、それぞれに与えられている知識や経験や賜物を総動員して伝道し、証しする私たち一人ひとりを、聖霊なる神様は確かに用いてくださるのです。その意味で、伝道は受動的なものです。自分たちに期待するのではなく、聖霊のお働きに期待するからです。私たちの業によってではなく、聖霊のお働きによって伝道は進むのです。5節には、「それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした」とあります。私たちは人間の力、人間の知識や経験によってではなく、神様の力によって、聖霊のお働きによって信じるようになります。神様ご自身が私たち一人ひとりに神様を信じる信仰を与えてくださるのです。

十字架につけられたキリストだけを掲げて
 私たちは十字架につけられたキリストだけを知り、それだけにより頼んで生きていきます。多くの人々にとって愚かにしか思えない、躓きでしかない十字架につけられたキリストだけを頼りとして生きるのです。そこにだけ私たちの救いがあるからです。弱ってしまうときも、恐れたり、不安になったりするときも、十字架につけられたキリストだけが私たちを衰弱と恐れと不安から解放し、力と喜びと平安を与えるのです。十字架につけられたキリストだけが、私たちに老いと死を超えた復活と永遠の命の希望を与え、どんな困難のときにも失われない支えを与えるのです。そのようにして生きる私たちを通して、聖霊のお働きによって、世の人々に十字架につけられたキリストによる救いが、その喜びが伝えられていくのです。だから教会は、私たちは、これまでもこれからも十字架につけられたキリストだけを頼りとし、それだけを掲げて歩んでいくのです。

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